光に沈む泡沫の底
おんぷりん
光に沈む泡沫の底
窓の外で、雨が降り続いている。
部屋の中に揺蕩う、かすかな水の香り。
静かな部屋に聴こえるものは、ページをめくる音と、雨の調べだけ。
ふと、顔を上げた。
窓際の椅子に座って、すぐ横のテーブルに珈琲を置いて。
ただ、私の周りを、水が流れてゆく音に耳を澄ませている。
まるで水の中に浮かんでいるような、こんな日には――海の底を、思い出す。
海の中で、私は人魚だった。
歌はあまり上手じゃなくて、人魚なのに泳ぐのも苦手で、いつも、なんの意味もなく、生きてきて。
だけどあの日、私は変わった。
目の前に、まっすぐに訪れたあの光。
激しく揺らめく水面と、まつ毛を濡らした飛沫と、青い青い高い空。
あなたを見つけたあの瞬間、私のぜんぶが、生まれ変わった。
世界が、さあっと光の粒を呼んで。
胸が、大きく波打って。
落雷のような、というよりも、あれは深海に伸びる光の一筋のような初恋だった。
目を閉じて思い出していると、ふっと、足元が軽くなって、揺らいだような感じがした。
「……ああ、そろそろ、終わりか……」
本に手を添えて、そっと窓に頭をもたれる。
ふつふつと心の底から、ちいさな泡が生まれる。
今日、私の恋は、行き場をなくした。
嬉しそうに照れた笑顔で、「結婚することになりました!」と宣言した彼。その隣で恥ずかしげに笑う女性も、二人で顔を見合わせて、少し頬を染めて微笑み合う様子は、心に沁みるほど幸せそうだった。
思い出すと、つうっと心のなかに、よくわからない感情が生まれる。
だけれど、心は満たされていた。
これは失恋じゃない。
だって、私の恋は、失われてはいない。
そしてこれから先もきっと永遠に、失うことはないと思う。失いたくない。忘れたくない。
だってあなたに恋してから、こんなにもあたり前の日々が愛しいのだから。
得意なことは、何もなくて。
いつもひとり、海の流れに身を任せて。
うすくて、か細くて、何の価値もなかった人生が、あなたと出会って、おひさまみたいな笑顔を見つけて、変わったんだ。
普通の人間の女性と同じように、恋をして、お化粧をして、爪を整えて、肌を綺麗にして、少しお洒落な服を着てみたり、髪型を普段と変えてみたり、勇気を出して話しかけて――
あなたがいるだけで、それだけで心が煌めいた。
どうしようもなく、好きだと思った。
いつ消えてもいいような毎日だったけど、生きてることに意味なんてなかったけれど、あなたのすべてが、深い青い海の底に差し込む光をくれた。
もっと、あなたと笑いたい。そう思えた。
たとえ私が、この世から消えても。あなたを好きになった気持ちを、ずっと大切に、心の一番やわらかいところに抱き寄せていたい。
だってこんなに幸せだった時間は、私の人生のどこを探したって見つからないのだから。
楽しかったな。恋、できて、よかった。
「ありがとう」
ねえ。
「しあわせ、だったよ。わたしは」
最後に、そう思うことができたなら。
どうか、どうかあなたも幸せに。
この世界で最高の幸せが、あなたの両手いっぱいに訪れるように。
私の恋は、叶うことがなかったけど。
それでも、心の底から言えるよ。
「――あなたに会えて、よかった」
最期に、安心したような吐息がもれる。
花がほころぶように、ほほえみながら。
全身が泡になる。深い深い、うみのそこに、しずん で い く ――
ぽちゃん、と、水が木を打つ、かすかな音。
誰もいなくなった部屋の中に、まるで海の底で聴こえるさざめきのような、美しい雨音が、響き続けていた。
開いたままの本に重ねられたしおりが、淡い色に濡れて、横たわっていた。
光に沈む泡沫の底 おんぷりん @onpurin
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