驟雨
槙野 光
驟雨
人形には、命が宿るという。
「ねえ、私の人形になってよ」
それが本当なら、彼女は俺に何を求めていたのだろう。
彼女と出会ったのは、驟雨の中でのことだった。
駆け込もうとした本屋はつい先ほど閉店したばかりで、軒下でひとり途方に暮れていた。
遠くの空も近くの空も、雨糸で編まれた薄布に覆い隠されている。何台もの車が目と鼻の先にある大通りをヘッドライトで照らし、タイヤの凹凸がアスファルトに溜まった雨水を跳ね飛ばす。ぴしゃ、びしゃ。耐えられないのだとでも言うかのように、雨音は徐々に悲鳴を増していった。
俺はそれを、ぼうっと瞳に映し出していた。
「すごい雨ね」
不意に齎された声に、右肩を僅かに跳ね上げた。
「ねえ、そう思わない?」
声のした方を見ると、腕一本分距離を開けた先にひとりの女性が立っていた。
宵闇のような黒髪に、白皙の相貌。紅色に染まった唇を滑らかに持ち上げ、稜線を描いたアーモンド型の目で俺を見ていた。
美しい、というよりはどこか艶かしく。吸い込まれる、というよりは呑み込まれる。怪しげ、というよりは神秘的。彼女は、本屋に置いてある辞書を全て捲ったとしても決して暴けないような、そんな雰囲気を纏っていた。
ただ、とても綺麗な人だった。
声を掛けられて、俺はなんと答えたのだろう。覚えているのは口角が上がった彼女の唇と彼女の手の感触だけで、俺の手に触れた彼女の指先は、隙のない見た目とは違い案外とざらついていた。
雨は、いつの間にか止んでいた。
彼女に連れられて足を運んだ店は、本屋から十分ほど進んだ小道にあった。木目調のドアを開けると、そこはカウンターだけの小さな洋食料理屋で、彼女の姿を認めた瞬間、カウンターの内側にいた男性が朗らかな笑みを浮かべた。
「ああ、いらっしゃい」
絵の具で塗りたくったような黒髪に、焦がした砂糖のような茶色の瞳。
彼は水色を基調とした縞模様のエプロンがよく似合う穏やかな雰囲気を纏った男性で、店内を包む橙色の灯は彼の笑顔から滲み出る内包的な暖かさによく似合っていた。
「久しぶりね」
背後にいた俺には彼女の表情は見えなかったけれど、その声は今し方止んだばかりの雨のようだった。それがあながち間違いではないと気付くのは、カウンター席に彼女と並んで座り、店主の彼を交えて話している時だった。
「そういえばこの前、嫁さんと旅行に行ってさ」
「えっ奥さんいるんですか?」
「いるわよね、運命的な出逢い方をした奥様が」
「運命的?」
「やだな、運命的だなんて。どこにでもある話だよ」
「やだわ、どこにでもあるだなんて。恋のキューピッドを前にして」
「どういうことですか?」
俺が小首を傾げると、彼が淡く頬を染めて目尻を下げる。隣で、彼女が檸檬水の入ったグラスを持ち上げるのが分かった。
こく、こく。そんな音で、喉元に流し込む檸檬水はどんな味がするのだろうか。
「彼の奥さん、私の会社の後輩なのよ」
とん、とグラスが小さな音を立てる。彼女の指はカウンターに置いたグラスから離れようとせず、透明色を通して見えるその指の腹は、冬の寒さに悴んだかのように赤らんで見えた。
「会社帰りにここに連れてきて、お互い一目惚れ。そこからひと月もしない内に付き合い始めて、半年もしないうちに結婚。今度、パパとママになるのよね? 私に感謝しなさいよ」
「いやあ。本当、真紀子ちゃんには頭が上がらないよ」
「敬いなさい、私を」
「ははあ」
頭を下げた彼を見る彼女の口が、きゅっと引き結ばれる。彼が頭を上げた時には元の滑らかな形に戻っていたけれど、彼女の真っ直ぐな唇がいつまでも灼きついて離れなかった。
誘ったのか誘われたのか。店を出て、シティホテルで肌を重ねた。事を終え、一糸纏わぬ彼女が化粧を崩さぬまま俺の頬に指を這わせる。
「ねえ、私の人形になってよ」
不意をついた言葉に顎を引いたのは、きっと彼女が笑っていたからだ。
それから俺は、彼女と逢瀬を重ねた。
俺からは誘わない。誘うのは彼女。待ち合わせ先はいつも本屋の前で、言葉少なに彼のお店に行く。そして、肌を重ねる。それが暗黙の了解だった。
出逢ってからひと月後。季節が夏から秋へと移り変わる頃、彼女からメッセージが届いた。
――終わりにしましょう。
その日を堺に、彼女は俺の前からあっさりと姿を消した。
まるで、驟雨のように。
始めたのが彼女なら終わらせるのも彼女で、俺に止める権利なんて初めからどこにもない。俺は彼女の人形で、持ち主に従順でいることが定めなのだから。
それでも、俺は今も本屋の軒下に立っている。雨なんてちっとも降りそうにない藍色の空を見上げアーモンド型の月を眺めながら、驟雨をずっと待っている。
――すごい雨ね。
雨は、まだ降らない。
驟雨 槙野 光 @makino_hikari
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