7:壁とナイフ
「おお、君が彼の言っていた幽霊の子供かい。おじさんたちは悪い人じゃないよ」
駅前から少し離れた路地で幽霊の子を見つけた。俺に駆け寄ろうとしたが、他にも人がいるのを見て、ごみ箱の陰に隠れてしまう。
そこへ、先輩が優しげな声で呼びかけたのだった。見せかけの優しさが上手だから、先輩は子供にも人気がある。小学校の講演会に呼ばれたこともあるとか。
「悪い人だろう」
後ろから呟く声が聞こえる。言うまでもなく、怪異ハンターの声だ。ワンピースの少女も隣にいる。怪異ハンターは先輩を追い抜かして前に出て、幽霊の少女と相対する。
「私は霊能力者なんだ。この近くに、超えられない壁があるって聞いたんだ。それを何とかするためにここに来たんだよ。案内してくれるかな?」
俺は驚いた。この気取った革ジャンの男の口から、柔らかで、子供向けの口調が飛び出してきたのだ。そういえば、ワンピースの少女と話している時も、こんな口調だったような気がする。言う内容も、嘘は言っていない。
幽霊の少女は顔を明るくして、道に出てくる。
「ほんとうに?」
「本当だよ」
俺の方を見るので頷いてやると、弾むように駆け寄ってきて、手を引くそぶりをする。
「こっち!」
何度も行った道だから、俺にも壁への行き方は分かるが、彼女のペースに合わせて歩くことにした。
幽霊の少女は明るく、俺へ話しかけてくる。これで最後だと思うと、返事に困ってしまうが、それでも明るく、それに返すことにした。
「また、ギターを弾いてよ!」
「ごめんね、今日は持ってきていないんだ」
「かべのむこう、本当に行けるの?」
「たぶんな」
先輩は、歩くにつれて難しい顔をし始める。腕組みをしながら歩き出す始末だ。疲れたのかと思ったが、元柔道部だから体力はあるはずだ。
「どうしたんですか?」
「いや、本当に幽霊はいるんだな」
「まだ疑っていたんですか」
「疑うさ。もちろん。でも、その点は、悪かったな」
先輩は、これ以前には幽霊を見たことがなかったらしい。それでも事業にするというのだから、怖かっただろう。事業になるくらいは、幽霊がいるということだろうか。
別に、俺にだけしか見えない幽霊というわけではないようだ。怪異ハンターによると、誰でも見えるものだが、存在していることに気づくことが難しいのだという。
ほどなくして、壁のところに着く。高く、広い壁。上に見上げると限りなく、左右に見渡しても果てがないように見える。世界の終わりの壁。
怪異ハンターが「ふん」と言う。
「こんなもんは簡単だ。一番簡単なやつだ」
革ジャンから伸びた手を、大仰に動かして肩をすくめるポーズを取る。ビジネスのしぐさだろうか。
とんとんと壁を叩いて、感触と音を確かめてから、再度こちらへ向き直った。手には何かを測定しそうな機械もあったが、リュックサックへと収納されていく。
「はてしない、通れない壁っていう妖怪に関して、一番有名なのはいわゆる『ぬりかべ』だろう。だがぬりかべの民話には、その姿が見えないとされている物も多い。いわゆるマスコット的なぬりかべ像に関しては水木しげるが作ったものだから、あまり考えないほうが良い。こちらの業界の区分で言うぬりかべっていうのは、見えない壁全般のことを指すことになっているんだ。今回のケースは見えているのでそれには当てはまらない」
怪異ハンターが話し始める。ポケットから煙草を取り出したが、二人の子供と、ぬりかべの方を見て、またポケットに戻し直した。
「詳しく説明しよう。今回の壁については、ぬりかべみたいな、そういう妖怪がいるという考えは不適切だ。もっと原始的な、ある現象がある、というふうに捉えたほうが良い。そして、この壁の構造を理解するには、見越し入道という、また別の民話を紐解くのが手っ取り早い」
先輩が腕を組む。幽霊の少女は、俺の後ろに隠れてしまった。話が難しいのかもしれない。
「『見越し入道』。これは坊主の姿をした巨人の民話だ。それは、巨大な姿をして旅人の前に現れ、見上げれば見上げるほどその姿は大きくなったという。だが面白いのは、逆に坊主を見下げるようにすると、その姿は消えてしまうと伝わっていることだ。また、『見越した』と宣言することも有効だという」
先輩が組んだ手をほどいて、壁の方へ行こうとするが、怪異ハンターが開いた手を横に伸ばして制止する。
「つまり、この壁の構造も、見越し入道と同じものだ。見越し入道が、上方向に際限なく大きくなるだけであるのに対し、この壁は横方向に見ても、広くなり続ける。視線に先回りして、そのさらに遠くまで広くなるため、果てがないように見える、というわけだ」
ここでようやく、俺にも怪異ハンターの言うことが分かった。今も、怪異ハンターの背後に見えるはてしない壁は、なおもひどく大きなものに見える。それは、俺たちがそう思い込んでいるというだけのことなのだろうか。
「この壁の攻略法は簡単だ。真っすぐ足元を見て、そのまま進むこと。そうすればこの壁は逆に無限に小さくなる。この場にいる全員がそのようにすれば、この壁は消えて、通れるようになる」
そして、怪異ハンターの指示で、その場にいる全員が横一列に並び、壁の前に立った。指示されたことは一つ。彼が合図するまで下を向き、歩き続けること。
「いいぞ」
しばらく、不安な暗闇の中を歩いた。彼の合図で顔を上げると、目の前にあった壁はなくなっている。後ろを振り向くと、そこには高い壁が、まだ自慢げにそびえたっている。俺たちが通ったことも気づかずに。
幽霊の少女と二人で苦しめられてきた、通れない壁が、こんなにも簡単に通れるなんて。横を見ると、幽霊の少女が体育座りをして、壁の方を向いている。あっけないことだ。でも、悩みの解決なんて、本当はあっけない物なのかもしれない。苦しんだこと、自分とは切り離せない悩みだと思い詰めたこと、それらも、不意に消える日が訪れるのかもしれなかった。
壁の手前にマンホールの蓋があって、その上には山の模様と、そこに流れる川、そしてその川の名前が書いてあった。この土地を表すマンホールで、有名な川だということ。壁を通らなければ、見ることのできなかったマンホールだ。
電柱だって、家だって、全部違うもののはずなのだ。そして、この壁のどちら側にも、世界は無限に広がっている。
俺があたりを見回していると、今まで静かに怪異ハンターについてきていたワンピースの少女が、壁の方に歩き出した。その手には、どこから取り出したのか、小ぶりのナイフが握られている。近くにいた先輩が、小さく声を漏らして後ろへ下がった。
「でも、もっと簡単な方法があるよ」
「そうだな」
怪異ハンターが答える。すっと動いて、ワンピースの少女の隣に立つ。ワンピースの少女は、ナイフを壁に向ける。
「理屈なんて、本当は関係ないんだよ。どうでもいいの。あるか、それともないかだけでいいの。どのようにあるかなんて、誰も聞く気がないし、純粋にそこにあるっていう事実に比べたら、ちょっとの価値ですらないんだよ」
彼女はナイフを壁に突き立てる。壁は何の抵抗もなく、それを受け止めた。彼女の動きの中で、ナイフが月光を反射して、ぎらぎらと光を放った。それはもしかしたら、霊的な力の光だったのだろうか?
「そこにある、を、そこにない、に、変えるだけでいいの。一番大切な物をしっかりと見て、それを、殺してしまえばいいんだよ」
ゆっくりと、ナイフが横へと引かれる。ケーキを切るみたいに、気軽に。命を奪っているみたいに、静かに。
果てしない壁は横に切り裂かれて、一度だけ僅かに震えた後、跡形もなく消えてしまった。その後には、アスファルトの道を除いて、何も残らなかった。彼女が殺したのだ。はてしない壁を。壁なんて初めから無かったかのように、冷たい空気が通り過ぎた。
怪異ハンター。幽霊や妖怪の殺し屋。彼らはそう名乗っていたのだった。
ワンピースのポケットから鞘を取り出して、ナイフをしまう。そして、それをポケットに入れなおした。それを確認してから、怪異ハンターが煙草に火をつけて言う。俺たちからは少し離れた場所にいて、煙が透き通った夜空に消えてゆく。
「あるいは、煙草を吸うことなんかも効果がある。妖怪の類は、煙草を嫌うことがあるから。他にもまあ、才能と道具次第で手立ては色々。とにかく、一つ解決です。確認しましたか?」
最後の言葉は先輩に向けられていた。先輩は、少し反応が遅れたが、何とか肯定的な返事を返した。
怪異ハンターは指を鳴らす。携帯灰皿を取り出して煙草をひねり消し、収納した。まだ半分も吸っていない。儀式的な煙草だったのか。
その目は、幽霊の少女に向けられている。
「お嬢さん、どこか行きたいところがあるのかい? 壁そのものが目的ってわけじゃないだろう。道を歩くとき、道そのものが目的じゃないみたいにな」
そっと近づいてきて、俺の腕の後ろに隠れている、幽霊の少女に話しかけた。怪異ハンターの目は笑っていない。幽霊や妖怪の殺し屋。これは、獲物に向ける憐憫か、俺への気遣いか?
ただ、その口調だけは柔らかく、優しかった。幽霊は騙されて、袖を引く。
「うん。こっち」
再び一行は、とぼとぼと夜の道を歩いた。壁がなくなってしまうと、その先には俺の全く知らない夜の、全く知らない街が広がっていた。足音や、話し声が、遠く遠くまで響きそうだ。そうか、と少し納得する。この広さが、夜なのだ。壁が上に、横に、果てしなく広がっていたのと同じで、夜はこの街全体に、あるいはもっと遠くまで広がっている。そして、誰もがその夜に閉じ込められている。壁を抜けた、通れたと思ったが、それは、より大きな夜にすっぽりと包み込まれていることに気づかなかっただけなのだ。
そして、壁を殺した怪異ハンターたちの手によって、幽霊の少女もまた、殺されようとしている。この夜を、抜けることができないままに。
自分の心は広い夜の中のちっぽけな一部でしかなくて、その夜の、果てしない冷たさと悲しみに、少しずつ覆われていった。
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