【職人人情短編小説】凧職人、空を仰ぐ ~藍天に舞う伝統と革新~(約8,800字)

藍埜佑(あいのたすく)

【職人人情短編小説】凧職人、空を仰ぐ ~藍天に舞う伝統と革新~(約8,800字)

## 第一章:雲雀屋の養子


 明治三十二年初春のことである。東京・本所の路地を吹き抜ける風は、まだ冷たかった。しかし空は澄み切っており、凧日和と呼ぶにふさわしい天気であった。


 霜月梅吉は軒先で糊の具合を確かめながら、空を見上げた。二十七歳になる彼は、凧の老舗「雲雀屋」の養子である。端正な顔立ちをしているものの、眉間にいつも皺を寄せているため、実年齢より年上に見られることが多かった。


「梅吉さん、今朝も早いねえ」


 隣家の八百屋の婆さんが声をかけてきた。


「おはようございます。今日は風が良いもので」


 梅吉は丁寧に会釈をしながら答えた。


 雲雀屋の凧は本所一帯で評判が良く、特に梅吉の手がける武者絵の凧は、細部まで丁寧な仕上がりで定評があった。しかし、ここ数年は注文が徐々に減っていた。子供たちの遊び道具も、西洋からの新しいものが増えてきたためである。


 養父の勘太郎は病床に伏して久しく、店の切り盛りは梅吉に任されていた。今年こそはと意気込んで、梅吉は早朝から仕事に精を出していた。


「あら、梅ちゃん。おはよう」


 軒先から三軒ほど離れた駄菓子屋の娘、小梅が買い物籠を下げて通りかかった。幼なじみの彼女は、近頃、年頃の娘らしい艶やかさを身にまとうようになっていた。


「おはよう、小梅」


 梅吉は作業の手を止めずに答えた。


「今日はお父様の具合はどう?」


「ああ、昨夜は少し熱が出たがな。今朝は落ち着いている」


「そう。それはよかった」


 小梅は心配そうに雲雀屋の二階を見上げた。そこには養父が療養している部屋があった。


 実は最近、町内では二人の縁談が持ち上がっていた。しかし梅吉は、まだその気になれずにいた。店の経営が安定するまでは、と理由をつけて先延ばしにしているのだ。


「そうだ、梅ちゃん。噂聞いた? 向こう横丁に新しい凧屋が開くんですって」


「へえ」


 梅吉は事も無げに相槌を打った。が、内心では気になっていた。本所にもう一軒、凧屋ができるということは、商売敵が増えるということである。


 その日の午後、梅吉は養父の様子を見に二階へ上がった。


「梅吉か……」


 勘太郎は床の中から弱々しい声で言った。


「はい。薬の時間です」


「ああ……その前に、話がある」


 勘太郎は布団の中で身体を起こそうとした。梅吉が背中を支える。


「実はな、昨日、鳶川という者が挨拶に来た。向こう横丁で商売を始めるとかで」


「はい、噂は聞きました」


「若い衆らしいが……なかなかの腕前だそうだ。新しい技術も取り入れているとか」


 梅吉は黙って聞いていた。


「わしらの商売も、そろそろ変わっていかねばならんのかもしれん。お前さん、堅い性分は悪くないが、少しは柔軟になってもよいぞ」


「はい……」


 梅吉は曖昧な返事をした。彼には、凧作りに対する強い信念があった。雲雀屋に代々伝わる技法を守り、その技を極めることこそが、自分の使命だと考えていたのである。


 その夜、梅吉は仕事場で一枚の凧と向き合っていた。武者絵の下絵を睨みつけるように見つめながら、養父の言葉を反芻していた。


(変わる、か……)


 窓の外では、春の夜風が静かに吹いていた。


## 第二章:新たな風


 数日後、梅吉は向こう横丁の新しい凧屋を訪ねた。「鳶凧店」という小さな看板が、古びた長屋の軒先に掛かっていた。


「おや、雲雀屋の若旦那ですか」


 作業場から現れた男は、梅吉より若く見えた。がっしりとした体格で、笑顔が印象的な青年である。


「鳶川千歳と申します。この度は、ご挨拶が遅れまして」


「いえ。霜月梅吉です」


 二人は形式的な挨拶を交わした。


 作業場を見せてもらうと、そこには見慣れない道具が並んでいた。西洋から輸入したという新しい糊や、竹を裁断する機械まである。


「へえ、これが噂の外国の道具ですか」


「ええ。私は長崎で修行していたものですから。外国の技術も少しは知っています」


 千歳は得意げに説明した。


「でも、基本は江戸の技法です。ただ、それに新しい要素を加えることで、より軽く、より丈夫な凧が作れるんです」


 梅吉は黙って千歳の話を聞いていた。確かに、工夫の跡は見て取れる。しかし、それは果たして本当の凧と言えるのだろうか。


「これなんぞはどうです?」


 千歳は壁に掛かった凧を指差した。武者絵ではなく、西洋風の模様が描かれている。色使いは鮮やかで、目を引く出来栄えだった。


「なるほど……」


 梅吉は感心したような声を出したが、内心では複雑な思いを抱いていた。


 その日の夕方、帰り道で小梅と出くわした。


「あら、梅ちゃん。どこへ行ってたの?」


「ちょっとな」


 梅吉は煩わしそうに答えた。


「もしかして、新しい凧屋?」


「……ああ」


「どうだった?」


「まあ、色々と考えることがあってな」


 小梅は梅吉の表情を心配そうに見つめた。


「梅ちゃんって、本当に几帳面なのよね。でも、たまにはね、肩の力を抜いてもいいんじゃない?」


「そうもいかんさ。雲雀屋の名が……」


「はいはい、分かってます」


 小梅は軽くため息をつきながら、優しく微笑んだ。


 その夜、梅吉は夜遅くまで仕事場にいた。目の前には、半分完成した武者絵の凧。しかし、筆が進まない。


(新しい技術か……)


 千歳の凧が、まぶたの裏に浮かぶ。あの鮮やかな色彩、軽やかな形。確かに魅力的ではある。しかし……。


 ふと、養父の咳が聞こえてきた。二階である。梅吉は筆を置き、様子を見に行った。


「まだ起きていたのか」


「はい。薬の時間です」


 勘太郎は微笑んだ。


「鳶川の店、見てきたようだな」


「はい」


「どうだった?」


 梅吉は少し考えてから答えた。


「……確かに、新しいものを感じました」


「そうか。わしも、若い頃は頑固だったよ。だが、世の中は変わっていく。変わることを恐れてはいかん」


 勘太郎の言葉は、静かに梅吉の胸に染みていった。


## 第三章:揺れる心


 初夏の陽気が町を包み始めた頃、梅吉の前に一つの難題が持ち上がった。


「お前さん、そろそろ決めてくれないかい?」


 町内の世話役である田辺が、雲雀屋を訪ねてきたのである。話題は、小梅との縁談だった。


「いや、その……」


 梅吉は言葉を濁した。


「小梅も年頃だ。いつまでも待たせておくわけにもいくまい」


「分かっております。ですが、今は店の経営が……」


「それはいつまでも同じことを言っているではないか」


 田辺の声には苛立ちが滲んでいた。


「実は他からも話が来ているんだ。良い縁談だ。小梅の親も、そろそろ決断をせまられている」


 梅吉は黙り込んだ。確かに、このままではいけない。しかし、今の自分には、家庭を持つ余裕がない。いや、それは言い訳なのかもしれない。本当は、自分の未熟さを恥じているだけなのではないか。


 その夜、梅吉は眠れずにいた。ふと、表の方で物音がする。


「誰だ?」


 戸を開けると、そこには義弟の浪之介が立っていた。いつもの如く、酒臭い。


「兄貴、すまねえ」


「また借金か?」


 浪之介は頭を下げた。


「今度ばかりは、必ず返す。商売の種があるんだ」


「前にも、そう言っただろう」


「でも今度は違う! 新しい商売なんだ。外国から入ってきた玩具を扱う店をね……」


 梅吉は溜息をつきながら、財布から金を取り出した。これで店の運転資金が更に厳しくなる。


 翌日、梅吉は珍しく昼間から酒を飲んでいた。小梅の縁談、浪之介の借金、そして店の経営……。全てが重荷となって、彼の肩にのしかかっていた。


「おや、雲雀屋の若旦那じゃないですか」


 振り返ると、そこには鳶川千歳が立っていた。


「一人で飲むのは良くありませんよ。付き合いましょう」


 千歳は梅吉の隣に座った。


「若旦那、何か悩み事でも?」


「……別に」


「そうは見えませんが」


 千歳は遠慮なく酒を注いだ。


「実は私も、悩みがありましてね。新しい凧を考えているんですが、どうも上手くいかなくて」


「へえ」


「江戸の技法と、西洋の技法を組み合わせようと思うんです。でも、なかなか難しい」


 千歳は熱心に語り始めた。その情熱的な様子に、梅吉は少しずつ心を開いていった。


「凧というのは不思議なものですよね。空に向かって飛んでいく。でも、地上の人との繋がりは決して切れない」


 千歳の言葉が、妙に心に響く。


「伝統を守ることも大切です。でも、新しいものを取り入れることで、伝統はより強くなる。そう思いませんか?」


 梅吉は黙って酒を飲んだ。


 その夜遅く、梅吉は千歳と別れて帰路についた。ふらつく足で歩いていると、駄菓子屋の前で小梅と出くわした。


「まあ、梅ちゃん。こんな時間に、それも酔っ払って」


「すまん……」


「もう、しっかりしてよ」


 小梅は心配そうに梅吉を支えた。


「小梅……俺は、どうすればいいんだ?」


「え?」


「このまま、伝統を守り続けていくべきなのか。それとも、変わるべきなのか」


 小梅は優しく微笑んだ。


「梅ちゃんは、凧が好きなの?」


「当たり前だろう」


「なら、その気持ちを大切にすればいいのよ。伝統も大事だけど、もっと大事なのは、凧を愛する気持ちでしょう?」


 梅吉は黙って空を見上げた。月が出ていた。


## 第四章:空舞う想い


 梅雨が明けた頃、町内で凧揚げ大会が開かれることになった。子供たちの夏の思い出作りという趣旨だが、実は大人たちの腕比べの意味合いも含まれていた。


「雲雀屋さんと鳶凧店さん、両方とも特別参加というわけで」


 田辺が説明する。梅吉と千歳は顔を見合わせた。


「面白そうじゃありませんか」


 千歳が笑顔で言う。梅吉は曖昧に頷いた。


 準備期間は一ヶ月。梅吉は普段以上に丹精を込めて、武者絵の凧に取り組んだ。しかし、どこか心が落ち着かない。千歳の言葉が、時折耳元で響く。


「梅ちゃん、また遅くまで?」


 ある夜、小梅が夜食を持ってきてくれた。


「ああ、すまない」


「大会の凧、出来具合はどう?」


「まあな」


 梅吉は筆を置いて、目の前の凧を見つめた。武者の顔は精緻に描かれ、色使いも見事だ。しかし、何かが足りない。そんな思いが、心の片隅でわだかまっていた。


「ねえ、梅ちゃん」


「なんだ?」


「昔、覚えてる? 私たち、よく一緒に凧揚げして遊んだよね」


 小梅の声には懐かしさが滲んでいた。


「ああ」


「あの時の凧、すごく楽しそうだったな。空高く舞い上がって」


 梅吉は黙って聞いていた。そうだ、あの頃の凧には、確かに何かがあった。技は未熟でも、心が躍るような何かが。


 数日後、梅吉は思い切って千歳の店を訪ねた。


「へえ、西洋の糊というのは、こんな具合なんですか」


「ええ。粘りが強くて、でも乾きが早い。これで骨組みが、より軽くて丈夫になるんです」


 千歳は快く技法を教えてくれた。


「若旦那も、一度試してみませんか?」


「いや、今日は見るだけで」


 しかし、その夜から梅吉の心に変化が生まれ始めていた。伝統を守りながらも、新しい技を取り入れる。それは、決して邪道ではないのかもしれない。


 大会の前日、梅吉は一つの決断をした。夜を徹して、新しい凧を作り始めたのである。西洋の技法は使わないが、これまでの自分には無かった、大胆な色使いと構図を取り入れた。


 翌日、大会が始まった。空は快晴で、心地よい風が吹いていた。


「おお、これは見事な出来栄えですね」


 千歳の凧は、西洋風の模様でありながら、どこか浮世絵を思わせる雰囲気を持っていた。梅吉も、その完成度の高さに感心せざるを得なかった。


 そして、梅吉の番が来た。


「こ、これは……」


 集まった人々がざわめいた。梅吉の凧は、確かに武者絵ではあった。しかし、これまでの雲雀屋の凧とは全く異なる印象を与える。大胆な構図、鮮やかな色彩。そして何より、凧全体から感じられる躍動感。


「立派な凧じゃ」


 養父の勘太郎も、車椅子で見に来ていた。その目は、誇らしげに輝いていた。


 風が吹いた。凧が空へ舞い上がる。梅吉の凧と千歳の凧が、空高く舞い、時に競い合い、時に寄り添うように見えた。


「きれい……」


 小梅の目には、涙が光っていた。


 その日の夕方、梅吉は小梅を誘って、裏の空き地に来ていた。


「小梅」


「なに?」


「俺は、やっと分かった気がする」


「何が?」


「凧というのは、空に向かって飛んでいく。でも、地上の人との繋がりは決して切れない。それは、人の心も同じなんだ」


 梅吉は、ポケットから一通の手紙を取り出した。


「田辺さんに、返事を書いた」


「え?」


「俺は、変わろうと思う。でも、それは自分を見失うということじゃない。むしろ、本当の自分を見つけることなのかもしれない」


 小梅は、黙って梅吉の言葉を聞いていた。


「だから……俺と一緒に、その道を歩いてくれないか?」


 夕暮れの空に、二つの影が寄り添うように映った。


## 第五章:嵐の前


 大会から一週間が過ぎた頃、思いがけない事態が起こった。浪之介が、借金を抱えて姿を消したのである。


「申し訳ございません。確かに先月、浪之介様に百円をお貸ししました」


 高利貸しの男が、雲雀屋を訪ねてきた。百円という額に、梅吉は眩暈を覚えた。


「期限は、明日までとなっております」


「分かりました。何とか……」


 男が帰った後、梅吉は呆然と座り込んだ。店の運転資金も底を突きかけている。この額を工面するのは、至難の業だった。


「梅ちゃん、大変なの?」


 小梅が心配そうに訪ねてきた。


「いや、なんでもない」


「嘘おっしゃい。顔色が悪いわ」


 梅吉は、事情を説明せざるを得なかった。


「それで、どうするの?」


「まだ、分からない」


 その時、玄関で声がした。


「失礼します」


 千歳が訪ねてきたのだ。


「実は、浪之介さんのことで」


 千歳の話によると、浪之介は長崎に向かったらしい。外国の玩具を仕入れる商売の話があったとかで、その資金を工面するために借金を重ねていたという。


「長崎に?」


「ええ。ですが、その話自体が怪しいものだったようで」


 梅吉は深い溜息をついた。


「若旦那、私にできることがあれば」


「いや、これは家の恥だ。自分で何とかする」


 その夜、梅吉は夜遅くまで考え込んでいた。と、養父が声をかけてきた。


「梅吉、上がってきてくれ」


 二階に上がると、勘太郎は布団の中から一通の手紙を差し出した。


「実はな、先代から預かっているものがある。困った時のために、と言われてな」


 手紙には、ある住所が書かれていた。


「そこに行けば、何か分かるはずだ」


 翌日、梅吉はその住所を訪ねた。そこは、古美術商だった。


「ああ、雲雀屋の宝物ですか」


 主人は、奥から一枚の凧を持ち出してきた。見事な武者絵が描かれている。


「これは!」


「初代の雲雀屋が描いたものです。かなりの価値がありますよ」


 梅吉は、その凧をじっと見つめた。確かに素晴らしい出来栄えだ。これを売れば、借金は返せる。しかし……。


「お気持ちは分かります。が、このままでは店が」


 主人が諭すように言う。梅吉は、重い決断を迫られていた。


 その足で、梅吉は千歳の店に向かった。


「実は、相談があって」


 梅吉は事情を説明した。千歳は真剣な表情で聞いていた。


「なるほど。それで、若旦那はどうしたいんです?」


「できることなら、売りたくない。あの凧は、雲雀屋の魂のようなものだから」


「では、他に方法を考えましょう」


 千歳は、突然明るい表情になった。


「私に良い考えがあります。若旦那、一緒に新しい凧を作りませんか?」


「新しい?」


「ええ。私の技術と、若旦那の技術を組み合わせて。必ず、素晴らしいものができるはずです」


 梅吉は、千歳の目の輝きに、かつての自分を見た気がした。


## 第六章:深き淵より


 梅吉と千歳は、昼夜を問わず新しい凧の制作に没頭した。西洋の技術と江戸の伝統を融合させた、前例のない試みである。


「この糊と、この紙を組み合わせれば」


「いや、もっと工夫ができるはずだ」


 二人は、意見を戦わせながら、一歩ずつ前に進んでいった。時には衝突することもあったが、それも良い方向に向かっているという確信があった。


 しかし、期限は刻一刻と迫っていた。


「梅ちゃん、無理しすぎじゃないの?」


 小梅が差し入れを持ってきた時、梅吉の顔は疲労で青ざめていた。


「大丈夫だ」


「でも」


「今は、これしかないんだ」


 その夜、思いがけない来客があった。


「浪之介!」


 義弟が、深々と頭を下げていた。


「兄貴、申し訳ない。あの話は、嘘だった」


 長崎での商売の話は、初めから存在しなかったという。浪之介は、その金を博打で使い果たしていたのだ。


「俺は……俺は……」


 浪之介は、声を詰まらせた。


「もう、いい」


 梅吉は、静かに言った。


「ただ、これからは」


「はい。必ず、まともな道を歩みます」


 その時、二階から物音がした。


「父上!」


 勘太郎が、階段を降りようとしていたのだ。梅吉が駆け寄る。


「どうしたんです?」


「梅吉、浪之介」


 勘太郎は、二人の顔を見つめた。


「わしはな、お前たちを信じている。これからも、この家を、守っていってくれ」


 その言葉には、深い愛情が込められていた。


 翌日から、浪之介も制作に加わった。不器用ながらも、必死に手伝う姿に、梅吉は胸が熱くなった。


 そして、ついに完成の時を迎えた。


「これは……」


 部屋に集まった人々が、息を呑む。


 そこにあったのは、まさに伝統と革新の見事な調和だった。武者絵でありながら、西洋的な構図を取り入れ、新しい技法による軽やかさと、伝統的な重厚さが絶妙にマッチしている。


「すごい」


 小梅が、感嘆の声を上げた。


「これなら、きっと」


 千歳も、確信を持って頷いた。


 その日の午後、梅吉は古美術商を訪ねた。


「なるほど、これは素晴らしい」


 主人は、新しい凧をじっくりと見つめた。


「こちらの方が、価値がありそうですね」


 そう言って、主人は望外の金額を提示してきた。借金が返せるどころか、店の運転資金も十分確保できる額である。


 帰り道、梅吉は空を見上げた。雲一つない青空が、まるで祝福するかのように広がっていた。


## 第七章:明日への翼


 秋風が吹き始めた頃、雲雀屋に変化が訪れた。


「へえ、こんな風にするんですか」


 浪之介が、千歳から新しい技法を教わっている。彼は、凧作りの道を志願したのだ。


「そうそう、その調子だ」


 千歳は、根気強く指導していた。


 一方、梅吉は新たな挑戦を始めていた。伝統的な武者絵に、新しい要素を取り入れた凧の制作である。反発も予想されたが、予想に反して評判は上々だった。


「こりゃあ、良いもんだ」


「昔ながらの良さも残っている」


 町の人々は、むしろ好意的に受け止めてくれた。注文も、少しずつ増えていった。


「梅ちゃん、随分と明るくなったわね」


 小梅が、仕事場を覗きに来た時に言った。


「そうかな」


「うん。それに、凧も前より生き生きしてる気がする」


 梅吉は、自分の作品を見つめた。確かに、以前とは違う。伝統を守りながらも、新しい風を取り入れることで、凧そのものが息づいているように感じられた。


 ある日、思いがけない来客があった。


「これは、これは」


 江戸城大奥の用人と名乗る老人が、雲雀屋を訪ねてきたのである。


「実は、若君様の誕生日に、立派な凧を贈りたいと思いまして」


 梅吉は、身の引き締まる思いだった。


「ご覧いただけますか」


 梅吉は、最近の作品を見せた。


「おお、これは」


 老人は、目を輝かせた。


「伝統を守りながらも、新しい息吹を感じる。素晴らしい」


 こうして、雲雀屋は大きな仕事を任されることになった。


「梅ちゃん、おめでとう!」


 小梅が、心から喜んでくれた。


「ありがとう。でも、これからが大変だ」


「うん。でも、大丈夫」


 小梅は、優しく微笑んだ。


「だって、梅ちゃんは変わったもの。自分の殻に閉じこもっていた梅ちゃんは、もういない」


 その言葉に、梅吉は深く頷いた。


 制作は、梅吉、千歳、浪之介の三人で行うことになった。


「若旦那、この模様はどうです?」


「ああ、でもここはもう少し」


 三人は、意見を出し合いながら、一つの凧を作り上げていく。その過程には、もはや主従関係はなかった。ただ、一つの目標に向かって進む、同志としての絆があった。


 出来上がった凧は、まさに傑作と呼ぶにふさわしいものだった。伝統的な武者絵でありながら、どこか新しい気風を感じさせる。見る者の心を、不思議と明るい気持ちにさせるのである。


「これぞ、新しい雲雀屋の凧です」


 老人は、大変に喜んでくれた。


 その夜、梅吉は養父の部屋を訪れた。


「父上、ご覧ください」


 勘太郎は、凧をじっと見つめた。そして、静かに涙を流した。


「よくやった。お前は、本当の職人になった」


 その言葉に、梅吉も涙が込み上げてきた。


## 第八章:青空の下で


 冬が過ぎ、再び春が訪れた。


 明治三十三年三月、梅吉と小梅の結婚式が執り行われた。


「おめでとうございます!」


 千歳が、心からの笑顔で祝福してくれた。


 式の後、梅吉は新しい家族と共に、近くの土手に凧揚げに来ていた。


「懐かしいねえ」


 小梅が、幼い頃を思い出したように言う。


「ああ」


 梅吉は、新作の凧を広げた。それは、これまでの集大成とも言える作品だった。


「みんなで揚げましょう」


 千歳と浪之介も、それぞれ凧を持ってきていた。


 風が吹いた。三つの凧が、空高く舞い上がる。


「きれい!」


 小梅の声が、春風に乗って響く。


 雲一つない青空の下、凧は優雅に舞っていた。伝統と革新が織りなす美しい競演。それは、まるで未来への希望を示すかのようだった。


「父上」


 梅吉は、空を見上げたまま呟いた。


「これからも、雲雀屋の名を守っていきます。でも、それは頑なになることではない。新しい風を受け入れながら、本当に大切なものを守っていく。それが、私の選んだ道です」


 春の陽射しが、梅吉の頬を柔らかく照らしていた。


 遠くで、子供たちの歓声が聞こえる。新しい時代の足音が、確かに近づいていた。しかし梅吉は、もう恐れてはいなかった。


 凧は、空高く舞い続ける。地上の人との繋がりを保ちながら、大空という新たな世界へと翼を広げ続けるように。


 梅吉は、心の中で誓った。これからも、凧と共に歩んでいこう。伝統という深い根を持ちながら、新しい芽を伸ばしていくように。


 春風が、優しく頬を撫でていった。


(完)

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【職人人情短編小説】凧職人、空を仰ぐ ~藍天に舞う伝統と革新~(約8,800字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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