第19話 理性と憤怒
埒が明かないと窓際に背をあずけ傍観していた男子生徒一人が痺れを切らしたのか横槍が入り心臓の音が高鳴りだす。内容は暴力的であり、有言実行と首を回したり手をポキポキ鳴らしたりしてゆっくりと迫ってくる男子生徒二人。当然だが彼らのサンドバックになるつもりはさらさらなく抵抗したいのだが、一つだけ迷いが生じていて心が決まらない。心を揺さぶっているのは俺の行動次第で雪野さんにまで影響が出てしまうという相沢さんの言葉であり反抗こそが悪手になりかねなかった。
腕を伸ばせば近づいてきた男子生徒に触れられる距離に迫られるまで思考を巡らせたが、ここで逆らうことが正しいのか間違っているのか判断できないまま俺の体は背後に回った男子生徒に羽交い締めされた。人生のほとんどの時間勉強しかやってこなかったはずなのに教科書や問題集に載っていること意外何も解らない自分の頭脳が今はただただ憎く唇を噛み締める。
俺の日常は今日を境にしてまた大きく変わってしまうことだけははっきりしていた。二月は雪野さんに出会い、三月は相沢さんたちに目をつけられ変化が生じる。考えると雪野さんが転校してこなければ何事もなく卒業の日を迎えていた可能性が高い。雪野さんがトリガーとなり放課後の多目的室で心身共に自由を奪われてしまっている現状ではあるが、転校初日に下駄箱で声をかけられたあの日を恨むことはない。むしろ声をかけられたのが他の生徒ではなくてよかったと思えてしまうほどに内容の濃い時間をもらった。
恩返しとして転校してきたばかりの雪野さんが目をつけられることなく卒業の日を迎えられるようにする任を授かったと思えば納得もいく。俺自身も学校に別れを告げるとき今日の選択が悪くなかったと思えるかもしれない。たとえ明日から雪野さんとの関わりが完全に断たれることになったとしてもだ。
自分の行いが誰かのためになっていると思い込むことで精神を鼓舞し奮い立たせながらいずれ訪れるであろう痛みを待った。腕が拘束されているので拳を手で受け止めることもできず、殴るなら顔ではなく腹にしてくれと願いながら見えない抵抗として腹筋に力を入れる。
ヘラヘラとした笑い声が掻き消え「いくぞ」と言う掛け声に合わせて振り抜かれた一撃は腹のど真ん中に躊躇なく直撃した。息が詰まりそうになる衝撃に足の力が抜け膝から崩れ落ちそうになるが背後からしっかり上体が固定さており糸に吊るされた人形のような状態だ。呼吸するだけでも苦しく、腹部に残り続けている痛みは人生で初めて味わう衝撃だった。
「おいおい一発でへばってくれるなよ、次は俺の番なんだからよ頼むぜ」
地獄は始まったばかりと更なる絶望の声が背後から掛かり羽交い締めの拘束が解かれると、一人では立つことさえできず支えを失った俺は崩れ落ち床に手を突き洗い呼吸を何度も繰り返す。途方もない痛みに苛まれながら唯一機能している聴覚に聞こえてくるのは咳き込む音と、男子生徒が入れ替わる足音と衣擦れと音だった。
「いつまで屈んでんだよ、おい。和也が待ってんだから立てよ」
床についていた腕を掴まれ無理やりに引っ張り上げられるとまた羽交い締めに固定され二発目を受ける流れのはずだった。だが一発目をもらったとき自分を押さえ込んでいた理性や感情といった鎖はちぎれてしまったらしい。苦しみや痛みといった感情が和らぐと別の感情が込み上げ塗りつぶされる。雪野さんへの配慮だとか卒業まで残りわずかだとか綺麗事は全て捨て去り胸の中にあるのは怒りただそれだけだった。
自分でも感情の制御ができず心の衝動に従うがままに掴まれていた右腕を勢いよく振り払う。いいようにされている自分に対してか、それとも男子生徒二人に対して怒りを抱いているのかもう判別つかないが爪が食い込んでしまいそうなほどに握った拳をぶつけなければ気が済みそうにない。誰かに対して自我が保てなくなるほどに復讐心を燃やしたのはこれが初めてであり、自分が今どんな顔をしているのかもわからなかった。
掴まれていた手を振り払い自力で立ち上がると目と鼻の先に男子生徒が立っていて言葉よりも先に手が出て胸ぐらを掴んだ。男子生徒からつい先ほどまで浮かべていた見下すようなヘラヘラした仮面は完全に剥がれていた。目は泳ぎ怯えるような表情が浮かび上がっているが、力が緩むことはないと握っていた拳を振りかぶった。
「あんた手を出したらどうなるかわかってんの。うちらの先輩たちが黙ってない。それに推薦も取り消しになって人生終わるよ。それでもいいの」
拳に勢いをつけるため背後に振りかぶったところで相沢さんの声が耳に入ってきた。止めに入ったのが未智瑠だったら将来を心配した俺のためを思っての発言と捉えることもできたかもしれないが、耳に入ってきた言葉はただの脅しでしかない。
自分で巻いた種のくせに状況が変化し不利になったら第三者をほのめかす時点で終わっていると無視するつもりでいた。だが続いた推薦取り消しという言葉に僅かばかり残っていた理性が反応するように握る拳が緩む。一時の怒りの発散と未来が真っ黒に塗りつぶされることを天秤に掛けると弓の弦を引くように振りかぶっていた腕が静かに沈んだ。雪野さんや他人のために我慢ができなくても未来の自分だけは守ってしまう弱い部分が露わになった瞬間だった。煮えたぎるような怒りは嘘のように掻き消え、拳を再び握る力はもう湧いてこない。
「驚かせてんじゃねえよクソが」
戦意喪失し無防備に立っていると目を釣り上げた男子生徒の重たい一撃が肩に直撃し、体は蹌踉け近くにあった勉強机にもたれかかった。殴られた場所をさする暇さえなく背中を晒すと羽交い締めされまた拘束される。
「準備できたぜ和也。俺の分まで手加減なしでやってやれ」
何で自分がこんな目に合っているのかもわからず、顔をあげるのも億劫だと床を眺めつつ力が入らない体でただ拳が振るわれるのを待つ虚無の時間が訪れる。次の一撃をもらって立っていられるか、それどころか意識を保っていられるかも危ういなと待っている時だった、一筋の希望かそれとも更なる絶望を呼ぶ音が聞こえてきたのは。ガラガラガラと聞こえてきたのは開かないはずの扉が動く音だった。扉を開け放った人物は救世主となる見方かそれとも相対する敵か、神が見てくれているのであれば前者であってくれと扉の方へとゆっくり顔を向ける。
「大丈夫か、少年」
視線を移動させたと同時に聞こえてきたのはここ一ヶ月で一番よく耳にした声であり、姿をはっきり視認しなくても誰だかすぐにわかった。殴られようが涙は出てこなかったがこの時初めて涙腺が揺れた。
雪の少女 いけのけい @fukachin
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