花の揺りかごで聖女は眠る

碧いさな

プロローグ

「カレンはさ、この旅が終わったらしたいことってないの?」

「したいこと……ですか?」


 木々の隙間から星空が覗く。

 ぱちぱちと火が爆ぜる音さえ明瞭に聞き取れるほどに静寂に満ちた世界で、勇者と聖女は囁くように言葉を交わす。 

 カレンと呼ばれた聖女は両手を膝の上に重ね、視線を落としながらぽつりと声を漏らした。


「分からないのです。ずっと、私は人々の規範であり続けなければならない……そう教わってきましたから」

「でも結構色々やってきたもんね?」


 勇者が頬杖をつきつつにやりと笑って見せると、カレンは顔を上げ、じとっとした目を勇者に向ける。


「誰のせいだと思っているんですか。パーティーのメンバーで宿代を賭けるなんて、とても「聖女」らしい振る舞いとは言えません。他にも色々……」

「でも、悪くなかったでしょ?」

「全くもう……」


 呆れた様子でカレンは溜息を吐く。

 しかしそれは心底呆れていると言うよりも、どこか親しさを感じられる柔らかいものだった。

 出会った当初、常に微笑を湛えつつも頑なに本心を曝け出すことを拒絶していた聖女は今は殆ど見られない。

 随分と柔らかくなった表情を、彼女自身は未だに自覚していないようだが。


 沈黙が続く。カレンの少し不機嫌そうな、しかし内心それほど怒ってもいない火に照らされた横顔を、ただ勇者が眺めている。

 それは気まずさを感じられない、穏やかな空気が漂う静寂で。

 しばらくして、勇者は思い付いたように顔を上げ、カレンに笑顔を向ける。

 とびきりの宝物を見せる子供のように期待と興奮を、声に滲ませて。


「じゃあさ、魔王倒した後もたま-に色んなとこ出掛けない? 遠くに旅をするとかじゃなくて、ちょっといいところでご飯を食べるとか普通の服を着て町を歩くとかさ」

「それは……でも」


 カレンは次から次にと様々な感情を瞳に宿す。

 困惑、葛藤、そして確かな好奇心と喜び。澄んだ水色の瞳に映る数多の感情を読み取って、勇者は悪戯っ子のように笑う。


「大丈夫。国の、それどころか世界の英雄だよ? 我儘の一つや二つ、無理矢理にでも通してやるって」

「流石にそこはちゃんと交渉しないと……でも、そうですね。楽しそうです」


 一瞬困惑した様子を見せながらも、それもまた勇者らしいと聖女は困ったように、しかし期待を隠しきれない表情でカレンは顔を綻ばせた。




 *



 

 勇者は花に覆われた棺の中からカレンを抱える。

 未だ体温を感じる四肢、ふわりと匂う微かに甘い匂い。眠っているように穏やかな表情を覗き込んで、勇者は表情を緩め、瞳に柔らかな感情を宿す。

 親愛、或いはその先の感情をも思わせるようなその眼差しに、人々は困惑の色を隠すことなく勇者を見つめる。



 ――どうして、聖女を?



 勇者はカレンから視線を外し、未だ言葉を発さずにいる民衆たちに、すぐ傍にいる牧師たちに視線を向ける。

 声を上げることも、物音一つ、呼吸さえ許されないと思わせるほどに鋭利で冷たい、無機質な眼差し。

 

「邪魔しないで」


 腹の底に響くような、首元に刃物を突き付けられているような殺意を隠す素振りさえ見せない低い声。

 人々は動かない。動けるはずもない。

 目の前の勇者の前では自由な行動など許されないと、そう本能が絶えず訴えかける。



 勇者はそこに何一つの感情の機微さえ見せず、ただ静かに足音を響かせる。聖女を抱え、中央の通路を通り過ぎていく。


 カツカツと、ただ規則的な音色が刻まれる。

 それほど長くない、しかし居合わせた人々にとっては永遠とも思われるほどに長い時を経て、音が教会の入り口へと辿り着く。

 

 その時、たった一人、若い女の声がその背中に投げ掛けられる。


「……ねえ」


 勇者は足を止める。

 

「どういうつもりなの、これ?」


 身体は動かない。

 それでも彼女……かつて勇者と共に旅をした弓使いの少女は、震える声を必死に抑え、挑発するように勝ち気な声音で訴えかける。

 

「自分が何をしてるのか分かってるの?」

「分かってる」


 勇者は振り返らず、初めて言葉を返す。

 その声はそれまでの鋭さを潜め、しかし確固とした意思を感じさせる揺るぎないもので。


「せめて、何でこんなことをしたのかぐらい……! ねえ!!」

「ごめんね。巻き込みたくはなかった」


 勇者は最後まで振り返らず、教会を後にする。



 そしてこれが、ある勇者について語られる最後の姿となった。

 

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