終:病室と夜明け
病院での一日にも慣れてきたころ、病室に先輩がやってきた。高いらしい和菓子の箱をベッド横の机に置くさまは、何だか懐かしく思えた。俺の荷物であるギターに目をやって、同じく机に置いてある本を手に取り、表紙を確認する。もちろん、俺が読んでいるものだ。
「悪いですか、本なんか読んで」
全然、読み進められていないけれど。栞代わりにしているレシートの位置は、かなり前の方だ。
「今年の本屋大賞だな。俺も読んだし、面白かったよ。だが、お前がそんなにミーハーだとは思わない。おおかた、親のさしいれか何かじゃないか。どうだ?」
「正解です」
病室だと寂しかろうということで、母親が買ってきたものだ。一家そろって本を読まない家系なもので、こういったときに読むべき本が何か、誰もわからなかった。俺でも同じ本を買ったかもしれないので、先輩の理屈は半分外れている。
「俺と会ってもいいんですか?」
「お前の親とかなり揉めたけれど、結論としては大丈夫だ。向こうも折れてくれたし、なんだ、最後は金だ。入院費は全て俺が支払っているからな」
ワンピースの少女に刺されて倒れた後、先輩が救急車を呼んでくれて、俺は無事に一命をとりとめた。結果的に命に係わる部位にはほとんど傷がなく、軽傷ということだった。それでももちろん手術はしたし、点滴も刺した。点滴は、ようやく外れたけれど。
病院生活は快適だ。不味いとよく言われる病院食も、改良が重ねられたのか悪くない味だった。少しだけど本も読んでいるし、なんと資格の勉強も始めている。俺が勉強をするなんて、と親に驚かれたが、あまりに暇だと学習意欲が高まるものらしい。就職に役立つものを探して、教科書を読んでいる最中だ。
怪異ハンターとワンピースの少女の話は病院や警察には伝えられず、何かの組織の介入があって事態はうやむやになったそうだ。どう考えても裏のありそうな人たちだったから、自然な流れかもしれない。
親や世間から見ると、全ての責任が先輩にあるように見えるだろうし、先輩も責任を引き受けるつもりでいる。
「それで、ビジネスとやらはどうなりました?」
話を振ると、先輩は両手のひらを広げて見せた。
「ぱあになったよ。当然だよな。予定はすべて白紙に戻されて、永久凍結だ。せいせいするわ。後はあれだ。これからは今までの仕事に専念して、そこから一歩ずつ堅実にやっていくことになるだろうな。危険なジャンプは、皆懲りただろう」
「挑戦を、やめちゃったんですね。俺のせいで」
「元から無理な挑戦だったってことだろ。早いうちに分かって良かったくらいだ。不安定な対象に対して、それを扱う人間も不安定な奴らだ。それに、おい。消えたはずの壁が走っている時大量に出てきたじゃねえか。ありゃどういうことだ。怪異ハンターと最後に話した時問い詰めたんだが、専門用語みたいなのを言うばかりで何もわからん」
肩を怒らせて立ち上がり、歩き回り始めた。
「病室、ほかにも人がいるんでやめてください」
「すまん。頭に来てな。お前、人がいる病室でギターを弾いているのか?」
壁際にあるギターのことだ。俺の部屋からわざわざ運んでもらったものだ。
「皆さんに許可は取っていますよ。喜んで聞いてくれる人もいます」
「やっぱり音楽は続けるのか」
「続けます。新しい曲も作りましたよ。俺にはやっぱり、音楽みたいなものが必要なんです。幽霊の子にだって、退院したら会いに行くつもりです。勉強もします。もう止めないでくださいよ。刺されてまで守ったんですから」
「喧嘩はもうしないよ。公園での投げ、凄かったな。お前に負けたのは久しぶりだ。好きにしろよ。なんだか今なら信じられる」
先輩は自分で納得したようにうなずいた。自分を納得させたかったのかもしれない。一度決めた道から外れることは、難しいものだ。少しずつ力を加えて、道を曲げていくことが必要になる。
鞄から去年の本屋大賞の本が出てきて、机に積まれる。これも、差し入れであるらしい。先輩こそミーハーじゃないか。彼は本と和菓子を残して去って行った。大きな音を立てて扉が閉まる。
しばらくして、怪異ハンターとワンピースの少女が扉を開ける。
口を開いたのはワンピースの少女が先で、その言葉は「ごめんなさい」だった。和菓子の箱の横に、フルーツを入れた籠がどんと置かれる。親が見たら、目を丸くするだろう。先輩が両方持ってきたと思うかもしれない。怪異ハンターのことは誰も知らされていないはずだから。
「その節はすまなかった」
怪異ハンターも謝ってきて、神妙に頭を下げている。慌てて声をかけた。
「どうしたんですか、急に。二度と会わないものだと思っていました」
「謝罪は必要だろう。こっちは刺しているんだから」
椅子にどかりと座りながら言う。道理だ。妙な職業で、謎の組織がバックにいる割には、きちんと理屈の通じる人たちだ。
ワンピースの少女がフルーツ籠に手を伸ばして、季節早めの林檎を手に取ったかと思うと、ナイフを取り出してかつら剥きを始める。ちょっと待て、それは俺を指したナイフじゃないか? だが彼女の手つきは素早く滑らかで、口を挟む隙間がない。あっという間にリンゴが剥かれ、八等分されて種も取り除かれたうえで、俺のところに回ってくる。
「はい」無邪気な声。
とりあえず食べると、まだ秋の始め頃なのに随分美味しい。高級な品種なのかもしれない。
「何しに来たんですか? まさか、幽霊の子を殺してなんかいないですよね」
「そんなことはしない。さすがにな」
怪異ハンターが首を振る。どうも、いちいち動作が大げさだ。
「謝罪と、果物がメインだな。そう警戒するなよ。こいつには強く言っておいたから」
「ごめんなさい」
こうも謝られると調子が狂う。林檎も剥いてもらったことだし、なんだか責める気にもなれなくなってしまった。
「その後、傷はどうだ。その様子だと悪くはなさそうだが」
「ええ、おかげさまで、元気です」
皮肉を言ってから、少し後悔する。まいったな。こういう時、怒ったほうが良いのか?
「ふん。ところでだ」
皮肉を気にしてはいないようだ。
「なんですか」
「音楽をするのもいいし、応援する。勉強もするべきだし、まっとうな仕事も大事だろう。だが、もし万が一、人生に行き詰ってどうにもならなくなったら、この電話番号にかけてくれ。俺に繋がるから」
ごつごつした手から渡されたのは一枚のシンプルな名刺だった。怪異ハンターの物と思われる名前と、数字の列が一行だけ。所属とかメールアドレスとかは一切書かれていない。
「助けてくれるんですか?」
「さあな。お前次第だ。ひょっとしたら、仕事を紹介してやれるかもしれん。お前、あの壁を自力で消しただろう? それ、才能かもしれんぞ」
怪異ハンターの、才能? 認められるようなものだったのか。
そういえば、夜の追いかけっこの時、大量に出てきた壁に打ち勝ったのだった。「見越した」と宣言すること。超えられると信じること。
壁が大量に出てきたことで先輩がうめいていたのも、もしかして俺の才能のなせるわざだったのだろうか?
幽霊の少女だって、俺が最初に見つけたのだ。
「才能に胡坐をかくなよ。すぐには連絡するな。普通に仕事をしろ。怪異ハンターになるなんて、最後の手段だ。でも、出来る仕事っていうのは意外にも多いってことを覚えておくのは損にはならない」
一方的に命令をした後、怪異ハンターはじゃあなと言って去っていく。ドライな別れ方だ。皿の上には、リンゴがまだ7きれ残っている。ワンピースの少女がぱたんと扉を閉める。
もう誰も来ないようなので、ギターを弾くことにした。
太陽の歌。刺された後に見つけた、俺だけの音楽だ。この音楽に俺は満足している。駅前で演奏できるようになる日を待ち望んでいる。
太陽は夜を砕いて新しい一日を始める。それをさらに考えると、一分一秒が過ぎるということが、すなわち一日をちょっとずつ砕いているということに他ならない。新しい朝が来るのと同じように、新しい時間、新しい世界が、砕かれた先から次々に姿を見せてくる。日々は確実に過ぎ去り、されど積み重なって、いつかすべての壁を乗り越えることができる。
全ての物事は、無数に続く日々の中で大切な部品なのだ。
砕日 白内十色 @sirauti_toiro
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