新異世界の塩事情◆ハンザ余話

 以前譲った「別の機会」がやって参りました。



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「同盟のようで同盟でない(ベンベン)、ギルドのようでギルドでない(ベンベン)、それは何かと尋ねたら?」

 ――という訳で、加盟資格はおろか同盟規約も、公式には執行機関さえも存在しない、ただ自由参加で不定期開催の総会が存在するのみ(その役割から考えれば、総会の準備を担ったリューベック・ヴィスマル・ロストク・シュトラールズント・ハンブルク・リューネブルクの六都市からなるヴェント都市会議が執行機関に該当すると言えようか)という、ないない尽くしの「ハンザ」【独:Hanseハンゼ/英:Hanseaticハンスィアティク Leagueリーグ】です。世界史用語に言うところの「ハンザ同盟」の方が目にも耳にも馴染みが良いだろうとは思われますが。


 また、ここでご注目いただきたいのが、この「ハンザ」(いわゆる「ハンザ同盟」)が本家本元のドイツ語ではシンプルに「Hanseハンゼ」、和訳も「ハンザ」もしくは「団体」と素っ気ないのに対し、英訳(Hanseaticハンスィアティク Leagueリーグ)を経由した途端、「ハンザ的同盟」もしくは「ハンザ同盟の団体」という和訳になってしまう点です。つまり、世界史用語に言うところの「ハンザ同盟」は完全にドイツ語の意図からは切り離された英語由来の用語、「重訳(再翻訳とも)から生まれた用語」である、ということはお判りいただけるでしょうか。


 これが例えば日本語で言う「日独伊三国同盟」辺りになると、ドイツ語でもきちんと「Dreiドライmächtepaktメヒテパクトゥ」(dreiドライ=3、mächteメヒテ=権力・勢力、paktパクトゥ=同盟・協定)と言いますし、「ライン同盟」ならば「Rheinbundラインブント」(Rheinライン=ライン、bundブント=同盟・連邦)と言いますから、もし「ハンザ」(いわゆる「ハンザ同盟」)が本当に正式な「同盟」であったとしたら、「Hansepaktハンゼパクトゥ」だの「Hansebundハンゼブント」だのというような呼び名になっていてもおかしくはなかったのではないかと思われる訳ですが、「そうはなっていない」ということは恐らく「そういうこと」なのではないかと(独断と偏見)。


 以上を踏まえ、この余話では引き続き、意固地に「ハンザ」呼びを貫かせていただきます。以降は「(いわゆる「ハンザ同盟」)」の併記もなしで。



 「塩について語る」という本エッセーの特性上、本編の方では(ハンザ内で唯一の塩の供給国と見なすことのできる)「ドイツのもの」というご当地組織的な扱いとさせていただいた「ハンザ」ですが、実際には人々にはまだ「国」もしくは「国家」という意識の芽生えていない中世ヨーロッパの組織ですから、ヨーロッパで行なわれた遠隔地間の交易のうち「北方交易圏(=北海・バルト海を活用した交易圏)での交易独占を目的として団結した都市●●(や騎士団等)の寄せ集め●●●●」といったところに落ち着くかと思います。


 そんな「ハンザ」に焦点を当て、今回は「ハンザ史」を軸におさらいさせていただこうと考えております。ただ、対象は人間の欲望渦巻く複雑怪奇なハンザですから――「家」に例えるならば「間取りを語る」レベルの――大枠の話にならざるを得ませんし、その内容の取捨選択から言い回しまで、あくまでも個人の色眼鏡という名のフィルター越しの独断と偏見に満ち満ちたハンザ像にならざるを得ないんですが。


 ちなみにこの文章中でのハンザの時代区分とその呼称は、今回便宜上つけてみた(独断の)仮称ではなくて、(ハンザ史研究界隈では)実際にそう呼ばれているものが大半ですので、基本的にはご安心ください。



◆ハンザ以前【十二世紀まで】

 そもそも十三世紀までのヨーロッパで多数を占めていたのは、中小規模の資本力を備えた「遍歴商人」であった。この「遍歴商人」とは「定住商人」(=貿易拠点に定住して商売をする商人)の対義語で、「貿易拠点まで商品を運んで商売をする商人。行商人の大規模版」のことである。


 そうした「遍歴商人」たちによって十一世紀から活発にヨーロッパで行なわれるようになった交易と言えば遠隔地交易であり、何と言っても南方交易圏(=地中海を活用した交易圏)での大々的な地中海東部レヴァント地方との交易(=東方レヴァント貿易)、次いで北方交易圏(=北海・バルト海を活用した交易圏)での細々とした交易、最後にこの南北の交易同士を繋ぐ内陸部の交易が挙げられる。


 ちなみに「東方レヴァント貿易」とは、高価な嗜好品や贅沢品を主力とする厚利少売こうりしょうばいの貿易であり、金融業でも名を馳せたメディチ家を突出して富ませたことでも分かるように、船さえあれば個人個人が勝手に儲けることのできる貿易であった。ヴェネツィアやジェノヴァといった北イタリアの遍歴商人たちがその主な担い手であったが、南方交易圏以外の航路に活路を見出そうとした国々による大航海時代の始まりによって南方交易圏の価値が相対的に低下すると衰退していった貿易でもあった。


 それに対して「北方貿易」とは、安価な生活必需品を主力とする薄利多売の貿易であり、黒字化には一度に大量の輸送と取引とが求められたことから、貿易全体をどこが牛耳るかという熾烈な覇権争いの絶えない貿易であった。バルト海の中央に位置するゴットランド島を足掛かりに行なわれていた、北欧ノルマン人の農民商人(=農業と出稼ぎとしての交易の二刀流)によるヴァイキング活動(=決裂したら略奪前提の交易)もまたその一つである。


 第二次民族移動とも言われる彼らノルマン人の西ヨーロッパへの移住によるヴァイキング活動の終息後にバルト海に入り込み交易に割り込んだことで、結果的に貿易を引き継いだ格好になった存在こそがドイツの遍歴商人たちであった。


 ところがゴットランド島の土着の農民商人たちには「異民族は無権利前提」とするヴァイキング式の「決裂したら略奪前提の交易」が刷り込まれていたこともあって、彼らとドイツの遍歴商人たちとの交易には紛争が絶えなかったという。それ故に当然のことながら武装を強いられることになるのだが、それに対して各商人が個別に対応し始めたところから、やがては商人同士が手を組んでキャラバン化することで輸送コストを抑えるという方法を編み出すまでをハンザ発生以前のドイツ商人による「北方貿易」の姿と捉えることができるだろう。


 その後、「ギルド」(=規約のある互助組織)の亜種(=規約のない互助組織)として最初期の「ハンザ」が生み出されたのも必然であったに違いない。


 どこからの支援もないままに、貿易の黒字化のために薄利多売、大規模化を求められた遍歴商人たちが勝手に連帯した(私設の)「互助組織」(一切の規約なし)として発生した最初期の「ハンザ」は、物凄く単純かつ乱暴に要約すれば、さながら、かの『スイミー』(byレオ・レオニ)のごとく「領土外での貿易で生じた困難に立ち向かうため、便宜上一つの商家であるかのように振る舞った遍歴商人たちの私的な●●●集まり」のようなものということになるかと思われる。


 このように数の暴力に依存することで自分達の身を守り、権益を守り続けた結果、「ハンザ」は十一世紀末になると「同じ交易圏の商人には強制的加入を迫り、圏外から訪れる外来の商人には交易の制限をも行なう私的な●●●交易独占団体」へと変貌を遂げるのであった。――それが押しも押されもせぬあの「ハンザ」へと変貌を遂げるまでには勿論、もう少し紆余曲折があるのだけれども。



◆商人ハンザ時代【十二世紀から十四世紀半ばまで】


 「ハンザ」にとっても「北方貿易」にとってもとりわけ重要なのは、ザクセン大公ハインリヒ獅子公(1129~1195年)によって1161年に発行された「ドイツ人商人とゴトランド商人との平等の交易権や特権を公的に認めた特権状」、いわゆる「獅子公特権状」の存在であろう。ここから「北方貿易」は「決裂したら略奪前提のヴァイキング的交易」から「両者の平等な交易権の認められた相互主義的交易」へと変貌を遂げるし、「ハンザ」は「ハンザ」で「不利益を回避するために肩を寄せ合うようになった私的な●●●団体」から「数の暴力によって相手から特権を引き出し、それを独占するための私的な●●●団体」、さらには「数の暴力によって相手から特権を引き出し、それを独占するための公的な●●●団体」へと変貌を遂げていくからである。


 この「獅子公特権状」の発行によって公的団体化して以降、それぞれの都市などにあった個々の「商人ハンザ」は皇帝や領主などからさらなる特権を引き出しつつ、それぞれにより排他的な経済圏を形成して支配していくようになる。

 なお、「ハンザ」結成までのカウントダウンは以下の通りである。


 1256年。

 後に「ハンザ」の盟主となるヴェント都市リューベックが、バルト海を横行する海賊から都市と船舶を守ることを目的として、同じヴェント都市である2都市(ヴィスマール&ロストック)と第一回ヴェント都市会議(=ヴィスマル会議。後のハンザ総会の母胎とされる)を行なう。――これをきっかけにヴェント都市間の結束が強まり、ヴェント都市会議が開催されるようになる。ハンザの維持に最も熱心だったのがヴェント諸都市であり、総会の準備を始めとした「ハンザ」の中央政務を担当していたのが、リューベック・ヴィスマル・ロストク・シュトラールズント・ハンブルク・リューネブルクの六都市からなるヴェント都市会議であった。

(ちなみに古くから、リューベック・ハンブルク間で1241年に結ばれた(二都市間の)「排他的経済同盟」に「ハンザ」の起源を求める説もあるが、二都市間の同盟はどの都市間でも結ばれるものであり、本エッセイでは採らない)。


 1340年代。

 地方ごとに成立した都市ハンザは85以上にもなっていたが、それらも徐々に「リューベックとその同盟都市」(=リューベック率いるヴェント都市会議)の影響を受け入れるようになる。


 1358年。

 リューベックの提唱によって第1回のハンザ総会が開かれる。ここに「ドイツ・ハンザ」を名乗る都市連合、すなわち「ハンザ」が結成されたとされるのが一般的である。本部は「ハンザ」の盟主・リューベックに置かれた。


 そもそも「ハンザ」の最終的な目標は「商圏なわばりの支配と独占によって、巨大な権益をハンザ商人に保証する」ことにあったと言える。勿論、互助的な側面も蔑ろにされてはおらず、(国外で捕えられたとか、国外の法廷に召喚されたとか、商品を没収されたとか)「ハンザ商人が不利益を被った時には相互扶助を提供する」ことも重要な目的であった。この場合の「不利益」には当然のことながら、交易先や在外拠点(≒外地の治外法権を持つ居留地区内に設置された活動拠点)の商人たちがそれぞれの属する都市――「国家」という意識が芽生えた後は国家――に泣きついたことで「ハンザ」に対して都市ぐるみ――「国家」という意識が芽生えた後は国家ぐるみ――の妨害や圧力がかけられた、といったことも含まれる。「ハンザ」に属する遍歴商人たちの交易が軌道に乗れば乗るほど、こうした圧力は激しく露骨になっていったのであった。


 こうしたことで「ハンザ」が「私的な●●●団体」であり続けることに限界を感じるようになると、それに対抗する手段として、「ハンザ」もまたそれぞれの本拠地である都市に庇護を求めたのも当然と言えよう。「都市ハンザ」の誕生である。後世「商館コントール」や「支所ファクトライ」といった学術用語で呼ばれることになる、いわゆる「ハンザ在外拠点」での成功こそが、「都市ハンザ」化への流れを後押しするものであったと言える。


 つまり「商人ハンザ」から「都市ハンザ」への変遷は、「商人ハンザ」と呼ばれたものが「都市ハンザ」なるものに進化したり変質したりしたということではなくて、「ハンザ」に庇護を求められたそれぞれの「ハンザ」の所属都市が庇護に対する見返りを目的として後追い承認してきたことで「周囲からの見られ方」が変わっただけの話であって、本質的な部分は「商人ハンザ」時代から何ら変わりがないままに、都市ごとの個別の私設団体であった「ハンザ」がそのまま都市の連合した一大勢力のような体を成したに過ぎない。そのために「ハンザ」は、強制力を持った政治的な都市同盟などではなく、強制力も何もない経済的な都市連合として扱われるのである。


 ちなみにハンザ史学上、ロンドン・ブリュージュ・ベルゲン・ノヴゴロドといういわゆる四大拠点のみを「商館コントール」、それ以外の中小拠点|(ヴィスビー・ストックホルムなど)を「支所ファクトライ」と呼んで区別してはいるが、呼称はあくまでも抽象概念に過ぎない点には注意が必要である。四大商館と一口に言っても、居留地区とは別の場所にきちんと専用の敷地や建物があった「ロンドン商館スチールヤード」【十三世紀~1598年】のようなケースもあれば、居留地区に隣接した教会を「商館コントール」扱いしていた「ノヴゴロド商館聖ペーター・ホーフ」【十三世紀~1494年】のようなケース、居留地区そのものを「商館コントール」扱いしていた「ベルゲン商館」【十三世紀~1754年】のようなケース、特定の居留地区はなくそれぞれが自前で間借りをしながら活動するというブリュージュ市そのものが「商館コントール」だったと言っても過言ではない「ブリュージュ商館」【十三世紀~1530年代】のようなケースもあったためである。


 こうした「商館コントール」の違いは、取引相手の違いに拠るものであった。これといった特徴のない「ベルゲン商館」(ノルウェー)はさておき、強力な王権を相手にしなければならない「出先機関」としての「ロンドン商館スチールヤード」(イングランド)は、当然のことながらそれに見合うだけの強力な組織である必要があった。「ハンザ」にとって信用のできないロシア人を相手に高価な毛皮の取引をしなければならないことから安全性を最も重視していた「ノヴゴロド商館聖ペーター・ホーフ」(ロシア)は、「商館コントール」は絶対に建物としても石造で頑丈であると同時に確実にロシア人を排除可能な「商人団所有の教会」(人事権も何もかもを商人団が完全に掌握していた、いわゆる「商人教会」)でなければならなかった。当時のヨーロッパ随一の先進地であり、政治的・経済的対立に常にさらされていた「ブリュージュ商館」(フランドル)は、対抗手段として「(別都市への)商館コントール移転」を視野に入れておかざるを得なかったことから、特定の居留地区や特定の建物を所有しておきづらい状況にあった。


 結束が緩く強制力も持たないという「緩さ」は、「ハンザ」の強みであると同時に弱点でもあったことは言うまでもない。そしてこの「緩さ」の弱点部分を補っていたのが、在外拠点の存在なのであった。



◆都市ハンザ時代【十四世紀半ばから1669年まで】


 こうして後追い的に「都市ハンザ」になりはしたものの――その主体が都市であれ商人個人であれ――、「ハンザ」はあくまでも「国」もしくは「国家」とかいう十五世紀以降に登場してくる新参の団体とは距離を置いた「貿易商人のための特権獲得団体(並びに特権独占団体)」のままであるから、基本的には「戦争よりも外交を好んだ」という。だから、交易拠点ではその拠点の領主である地元貴族との結びつきを重視しつつ、交易相手でありながら敵対組織でもある「国」そのものに対しては国王への献金や貸付の「代償」という形で、関税特権や鉱山の賃借権など、多くの特権を獲得し、「ハンザ」内で共有していった。


 それでも「商圏なわばり(=北海・バルト海地域)が平和であること」と「対抗勢力ライバルが登場しないこと」は最重要課題であったから、商圏なわばりの確保や既得権益の維持もしくは共有のためならば、武力行使――十年に及ぶ宿敵デンマークとの三度の戦争、ノルウェーでの略奪行為など――をも辞さず、いざヨーロッパ内のどこかの国家間で勢力争いが発生した時には「どちらか一方が完全な勝利を収めないように振る舞った」とも言われている。


 そんな「ハンザ」とリューベックにとっての真の意味でのピークは恐らく1370年5月24日、シュトラールズント条約調印の瞬間ではなかったかと思われる。勝者「ハンザ」(37都市)と敗者デンマークとの間で締結された条約である。これにより「ハンザ」はスコーネ(デンマーク)の市場を開放させた(しかもその保障として十五年もの間、スコーネ西岸を支配下に置くことができた)だけにとどまらず、デンマーク王位継承者選考に際して「ハンザ」の同意を求めることを義務づけることにさえ成功したのだった。そしてこの際に「ハンザ」の盟主として振る舞ったのがリューベックであり、名実ともにリューベックを「ハンザ」の盟主に押し上げたのがこの条約であった。


 最盛期(十四~十五世紀)には、「ハンザ」には200もの都市やドイツ騎士修道会、農民団などが加入していたという。しかし、国際連合の総会よろしくこれらの全ての都市や団体が総会に出席していたわけではなかった。総会に出席し財政にも寄与する都市が約70、それ以外の都市が約130であったというから、三分の一程度の都市で「ハンザ」は運営されていたことになる。こうした点も「ハンザ」の特徴の一つと言えるだろう。それでも、東はロシア(ノヴゴロド商館:毛皮・蝋・穀物)から西はフランドル(ブリュージュ商館:羊毛・毛織物)にイングランド(ロンドン商館スチールヤード:羊毛・毛織物)まで、北はノルウェー(ベルゲン商館:魚類・鉱物)から南はフランスやイベリア半島(塩・ワイン)にまで「ハンザ」の商圏は拡がっていた。


 しかし、十五世紀以降、ヨーロッパに「国家」意識が育ち、ハンザの交易相手が所属していた「国家」――オランダ・イングランド・スウェーデンなど――が中央集権化されていくと、それぞれの「国家としての利益」の追求を任された各国の商人たちが、国家間で直接貿易を行なうようになってしまう。中世の終焉である。供給地と消費地とを繋ぐ中継交易人に過ぎないハンザが海上交易の覇権を彼らに譲らざるを得なくなったのも必然であったと言えよう。


 商館コントールの没落を食い止められない、特権の取り消しに譲歩するしかないなど、あちこちにガタが来ていた「ハンザ」にとどめを刺したのは、ドイツの宗教内乱に端を発した「三十年戦争」であると言われている。

 なお、「ハンザ」滅亡までのカウントダウンは以下の通りである。


 1618~1648年。

 三十年戦争勃発により、各「都市」は生き残りに四苦八苦させられ、「ハンザ」どころではなくなる。


 1648年。

 三十年戦争の講和条約であり、「世界最初の近代的な国際条約」であるとされる「ウェストファリア条約」の締結により、主権国家体制が成立してしまう。これにより「ハンザ都市」の大半は「国家」に組み込まれてしまうことに。


 1663年。

 現代でも「自由ハンザ都市」を名乗り続ける三都市、リューベック・ハンブルク・ブレーメンが――「ハンザの縮小版」とも言うべき――三市同盟を結成。

 ハンザ維持のために身銭を切り続けながらついぞ補填されることのなかった盟主リューベックを筆頭に、「ハンザの名において」対外的に行動することをハンザ諸都市より委任されていた三都市は全ハンザのために忠実に行動し続けるも、ハンザの空中分解を食い止めることはできず。


 1669年。

 最後の――「振り返ればあれが最後だったな」という意味での最後の――ハンザ総会開催(三都市を含む九都市のみが出席)。

 三都市の努力むなしく、これをもって「中世ハンザは消滅した」とするのがハンザ史の定説ではあるものの、件の「三市同盟」が「ハンザを引き継いだ」とする見方もあるとのこと。



ノイエハンザ時代【1980年から】


 1980年に、何百とあったハンザ都市の一つに過ぎなかったズヴォレ(オランダ)にて、かつてのハンザ都市やハンザ商館を設置したことのある都市を対象に「新ハンザ同盟」が結成されたことを受けて、今回勝手に設定した時代区分。

 ハンザ本来の目的とされる貿易に加え、観光や文化交流なども目的とした「ヨーロッパ北部の小国連合」に過ぎなかったはずが、2018年以降からはイギリスが抜けた後のEUの「独仏主導の大国主義に対抗する」という想定外の役割も担いつつあるらしい。



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 本気で勉強したい方は、『ハンザ同盟―中世の都市と商人たち』(高橋理/教育社・教育社歴史新書/1980年)・『ハンザ「同盟」の歴史 中世ヨーロッパの都市と商業』(高橋理/創元社・創元世界史ライブラリー/2013年)・『ハンザ 12-17世紀』(フィリップ・ドランジェ【著】高橋理【監】/みすず書房/2016年)辺りを読まれたし。

 ちなみに繰り返し登場する高橋おさむ氏は日本ハンザ史研究会発起人の一人で初代会長を務めた方とのこと。

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