あとがきにかえて

人体の塩事情◆曹達余話

NO NATRIUM, NO LIFE.



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 地球という惑星があって、その星の住人である我々が今、まさに今、本エッセーをご清覧いただきながらも今、生命活動を行なっているこの世界線では、何かと「減塩」が叫ばれ、敵視されがちな存在である、塩。


 その主成分の一つと言えば、ラテン語の「曹達ソーダ」【natronナトロン】(要はNaCO3炭酸ナトリウム)を語源に持つ「Natriumナトリウム」。単独では劇物に指定されているアルカリ金属――水に溶けるとアルカリ性を示す金属――で、一般に塩素イオンが結合した「食塩」の形で摂取されることが多いとされているミネラルです。ちなみに体内存在率はおよそ0.14パーセント、必要最低限度とされる必要量は一日に1グラムと言われているとか。


 これもまた必須ミネラルの一つだけに、欠乏症があることはご存知、もしくはお察しのことかと思います。―――あまりにも摂取そのものや摂取後の吸収が容易すぎて、世間一般的には過剰摂取の方が心配されて久しい訳ですが。何と言っても、現存する中国最古の医学書と呼ばれる『黄帝内経こうていだいけい』が書かれた時点(紀元前二〇〇年頃(前漢)から二二〇年頃(後漢)にかけて編幕されたと推定)で既に、塩と健康との関係は把握されていますからね(塩分の摂取過多は血液を損耗する、云々)。


 以前にご紹介させていただいたナトリウムの役割が「細胞内外の水分量や浸透圧を一定に保つ」「神経組織の情報伝達を助ける」「筋肉の収縮に働きかける」ですから、欠乏すれば当然、「細胞内外の水分量や浸透圧を一定に保てなくなる(=血圧下降)」「神経組織の情報伝達を助けてもらえなくなる(=眠気・錯乱・昏睡)」「筋肉の収縮への働きかけが鈍くなる(=筋肉の痙攣けいれん)」「食欲の減退」といった症状が現れることになる訳です。


 ちなみに、調味料や薬味を工夫することで塩分を一切摂取しないというダイエット法である「塩抜きダイエット」とやらの注意事項によると、「(塩抜きの)最大日数は三日間にしなければならない」ようなので、現実の人体に準拠する場合には「低ナトリウム状態で四日以上さまよわせるのは難しい」という縛りが発生することになってしまうかと思いますのでご留意ください。



 さて。

 以上を踏まえたうえでの、異世界でのナトリウム事情です。


 あなたの作中のキャラクターは今、何らかの方法で異世界に足を踏み入れた直後だと思ってみてください。

 たとえ異世界に生まれ変わるために、あるいは世界を超えるために、何らかの存在によってその体が作り替えられていたことにしたとしても――例えば魔法を使うための何らかの臓器や機能を追加することにしたとしても――生命を維持するための基本的な体の機能にまではわざわざ設定を加えず、地球上で生命活動を行なっていた「人間」のままに据え置くのが楽だからという理由で、たとえば生命の維持に酸素が必要なように――、ナトリウムを必要としている地球人の体と同じ設定のままだったと仮定します。


 保護者完備の場所、あるいは生命を維持するための環境が整った場所に生まれ変わらせるならばまだしも、右も左も分からない異世界に迷い込ませた今この瞬間に「塩がない」ってどんな気持ちですか? どうにかして塩(もしくはそれに類するもの)を持たせておきたくなりませんか?

 あなたの作中のキャラクターにナトリウム欠乏症に関する知識がないとしても――もしくはない方が良いキャラクターだったとしても――、ここまで本エッセーを読んできてしまった以上、その作品の神であるあなた自身にはもうその知識がある訳です。仮に「あえてそこは掘り下げない」を選択したとしても、少なくとも知る前には戻れません。


 今この瞬間だけは、あなたらしい方法で、あるいはその作品の世界観らしい方法で、もしくはそのキャラクターらしい方法で――さながら飲み水の問題を解決しようと奮闘させる時のように――、ナトリウム欠乏問題を解決させようとしてみたくなったりしませんか。


 もしくはそういった奮闘についての描写を多少なりとも挿入してみることで、ご都合主義っぽさやテンプレ感を抑え、あなたらしい、もしくはそのキャラクターらしい「食べられて無害なナトリウムの入手経路」を探し出してみたくなったりしませんか。


 ――現地調達させない派ならば、たとえば主人公がたまたま持っていたお菓子の中に塩飴や塩キャラメルを紛れ込ませておくことで「運良くナトリウム不足を回避できた」とする「ラッキー」パターンでも良いですし、たとえば脱水症やら熱中症やらに備えて日頃から塩タブレットやら何やらを色々と携帯する癖があるキャラにすることで「習慣のお陰でナトリウム不足を回避できた」とする「準備万端」パターンでも良いですし、たとえばその辺に無頓着な主人公の体調について「欠乏の疑いを感じさせる描写」だけを伏線として軽く挿入しておきつつ「遭遇した現地人にその点について言及させることで主人公に気づかせる」という「知らされて冷や汗」パターンでも良いですし。


 ――現地調達させる派ならば、たとえばよりサバイバル感は出てしまうものの「獲物の血液を活用させる」という「ワイルドもしくは無鉄砲」パターンでも良いですし、たとえば鑑定だの探索だのの魔法頼みで塩が採れる動植物や昆虫類を入手させてみても良いですし、たとえばすんなり海水や塩泉を発見させても良いですし。



 これはナトリウムに限ったことではないのですが、その作品の世界観に相応しい、もしくはそのキャラクターらしい創意工夫が、異世界物をより楽しくするのではないかと愚考するしだいです。



 皆様の異世界での塩事情(厳密にはナトリウム事情になるのかも知れません)がより変化に富んだ楽しいものになりますように。



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 ちなみに「しお」のもう一つの主成分といえば、ギリシャ語の「緑色」【chlorosクロロス】を語源に持つ「塩素」【Chlorineクロリン】。単独では劇物に指定されているハロゲン元素――金属イオンとえんを作りやすい元素――で、一般には「水道水」(「水の消毒は塩素によることを基本とする。」としている法令を遵守した結果)や、ナトリウムイオンと結合した「食塩」の形で摂取されることが多いとされているミネラルです。


 こちらもまた必須ミネラルの一つであり、欠乏症があることはご存知、もしくはお察しのことかと思います。――世界保健機構が設置しているのはあくまでも一日の摂取上限値(5mg/L)であって、厚生労働省も一日の摂取基準は設けていないんですけれどもね。


 以前にご紹介した塩素の役割が「消化酵素ペプシンの活性化」「細胞の浸透圧の調整」「血液の酸・アルカリのバランスの調整」ですから、欠乏すれば当然、「消化酵素ペプシンの活性化が難しくなる(=消化不良・食欲低下)」「細胞の浸透圧の調整ができにくくなる」「血液の酸・アルカリのバランスの調整ができにくくなる」といった症状が現れることになる訳です。――一日の摂取基準が定められないほど微々たるものということで、欠乏状態というのは現実的ではないそうですが。


 ――ただ、生活の場が異世界となると、さあ、どうなることでしょうねえ?


 塩界隈での超絶売れっ子の相方、ナトリウムの陰に隠れがちな「じゃない方ミネラル」の塩素についても、最後に少しだけ触れてみました。

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異世界の塩事情 ペリヱ @perriwer

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