最終話

 演劇の終わりを告げるブザーが、けたたましく鳴っていた。シンと静まり返っていた体育館の緊張が解け始める。万雷の拍手の後、あちこちから感嘆と共に大きなため息がもれた。 

「すごかったね」

「うんうん。ブルベイカーさんのイカレ女っぷりに、ちょっと惚れちゃった」

「でも、ブルベイカーさんにせまられたら抱かれていいかも」

「キャハハ」

 朝比南高校の女子たちが、キャッキャとはしゃいでいた。体育館の窓には遮光カーテンが敷かれているが、照明が点灯されて徐々に明かりが強くなっていた。

「なんか、演劇のテーマが重かったよな」

「ああ、しかも昨日の演劇部の芝居よりも上手かったし、いろいろと考えさせられる内容だったよ」

「よく先生たちからOK出たよな。教育上、いろいろと不味い場面もあったからさ」

「そこは綾瀬さんが強引に通したんじゃないのか。生徒会のごり押しもあったって話だぞ」

「やっぱ、綾瀬さん可愛かったなあ。十文字の彼女って設定は癪にさわるけれど、けな気だったよなあ」

「一年の鴻上ってのも可愛かったって。あの顔にライフルって、なんか萌えたよ」

「それよか十文字の妹って、めちゃくちゃ可愛くねえか。あれで中坊だろう。うちの高校にきたら、ブル姉さんを抜くんじぇねえか」

「いや、それは無理でしょう」

「にしても、田原は田原って感じだった」

「だな」

 二年生の男子も満足している様子で、とくに綾瀬穏香には人気が集中していた。生真面目さを前面に出したのが好印象になったようだ。

 司会進行役である生徒会書記の女子が、ステージの左下でマイクの前に立った。生徒はすでに立ち始めていて、そのざわつきにかき消されぬように、ボリュームは大きめであった。

「本日は朝比南高校学校祭、有志による演劇会に来ていただいてありがとうございました。この演劇は一年生から三年生が企画・原案・脚本・演出・出演し、さらに朝比南桜が丘中学校・小学校からも友情出演していただきました。そのほか、たくさんの皆様の協力を得ましたことに、お礼を申し上げます。演劇はこれにて終了です。この後は・・・」

 司会者の話は続いているが、もっとも期待の大きかった出し物が終わったので、体育館からは生徒が退出し始めていた。

 やがてそこは空虚な空間となり、整然と並べられた大量の椅子に、僅かずつチリが積もり始めた。静寂が支配する舞台が再び賑やかになるのは、二人の女子と数年の時を必要としていた。 




 女は、まだステージの上にいた。冷えて乾ききった空気に包まれながら、親友の亡骸を見つめている。何年も前に多くの観客がカーテンコールを望んでいたが、果たされぬまま、この世の崩壊を迎えた。家族や恋人、仲間というくびきから解放され、自由を手に入れた代償を払わなければならない。

 彼女は絶望を糧に生きる道を選択し、犠牲は十分に供された。自らの歩みを生きた地獄へと燃え上がらせるには、十分すぎる燃料であった。

  

 朝比南高生たちのもとを離れてから、女の狂気には磨きがかかった。

 多くの他者の中での自分は、どうしようもなく孤独であり、心の激痛は想像を超ええた。なぜこのような仕打ちを受けなければならないのか、女の中に鬱積が溜まっていた。

 激情に駆られての出奔であったが、自分の責任だと考えることはしなかった。この胸の張り裂けそうな状況は、家族だった者たちが、自分に為した悪意だと思っていた。自分を孤独に追いやった者たちが、その血をもって支払うべきであるとの極論に行き着いた。

 ズタズタに引き裂かれ、地獄の辛苦を味わいながら死すべきであると、女の腐り始めた良心が訴えていた。どのようにすれば残酷な刑罰を与えられるか、女は日々考えて実行に移した。

 そして、すべてがほぼ企み通りとなった。

 己の実行した策謀に酔いしれ、己の知略の結果に満足し、さも残虐にほくそ笑んだ。戸惑うことなどなにもない信念があった。獣ですらなくなったその身を後悔することもない。朱に染まった月下に、狂人が声高く笑うのだ。


 女は旅立った。脆くも崩れ落ちた文明の残滓を踏みつけながら、焼けて溶け落ちた鉄の門をくぐり、知識が隆盛を極めた街並みの残骸を見つめて歩み続けた。時には灼熱の陽光に肌を焼かれ、時には極寒の冷気に肺腑を凍てつかせ、そして時には、春の柔らかな陽光を浴びて、穏やかで緩慢な時を過ごした。


 草をはむヤギのように雑草を食べ、虫けらを追い回し、僅かばかりの食べ物を口にして、日々を生き抜いていた。制服は、ほどなくして汚らしい布切れとなり果てた。どこかで見つけた丹前を身にまとい、薄汚れたリュックサックに、焦げだらけの鍋や水筒などがぶら下がっていた。ガラガラと下賤な騒音をたてながら放浪する姿に、かつて、学園のアイドルともてはやされた面影はなかった。

 疲れ果てた一日の終わりに、瓦礫のすき間に身体をこじ入れて眠りにつくのが、女にとって唯一の楽しみだった。不潔なまま顧みられることもなくなった皮膚の、いたるところが疥癬に冒され、毎夜その痒みに苛まれたが、黒く茶ばんだ爪で、強く掻きむしる快楽にも溺れていた。

 幾年が経っただろうか。女の旅は終結地を見いだせないまま、だらだらと続けられていた。 

 その外見は見る影もなく、もはや塵芥のようであり、人が歩んでいるのではなく、ヘドロの海に浮かんだ一塊のゴミが、波に揺れらながら漂っているようだった。あまりにもひどく臭いので、痩せこけた野良猫でさえ避けていた。たまに人を見つけても、口をきこうとせず黙殺した。

 刺激のない旅路は、脳の活動を著しく低下させていた。記憶もあいまいになり、自分の名前さえ覚えているのかあやしくなっていた。かつて、心のほとんどの領域を汚していた悪逆さが消えていた。すっかりと毒気が抜けた代わりに、存分に阿呆になっていた。


 ある大雨の夜、橋脚の下で死んだ野犬の肉を食っている時に、突如とし自分に仲間がいたことを思い出した。

 それほど遠くない昔に、妹や男子たちが姉さん姉さんと慕ってくれていた。異性として、自分を好いてくれる男子も少なからずいた。彼らのために命を懸けた日々があった。皆で御飯を食べて、一緒に食べ物を探した。野盗に対峙して力の限り戦い、そして多くの死を見送り、悲しみと絶望に苛まわれた。

 狂っていく自分を知られるのが嫌で、自ら袂をわけたような気がした。あの頃はもっとも大事な人がいてくれた。いつも目立たないように身近にいて、真綿のような柔らかな愛と慈しみを分け与えてくれた。


「千早」


 最愛の人の名を、久しぶりに口にした。ホコリ混じりの虚空の中に、その名前が確固たる輪郭を形づくり始めた。あの時、かけがえのない人を亡くしたような気がしていた。遠い記憶をまさぐるが、強い動悸におそわれて前に進めなかった。

 どこから吹いた風なのか、なつかしい匂いが流れてきた。仲間と一緒に暮らしていた時に嗅いでいたものが、女のひだをひらひらとくすぐっていた。そのあまりの切なさに、いてもたってもいられない気持ちになった。あの者たちと一緒にいたいと、心の底から願った。孤独から抜け出して、人のぬくもりを感じながら眠りたいと切望していた。


 女は走り出した。髪を振り乱した汚らしいゴミの塊りが、ヘラヘラと笑いながら廃墟の街を、荒れ果てた野を、汚れた川をずぶ濡れになって突き進んだ。どんな障害物も気にせず、全身泥まみれ、傷だらけになりながら走り続けた。幽鬼どもが蠢く瘴気に満ちた地を、不気味な笑顔を浮かべて前進した。何日も昼夜を分かたず走り、そして小雪が降る凍てつた午後、約束の場所へと戻ってきた。


 高校の外観は、もはや原型をとどめていなかった。度重なる巨大地震により、堅牢さを誇った耐震構造も、もはや意味をなさなくなった。まともな教室はほとんどなくなり、大半が崩壊していた。 

 女は迷わず体育館に向かった。屋根が崩落し、鉄骨と屋根材で足の踏み場もなかった。ステージも同じような有様で、瓦礫の山ができていた。

 そこに大事なものが埋もれているとわかったが、同時に、それは過去のものであると悟った。自らが仕掛けた策略で、多くを殺戮したことを鮮明に思い出した。硬化した記憶の結晶に鉋をかけて、毎夜少しずつ削り落としていたものが、まったく元通りになってしまった。

 忘却の彼方に葬ったはずの煉獄が、心の中で展開される。そこでは、多くのかけがえのない命が、女の狂気に呑み込まれていた。昔日の罠は、今度は本人へと牙をむいていた。その絶望の執拗さに耐えられなくなった。

 女は、パニックになりながら校内をさ迷っていた。コンクリや壁材の破片で滅茶苦茶だったが、高校生だったころの匂いと雰囲気が、そこいらじゅうに漂っていた。過ぎ去り日のなつかしさが増すほどに、背中に背負った石像が果てしのない重量を押しつけている。

 やがて、教室の一つにたどり着いた。女が三年生だった頃の教室だ。奇跡的にそこだけ、ほとんどあの頃のままに残されていた。

 女は泣き叫びながら、机や椅子を次々と投げ飛ばした。黒板に何度も額をぶつけて、自分が為してきた業を呪った。背負った運命を烈しく罵り、大声で叫びながら、目につくものを手当たり次第に放り投げた。轟音と女の悲鳴が同調したとき、かつての家族だった者たちが呼応する。 


 新妻千早が教室の後ろに立っていた。気がふれている親友を心配そうに見つめている。綾瀬穏香と西山なぎさ、十文字來未は厳しい目線だった。島田友香子は快活な笑み浮かべている。鴻上唯はしきりに呼びかけようとするが、森口裕子が肩に手を置き、首を横に振る。天野志奈は申し訳なさそうな表情をしている。男子たちは教室の入り口付近に集まって、どうしたらいいのか戸惑っている様子だった。

 しかし、女は皆と一緒なことに気づいていなかった。腐った基礎材のように朽ちてしまった心は、清浄なる霊魂を感じることができない。    

 女は、明日への恐れにのたうち回りながら叫び続けるしかなかった。明日が怖くて、叫び続けるのだった。


                                   おわり





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彼女たちの、~epitaph~ 北見崇史 @dvdloto

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