控えよセリヌンティウス
化野 因果
上
セリヌンティウスは考えた。必ず、かの邪智暴虐な王を説き伏せねばならぬと決意した。
セリヌンティウスには政治が分からぬ。セリヌンティウスは、市井の石工である。石を積み、皆と助け合って暮して来た。邪悪に対しても、人一倍に鈍感であった。きょう未明セリヌンティウスは友を見送った。野を越え山越え、いまごろは十里はなれた村へ向かっているはず。セリヌンティウスには父も、母も無い。女房も無い。半人前の、勝気な弟子と二人三脚で石工を営んでいる。いまその弟子は、師の身に降りかかる災難に頭を悩ませていた。ことを片付けるにも猶予は三日である。セリヌンティウスは、それゆえ弟子の胸のうちを思って、溜息すらもつけぬありさまだった。友の頼みを聞きとどけ、自身の命をはかりに乗せたことにではない。それを悔いてはいない。セリヌンティウスの気がかり、それすなわち王の気まぐれである。
セリヌンティウスの控える王城は、とんと活気がないように見えた。人質と言えど罪人ではないゆえに牢ではなく城の奥深くへ捕らえられていたが、それを抜きにしても、城全体が、やけに寒々しい。皆、目立たずひっそりと、息をつめるように動き回っていた。通りすがった侍女を引き止め、セリヌンティウスは気がかりを口にした。
「なぜ王はメロスを生かしたのですか。なんのため」
侍女は山のような洗濯かごを抱え直してからセリヌンティウスへ近づき、声をひそめささやいた。
「人を信じられぬからでございます」
侍女は押し黙ってセリヌンティウスを見つめた。その顔を見てセリヌンティウスはあれっと思った。思ったが口にするより早く、スカアトのすそを踏んだ侍女がよろけて屈み、さも落とした洗濯物を拾うそぶりでセリヌンティウスの手に布のようなものを握らせると、鈍いセリヌンティウスでも、この侍女が何かを伝えたがっているのが見て取れた。
ゆっくりと巡回する見張りの足音をきき、侍女が足早に去っていくのを見届けてから、セリヌンティウスは手のうちに握ったものを開いて見た。それは小さく丸められた手紙のようで、紙ではなく羊の皮にセピアの墨で文字が記されているようだった。
石工をなりわいとするため、字の読めたセリヌンティウスは、手紙の全文をあらためると、しばし天を仰いで思案した。まるでよどみのない仕草であった。見張りに見つかり、十字架にかけられる危険を顧みず、侍女はセリヌンティウスにしらせを届けたのだ。控えることしか許されぬセリヌンティウスのもとに、しばらくたって別の侍女が通りかかった。今度の侍女は、大きな水瓶を手に歩いてきた。思案をとりやめたセリヌンティウスは、再び侍女を呼び止め、言葉をかけた。
「喉が渇いて、渇いて、しかたがありません。その水瓶から、水を一ぱい、頂きたいのです」
見張りはわずかに身じろいだが、セリヌンティウスが水瓶から水を飲みはじめると、よほど喉が渇いていたのだろうとあたりをつけ、また見張りを続けた。途中で喉がじゅうぶんに潤い、膨れた腹が悲鳴を上げても、セリヌンティウスは水を飲むのをやめずにいた。そうして、ようやく瓶いっぱいの水を飲み干すと、侍女は怪訝な顔をした。無理をして瓶を空にしたのは明らかなのである。くるしげな顔つきを見て、今度は侍女があっと驚いた。
その口がなにごとかを叫ぶ前に、セリヌンティウスは大げさに咳き込むと、やかましく咳払いを繰り返した。四方の見張りの目と耳が集まるころ、セリヌンティウスがよわよわしく「水にむせました」と告げると、見張りたちはやれやれと肩をすくめ、おのおの前を向き直した。驚いている侍女へ、セリヌンティウスが水瓶を返すついで、空になった瓶に一番目の侍女から届けられた手紙を滑り落とすと、侍女は口を閉じ、三たび彼を見た。
セリヌンティウスは、侍女を安心させるべく、つとめて優しい声で話しかけた。
「頂いた水のおかげで、たいへん喉をうるおすことができました。しかし私は少し飲みすぎようです。風の花園へ撒く分には足りないでしょう。もう一度汲みに戻るがよろしい」
風の花と聞き、侍女は大事そうに水瓶を抱え直すと、小走りで来た道を戻っていった。二度もの博打のせいか、けだるく震える身体を叱咤して、セリヌンティウスも、再び思案にもどった。
高かった日が落ち、暮れて夜を迎えるころ。セリヌンティウスの控える一室に、気まぐれかディオニス王が顔を覗かせた。丸一日、一歩も動かず控え続けるセリヌンティウスを見ると、王は少し驚いて、もう少し楽にせよ、と命じた。セリヌンティウスは、日ごろから石を相手にすれば半日や一日は平気でかける男であったゆえ、王が顔を覗かせるまで、日が暮れたことにすら気がつかずにいた。それほどまでに、思案に没頭していたのである。
しかし言われてしまえば、途端に思い出すものである。セリヌンティウスは少し雉を打ちたい気分に駆られた。命令にならい、申し出ると、王は見張りを一人つけてセリヌンティウスを向かわせた。
用を終えたセリヌンティウスが、見張りと連れ立って王のもとへ戻る道すがらである。すれ違うものに黒衣の身なりが混じっていることに気づくと、セリヌンティウスは、あれは何のかっこうですかと見張りへたずねた。見張りは行き交うものを一瞥したのち、前を向いたまま、ひっそりとこたえた。
「亡き妹さまと皇后さまを慕うものが、喪にふくすため勝手にやっている」
それをきいたセリヌンティウスは、何気なく見張りへ言葉を漏らした。
「ならば、あなたも服しているのですか」
「なに」
「槍先に、布をまいてあります」
見張りはわずかに声を荒立て振り返った。セリヌンティウスは、見張りの持つ槍へ目を向けた。夜の闇にまぎれ、布は、ほとんど目立たず巻かれていた。その黒い布を指して、セリヌンティウスは見張りがそうだ、と心を推しはかったのである。
「アレキス様のためだ」
見張りが息を吐くついでのようにこたえた。
「賢臣と名だかいお方だ」セリヌンティウスも見張りをまねて同じ調子にささやいた。
見張りは黙りこくって前を向き、何も言わずセリヌンティウスを先導した。
どちらも部屋に戻るまで、ひとことたりとも口をひらなかった。
控えよセリヌンティウス 化野 因果 @saladanadays
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