8:ビー玉と追いかけっこ

 幽霊の少女が案内した場所は、やっぱり一つの公園だった。あまり凝っていない滑り台と、控えめなブランコ、それと鉄棒、それだけの場所に見えた。でも、その場所は少女にとって、とても安心するところであるようだった。きっと、家から近かったとか、よく遊びに行った公園だったとか、そんな理由があったのだと思う。

「公園だね。もう遊ぶ歳じゃなくなったかも」

 怪異ハンターの隣から、ワンピースの少女が言う。言葉とは裏腹に、ブランコをじっと見つめて、そこに座った。遊びたかった子供時代が、あったのかもしれない。ナイキのスニーカーを履いていて、伸ばした足首の白い靴下が夜の中で光って見える。俺に言わせれば、じゅうぶん子供だ。

 先輩は公園の名前が書いてある看板を見に行った。怪異ハンターは少し離れたところで腕組みをしている。遠巻きに、囲まれている形だ。街路灯が白く、確かに地面を照らしている。幽霊の少女は、その街路灯が照らしているところに立って、俺を見た。

 その指は、植木の根元を指している。

「ここだよ」

「ここ? 何かあるのか?」

「うん。むかし、埋めたの」

 俺はその地面を掘ってみる。子供のすることだから、スコップなどは使っていないだろう。いくつかの場所を、指で探すだけで、それは簡単に見つかった。

「みつけた!」

 それは、一個のビー玉だった。青くて、ガラスでできている。土で汚れているのを、公園の蛇口で洗ってやると、ビー玉はすぐに元の輝きを取り戻した。

 指でつまんで、街路灯の光を透かして見ると、光を屈折したりして、地面の影が変わるのが分かる。幽霊の少女が何も言わないから、そっと顔を見ると、口をじっとつぐんだまま涙を流していた。彼女に見えるように、綺麗になったビー玉を見せてやる。

「見つけたよ」

「うん」

「これを探していたの?」

「うん。宝物だから、隠してたの」

「そっか。見つけたよ」

「うん」

 体育座りをして、まだ泣いている。その横に座って、横顔を見る。土で服が汚れるけれど、そんなことはどうでもよかった。口の中からいろんな言葉が飛び出してきそうだったけれど、じっと我慢することにした。彼女もまた、言葉を探している最中だと気づいたからだ。

「もう、宝物じゃないみたい」しばらくして、小さな声が聞こえる。

「そうなの?」

「うん」

「もういらない?」

「ビー玉は好きだけど。でも宝物じゃないの。欲しいけど、一番じゃなくなっちゃったの」

「一番は、どんなもの?」

「わかんない。でも、おじさん、とか。太陽の写真、とか。ギター、とか。街、とか。歩いているだけの時間、とか。そんないっぱいのものが、どんどん大切になってくるの。ビー玉は好きだったけど、もっとたくさん、好きなものが増えて、それはきっとこれからも増えていくの。それがなんだか嬉しくて、でも悲しくて、それで泣いちゃうの」

 突然言われたその言葉を聞きながら、つられて泣きそうになる。いったい、この小さな、もう死んでしまっている生き物のために、何ができるのだろうか。何ができて、そのうちどれだけをしてやれているのだろうか。これから、あの壁と同じように、殺されてしまう女の子に、どう声をかければいいのだろうか。

 こちらの様子を遠巻きに見ていた人たちが、少しずつ近づいてきている。きっと、時間切れが近いのだ。夜もかなり遅い時間で、早く仕事を終わらせたいと思っているに違いない。

「先輩!」

「いい加減にしろ。馬鹿野郎」彼はしかめっ面をしている。

「先輩。存在しない物にも、意味があります。幽霊とか、音楽とか、思い出とか、感情とか。それらにはきちんと意味があって、それぞれに大切なんです。存在しないものがたくさん積み重なって、生きているんです。それらを、少しでも守らせてください」

 声を上げる。でもそれは小さな声だ。木々の隙間に溶けて、遠くへは届かない。

「存在しない物だけでは生きていけない。言っただろう。パンとカスミだ。存在しない物が、現実に対して役に立つことがあるとすれば、それに対して金が動くときだけだ。お前は働いてもいないのに、どこからか金が降ってくるとでも思っているのか。甘い考えは捨てろ」

「でも、金だけで生きていくこともできません! 俺たちは心でも生きているんです!」

 食事をしながらの会話の再来だ。先輩はもはや夢追い人ではなく経営者で、俺は先輩からすればナイーブな夢を、懲りもせずに言っているだけの子供にすぎない。

「俺は幽霊を世話しながらでも生きていけます。他人の人生に口を出すのをやめにしてください」

「子供が崖から落ちようとしているのを、大人は止める義務があるんだよ。音楽に夢中で夜更かしばかりなお前は、見てられん。とてもじゃないが、生きていけるようには見えないね。思い上がるな」

「お節介! 先輩は親みたいだ!」

 強い舌打ちが聞こえる。先輩は足を踏み鳴らした。

「そうだよ! 親に言われたんだ。そしてそれは正しかった。早く寝なさいって言われるだろ? それが結局一番健康だからだ。勉強しなさいは、そうしないと生きていけないからだ。お前のためなんだよ。それとも、こう言えば満足か? これは、リスクを怖がっている俺を、救うための行動なんだ。マトモに生きるのが最も良い生き方なんだと、再確認したいっていうだけだ。ふざけるな。きちんと生きるのが正解だって、証明させてくれよ」

 先輩が一歩下がって、怪異ハンターに目くばせする。肩をすくめて、怪異ハンターが鞄に手を入れると、一枚の紙きれが取り出された。独特な文字が書かれていて、どうやらお札(ふだ)かなにかのようだ。

「これは、いわゆる退魔のお札ってやつだ。家のどこかに似たようなのが貼っていたりしないか? 幽霊に貼る。幽霊が消える。簡単だろ? 誰でも使える。自分の手で始末をつけるんだな。子供じゃないんだから」

 怪異ハンターの口調は厳格だ。だが怒っている様子でもなかった。目が合い、三秒の間、見つめあった。その時間で、お互いの進む道の、ままならないすれ違いを、確かに共有した。俺たちは手を取り合えないが、憎しみを持った関係でもまた、ないのだった。

「俺は子供です。求めている結末は、この子を殺すことじゃありません」

 彼はお札を二つ折りにして、胸にしまった。ふん、と息が漏れる。会話の内容が、気に入ったようだった。

「子供なら、大人に対してやることがあるよな。上手くやれよ。一回目は、見逃してやるから」

 怪異ハンターはすっと左に避ける。それが合図だった。俺はまだ泣いている幽霊の少女の腕に触れ、叫んだ。

「立って。逃げて!」

 彼女は、俺の言葉を聞いてくれた。右を走って、俺の指さした方へ走ってゆく。「おい!」と先輩が叫ぶ。その右腕をしっかりと掴んで、組みついた。筋肉質な腕だが、少し脂肪がついてきている。でたらめに腕を動かそうとするので、その動きに力を合わせて、投げた。先輩と俺は、昔柔道部だった。先輩の方がいつも成績は良かったが、今日ばかりは勝たせてもらう。先輩のうめき声を尻目に、幽霊の少女を追って走る。公園の入り口を抜けたあたりで、怪異ハンターが先輩を助け起こしているところが見える。

 どこまで逃げよう。あてもなく、いつまでも逃げるのか。夜は長く、街は果てしない。世界は夜に包まれている。その夜をかき分けて、どれだけ走ってゆけるだろうか。

 幽霊の少女に追いつくと、その必死な顔に、笑顔も混じっているのが目に入る。俺たちの話をどれだけ聞いていたのだろうか。君を守るよ、とその笑顔に答えるように心で思う。

 電柱の角を曲がると、そこにも同じ街並みが続いていて、世界は広い。同じに見えて、全く違う街なのだ。それが続いている。広い世界を、ひたすらに走る。乾いた足音が響いて、音の反射で世界を測量しようとするみたいだった。角を曲がると、小さな煙草屋がシャッターを下ろしていて、その前では自動販売機が光を灯している。走れば走るだけ、少女の地図に街が書き込まれてゆく。

 新幹線の高架をくぐって、トラックが何台かある小さな工場の隣を走ってもなお、追いかけっこは続いている。先輩はもう、疲れ切っているだろう。俺だって、今にも走れなくなりそうだ。誰もが、何かの意地やしがらみで走っている。

 だが、これは楽しいな、と思いついた。追いかけっこなんて、大人になってからはしたことがない。そう考えると、夜の広さは、走る俺たちを受け入れる心があるようにも思える。街も、道も、途端に透き通って、大きな公園であるかのようだ。何かに必死になること。必死に生きること。それらは本来、とても楽しいのだ。

 体が風を切っている。汗を流している。隣には一緒に走る仲間として少女がいて、後ろには追いかける先輩たちがいる。とめどなく勇気が湧きだしてくる。

 どこまでも走れる。

 追いかけてくれたら。

 一緒にいてくれたら。

 俺はどこまでも行けるかもしれない。


「でも、それはカスミだ」


 目の前が壁になって立ち止まった。先輩の声が聞こえる。それは心の中で先輩が言う声だ。瞬きをして前を見ると、そこには見覚えのある壁が広がっている。無限の壁。世界の終わりの壁。行き止まり。

 夜の街を走っても、幽霊が隣にいても、それはカスミなのだろうか? 役に立たない幻想だろうか?

 横を見ても、上を見ても、そこにははてしなく壁が広がっていて、抜け道なんかない。壁は、なくなったのではなかったのか? 同じ場所に戻ってきたのか? でも、周囲の景色に見覚えはない。

 再び現れた壁に対処する方法は、もう教わっている。下を向くこと。下を向いて、見ないようにして、そうして超えること。

 俺はそのようにした。うつむいて歩く。壁は見えなくなり、通り抜けることができる。そして走る。でも一度下を向いてしまうと、夜はまた、俺たちを柔らかく締めつけてくるようになった。

 後ろから、風船の割れるような音がする。壁の合ったあたりを、先輩たちが走り抜けるのが見えた。壁はいままさに崩れ去ろうとしている。怪異ハンターのお札だ! 一枚くらいもらっておけばよかった。きっと霊験あらたかなのだろう。

 仕方がないのでまた走る。カスミを食らいながら夜を抜ける。音楽が好きだ、幽霊の少女が好きだ。その感情は無意味だろうか? 人生における、色々な行き止まりが、夜の浸みこんだ頭蓋の中に溢れかえってくる。大学のこと。就職のこと。親の言葉。先輩の言葉。俺を制限する様々な、必要なものたち。避けては通れないが、解決しがたい。

 走る先々に壁が現れて、俺はそれをうつむいてやり過ごす。そう、今までずっと、うつむいてきたのだ。見ないふりをしていれば、壁は通り抜けられるが、壁は常に残ったままだ。壁を壊す手段は何だ? 夜の中で光を探して、走り回っている。

 幽霊の少女と過ごした日々が、俺に力を与えている。壁に立ち向かおうとする意志が湧き上がってくる。下を向くだけでない解決策が、あるはずなのだ。それは不思議な力のお札でも、暴力のナイフでもないはずなのだ。俺にでもできる、勇気と決意によって行われる、壁の壊し方。

 行く先の十字路に、何度目かの壁が立ちはだかっている。無口に、どこまでも広く。

 何か、答えはないか。

 怪異ハンターの言葉を思い出す。

 この壁を理解するためには、『見越し入道』という妖怪について理解すると良い。

 見越し入道には、『見越した』と宣言することが有効である。

 『見越した』という宣言。この壁を、既に、攻略したのだと強く思うこと。

 俺は壁に向かって一層足を速めて突撃する。必ず、この壁を、超えてゆくことができる。この壁より上から、見下ろすことができる。そして、大きく息を吸って叫んだ。

「見越した!」

 とたんに、壁が粉々に砕ける。視界が開けて、広い夜と、街路灯の光と、眠っている街が一挙に目に入った。そして広がった世界を、どこまでも走ってゆくことができる。

 自由だ。なにも、苦しむことなどない。苦しみや行き止まりなんて、取るに足らないことだ。そこに、前へ進む意思と、乗り越えるための決意があればいい。

 街は、どこまでも続いている。

 壁は、壊すことができる。


 走る。幽霊の少女が隣にいる。走る。壁が目の前に広がる。でも、壁はもう問題にならない。「見越した」と叫び、走り抜ける。勇気と意思で、行き止まりを乗り越えて行ける。

 何度目かの壁を、迷わず通り過ぎる。

「見越した!」

 そして、壊れた壁の先に、ワンピースの少女がいる。

 ワンピースの少女。怪異ハンターの連れていた子供は、夜の中でも分かる萩色の服を着ている。

「何か、精神的な解決があったみたいだね」

 彼女は言う。かなり長く走っているはずなのに、息を切らした様子がない。後ろを見ると、遠くに先輩と怪異ハンターが走っているのが見える。

「先回りしていたのか?」

「そうだけど。質問に答えてよ。心の中の壁は、壊せたの?」

 その立ち姿は静かで、心を見透かすようだった。

「迷いはないよ。どこまでも行くつもりだ」

答える。でも、前を塞がれていて、左右にも道はない。

「決めたのは良いことだけど、それでは不十分じゃない? 精神は、肉体の奴隷だ。抽象は、具体の付属物なんだよ」

「何を言いたいんだ」

「決断をしたなら、行動にも責任が生まれるよ、ってこと。精神世界を守りたいなら、先に現実をどうにかしなくちゃいけない。言葉だけじゃ、私を止められないからね」

 彼女はいつの間にか、ナイフを手に持っている。壁を切り裂いたナイフだ。かすかな光を映して光っている。

 よく見ると、綺麗な顔をしている。鼻筋が通っていて、姿勢もいい。長い髪はつややかで、夜を濃縮したみたいに暗い。ナイフを持つ手。細い指で、軽く握っているだけだ。それなのに、最もあるべきナイフの持ち方を教わっているような気にすらなる。死神が女なら、きっとこんな美しさだろう。

 幽霊のための、死神だ。

 お互いに黙っている。彼女はナイフを腰の近くに構える。そして、こちらへ向かって走り出した。俺の横で震えている少女に向けて。

 何も、考えられなかった。

 近づいてくる。

 滑らかな、ナイフの切っ先。

 時がゆっくりになったような錯覚があって、気づけば腹部に痛みがある。冷たい地面に倒れていて、怪異ハンターの大声が聞こえる。幽霊の少女に逃げてと伝えた。彼女は走り出して、街に消えてゆく。


 そして、


 日の出だった。家の隙間が白くなったかと思うと、水にインクが広がるみたいに光が増えていき、光が隅々までいきわたった。先輩に抱え起こされて、俺は太陽を見た。いままさに、夜を打ち壊している太陽が、高らかに笑い声を上げている。そしてそれは、美しかった。涙を流し、光がぼやけてゆく。

 しだいに意識が薄れ始め、先輩の声に返事ができなくなる。その最後の意識の中で、音楽が鳴るのが聞こえた。

 それは、太陽の歌だった。

 夜を終わらせ、次の一日を始めるもの。

 全ての壁が、消えているだろう。

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