2.

 私は街を歩いていた、あれから随分と気分がいい、夢を諦めることはこんなにも簡単で楽だったのか、足取りが軽くなる段々と体が跳ねる不思議だきっと私の心は辛いはずなのになぜこんなにも高揚しているのか、わからなかった私は今何を考えて何がしたいのか私は今何でできているのか私の主成分であった小説を捨てた今私は何なのか、わからないことが楽しくなってきたわからないと言うことがわからなくなった。


 軽い足取りで街を歩くふと地面のコンクリートの色が変わっていることに気がつく、その部分だけまるで何かを覆い隠しているかのように、見せてはいけなものがそこにあるかのように、その地面を前にまっすぐ上を見上げる今にも私を潰してしまいそうなぐらい大きいビルが私を見下すように立っている、高層ビルというものだ。


 何となく思ったここで人が死んだのだ、なぜそう思ったかはわからないだがそう思ったのだ、そう思いたかったのだ、長年の習慣とは怖いものだ今必死になって頭の中で小説を書き上げている何の意味もないのにもう考えても意味がないのに衝動的にスマホをとし出しメモを開くどんどんと文字を書き連ねる書ける書けているもしかしたら話をかけるかもしれない心のどこかで高揚する。


 もしかしたら才能が全く無かったのでは無く私に必要だったのは一瞬の休暇だったのではないか、駆け足で家に戻る私の家は街から少し外れたところにあり徒歩で10分ほどでつける、そこまで行けばもう街の人混みもうるささもなく静かな住宅街だ私はこの家をかなり気に入っている、しばらく駆け足で走って家に着く、肩が上がったり下がったりを繰り返している最近運動などとは全くの無縁だったのでかなり息が上がる肩の動きがおさまるのを待ち肩の動きが段々と小さくなる。


 部屋に入りパソコンをひらくスマホのメモを開きながらパソコンの文書アプリに書き込もうとするメモの内容を読み返す、「つまらない」さっきまでは小説家を辞めた自分を疑いたくなるほどの作品だと思ったのにあまりにつまらないどこかで読んだことがあるようなそんな文章がメモに殴り書きされている、結局私は平凡だ、どんなことがあってもその事実はどうしても変えられない、才能とは持って生まれるもので自分で生み出せるものではないのだ、初めから努力する才能がなければ努力をすることなんてできない努力をしようとする努力すらできないのだから。


 また眠れない夜が来た、部屋の中には耳に詰まるほどの静寂が敷き詰まっている耐えられなくなり喉に力を入れる「あー」おかしな声が静寂を跳ね除ける、その声の持ち主が自分であることが信じられないほど聞いたことのない声だった、しっかりと自分の声を聞いたのはほとんど初めてと言ってもいいくらいだったこんなおかしな声をしていたのか、笑いが込み上げてくる気がつけば大爆笑をしていた自分が笑っていることに気がついたのは腹筋がピクピクと痛み始めてからだ。


 隣の部屋からこちら側の壁を叩く音が聞こえる、お隣さんとの関係は良好とは言えない状況だった、私がここに引っ越してすぐの時にも私の部屋から毎晩騒音が聞こえるとかでよく怒鳴り込みに来ていた、当然私には思い当たる節などないその時は引っ越しによる環境の変化からかいつも以上に眠れておらず引っ越してから一度も眠りになんてつけていなかった、夜はいつもただ外を眺めるか天井の模様を目でなぞっているかだったから騒音などなるはずがない、いつも怒鳴りに来た隣人にこっちの音じゃないと意見すると自分の声が自分でも聞こえなくなるぐらいの大声で怒鳴りつけられていた。


 最近はそんなこともなくなっていたのでおそらく彼は耳鼻科にでも通い始めたのだろう、だが今回に限りはおかしいのは彼の耳ではなく私の方だ、自分でもなぜ笑っているのか分からない、ただおかしかった自分という存在が生きているというこの状況が何かに没頭することができないという絶望が私にはおかしく感じたのだ、今思えばただの逃げだったのかもしれない、それでも笑うのをやめなかった。


 段々壁を叩く音も大きくなりついには玄関の呼び鈴が私の笑い声を掻き分け私の耳に届く、私は何とか笑いを耐えチェーンがかかったまま数センチだけ扉を開ける、すぐさま怒鳴り声が私の耳に突き刺さる男の人特有の腹に響く怒鳴り声だその声も私の笑いを誘った、下を見て肩を揺らしながら何とか笑いを耐えていた、少し顔をあげると私の目には一冬何も食べずに乗り越えられそうな栄養を蓄えた大男が見えるその顔はおかしくなるほど歪んでいて私はまた笑いが込み上げる、笑ってはいけない状況ほど人はおかしくなってしまうものだ。

 

 ニヤニヤと彼の顔を見ていると彼の顔が段々と沸騰するように赤く染まる、ついに爆発した先ほどよりも低く腹の奥で振動するような声で私を怒鳴りつけるこの状況すらもおかしくなってきた怒鳴り疲れたのか彼は真っ赤な顔のまま肩を揺らしている、彼の上がった肩がゆっくりと下され怒りに染まった顔に恐れという色がうっすらと塗られる「あんたイカれてる」その言葉を聞いても私は笑いが止まらない、彼は怖くなったのか「とにかく静かにしてくれ明日も朝が早いんだ」と今までの彼からは想像もできない声で私に語りかけた困った顔をしたまま彼は部屋に帰って行った。


 今になって思うもうこの時すでに私は壊れていたのだ、あの時そのことに気付けていればもっと何かが変わっていたかもしれない、そんなことを思ってももう遅いことなどとっくにわかっている。

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私は鶏肉 泡水 @awamizu

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