弓使い : 森の賢者は人を知らず

第1話 勇者が消えた日

 聖女カレンの遺体が勇者によって拐われた。


 ようやく状況を受け入れ始めた人々の混乱と困惑と怒りが喧騒となって荘厳な空気を塗り潰し始めた頃、シルヴィアは青い顔を伏せ、覚束ない足取りで教会から抜け出した。


「何で……どうして……??」


 編み込まれた長い金髪、猫を思わせる切れ長な翠の目、はっきりとした目鼻立ち。その耳は先端が尖った特徴的なもの。

 本来であれば凛々しくも勇猛な戦士に相応しい彼女はしかし、その表情を困惑、そして強い恐怖に染めていた。


「あんな圧……魔王よりも……いいえ、弱音を吐いてる場合じゃないわよね」


 シルヴィアはようやく震えの収まってきた足に力を込め、目を閉じて集中、大きくニ、三度深呼吸をする。

 大気中に漂う魔素を取り込む。それを指先に、爪先に、身体の隅々にまで行き渡らせるイメージ。


 目を開く。

 活性化した魔素がただでさえ宝石のような瞳の元で滲み出し、微かに発光する。

 詠唱。

 人間とは文法も発音も違うそれが淀みなく紡がれる。ほんの一瞬、彼女を中心に町全体を覆って余りあるほどに広く透明な膜が半球状に広がり、そして虚空に溶ける。

  

 索敵に長けた彼女の、さらにその中でも最も範囲の広く、かつ最低限個体を把握することのできる索魔法。

 シルヴィアはその結果を把握し、極めて平坦に、それでも芳しくない表情を浮かべて呟いた。


 (いた。けど……)


 勇者の居場所は辛うじて特定できた。

 しかしその位置は刻一刻と変化していた。それも、このままでは数分と経たないうちに範囲外へ逃れられてしまうほどの速度と方向で。


 (このままじゃ)


 魔術師ではないシルヴィアは空を飛ぶことなど出来ない。人間よりは多少俊敏な足も今は誤差にもならないし、何よりスタミナは劣る。

 こんなことなら自身のプライドを擲ってでもあの魔術師から学んでおくべきだったと歯噛みする。


 (……?)


 突如、勇者の足が止まる。ちょうど町の外と内を隔てる門の前だ。

 範囲を広げる代わりに対象の行動までは読み取れない今のシルヴィアにとっては、その行動が何を示すのかは全く分からない。


 ただそれは、彼女にとってはたった一度、まだ手が届くかもしれない希望であり。

 華奢な足と窮屈な服に悪態を吐きながらも走り始めるには充分すぎる動機だった。




**




**




屋根から屋根に飛び移り、痛む足や肺を無理やり動かして、持てる限りの最高速度でシルヴィアは疾走する。


 遠くに門が見える。

 左足がもつれる。右足でなんとか踏みとどまり、むしろそれを推進力に変える。

 門が見える。

 シルヴィアを見上げる人々の声など聞こえない。風を切る音も、屋根を踏みしめる音も。

 ただ、身体の内側から悲鳴を上げる鼓動だけが頭に響く。

 人が見える。

 白い布のようなものを抱えた勇者、そしてその前に倒れ伏す、馴染みのある気配。

 そして勇者は、今にもその場を去ろうとしていた。


 

 

 勇者はまだそこにいる。


 まだ、間に合う。


 なんで、こんなことをしたのか?


 なんで。


 なんで。


 

 シルヴィアは跳ぶ。屋根を蹴って、蹴って、勢いのまま門の前の広場へと躍り出る。

 石畳を砕き、息も絶え絶え、それでも何とか両足で立って正面を見据える。

 

 勇者は目を丸くしたのち、気まずそうに目を逸らした。その腕の中には変わらずカレンの遺体が眠っている。

 シルヴィアは勇者を睨みながら、感情を抑えた低い声で言葉を紡ぐ。

 

「……せめて、理由を教えて」

「……」

「ねえ!!」

「ごめん。シルには知って欲しくない」

「なっ……」


 呆気にとられたシルヴィアに背を向け、勇者は足を進める。慌てて咄嗟に足を踏み出そうとするも、ぐらりと視界が揺らぎへたり込んでしまう。

 既に体力を使い果たした今となっては、もはやまともに足を動かすことさえ出来ない。



 シルヴィアはただ呆然と、かつての仲間にして世界を救った英雄が遠くなっていくことを見ることしかできなかった。

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花の揺りかごで聖女は眠る 碧いさな @aoiisana

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