黄昏の誓い

その日の帰り道は、ウマルの病に対する不安こそあれど、ファジルの生涯で最も煌めいて見えるものだった。早朝の人通りの無い通りを歩き、繋がれた手は帰路が別れる地点まで一度も離れる事は無かった。


夕方頃に迎えに行くと言うウマルと別れた後、ファジルは自身が無断外泊をした事実に気づいた。一人残された大切な娘をとても大事にしている父が、朝帰りをしたファジルを見れば何を言われるか分かったものではない。そう考え、ファジルが家に帰り玄関の扉を滑る様に開け、そっと自室に戻ろうとしたところ、薄い暗い廊下の先にファジルの父、マンガイが審判を下す大王が如く腕を組んで立ちふさがっていた。ファジルの顔がひきつる。


「随分と遅いお帰りだね……?」


マンガイはふくよかな身体と同等に立派な髭を震わせ、地の底から響くような声で問いかけた。


「た、ただいま戻りました……研究の合間に休憩をとっていたらそのまま寝てしまいまして……」


咄嗟に口走ったファジル。実際夜は寝過ごしたようなものであるので嘘はついていなかった。


マンガイはファジルの目をじっと見つめ、発言の真偽を見定める。真に潔白であるという自信は無かったファジルの目が多少泳いだ事は見て取られただろうが、マンガイは一つため息をついただけで追及はしなかった。


「あまり私を心配させないでくれ、我が愛しい娘よ」


「はい、申し訳ありません……」


思春期の娘らしく父に対して多少なりとも反抗する事も多いファジルには珍しい、萎れるような弱々しい謝罪だった。


「夜にはパーティーがあると言っていたね? きちんとした休眠はとれていないだろうから、それまではゆっくりと休むと良い」


「そうします。それで……実は、パーティーの後から魔術の儀式がありまして、恐らく明後日まで帰りません」


帰り道でウマルに聞いたところによれば、ヨク=ゾトース召喚の儀式は一日がかりで行われる可能性があるとの事であった。(魔術の儀式は往々にして長大な時間をかけて行われる事が多いためファジルは然程驚きはしなかった)


明後日まで帰らないと聞いたマンガイは心配そうに眉をひそめる。しかし、すぐに優しげなものに表情を変えるとファジルを廊下の奥に促した。


「そうか、ならば、ますます良く休んでおくべきだね。朝食を用意してある。私はもう仕事に向かうが、食器は水に浸けておいてくれればそれで良い。君は早く床に着くことだ、良いね?」


「はい、ありがとうございます」


マンガイはファジルと入れ違いに玄関へと向かう。ファジルを待ち続けて恐らく徹夜であっただろうにも関わらず微塵の眠気も怒りも感じさせないその背中に、ファジルは多大な父の愛と仕事人としての尊敬を感じた。


「行ってらっしゃいませ」


ファジルは深く腰を折ってマンガイを見送った。


食事室に用意されていた燻製肉とパン、芋のスープを平らげたファジルは言い付け通り食器を軽く洗って水に浸け、自室に入る。そして、寝間着へと着替え、寝る支度をしながら、早朝の出来事を思い返した。ウマルと結ばれたのだ。未だ夢見心地であり、寝て覚めればそんな出来事など存在しなかった事に気づくのではないかと恐れを抱くファジルであったが、勇気をもって床に着いた。





◇◆◇





ファジルが目を覚ましたのは夕方に差し掛かる少し前の事だった。眠りから覚めて尚、今朝の記憶はしっかりとファジルの頭に焼き付いていたが、それがやはり夢ではないのだという確証までは得られなかった。ファジルの心に不安の霧が姿を見せる。だが、もし夢ではなかったのなら、暫くすればウマルが迎えに来るだろう。そう思い直し、ファジルはパーティーに出かける支度を始めた。


パーティーで目立つ気など更々無いファジルが愛用する、華美ではないが、決してパーティーに相応しく無いわけではない、良い塩梅の薄紅のドレスと髪飾りを倉庫から引っ張り出し、身体と髪をしっかりと清め、髪を結い、化粧をする。そうこうしている内に、呼び鈴が鳴らされた。ファジルには音が心臓に直接響いた様に感じられた。ウマルが来たのだろうか?


急いで、しかし、開ける瞬間は落ち着いて、玄関の扉を開けたファジルを迎えたのは――――やはりウマルだった。どうやら記憶は現実のものだったらしい。思わず大きな安堵のため息をついてしまうファジルに、ウマルは不安げに声をかけた。


「どうかしたのかい? 僕の格好が何かおかしいかな……パーティーでいつも着てる服装だと思うんだけど」


「いえ! 何もおかしくはありません。気にしないでください」


慌てて否定し、改めてウマルを見るファジル。ウマルの服装は確かに何度も見たことがある服装であったが、それでも普段よりも外見の良さに磨きがかかっている様に見えた。我ながら単純なものだ、とファジルは思う。


「行こう」


「はい」


しっかりと手を繋ぎ、二人はアイモスの研究所へと向かった。道中、ファジルは研究所でムーサと顔を合わせるだろう事を思う。ウマルとは上手く行った。次はムーサだ。今の自分達を見てムーサがどう思うのかは未知数だが、どうかかつての仲に戻れます様に。地平線の先に沈んでいく夕陽に向かってファジルは祈った。






◇◆◇






アイモスの研究所は普段から多くの弟子で賑わっていたが、パーティーが開催される日はそれに拍車がかかる。その日も、ローブを来た弟子達に混ざり、豪奢な衣装を着た貴族や、怪しげだがどこか力を感じさせる魔導師達、いかにも博識さを醸し出している学者等々、多くの人間が研究所のある一点を目指していた。研究所十三の建造物の一つ、大広間を擁する広大な迎賓館である。


ファジルとウマルの二人は、大広間に向かう前に一度円卓派の領地に向かう事にした。今回はパーティーの後に魔術の儀式を行う為、ローブの着替え等を自室に用意しておく為だった。


二人が円卓に着くと、他の面々も同じ事を考えていた様で円卓の全員がその場に揃っていた。仲間達は、先日までのどこか気まずげだった二人が一夜にして距離があからさまに近づいているのを見て各々の反応を見せる。ティマーズとタランはウマルに向けてにやりと笑みを向け、昨夜ファジルを激励したライラやフィレーネ、ファムム等は笑顔で大きく頷いて見せた。ゴットラムは怪訝そうな顔をした後、フィレーネ達を見て納得をした表情で読んでいた書物に目を落とす。エウフォリオンはどこか不機嫌そうだ。そして、ムーサと言えば……


「……」


ムーサは円卓の一番奥の席で、口元を扇で隠し二人を見据えていた。その目付きからはやはり敵意の様なものしか感じられなかったが、今のファジルはそれだけでムーサの感情を推し量る事はしなかった。ムーサが立ち上がり、ファジルの元へ歩み寄る。一触即発かと円卓に緊張が走る中、ムーサはファジルに平淡に声をかけた。


「少し顔を貸しなさい、ファジル。私の部屋で良いわね」


有無を言わせぬ物言いであったが、ファジルは動じなかった。


「ええ、構いません」


返事は無く自室に向かうムーサ。ファジルも後に続く。ウマルが心配そうに手を差し出そうとしたが、ファジルは軽く手を振って断った。


ムーサの部屋へと向かう道筋は無言によって構成されていた。何も言葉を交わさぬまま、ムーサとファジルは部屋に入る。部屋には夕陽が射し込んでおり、蝋燭に火を着けずともまだ明るかった。ムーサの部屋は、整理整頓が極まり、見れば誰もが高価だと判断する家財に溢れ、研究室として使うにはいささか勿体無い様に感じる。


無言で勧められた身体が沈みこむような椅子に座り、ファジルは対面に座ったムーサを見つめる。相変わらず口元は隠され、目付きも鋭かったが、ファジルの心が揺らぐ事は無かった。


「今日は随分と余裕ね? ウマルと結ばれてもう私なんて眼中に入らないのかしら」


苛立った様に言うムーサ。ファジルは首を振る。


「いいえ、むしろ今はあなたしか目に入っていませんよ」


ファジルの返しは全くの想定外だったのか、ムーサは一瞬、言葉に詰まる。そして、珍獣を見るようにファジルを眺め回した。


「言葉通り……と言うわけでは無さそうね。一体どういう心境の変化かしら。気に入らないわ」


「呼び出したのはあなたですムーサ。私に何か用が有ったのでしょう? 本題に入りませんか」


言ってからファジルは僅かに後悔する。普段ムーサと相対する時の癖か、厳しめの口調で話してしまった。すぐにムーサの反撃が来るかと思われたが、意外にもムーサはおとなしいままだった。


「そうね、本題に入るわ……」


そのまま話し始めようとするムーサの口元を隠す扇がファジルの目に止まる。


「いえ、やはり待ってください」


話を遮られ、少々ムッとするムーサ。


「なによ?」


「扇は膝に置きませんか?」


「…………何故?」


やはり拒否したいのだろう。たっぷりと沈黙を取った後渋々聞き返された問いに、ファジルは真剣に返す。


「扇を通した言葉は、あなたの本心を扇の内側に置いていってしまうでしょう?」


「…………」


ムーサは暫し躊躇った後、扇を閉じ膝に置く。露になったムーサの口元は、泣くのを我慢する幼児の様にきゅっと結ばれていた。ファジルの目線が口元に向かうと、ムーサはそっと顔を反らす。


「……扇に甘えていたせいで以前より口元が素直になっていませんか?」


「うるさいわね、黙って」


言葉の強さこそ今まで通りだったが、口を尖らせて発せられたそれは紛れもない本心だったろう。ファジルは言われた通りムーサの口元についてはこれ以上追及しない事にした。


「それにしても、今日は本当に……なんと言うか、話ができますね」


「そんな言い方をされると普段の私が野蛮人みたいじゃない。まぁ、良いわ。私も……その……反省したのよ。ティマーズにすら怒られたし」


ムーサの口元が再び幼児の様に結ばれる。ティマーズと言えばムーサに折檻されてばかりというのが円卓派の認識だったし、実際そうであった。そんなティマーズから受けた説教は大分堪えたのだろう。ファジルはムーサがこれ程弱気になっているのを初めて見た。


「だから……その……」


何かを話そうとしてムーサは言い淀む。それは長く続いたが、ファジルは何も言わず続きを待った。


「……今まで、強い言葉をぶつけて悪かったわね。いえ……ごめんなさい」


殊勝にムーサは頭を下げる。ファジルもまた、同様に頭を下げた。


「私も、あなたをずっと誤解していました。自ら蒔いた種だったと言うのに……本当に、ごめんなさい」


互いに頭を下げ合う二人。顔は見えないが、通じ合えた。ファジルはそう確信した。数年に渡る不仲は終わりを迎えるだろう。ほぼ沈みかけていた夕陽が最後に二人を照らし、完全に沈んだ。僅かに赤を残しただけの空の下は暗くなり、二人が居る部屋も例外ではない。


部屋が暗くなった事に気づいたムーサは顔を上げ、蝋燭に火を着けに歩く。その動きに気づいたファジルも顔を上げた。


「ところで……ウマルとは、本当に……?」


蝋燭に火を着けて周りながら、ムーサは腫れ物を触るようにファジルに尋ねる。


「私もまだ夢ではない確信はありませんが……」


「そう……良かったわね」


ムーサはファジルに背を向けて呟いた。声色だけではムーサの内心を汲み取れ無い。


「単刀直入に聞きますが、どう思っているのですか?」


ファジルの質問にムーサは沈黙し、言葉をまとめ、そうしてから口を開いた。


「……悔しいわよ。悔しくない訳が無い。そして、胸が痛いわ。人生で一番の痛み……」


ムーサはファジルに振り返り、自身の胸に手を当て、心臓を掴む様に握ってみせた。ファジルはどう声をかけたものかと悩んだが、言葉が決まる前にムーサが「でもね?」と続けた。


「納得はしているの。昔からあなた達の間には入り込む隙間も無かった。近頃拗れていたのだって、ウマルがあなたを想うが故だったのは訳を聞くまでも無く分かっていたわ。……あなたは分かっていなかった様だけれど」


「それに関しては言い訳の一つも浮かびませんね……」


ファジルは恥じらいに顔をうつむかせた。自分の鈍感さにはあらためて呆れ果てる。ほんの数日前の自分を殴り倒したいほどだ。


「まぁ、端から見るからこそ分かる事も有るわ。悲しいけれどね……そう、私は部外者だった」


「部外者……?」


「結局、あなたとウマルが着くか離れるかの話であって、私は一人負け戦を戦っていただけなのよ」


ムーサは憂いを帯びた表情で窓の外を眺めた。眼下では、これから始まる宴に浮かれた群衆が騒いでいる。


「最初から勝負にすらなっていなかった。正直、悪かったと思っているわ。おとなしく引き下がれば良いのに、無理やり食い込もうとして」


「……好きな人を諦めない事を、私は否定しません」


ムーサは首を振った。


「違うわ、ファジル。確かにウマルへの好意は有ったけど、私は……何もしないままあなたに負けたく無かったのよ」


「負け……」


ファジルは昨夜フィレーネに言われた事を思い出す。ムーサはただ、ファジルに負けたく無かっただけなのだと。


「私には分かりません……何故ムーサはそんなに私に勝ちたいと願うのか」


「……私が円卓派以外の派閥の、口さがない連中になんて言われているかは聞いたことが有るでしょう?」


「……」


口には出さずとも、ファジルには心当たりが有った。ムーサは高位貴族の娘だ。アイモスの弟子になって二年で高弟と認められ、自身の派閥を作り上げた彼女を、権力に物を言わせているのだと噂し合う者達が居ることはファジルの知るところだった。彼女の実力を知っていれば出てくる筈の無い妄言であることも。


「何をしようにも二言目には権力、金、地位……! そんな下らない人間を、私は自分の実力で叩き潰してきたわ。自分だけの力で黙らせてきた。周囲の誰よりも優れていれば誰も私に文句は言えないと信じて……けれど、未だに一人、越えられたとは思えない人間がいる」


「……私、ですか?」


「そうよ」


頷くムーサにファジルは目を丸くした。呆れたようにムーサは続ける。


「本当に鈍感ね。私が二年かかった高弟への認定をあなたは一年で為した。炎の生命体の十三の利用法や雷の魔術的な再現を初め、功績は枚挙にいとまがない……あなたの存在を多くの弟子が驚異に思っているわ。エウフォリオンなんかもあなたが円卓に来るまでは実力派を気取って常に魔術の講釈を垂れていたのに、今ではおとなしいものよ」


ファジルの想像するエウフォリオンと言えば、円卓に居ても気だるげに黙って話を聞いているだけの姿だった。昨夜見せた珍しい積極性はもしかすると、元々持っていたものなのかもしれない……


「聞いてるの?」


ムーサの強めの問いかけに、ファジルは本題から逸れた考えで占められかけた頭を振り払った。ムーサがせっかく本心を吐露してくれていると言うのに不誠実だったと反省する。


ムーサは一つため息をつくと改まってファジルに向き合った。


「私はあなたに負けたくない。それが私の生き様なの。ファジル、これは挑戦状よ。必ず、あなたを越えて見せる。この私にここまで言わせて、まさか逃げないわよね?」


そう言って挑戦的にファジルに目線を投げるムーサ。その口元もまた同様に、挑戦的に吊り上げられていた。これがムーサの心から望む事で有るならとファジルは思う。


「……分かりました。そこまで言われて受けて立たない私ではありません。とはいえ……」


ファジルはムーサに向かって手を差し出した。この手はなんだと怪訝な顔をするムーサにファジルは微笑みかける。


「せっかく仲直りできたのにまた歪み合う気はありません。勝敗を争うのでは無く、お互い高め合うとしましょう」


「……気に入らないわね。でも良いわ。今は呑んであげる」


そう言うなりムーサはファジルの手を取り、力強く握りしめた。


「ずっとあなたの目標で居られる様に努力すると誓います」


「それ、挑発よ? 本当に仕方のない娘ね……」


二人は何年かぶりに笑いあった。

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繰り返すもの ザルジス @TheBookofZarzis

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