翠さん
スロ男
-
親が再婚してから五年が経った。
僕は学生服の
まだあの頃の僕は随分と幼かったと思う。
いまでも大人というには、あまりにも子供だけれど。それでもあの頃とは雲泥の差がある。少なくとも身長はだいぶ伸びた。
初めて
*
「あら、あなたがシュウ君ね」
出迎えてくれた翠さんは、つっかけを履いてないほうの足は上げたまま、ドアを開けてくれた。
僕が声を出せずにいると、あらヤダとペロッと舌を出した。
「ごめんね、横着で。ささ、上がって」
母さんとは全然違うタイプだと思った。スレンダーで長身で、ショートカットがよく似合っている。
お邪魔します、と玄関に足を踏み入れたときも、翠さんはドアを押し開いてくれたままで、そのせいか随分と距離が近かった。
いい匂いがした。
この人が家族になるというのが、うれしいような恥ずかしいような気持になった。
「あ、スリッパ!」
ヒョイと上がりに素足をつけて、同時につっかけを脱ぎ捨てると中腰でスリッパを取り出した。
その様子をジッと見ていたのに気がついたのか、翠さんは恥ずかしそうに笑った。
可愛い人だと思った。
クラスメイトの女子のいうカワイイとは全然違う、本当の可愛い。あいつらはなんだってカワイイという。
食卓に案内され、ケーキと紅茶が出てきた。わざわざ買ってきたのだろう、ちょっと高級そうなショートケーキだった。
「ひとりで来るの、大丈夫だった? 俊夫の奴、まったく気が利かないったら……あ、ごめんね。悪口じゃないのよ。単に性質の話をしただけ」
「せいしつ?」
「なんでもかんでも良いようにいうの、あたし苦手でね。そういうタイプだってのは、もうそういうタイプなんだし仕方ない。あ、ケーキ食べなよ」
「はい、いただきます」
両手を合わせてから食べ始めた僕を、翠さんはずっと見ていた。その視線に僕はずっと気づいていた。暖かで、見守るような眼差しで、それがちょっと腹立たしかった。
赤ちゃんかペットに向けるタイプの眼差しだ、と僕には思えたのだった。
ケーキは美味しかった。
紅茶は苦かった。
砂糖が切れてるというので、大丈夫です、と答えたら、蜂蜜かジャムを入れるか、と訊かれたが断った。
ジャムをもらえばよかった。
あとになって知ったのだが、それは翠さんお手製のジャムだった。苺もマーマレードもある。僕は翠さんの作るスコーンにジャムをたっぷりつけて食べるのが大好きだった。
それから、違う使い方も。
「シュウ君……シュウでいいよね? それともシュウ坊にする?」
「シュウ坊はちょっと」
「翠さん、って呼ばないとシュウ坊って呼ぶぞ」
うふふ、と悪戯っぽく笑って、翠さんは大きく伸びをした。胸の形があらわになって僕は目を伏せた。着痩せするという言葉を当時は知らなかった。
「まだあいつが帰ってくるまで全然時間あるね。ねえ、シュウ、ゲームでもやる? あたし、実はゲーマーなんだ」
「ええー、ほんとかなあ。Switchあります?」
「あるけども……えっと、こんなのもあるんだけど」
TVスタンドの前でしゃがみ込み、棚を漁り始めた翠さんの、パンツとシャツの間から素肌がのぞいた。
「じゃーん!」といって出てきたのはデカくて黒い箱のようなもので、きっとそれもゲーム機なのだろう。
「初代のスマブラ。やったことないでしょ?」
「えぇ……Switchあるなら新しいのが」
「ごめんね、Switch、リングフィットしかないんだ実は」
「えぇ……いやリングフィットでも全然いいんですが」
「いいからスマブラやろーぜ、久々ぁ!」
というわけでロクヨンとかいうゲーム機でスマブラをやった。
コントローラが大きく、手に馴染まなくて、しかも操作感も全然違う。
ゲームが得意といっていたのは嘘ではないようで、最初の数戦は徹底的にやられた。
悔しくて再戦、再戦とやっていくうちに僕もだいぶ調子がでてきて、イーブンぐらいには持っていけた。コントローラも随分馴染み、こっちのほうが使い勝手がいいぐらいだった。
のだけど。
少し余裕が出来てくると、同じソファに腰掛けた翠さんの、本当に楽しそうだったり悔しそうだったりする表情や、時折触れるひじや肩などのほうが気になってきて、また操作がおぼつかなくなってきた。
「シュウ、もしかして眠い?」
あわてて視線を逸らした僕の顔を追いかけるように翠さんがのぞきこんできて、別に眠くなんてないけど、と壁掛け時計へ目を逸らしながら答えた。
ここに来てから軽く二時間が経っていた。
翠さんも時計を見、あらあら、といって立ち上がった。
「またゲームやろうね、流石にごはんの用意しないと。今日は早退けするとかいってたのに、なんか忙しいのかもねえ。あ、リングフィットやりたい?」
「大丈夫です、どうぞキッチンへ」
「あはは、生意気ー」
僕のおでこを小突いて、翠さんは部屋を出ていった。
家族揃っての晩御飯は終始なごやかだった。翠さんの人柄が大きかったと思う。
僕は決して奥手でも暗いほうでもないけれど、普通ならもっと大人しく縮こまっていたんじゃないか。
相手がすっと懐に飛び込んでくれれば、自分も自然と近くに寄れる、それは翠さんから教わったことのひとつだ。
度々父さんが出張に行くことがあり、そうなると僕は翠さんとふたりで過ごした。翠さんの作るごはんは美味しく、たまには外食するか、と訊かれても首を振ったものだ。
随分と甘えていたものだな、と思う。もう少し楽させてあげるべきだったかもしれない。けれど、外では翠さんとじゃれあうことも難しい。
基本的には僕が一方的に甘えっぱなしだったけれど、たまには翠さんが甘えてくることもあった。
「ねえ、シュウ。マッサージお願いできる?」
パジャマ姿、風呂上がりの翠さんは、リビングのカーペットの上にごろりと転がる。僕がふざけてどしんと腰をおろすと、ぐえっ死ぬ、なんていったり、本気で怒ったりもした。
「女の子の体は大事に扱わなきゃダメなんだからね。無理やりはダメ」
「女の子って……ごめんごめん! わかった、今度から乗るよっていってから乗る」
溜息を吐いて、まあいっか、と翠さんは自分の腕を枕がわりにして目を瞑る。
僕は翠さんの背中をぐいぐいと押す。
最初は弱いだ痛いだいわれていたが、もう手慣れたものだ。
腰のあたりに添えた親指に力を入れると小さく緑さんが呻き、その声がなんだか色っぽい。力を入れて押すたびに、詰まった声と漏れる吐息が交互して、夢中になってるともっと上もやれ、と小さく怒られた。
背中が張っているのが、プロじゃない僕でもよくわかる。いつも家のことを頑張ってくれてるんだなあ、としみじみ感じる。
血の繋がってない僕に、どうして彼女はここまで良くしてくれるのか。実の母はといえば、わりと勝手というか、気ままに父さんへ付いて行き、僕を置いていったりとかもざらだった。
ちゃんとお金は置いていくし、虐待とまでは思わないけれど、それに仕方ない面もあるのはわかるけれど、そう思うとますます翠さんが天使か何かのように光り輝いて見える。
「あれ、……翠さん?」
いつのまにか眠ってしまったようだ。
翠さんの眠りは深く、いったん寝るとなかなかこちらに戻ってこれない。とはいえ、湯上がりに
僕は立ち上がり、くぅくぅと寝息を立てる緑さんを見下ろした。
もっと身長も力もあれば、お姫様だっこでもしてベッドへ連れていってあげたいところだ。
寝室へ行きタオルケットを持ってきて、翠さんへかけてあげる。
もし二時間経っても起きないようなら、無理やり起こして肩でも貸して連れていくしかないな、と考えた。
欠伸を噛み殺しながら、壁掛け時計を見る。もう九時を回っている。ちゃんと寝ないと背が伸びないぞ、といってるくせ、寝かしてくれない翠さんは、罪な女だ。
晩御飯の買い物に付き合ってるとき、よお、と声をかけられて戸惑った。同じクラスの滝沢だった。
全然近所でもなければ、そんなに会話をする間柄でもなかったのでどうしたのだろう、と思うまでもなく、母親と思しきふっくらとした女性に名前を呼ばれ、じゃな、と去っていった。
その翌日のことだ。
朝のHR前のガヤガヤした時間に、滝沢がニヤニヤしながらやってきた。
「お互い大変だな」
空いている前の席の、椅子の背もたれを前にして座った滝沢は、妙に堂に入ったウインクを決めた。
「なにがさ」
「いや、母親の買い物に付き合わされるとかさ。かったるくない? ここぞとばかりに重いモン買いやがったりさ」
「そう? そうでもないけど」
顔を近づけて、滝沢が小声でいった。
「おまえんちの母ちゃん、若くて綺麗だな。うちのとは全然違う」
「そんなことねーよ」いいながら滝沢の母親のことを思い出し、そんなことなくもないか、と考え直した。が、翠さんなら、そういう物言いはするもんじゃない、と怒るだろう。
「そんなことない、素敵なかーちゃんだったよ」
僕がそう答えると、まるでフラットウッズの宇宙人でも見たような吃驚顔で、滝沢は、おお、そうか、と呟いた。
教室に先生が入ってきて、好き勝手な場所にいた生徒がめいめい自分の席に向かうのをぼんやり見ながら、若くて綺麗、か……と僕はひとりごちた。
母さんが僕を産んだのはかなり若い時期だったらしい。まだ学生だった時に僕を授かり、一生懸命ひとりで僕を育ててくれた、のだという。
物心つく頃には新しい父さんがいて、だからそこらへんはどの程度まで本当なのか、そしてどれだけ盛っているのかは不明だった。
そもそも「新しい父さん」というのも変な話で、僕の知ってる父さんは彼だけだったので、彼こそが僕の父親だった。新しい古いなんて、そもそもありえなかったのだ。
これまでは。
翠さんという新しい家族ができてから、僕はなんだか色々、これまで考えもしなかったことを考えることが増えたような気がする。
それは苦痛とか不安とかとは全然違って、当たり前だと思ってたことが当たり前であるとは限らないという、……蒙が開かれるだったか、そんな感じだった。
その感じを翠さんに話すと、
「今時の子供はなんか大変だねえ」
と感心したように応えられ、なんかちょっとだけシャクゼンとしなかった。
僕は、いったいどう答えてほしかったのだろう……?
春休みに入る頃、僕と翠さんはふたりきりで熱海にいった。お泊まりだった。
中学にあがる僕へのお祝いと併せて、もうすぐ旅行だなんだいってられなそうだから今のうちに、という意味もあったのだと思う。あの頃は、まさかこんな世界が訪れるとは思ってもいなかった。予兆はあったにせよ。
父さんは全然気にしてないどころか、むしろ喜んでいた。
「修平に手を出すなよ、母さん」と笑いながら言ったのだけが、ちょっと気にかかった。
手を出す。
普通は逆なのではないか、などと今なら思うのだろうが、その時は「手を出す」の意味がよくわかってなかった。怒ったとしても手をあげるな、という意味かなあ、とぼんやりと考えた程度だった。
踊り子号に乗って熱海に着くと、僕らははしゃいだ。春休みだというのに人の数は少なく、かえってそれがよかった。
僕らは手を繋ぎながら商店街を歩き、揚げ物を食べたり、プリン屋に並ぶ人を眺めたりした。
「熱海城ってのがあるらしいんだけど」と翠さん。
「行きたいなら行ってもいいけど」
「シュウがそうでもないなら、お城よりはこっちかな。ハーブアンドローズガーデン」
「じゃあ、そっちがいい」
「かわいいなあ、おまえは」
頭をくしゃくしゃっとされてから、逃げようとする僕を捕まえて抱きしめた。抱きしめたというか、ほとんどベアハッグだった。旅先のせいか、おふざけがひどい。僕は翠さんのケツをつねって逃げだした。
向かう途中のバスで、ガーデンというのは庭のことだと教えてもらった僕は、なるほど庭園みたいな場所なのかなと考えたが、着いたのはガーデンというよりはもはやマウンテンだった。
翠さんはしんどい、つらい、などといっていたが僕は大いに山歩きを楽しんだ。途中で手を貸してあげようとして、その拍子に翠さんが体勢を崩して、危うくふたりして泥まみれになるところだった。
バスで駅前まで戻ってきた僕らは預けていた荷物を受け取るとホテルへ向かった。僕はリュックだったが、翠さんは大きめのトートバッグだけで、厚みを見ても僕より随分と身軽な感じだった。
あまりに古臭い感じのホテルで、他にも色々あったんじゃないかと僕が抗議すると「なにしろ駅から近いし、生ビール飲み放題には勝てない」などとしれっといわれた。
ガラス張りのエレベータに乗って上がる途中、建物の先に海が見えた。ああ、旅行に来たんだなあ、と当たり前のことを考え、横を見上げると、翠さんは遠くにある何かを探そうとしているように目を細めていた。
部屋は予想通り、大して綺麗でもおしゃれでもなかったけれど、わりと広めだった。
「けど、翠さん……?」
「なあに、シュウ。何かご不満でも?」
「ベッドひとつしかないんですけど」
「ツイン空いてなかったんだよねえ、あはは。一緒に寝るの、いや?」
「いやじゃないけど、僕ももう今年から中学生だよ」
「家族だし、細かいことは気にすんなって」
上着をハンガーにかけたあと、おもむろに翠さんは上着も脱ぎ始めた。
「ちょ、ちょっと!」
「見てないで、あんたも浴衣に着替えなさい。風呂行くぞ、風呂。家族風呂借りたからね、一緒に入るぞ!」
「えぇ……」
翠さんに背を向けて、できるだけさっさと脱いで浴衣を着た。帯の締め方がよくわからなかったが、訊いても「そんなんテキトーにちょうちょ結びでよろしい!」といわれただけだった。
二人でとてとてとホテルの廊下を歩き、別館へと向かう。途中ゲームコーナーがあって、レトロなゲーム機やパチンコなどがあった。それからエアホッケー。
「そういえば卓球とかもあるんだっけ?」と僕がいうと、
「卓球もビリヤードもあるみたいね。カラオケもできる。予約しなきゃいけないみたいだけど、なにかやりたいものある?」
「さっき見たエアホッケーがやりたい」
「いいぞいいぞ、やりましょう。あたし下手くそだけどな、あれ」
そんな会話をしながらエレベータに乗り、降りるとちょっと緊張してきた。
お風呂にふたりで入る、というのは、したことなかったから。
何度か翠さんに誘われたことはあるけれど、だいたいいつも冗談に聞こえたし、家の風呂はそんなに広くない。
えーやだあ、といえば、さらっと引き下がったものだった。
裸を見るのも恥ずかしければ、見せるのも恥ずかしい。翠さんは、そんなこと全然思わないのだろうか。
家族だから?
それともスキンシップとか裸の付き合い(?)とかだからなのだろうか。
脱衣所に入ると、翠さんはするりと帯を解き、何の躊躇もなく浴衣を剥いだ。
下着姿自体は何度も見たことがあったけれど、そういうのとは違う色合いの妙にシュッとした形の下着だったのでドキドキした。
僕もあわてて浴衣を脱いで、籠にいれた。パンツを脱ぐのも一気にいった。見られることよりも、見ていたことがバレるほうが恥ずかしいと思ったのだ。
そんな僕の気持などお構いなしに、全裸になった翠さんは、お先に、といって浴室へと入っていった。
鼻歌でも唄いそうな気楽さで、タオルを肩に
浴室のドアを開けると、翠さんは湯桶からお湯をかぶっていた。
僕も真似をして、二台並ぶシャワーの一台を使って、頭からお湯で洗い流す。
シャワーの音に紛れず、翠さんが湯船に浸かるとぷんという音が聞こえた。
「シュウも汗流したら、こっちに来なよ。一緒に入ろう」
「でも体洗わないと」
「あったまってから洗ったほうが、垢はよく落ちるんだぜ。ホラ、早く来なさいな」
タオルで前を隠していることがかえって恥ずかしいような気がしたけれど、結局そうして僕も湯船に入った。
「いい湯だね〜」
歌うようにいう翠さんに、僕は答えずにかわりに大きく息を吐いた。お湯は、気持ちいいものだ。満足げに翠さんも息を吐く。
三、四人は入れそうな浴槽に、僕と翠さんは
すこし熱めのお湯に気分はすっかりほぐれ、視線がどうとかは、もう気にならなかった。
「ねえ、シュウ」
「なに?」
「背中洗ってあげるね」
「え?」
「あたしの背中も洗ってね」
「えぇ……」
「お風呂といえば背中の流しっこでしょうが。あったまったら体洗うよ」
僕はお湯に口元を沈めて、空気の泡でブーイングの意を示した。
夕食はバイキング形式で、なんだかワクワクした。ふたりで「それ取りすぎ」だの「あ、それ多めに」だの言い合いながらトレイを一杯にし、席へと戻る。
若い人向けのホテルという感じでもなさそうなのに、家族連れをのぞくとお年寄りの姿はあまりなかった。
「あれかな、やっぱりあの変なインフルみたいなの警戒してるのかな」
「え、何が? いいから乾杯!」
早くビールが飲みたくて仕方ない翠さんのジョッキに、僕は自分のグラスを打ちつけた。飲みたいならとっとと飲めばいいのに。
景気良くジョッキを空ける翠さんの喉の白さが、風呂場での彼女の肌を思い出させて顔が熱くなる。
首筋から肩にかけてのライン、肩甲骨と背骨の突起、脇から腰にかけての曲線——
お腹が減っていたはずなのに、なんだかいつものようにムシャムシャと食べる気にはならなかった。
飲み、お代わりを取りに行き、食べ、またテーブルを離れる翠さんがうらやましい。
とはいえ、気持ちよく飲み、食べる様子はこちらの気持も明るくしてくれる。会話が弾みはじめた頃には僕もパクパクと食べ、翠さんはすっかり顔を真っ赤にしてけらけらと笑っていた。
「そんなに飲んで卓球とかエアホッケーとかできるの?」
「だいじょぶだいじょぶ」
すこし呂律の怪しくなった口調でいう翠さんに、僕は吹き出した。
僕も大人になってお酒を飲んだら、こんなに楽しそうに、だらしなく、無防備に笑うことができるようになるのだろうか?
好きだが、強くはない。
それが僕の見解で、また翠さんの自認であったはずだ。
楽しすぎて飲みすぎちゃった、などとほとんど解読が必要な調子でいう翠さんに肩を貸して部屋へと戻っていく。
これはゲームは無理だな、と思ったけれど腹は立たなかった。
たまには、こんな日があってもいい。
頼られるのは、悪くなかった。
部屋の前に立ち、そういえば鍵は翠さんが持っていることに気づいた。
「ねえ、鍵! 翠さん、鍵!」
むにゃむにゃと半分寝てるのかよくわからないことをいって、さらに体重をかけてくる翠さんに期待をしても無駄だ。
後ろから手を伸ばし、彼女の半纏の右ポケットへと手を突っ込んだ。鍵はあった。
「ふふ……すけべ」
急にいわれてびっくりしたけれど、寝言のようなものだったらしい。だいたい、僕は何もスケベなことなんてしていない。
ドアを開け、明かりを点け、よろけるような形でベッドへ倒れ込んだ。翠さんの腕枕で寝るような形になって、あわてて僕はそこから逃れる。
翠さんは、いまにもいびきをかきそうな寝息を立て、僕はしばし立ち尽くした。
寝顔を見たことは何度もあるが、今日はいつもと違うように感じる。翠さんの頬が紅潮しているからか、それとも浴衣のせいなのか。はだけた浴衣から、左側のおっぱいの曲線が少し見えていた。
たっぷりと豊かな翠さんのおっぱいの、重力にひしゃげ、なだらかなカーブを描いている、その始まりの部分と、押したらペコリと折れてしまいそうな脆さを感じさせる胸骨の華奢さのアンバランスさが、触れてみたい、という気持にさせた。
いや、そんな上等な気持なんかではなかった。端的にいってしまえば、僕は欲情していたのだ。
ずっとずっとそばにいて、やたらとスキンシップをしてくる、家族なのに他人の人。無防備な姿をさらけだして、裸を見せることすらためらいひとつなく、ペットか何かのように可愛がってくる人。
——翠さんは、いったん寝るとなかなか起きない。
これは卑怯な行為だぞ、と思いながら足は裏腹に動き、ベッドに片膝を着いた。
おっぱいぐらい頼めばいつでも触らせてくれるんじゃないだろうか、と言い訳でもなくわりと本気で考えながら、寝息をたてる翠さんの、浴衣の内側に手を差し伸べた。
思ったよりもそれは冷たく、なんだか可哀想だな、と思った。こんなに顔を赤くして、凄く熱そうなのに、そこだけひんやりしている。そして、柔らかく、指が沈み込む。
脇にこぼれ落ちそうな、その膨らみの全てをつかみたいと思って手の先を伸ばすと、翠さんが小さく呻いた。
構わず僕はかき集めるようにして掌いっぱいに吸い付く柔らかいそれを感じ、感触を楽しみながら手を窪ませ、広げた。
手の中央部に、違和感があった。しこりのようなものが感じられ、そこを意識しながらさらに二度三度。突起の存在を感じる。
「シュウ……」
呼ばれて、僕はあわてて飛びのこうとした。
目が合った。
翠さんは眠そうなぽやぽやした顔でうっすらと微笑みながら、
「ママのおっぱいが恋しくなった?」
といった。
そうだ、と答えてしまえば、きっとそれで終わりだっただろう。けれど、僕は答えず、翠さんをじっと見つめた。
「……好きにしていいよ」
「……家族だから?」
翠さんが腕を伸ばし、僕の首を引っ張った。よろけて、彼女の胸に倒れ込む。柔らかさと心臓の音。僕をひっぱった手は、いまは僕の頭を優しく撫でている。裏腹に鼓動は速い。
「シュウのことが好きだからよ」
「家族なのに?」
もう片方の手も僕の頭の上にやってきたらしく、抱きすくめられた形で僕は翠さんの言葉を待った。
「そんなことありえない、ってシュウは思う? 家族でとか、歳がこんなに違うのにとか」
僕は答えなかった。いや、答えられなかった。ただ僕はそばにある肉体に欲情してるだけだったから。
「シュウが、あそこを大きくしてるの、あたし知ってたよ」
「え……」
「男の子なんだなあ、って思ったし、うれしかった。そういうふうに思われることが。あはっ、なんかあたし痴女みたいね」
「チジョ……?」
「ずっと乾いてたあたしの心も、体も、シュウと一緒にいると潤う感じがして、……楽しかった。いまも、溢れてる」
首を動かし、目を上げると、翠さんが確かに潤った目で僕を見ていた。吸い込まれるように僕はそちらへ近づいていき、そうして彼女と唇を重ねた。
*
唇に触れ、かさついているのがわかった。
嫌がる僕に無理やりリップを塗ってきた翠さんを思い出し、笑みが零れた。
「用意はできたか? 先行くぞ」
親父がいって、僕は返事を返す。昨日のお通夜の時には「母さん母さん」と号泣していたのが嘘のように、キリッとした表情が鏡越しに見えて、僕は苦笑した。
吹っ切れたのか、スッキリしたのか。
玄関の鍵を閉めると、車で待っている両親に軽く手を振って、空を見上げた。
雲ひとつない、晴天だった。
「まだあんなに若かったのにねえ」という親戚の言葉が甦る。「せめて赤いちゃんちゃんこぐらいは着せたかったね」
赤いちゃんちゃんこ、というのがなんだかわからなかったので調べると、なんでも還暦の時に長寿を祝って着るものらしい。
それは確かに見てみたかった。
その頃には僕はすっかり成人して、翠さんをたっぷりからかったに違いない。そして、その赤いちゃんちゃんこどころか全部脱がして、全身にキスをお見舞いしたことだろう。
焼き場の煙突から棚びく煙を見ても、僕はそこに翠さんを見出すことはない。魂はこの地になく、肉体はあとは朽ちていくだけなのだから。
僕の愛した、あの精神も、肉体も、もう触れられないのだと考えるとそれだけが悲しく、だからといって慰撫を幻想に求めたところで翠さんは苦笑するだけだろう。
彼女は、僕の祖母は、お茶目でアンモラルな、それでいて合理的で自分本位な、とても可愛らしい
翠さん スロ男 @SSSS_Slotman
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