第35話

 新妻グループが、朝比南高の校門まで、あと数十メートルの距離にきていた。

「ほら、やっぱ足跡がない」

 雪はすでに溶かされていたが、地面の湿った土ホコリに足跡の痕跡は見いだせなかった。

「ここに来る間にも、なんにもなかったよ。やっぱ、おかしくね」十文字は怪しんでいた。

「クズどもにも休日ぐらいあるだろうよ」島田が答えた。

「どこかの穴にもぐって、襲撃の作戦でも練ってるんだろう。これはいいタイミングだな」

 付近に人の気配がなかったことを怪しむよりも、むしろ都合がいいと新妻は考えた。

「すんなりいきそうだね。今晩は他人のうちだから、寝つきが悪くなりそうだ」

「お薬、処方しますよ。睡眠薬がいいですか」

「それは、ブルベイカーに飲ませてくれ」

 綾瀬が声をかけると、新妻は苦笑いしてそう答えた。

「それじゃあ、ここからは私が先頭になります。みんなは少し離れて後ろについてきてください。ああ、でもあんまり離れないで、なるべく一緒に来てください」

 ここからは、天野が先導することになっていた。

「塊になるのは危ないんじぇねえか、志奈」島田が不安な表情だった。

「いいえ、バラバラに行くと襲撃かと思われてしまいます、みんなで行きます」

「おいおい、話は通しているんだろうな」

「大丈夫です。ちゃんと話は通してますから」

 そう言って、天野はニコリと微笑む。いまさらになって、彼女の言葉を疑うものはいない。ただしカンタロウだけが、その女子の表情に妙な硬さを見つけていたが、彼にはそれを指摘するほどの人生経験がなかった。

「まあ、向こうも100パーセント私たちを信用してるわけじゃないからな」

 天野が先頭になって歩き出した。先導役が校門を通過し、やや距離をとって一塊になって続いていた。

 生徒玄関前のバリケードは、さらに強化されていた。机と椅子と自転車と、あまたの粗大ゴミのジャングルジムがより大きくなって、ある種の魔的な造形美を醸し出していた。さらに脇にも、瓦礫で造られた小さいバリケードらしきものがいくつもあった。

「デマケーション」と天野が合言葉を叫ぶ。

「デマケーション」

「デマケーション」

 後ろの連中も大声で叫びだした。カンタロウとチンミも、子どもらしい高い声で、けな気に叫んでいた。

「デマケーション」

「デマケーション」

 新妻グループの呼びかけに返答がなかった。朝比南高校は沈黙を貫いていた。

「みんな、ちょっと待ってくれ」

 新妻が、皆の歩みを一時停止させた。すでに校門から数十メートルほど入り込んでいる。生徒玄関とは、ちょうど中間地点だ。

 雲がかかり、再び寒気が舞い降りていた。リュックサックの中にしまったコートを着たいと、綾瀬が思う。  

「なんか、ヘンだな」

「返答がないって、どういうことですかね」

 合言葉を連呼したのに、朝比南高校からはまったく反応がない。天野だけが生徒玄関前で叫んでいた。

「昼食を食べてる、わけじゃないか」小牧の意見に反応している余裕はなかった。

「來未の心配が本当になったのでは。これはおかしいですよ」

 この時、鴻上はある考えに行きついていた。ここまでの道筋を論理的に考えたというよりも、女の第六感的な不確かなものであったが、それが的を得ている確信があった。心臓の鼓動が猛烈に早くなる。

「千早姉さん、ヤバい気がします」と言って、小銃のセーフティーを解除した。

「ああ、私もそう思うよ」

 鴻上の緊張が伝染し、女子たちの身体が固くなっていた。新妻は、いまやるべきことを手短に伝える。

「みんな、とりあえずリュックをおろしな。そして少しずつ距離をとるんだ。動きが不自然にならないように、ゆっくりと散開するんだよ。カンタとチンミは來未についていきな。唯、ことが起こるまで銃を構えるなよ。とにかく身を隠せる場所まで散らばるんだ。そうっとだよ。おとぼけ作戦でいくよ」

 おとぼけ作戦とは、危機が迫っている際に、それを感づいたと感づかれないための芝居をすることだ。安全な場所へと退避する、あるいは予想される危機に対し、準備する時間的な余裕を稼ぐための戦術である。 

「あいよ」と言って、島田がゲラゲラ笑いだした。男性器を冗談めかしに口にしながら、大きな声を出している。十文字はいまひとつ事情を察していなかったが、とにかく指示通りに動いた。

 下腹を叩いて、島田を押すようなしぐさをした。反作用で二人の距離が自然と離れてゆく。カンタロウが、はしゃぎながら十文字についていった。彼女は弓をぶんぶん振り回して、キャッキャと笑っていた。

 ほかの女子もリュックサックをおろして身軽になり、それなりのおふざけを始めた。綾瀬などはぎこちない動作だったが、とにかく笑いながら、和気あいあいの雰囲気を演出していた。

 天野が振り返って、新妻たちを見ていた。生徒玄関の小さな出入り口までは、あと十歩ほどの距離だ。彼女には、皆がなぜ大笑いしているのか理解できなかったが、ハッとして弾かれたように走った。それは早すぎる遁走であり、そして裏切りを露見させるのに十分な行動だった。

「逃げろっ」

 張り裂けんばかりの声だった。新妻は散開しつつあった全員を、蹴とばすようにハッパをかけた。生徒玄関へと逃げ込んだ天野の姿を見て、自分たちが非常に困難な状況に陥ってしまったと悟ったのだ。

 その刹那、彼女の頬を銃弾がかすめた。ヒュンヒュンと空気が引き裂かれ、土埃が足元に舞った。いくつもの銃声が突進してくる。生徒玄関前の巨大ジャングルジムから、脇のバリケードから、あらゆる方向から撃ってきていた。 

 女子たちの退避は素早かった。ダンゴムシのようにコロコロと転がりながら、鴻上は放置されていた整地用のローラーに身を隠した。何発も銃弾が当たるが、ひどく硬質なそれが、しっかりと防いでいた。

 綾瀬は身をかがめながら前進し、なんとか撃たれることなくバリケードの隅に身を隠した。やはり銃撃されているが、粗大ごみの大型冷蔵庫が弾を散らしていた。彼女が持つ武器はヌンチャクと包丁なので、銃撃には沈黙するしかなかった。

 島田は、ネコに追われる鼠のように、ちょこまかと走り回っていた。ゴミやバリケードに身を隠しながら、絶妙のタイミングで銃弾をかわしている。

 十文字がカンタロウの頭を抱えながら、燃え尽きて半分ほどになった軽自動車の陰に隠れた。「デマケーション」と必死に叫んでいる。なぜかチンミが一人逆のほうに走り、転がっているネコ車に身を隠した。

 カンタロウが追いかけようとするが、十文字がその襟首をつかんで止めさせた。うかつに姿をさらせば撃たれてしまう。合言葉を金切り声に変えながら、必死に叫び続ける。十数メートル離れた右側に鴻上がいた。彼女からは、丸見えの位置だ。

「來未、無駄だ。的になりたいのか」

 鴻上が大声で怒鳴った。ローラーの上に顔を出して、89式小銃を構える。狙いどころが複数であり、しかも一瞬の観測では射手を視認できず、とにかく、いそうなところに向かって撃ち始めた。

「だって、私たちは人喰いでも盗賊でもねえよ。勘違いされて殺されるわけにはいかないだろう」十文字も大声で言っていた。

「バカっ、私らは嵌められたんだって」

「はめられたって、えっ」

 鴻上は撃ち続けた。だいたいの目星をつけての点射なのだが、それが目標のすぐ近くに着弾していた。敵方が彼女の射撃の腕に脅威を感じたのか、ローラーに銃弾が集中し始めた。弾倉を取り替えながら、ライフルマンは狼のような表情で叫び続けた。

「志奈が逃げたの見たろ。あいつがスパイだったんだ。ブルベイカー姉さんは、私たちを皆殺しにするつもりだ。ここにいたら殺られる。來未、援護するから、その子を連れて校門から逃げろ。ジグザグに走るんだ」

 十文字の頭の中は混乱している。彼女は、自分たちが裏切りにあったという事実を呑み込めていなかった。

「まだわからないのか。人喰いの話はウソだ。数十人の人喰いなんて、はじめっからいないんだ。おまえの鼻は正しかったんだよ」

「わかんねえよ。意味わかんねえ」

 銃撃を受けながら、十文字は唸っていた。大人数の人喰い集団という虚構によって、自分の兄が命を投げ捨てたとは思いたくなかったのだ

「ここにおびき出されたんだ。ブルベイカー姉さんに、おびき出されたんだよ」 

 小銃を撃ちまくりながら、鴻上は叫んでいた。

 ドーンと爆音が響いて、生徒玄関前のバリケードの一部が吹き飛んだ。血だらけの女が呻きながらフラフラと出てきた。すぐ傍まできたので、新妻が六四式小銃で躊躇なく撃ち殺す。

 手榴弾とライフル弾に翻弄され、ブルベイカーの仲間は、その場に崩れ落ちた。さらに新妻は、その奥にいたもう二人を撃ち殺した。手榴弾をもう一度用意するが、投げる前に銃弾が撃ち込まれる。

「クソがっ」

 廃棄された大型スポーツバイクの陰に隠れて島田が、ウエストポーチから発煙筒を取り出し手早く点火した。それを相手方に次々と投げつける。朱色の煙がもうもうと吹き上がり、銃撃が少しばかり弱まった。人喰いの戦法を真似たのだ。

 その期を逃さず、新妻が隣のバリケードに手榴弾を投げ入れた。爆発し、さらに二人の敵が吹き飛ばされた。 

「穏香、逃げろ。そこは危ない」

 逆側のバリケードには、綾瀬が張り付いている。そのポジションは、隠れるのにも逃げるのにも微妙だった。しかも、敵がすぐ目の前にいるのだ。

 冷蔵庫から走り出そうと、一歩足を出した瞬間、散弾が彼女の左太ももに直撃した。その至近弾は相当な威力があり、もともと僅かだった肉がえぐられてしまった。

「穏香っ」

 綾瀬は冷蔵庫の陰に戻った。額に脂汗を滴らせながら、パニックに陥ろうとしている自分を必死になだめていた。ウエストポーチから注射器とモルヒネを取り出すと、急いで注射した。ふるえる手で左足の止血をこころみる。

 新妻が彼女のもとに行こうとするが、敵弾が四方八方から飛んでくるので動けない。手榴弾を使い切ったので、六四式小銃を撃ちまくり、綾瀬に攻撃が向かわないように援護していた。

 島田が煙幕に紛れて、生徒玄関の右端へ近づいた。そこには新妻の手榴弾を浴びて血だらけになっている女がいた。ためらうことなく突きを食らわし、日本刀の鋭利な先端を敵の口の中に突っ込んだ。後頭部から刀先が十センチほど突き出している。女は絶命しているが、その口蓋は刃をしっかりと咥えて離さない。島田が額に蹴りを入れて、強引に引き抜いた。 

 新妻グループは、ナオミ・K・ブルベイカーの罠にはまったのだ。ブルベイカーは、自分の城である朝比南高校に新妻グループ全員を誘い込み、待ち伏せし、殲滅しようとしていた。

 内通者は天野であった。彼女は以前から連絡を取りあっていて、新妻グループの内情を詳しく報告していた。ブルベイカーは、そのうえで揺さぶりをかけ、グループ内に不和が起こるように画策し、墓穴へと誘導したのだった。天野は手駒であり、合言葉はカモが来たことを知らせる合図となった。

 天野にとってナオミ・K・ブルベイカーという女は、自分がけして到達することができない高みであり、憧れでもあり、肉欲の対象でもあった。

 ブルベイカーは、自分に熱烈な好意を寄せる天野を、難なく篭絡し手中にしていた。二人は瓦礫の野で度々落ち合い、新妻グループの有益な情報と交換に、彼女に愛欲という快楽を提供していた。恋い焦がれてやまないナオミ・K・ブルベイカーに抱かれているという高揚感が、家族を売り払うほどに夢中にさせた。

 ブルベイカーの愛撫に溺れることが、天野の生きる理由のほとんどとなっていた。ロクな情報しかもってこない時などは、激しく叱責されて、臀部の皮膚が黒く充血するほどの仕置きを受けるが、それも至上の悦楽であって、天野の喜びに一役買っていた。愛撫を受けるために家族の情報を売り、恍惚となりながら、そのスリルと後悔を味わっていた。

 敵が二人、綾瀬が身を隠している大きな冷蔵庫へと接近していた。新妻が小銃を撃とうとするが、肝心な時に作動不良を起こしてしまった。急ぎ原因を修正しようとするが、焦れば焦るほどに手元が狂う。

「唯、穏香を援護しろ」

 大声で叫ぶが、鴻上はある方向へ射撃を集中させていた。瓦礫の小山に小牧が隠れていて、銃を持った敵が二人、するすると近づいていた。新妻グループのライフルマンは一人を撃ち殺したが、もう一人と激しい撃ち合いになっていた。

「くそ」

 鴻上はあてにならない。綾瀬は敵の接近を察知しているようで、文化包丁とヌンチャクを握っている。血の気の引いた顔が、呼吸を整えようとあがいていた。泣いているのか笑っているのか、なんとも形容しがたい表情で新妻を見ていた。

「チンミ、チンミ、そこを動くな。隠れてろ、絶対に動くな」

 十文字の刺すような指示に、ネコ車から出ようとしていた女の子は、再びカタツムリの状態になった。女の子がそこに隠れていると知られてないのか、ネコ車には銃弾が撃ち込まれていなかった。

「鴻上、チンミを連れてくるから、援護をたのむ」

「おれもいく」

「ダメだ、ここにいろ」

 カンタロウがついていこうとするが、十文字は許可しなかった。

「來未、そこにいろ。むやみに動くな。一人手ごわいのがいる」

 激しい銃撃戦だった。鴻上のほうが射手としての腕前は上だが、相手は手持ちの弾が豊富にあるのか、射撃に絶え間がない。しかも、仲間からの援護もある。とても十文字をかまってやれる状況ではなかった。

「穏香」

 小銃が使えない新妻は、綾瀬を助けることができない。思い切って飛び出そうとするが、その瞬間に銃弾が撃ち込まれてしまう。新妻からの銃撃がないので、敵の動きが大担になっていた。綾瀬との距離が見る間に縮んでいく。

 綾瀬は文化包丁を握っていた。そして何事かをブツブツとつぶやいている。彼女がなにをしようとしているのか、どのような覚悟を決めたのか、新妻はすぐに悟った。

 積まれていた生徒用の机を盾にして、たまらず飛び出した。さっそく銃弾が当たるが、散弾ばかりなので、その盾を貫通することはなかった。 

 数歩進んだところで、突然ジャングルジムの中から、ゴリラみたいに大柄な身体がとび出してきた。そして、盾を彼女ごと蹴とばした。地面に転がって無防備になった新妻に向かい、手にした金属バットを力のかぎり振り下ろした。だが、力が入りすぎて顔の数センチ横の地面に当たった。 

「てんめ」

 六四式小銃の銃口を握って振り回すと、ゴリラの膝頭に銃床が当たった。角度とスピードが、ダメージを最大化するのには絶妙だった。ぎゃっ、と呻いて獣が崩れ落ちた。新妻は、カーペットを巻くようにクルクルと扇を描きながら転がり接近した。仰臥した体勢のまま、ナイフでゴリラの脇腹を何度も突き刺した。やや暴れたが、その巨体はすぐに静かになった。胸のふくらみから、ゴリラが雌であるとわかる。

「きえええ」

 さらにもう一人、奇声を発しながら伏兵が出てきた。今度はニホンザルみたいに小柄な女だ。散弾タイプの猟銃を撃ち込みながら突進してくるが、新妻はすでに立ち上がって右に走っていた。女の体躯に比して銃が大きくて小回りが利かない。狙いが定まらず、無駄に資源を消費する。水平二連の散弾はすぐに弾が尽きた。無謀にも、女は弾を入れ替えようとするが、そのスキを新妻が見逃すはずはなかった。

 ナイフが空を切り小柄な女の首を狙うが、さすがに身の危機を悟ったのか、とっさに散弾銃を捨てて身をかわした。小さいだけにすばしっこくて、ナイフはかすりもしなかった。

 だが次の瞬間、小柄な女の胃のあたりから鋭いものが突き出した。血にまみれたそれを両手で握りしめながら、女はゆっくりと倒れた。

「千早姉さん、綾瀬がヤバい」

 矢を放ったのは十文字だった。彼女自身が攻撃されているが、一瞬のスキをついて撃ちこんだのだった。鴻上は、まだ撃ち合っている。ライフルマン同士の勝負は、なかなか決着がつかなかった。

 綾瀬は、女二人に襲われていた。敵側の武器に銃はなく、彼女と同じ包丁などの刃物類だ。しかも、襲っている二人の身体はやせていて華奢だった。そのうちの人は激しく咳き込んでいる。ブルベイカーグループも人手が足りていないようで、病人まで駆り出していたのだ。

 弱者同士の殺し合いは、決着が長引くだけに、ある意味熾烈となっていた。太ももを深く負傷している綾瀬のほうが断然不利なのだが、襲撃者の体力がか細すぎて止めを刺すことができない。フラフラと振られる刃物は皮膚をかすめるだけで、致命傷を負わせなかった。そのかわり、綾瀬の手や顔の表皮は、なますのようになって血だらけだった。

 新妻は、足元にあったコンクリート片を力の限り投げた。それがせき込んでいた女の後頭部に当たり、彼女はなにも発せずに崩れ落ちた。綾瀬を切り刻んでいる女に、虎のごとく逞しき咆哮で迫った。あのかわいい顔に、三筋も四筋も生々しい刃物傷が刻まれている。妹を無残な姿に貶められて、新妻の正気も崩れていた。

「仕留めたっ」

 鴻上が、ブルベイカー側のライフルマンを撃ち殺した。カタをつけようと、顔をあげたところを狙い撃ちしたのだ。左眼球を撃ち抜かれた射撃手は、もんどりうって斃れた。

「穏香っ」

 フラフラと元気のない女の背中を蹴とばして、新妻は綾瀬を抱き起した。彼女のどこに触れてもヌルヌルと生温かい感触がする。直ちに命を奪うほどではないが、放ってもおけない状態だと悟った。

「穏香、歩けるか」

「すみません姉さん。ちょっと、あやしいです」

 太ももの肉を散弾でえぐられて、顔や手足に刃物傷を負っている。血の気が失せたわりに、血だらけの顔が生々しかった。

「ここを離れるぞ。いったん朝比南高から距離をとってから手当をするからな」

「あの女に嵌められましたね、姉さん。やっぱりクズ女でした。なぎさで懲りたはずなのに、私って、どうして信用しちゃったんだろう、テヘペロ。こんな顔になっちゃって、隼人に叱られちゃいます」

 自分の顔に刻まれた裂傷が、女としての人生にどれほど深刻なのか、綾瀬はよく知っていた。その不安をごまかそうとして、無理に自嘲してみせた。

「穏香、辛いと思うけど走ってもらうぞ。おまえを背負ったら、私の盾になっておまえが穴だらけになるからな」

 勢いが削がれたとはいえ、散発的な銃撃はまだ続いている。彼女を背負っての、緩慢な逃避は命とりになるだろう。

「唯、穏香とそっちに行くから援護してくれ」

 大きな声で怒鳴るように言った。

「弾切れです」

 申し訳なさそうだが、それでも大きな声が帰ってきた。

 鴻上があてにできないとわかった新妻は、サル女が残した水平二連式の散弾銃を拾い、さらに死体から弾をとって込めた。

「姉さん、走るのは無理っぽいです。私はいいですから、みんなを逃がしてください」

「そんなわけにはいかないって」

 生徒玄関の左から新手がやっていた。姿が見えると、すぐに新妻の散弾銃が火を噴くが、敵も素早く動いて命中はしなかった。

「姉さん、ライフルはどうしたんですか」

「ジャムってしまって、直せないんだ」

「あの銃、癖がついてるんです。ちょっと見せてもらえませんか」

 十メートルほど離れた場所に、六四式小銃を置いてきてしまっている。銃撃戦のさなか、いまさら取りに行くのも危険だが、綾瀬が直せるのであれば話は別だ。予備の弾倉は、まだまだある。この窮地を切り抜けるのには必要なアイテムだ。

 新妻が走った。そして六四式小銃を手にして、綾瀬のもとに戻ろうとした時だった。

「千早姉さん伏せろっ」

 そう叫んだのは鴻上だ。生徒玄関奥から、さらに新手がやってくるのが見えた。彼女は赤い毛糸の帽子を被り、しかも、とびきり物騒な武器を抱えていた。

「ミニミだ、ミニミを持っている。千早姉さん、そこにいたらやられる」

 毛糸の帽子の女が抱えているのは、分隊支援用の機関銃である。ミニミには、二百発の弾丸が詰まった箱型の弾倉が装填されていた。

 銃弾の雨アラレだった。毛糸帽子の射手は、新妻、綾瀬、鴻上、十文字の順番で弾丸をばら撒いていた。とにかく猛烈な弾幕で、新妻グループは文字通り、くぎ付けとなってしまった。

「ひゃっ」

 そのうちの数発が、冷蔵庫を貫通して綾瀬に命中した。左手の甲に穴があき、親指を根元から吹き飛ばされた。背中から鎖骨付近にも一発抜けて、その痩せた身体がパンと弾けた。さっきの刃物傷と合わせて、満身創痍な状態になってしまった。

 銃弾が反れているうちに、鴻上が撃ち合っていた敵の死体へと素早く移動する。横たわった身体から弾倉を奪って、フルオートで連射し始めた。

 新妻は動けなかったが、弾を食らうことはなかった。バリゲードが邪魔になって、ミニミの射手から、彼女がはっきりと視認できないのだ。

 左側から来ていた一人と、赤毛糸の帽子女が合流する。敵は二人となった。

「チンミ、ダメだ」

 ネコ車に隠れていたチンミがフラフラと出てきた。激しい銃撃戦に精神が耐えきれなくなって、意識が飛んでしまったのだ。夢遊病者のような足取りで歩き出した。

「チンミ」

 カンタロウが飛び出した。

「ダメだ、カンタ」

 十文字の手がカンタロウの肩を掴むが、するりと抜けた。彼はそのままチンミのほうへ走りだした。十文字も即座に立ち上がった。一本二本と矢を射って、カンタロウの後を追う。

 一瞬の間に、鴻上は人生の決断を迫られた。そうか、ここで私が終わるのだと悟ると、彼女も猛然と立ち上がった。小銃に顔をつけ、ダットサイト越しにミニミの射手を睨みつけ、銃弾を撃ちこみながら早歩きで前進する。

 鴻上の右肩に散弾が命中した。ふらりとよろけるが、すぐに体勢を立て直し前進し続けた。自分の援護がなければ、子どもたちと十文字は、ハチの巣にされてしまうと知っていたからだ。

 生徒玄関右方向からの射撃が鴻上を襲った。鹿撃ち用の弾丸が、散弾で傷ついた右肩の骨を砕いた。鴻上は倒れそうになるが、気力を振りしぼって立ち続けた。片腕だけで銃口を敵に向けて、再び足を踏み出そうとする。

 三発目は右肺、四発目は右眼球を貫通した。命の炎を燃やし尽くしたライフルマンは、母校の土へと斃れた。

 機関銃の掃射がチンミをなめた。その小さな身体に、直径五ミリ半の銃弾は大きすぎた。弾着と同時に絶命し崩れ落ちた。

「チンミーっ」

 その女の子まで、あと数歩という距離まで接近していたカンタロウにも、洩れなく撃ち込まれた。左の腕が肘から吹き飛び、首に致命的な一発を浴びた。そして、走った勢いのままチンミの身体を抱きかかえるように膝まづいた。

 コンマ数秒後に、十文字の身体も蹂躙された。胸を数発の銃弾が貫通し、彼女は生きる力を失った。二人の子どもたちを抱きかかえるように、同じく膝まづいて倒れた。

 十文字にとって幸運だったのは、子どもたちの死を嘆き悲しむ前に、自らの命が終わったことだ。鴻上が死んだことも知らなかった。三人は、寄り添うように一つの塊となっていた。

 鴻上、十文字、カンタロウとチンミが死んだ。

「よくもーっ」

 妹たちの死にざまを絶好の位置で見せられていた新妻は、猛烈に怒り狂っていた。あまりの激情に眼球の毛細血管が切れてしまい、真っ赤に充血していた。

「ぶっ殺してやるっ、ぶっ殺してやるっ」

 その咆哮は、喉の粘膜を著しく傷つけた。大声を出すたびに、血混じりの痰が吐き出されている。

 新妻は、後先かまわず突進しようとしていた。みすみす撃ち殺してくださいと言っているような行為だ。

「ダメよ、姉さん」

 綾瀬の声に、寸前のところで思いとどまった。裂傷と血液で、グロテスクな幽鬼となり果てた顔が、心なしか微笑んでいるように見えた。それがとても可愛らしくて、十文字隼人は、そこに惚れたのだろうと新妻は思った。

 ミニミの轟音が唐突に止んだ。女がなにごとかを怒鳴っている。弾切れになって、弾倉を取り替えようとしていた。

「さらばです、姉さん」

 かつて優等生だった女子は、健気にも、清々しくそう言うのだった。

 バリゲードのすき間を縫うように、綾瀬は這い進んだ。その動きはもはや蛇のそれであり、とても人間のものとは思えなかった。綾瀬穏香、一世一代のイリュージョンであった。

 敵の二人は気づいていなかった。ミニミの射手は弾倉交換に手間取っていて、もう一人は右側を見て、なにか言っている。そこには島田がいて、鴻上に四発の銃弾を撃ち込んだ女に、じりじりと接近していた。

 装填を終えたミニミの射手が射撃姿勢に入ろうとした時、バリケードのすき間から綾瀬がとび出してきた。突如として現れた地獄の使者に、一瞬面食らって対処が遅れた。血まみれの顔が、彼女たちをキッと睨んだ。

 轟音が響き、三人の女が血肉となって散らばった。綾瀬が自爆ベルトを作動させたのだ。机や椅子も吹き飛んだが、新妻は地面に伏せていて無事だった。爆発は強力だったが、障害物が防護の役割をしてくれた。

「おおおーっ」

 新妻が力の限り叫んだ。 

「ぎゅおおおー、ぐおおおー」

 叫び続けて、叫び続けて、しまいには嘔吐していた。鼓動が乱れに乱れ、急速に血の気が引いていくのがわかった。妹たちの喪失に精神が耐え切れず、新妻は激しいパニック発作に陥っていた。正気を保つことは困難だろうと、彼女の意識が遠いところで告げていた。鴻上を撃ち殺した女が、頭を抱えてのたうち回る新妻を狙っていた。 

「外道がっ、死ねやー」

 その猟銃女へ、島田が突進した。不意の襲撃者を撃ち殺そうと銃口を向けるが、日本刀がそれを払った。勢いで一発目の銃弾が発射されたが、まったく見当違いの方向だった。島田は女に排莢させる隙を与えず、刀を力いっぱい振り下ろした。刃が頭蓋にめり込むと同時に女は死んだ。

 パンと乾いた音がした。女の頭から日本刀を抜き取った島田が、その場にうずくまる。机の陰から女が出てきた。天野だった。手にはリボルバー式の拳銃が握られている。彼女は、姉の腹部に銃弾を撃ち込んだのだった。

 膝をついて首を垂れている島田は、まったく動かなかった。一発で仕留めたと思った天野が不用意に近づいて、彼女の頭に銃をつけてトドメを刺そうとする。姉殺しは、さすがに勢いが要求されるのか、天野は息を整えようと深呼吸をした。

「ぎゃああ」

 だが、その企みは彼女の両手首ごと、日本刀でバッサリと切り落とされてしまった。

「志奈、てめえだけは許さねえ」

 島田は死んではいなかった。重症ではあったが意識を失わず、ギリギリのところで踏んばっていた。

 死んだものと油断して天野が近づいてくるのを待っていて、渾身の一振りを食らわした。手を切断されたショックと苦痛で、天野はワーワーと喚いていた。あるべき場所にあるべきものがないのが信じられなくて、瞳をまん丸にして、血が滴り落ちる両手を見ていた。

 島田は、たったいま妹の手首を叩き斬った刀を杖代わりにして身体を支えている。腹に撃ち込まれた一発がよほど堪えているのか、額に脂汗を浮かべているが、次にすべきことを躊躇ったりしなかった。

 わずかに残る力を振り絞って天野に突進し、そのまま押し倒した。そして首に刃を当てて、体重のすべてをのせる。天野はジタバタと暴れるが、両手がないので押し返すことができない。日本刀の刃が、徐々に首の中にめり込んでいく。

「ゆっくりと息をするんだ、志奈。そうだ、ゆっくりとだ、そうだよ」

 天野の首から血があふれ出ていた。驚愕した眼が、島田の言葉を噛みしめている。刃は容赦なく沈んでゆく。裏切り者は弁明をすることもなく、申し訳なさそうな表情のまま死んだ。

 妹の死を見送った後、島田は自らにも終わりが来たことを悟った。鉛を飲みこんだように胃袋が重くなり、ひどく寒いと感じた。今度、桃の缶詰を見つけたら、皆には黙っていようと思った。修二と二人で、こっそり食べるのだとほくそ笑みながら、眠るように息を引き取った。

 新妻の精神は混乱していた。まとわりついている瘴気を振り払うように、必死に手を振っていた。生徒玄関前のバリゲードからフラフラと離れていた。爆死した綾瀬の近くにいることが耐えられなかったし、部分となった彼女を見つけてしまうのが恐怖だった。

 だが、逃避しても現実のほうからくっ付いてくる。鴻上も十文字も子どもたちも死んでしまったことを、痛感させられるだけだった。

「友香子」

 さっき島田の声を聞いたことを、ふと思い出した。すぐに動き出さなければならなかったのだが、さ迷った意識を再起動するまでに時間がかかっていた。すでに敵も味方も沈黙していた。どこからも銃撃されることなく、したがって、彼女は自由だった。

 バリケードの奥で、倒れている天野と島田を見つけた。一方は血だまりの中で首がちぎれそうになっていて、もう一方も腹から出血している。二人とも目を開いていた。死んでいるとわかるまでに、そう時間はかからなかった。

「千早っ」

 誰かが新妻の名を叫んだ。

「千早っ、こっちよ」

 生臭さが混じる空気の中に、屈託のない声が沁み込んでいた。空白だった新妻の心の中に激しい憎悪が沸き起こり、復讐の炎がメラメラと燃え始めた。

 それはブルベイカーの声だった。

「ブルベイカーっ」

 近くにブルベイカーがいるとわかって、新妻は猛然と動き出した。校舎の前庭で、声の主がどこにいるかを血眼になって探した。ブルベイカーは、二階の教室の窓に腰かけて新妻を見下ろしていた。腕を組んで、あのアイドル顔が涼しげに微笑んでいる。

「ぎゅおおおっ」

 新妻の怒りは青天井をも突き抜けた。あまりの激高に息が荒くなり、一時的な過呼吸に陥った。その苦しさを吹き飛ばすためには、元親友を叩き殺さなければならない。

 生徒玄関前のバリゲートの中を、がむしゃらに前進した。邪魔な椅子や机を蹴り飛ばし、ぶん投げた。野獣の咆哮をまき散らし、校舎の内側へと突入する。もし朝比南高が正常に機能していたなら、その鬼神のような姿を目撃した生徒の多くが心に傷を抱えただろう。 

 新妻は廊下の壁にぶつかり階段で転びながら、まるで傷を負った猪のような滅茶苦茶な走りだった。二階の教室ドアを蹴とばしながら、各クラスをしらみつぶしに探る。だがブルベイカーはいなかった。

 三階への階段を駆け上がっていると、上の廊下から椅子が投げ付けられた。顔面で受けてしまい、その衝撃のまま、もんどりを打ってひっくり返った。新妻の頬がおたふく風邪のように腫れて、立ち上がる時に欠けた奥歯を吐き出した。ゼイゼイと吐き出された息は苦しさではない。猛烈な憤りで、アドレナリン過多になっているのだ。  

「ねえ千早、せっかく二人だけになったんだから、仲良く暮らしましょうよ。昔みたいに」

 ブルベイカーの声が聞こえるが、姿は見せなかった。新妻は凶暴な猿人のごとく、椅子を床に叩きつけて否の返答を露にする。そして、すぐに駆け上がって行った。

 三階の廊下にはいなかった。怒号を発しながら各教室に侵入し、喚き散らした。誰かを見つけたら、たとえそれがブルベイカーでなくても八つ裂きにしていただろう。

「千早、こっちよ」

 今度は階下から聞こえていた。子羊の鳴き声を恋い焦がれる狼のように、新妻は階段を駆け下り、踊り場を折り返した時だった。

 パンと銃声が鳴り、転がり落ちた。そして、太ももを押さえながら廊下に倒れて悶絶している。彼女の大腿部から血が出ていたが、致命傷となる血管は外れている。

「動脈じゃなくて残念。とりあえず死にそうにないわね」

 床にうずくまる新妻のすぐ傍に、拳銃を手にしたブルベイカーがやってきた。きれいな制服を着ていて、汚れ一つなかった。

「それでどうするの、手当すれば命は助かりそうよ。命乞いをしてみなさいよ」

 命を乞う代わりに、新妻はブルベイカーへの憎しみを余すことなくぶつけた。

「みんなを死なせるために、わざわざここに呼んだのか。志奈を手駒にしてまで、なぜ私たちを殺したい。おまえの仲間も見殺しじゃないか。おまえが殺したいのは私だろう。私だけ殺せば満足じゃなかったのか。來未や友香子や子どもまで手を出しやがって。おまえは人の子じゃない。糞から生まれた糞の女王だ」

 そう言い放ちながら、血だらけの手を素早く出してブルベイカーの足を掴もうとした。当然のように軽くかわされる。

「クソ女王って言いすぎよ、千早。友香子じゃないんだから、もっとお上品になりなさいよ」

 ブルベイカーは、新妻の無防備で出血している太ももを蹴とばした。あまりの苦痛にのたうち回り、気が遠くなりかけていた。

「ねえ千早、ここはどこなの。学校、街、それとも日本。いや、違うよ。そんないいところじゃない。そういうところはもうないんだよ。ここはねえ、ゴミ溜め。ひどい臭いのする底辺のごみ溜めなのよ。浮浪者と人喰いがウロウロして、生き残った善人も垢だらけで、まるで死人みたいじゃない。ここにはもう文明の残りカスしかないんだ。毎日毎日ゴミを漁って、ドブ川で小魚をとってたまに殺し合って、わたしたちは何なの。人間なの、違うでしょう。もう虫けらみたいなものよ。こんなゴミ捨て場で、ドブネズミみたいに生きていたって仕方ないの。そんな惨めな生き方ってないでしょう。いっそのこと絶滅したほうがいいのよ」

「そんなに生きているのが嫌だったんなら、おまえだけで死ねばよかったんだ。ブルベイカー一人で、絶滅でもなんでもすればよかったんだ」

 太ももの銃創が神経に障っているのか、言葉を発するたびに激痛が走った。心臓の鼓動に合わせて、傷口から血が溢れ出ている。

「わたしがね、もっとも我慢のならないのは、千早が誰かに煩わされることよ。こんなゴミ溜めで、わたしが生きてこれたのはね、千早がいつもそばにいてくれたからよ。大切な千早を、便利屋の店員みたいにコキ使うのって許せないじゃないの。千早を気安く姉さん姉さんって頼って、働かせて、傷つける。あいつらはオシッコ臭いだけの小娘の集まりじゃない。男子まで千早に頼ろうとして、ほんとムカつくわ」

 新妻の表情に、怒りだけではなく苦悶が混じっているのは、撃たれた痛みだけではない。

「綾瀬はいい気味だった。あいつ、小生意気でいつも千早をバカにしてたじゃない。友香子は友香子で、頭と口が救いようのないバカ女だし。しかも千早は來未の下のお世話までしなくちゃいけないじゃないのさ。だから、これでよかったのよ。裕子は、ちょっとやりすぎちゃったけどもね。汚い浮浪児も死んで、スッキリしたわ」

 まるで教室でも掃除したかのような、軽い口ぶりだった。

「なに言ってんだっ。みんな仲間だろう。家族じゃないか。おまえだって慕われていたろう。みんなのリーダーだったじゃないか」

「もう、だれにも邪魔されないじゃないの。誰も千早の気をひかないし、千早は誰の心配をすることもない。わたしだけを見てればいい。だって、現実にわたしだけなんだから。ねえ、一緒に暮らしましょう。式を挙げてもいい。友香子と修二だって、立派な結婚式を挙げたんでしょう。わたしたちだって、その資格があるのよ」

 ブルベイカーの顔に若干赤みがかかっていた。自らの言葉に高揚しているようだ。新妻の問いを無視して、自分のペースへと強引に引き込もうとしていた。

「その足は大丈夫よ。弾は抜けてるし、わたしが毎日介抱してあげる。麻酔薬だって痛み止めだって、なんだってあるから。それとも、このまま痛みに苦しめられて死にたいの。瓦礫の山に一人捨てられて、みじめに死にたいの」 

「私は一人じゃないよ、ブルベイカー。みんなと一緒なんだよ。友香子や穏香たち、修二や田原、死んでいった男子たちとね。みんなと一緒なんだよ」

「はあ?、キモいこと言わないでよ。わたしが助けなければ、あなたは死ぬの。ここでゴミとなるのよ」

「ブルベイカー、おまえは地獄に落ちる。私と一緒に苦痛の海で永遠に溺れるんだ。私たちの墓標は、地獄にしかないんだ」

 西山を無残に死なせてしまったこと、男子たちを自殺させたこと、グループの皆を死に追いやってしまったこと、すべての責任は自分にあると考えていた。地獄の業火で焼かれるのは当然であると覚悟していたし、むしろ望んでさえいた。

「そう、そんなひどいこと言うんだ。でもね、わたしはかまわないよ。どんな悪口を言われても、千早が大好きだから気にしない」

 この女には、なにを言っても無駄だと思っていた。新妻が知っているナオミ・K・ブルベイカーは、この街の廃墟のように朽ち果てているのだ。

「千早、これからあなたの手と足の健を切るね。一生動かせなくなるけど心配しなくていい。わたしがいるから安心して。わたしがあなたの手足となってあげる」

 制服のポケットからバタフライナイフを取り出して、ヒュンヒュンと振った。なにごとにも手際のいい女である。新妻の手足の神経を切って、動けなくさせるのは造作もないことだろう。

 もちろん、新妻はみすみす人形にされる気はなかった。弱りきった状況を見せつけつつ、反撃の一瞬を狙っていた。

「な、なによ」

 その時、校舎が小刻みに揺れ始めた。地震が発生したのだ。初期微動は数秒ほどで、すぐに大揺れがやってきた。校舎全体が下から猛烈に突き上げられて、わずかに残っていた窓ガラスが音を立てて崩れ落ちた。建物全体が軋み、その音は生きることに絶望感を与えるほど不気味だった。

 立っていられなくなったブルベイカーが尻もちをついた。拳銃を握っていた左手が、支えとなる床にべったりと貼りついた。新妻は隠していたナイフを取り出して、突き出した。それがブルベイカーの太ももに突き刺さる。新妻の銃創と同じような位置であり、その衝撃で、ブルベイカーは拳銃を手離してしまった。新妻は這ってそれを奪い、伏せったまま構えた。

「死ね、ブルベイカー」

 大揺れはまだ続いていた。ブルベイカーはすぐに逃げようとするが、太ももの痛みで動作がぎこちなかった。それは新妻も同じで、照準が定まらず、二発撃ったが外れてしまった。天井から大量のチリが降り注ぎ、射手の目を痛くする。その隙にブルベイカーは、ふらつきながらも階段を駆け下りて行った。

「まてっ」

 すぐに追いかけようと立ち上がるが、足を一歩踏み出した途端、脳髄に五寸釘を打たれたような激震が走った。おもわずよろけてしまい、新妻は階段を転げ落ちてゆく。痛みに次ぐ痛みが、身体中をギシギシと責め立てた。一階の廊下で落ち着くと、うずくまりながら泣いていた。

 痛みで気力がくじけそうになるが、ブルベイカーへの激憤が、いまの新妻を動かす原動力となっていた。

「ブルベイカーッ」

 パンと乾いた音が響いた。足を引きずりながら、新妻は拳銃を撃っていた。ブルベイカーは、廊下の向こうを体育館に向かって逃げている。足を怪我しているので、新妻と同じく早く動けない。重くなった左足を持ち上げるようにして歩いていた。

「ブルベイカーっ」と叫びながら、新妻は拳銃を撃ち続けていた。ブルベイカーは体育館の中に入っている。

 大災害時、学校際等のイベントでもあったのか、体育館には大量の椅子が並べられていて、それらを蹴散らしながらステージへと上がった     

 新妻が撃ちだす弾丸は、ブルベイカーに当たることなく、そのすべてが消費尽くされてしまった。拳銃を捨てて足を大仰に引きずりながら、新妻もステージの上に這い進む。だが、立ち上がろうとした時、ブルベイカーがパイプ椅子を力のかぎり振り下ろした。

 折れたのが、パイプ椅子の骨組みなのか、新妻の骨格なのか判別できない音が響いた。額を割られ顔を真っ赤に染めた新妻が、ステージ上をフラフラと彷徨っていた。意識が混濁し、思考力や注意力は停滞していた。

 彼女の目に見えるのは、ぼんやりとした光りだった。そばに人の気配がしたので、反射的に近づいた。ブルベイカーの強烈なタックルを全身で受けて、そのまま後方へと吹っ飛ばされた。ステージの隅に机や椅子などのガラクタが積まれている箇所があり、新妻はそこへ腰かけるように倒れ込んだ。ブルベイカーが近づくと、ゆっくりと顔をあげた。左目がつぶれている顔は、何故かまぶしそうだった。

「千早」

 新妻の首から鉄パイプの先端が突き出ていた。鋭角なそれが血管を貫き、彼女のブラウスを紅色のよだれ掛けに変えていた。気道にドロドロのセメントが詰め込まれたような、ひどく重たい息遣いだった。残された生涯で繰り返すことのできる呼吸は、数えられるほど少ないだろう。小さな咳でも命取りとなる。それでも、まだ生きようとする右目が右に左に動いていた。

 ブルベイカーは静かに見下ろしていた。息を引き取るまで親友でいようと思っていた。命尽きるまで恋人でいようと思った。自分が望んでいた結末であろうと強く願い、自分が狂人となり果てているという自覚がほしかった。ここで後悔することは許されない。それは、自身の墓碑銘を刻むこととなるだろう。 

 新妻が、か細い声でつぶやいている。唇の端から血泡を噴き出しながら、親友に伝えるべき言葉を贈ろうとしていた。ブルベイカーは、彼女の口元に耳をそっと寄せた。

「みんなと一緒だよ、ナオミ」短い言葉だった。

 新妻千早は母校の体育館で死んだ。二十代前半の若すぎる死だった。

 望み通りの絶望を手に入れたブルベイカーは、時が過ぎるままに身を任せていた。沈黙と静寂が支配する巨大な廃墟の中で、ただただ立ち続けるのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る