Call of moonshadow

 ウリアンは医師の家から出ると、豹のような俊敏さで寝静まった通りを駆けていった。喘息の咳で苦しむ母親の姿が頭から離れず、出せる限りの力を振り絞って走った。嵐が雨を伴って暴れ始めた頃に、ウリアンの母フローラは発作を起こした。症状は重篤で、全身に汗をかき、手足は冷たく、擦れた呼吸音を出す唇は紫色に変わり、口の端にはピンク色の混ざった泡が付着していた。心臓が激しく脈打って胸を圧迫するため、フローラは関節が白くなるほど強く胸元を掴んだ。


 ウリアンは母の介抱に勤しんだ。上半身を起こすのを手伝い、ゴーニュ医師から処方された薬を水に溶かして与え、咳が続く間ずっと背中をさすっていた。ウリアンにとってこの夜、嵐よりも恐ろしかったのは、母フローラの苦しみようだった。フローラの今の姿は、人生の理不尽に打ちのめされた痛々しい病人そのものといえた。顔から血の気は失せ、髪は細く、皮膚が骨に貼り付くほどに痩せている。


 今は見る影もないが、若かりし頃のフローラは男達が口を揃えて褒め讃える美人だった。浜に打ち寄せる黄昏時の小波を想起させる金髪が、きめ細かい肌に恥じらう乙女の赤みをさした顔にかかれば、男女を問わず目を離せぬ神秘さを輝かせた。彼女の美しき造形はウリアンにもよく受け継がれている。


 フローラは裕福な家庭に生まれ、何不自由なく過ごし、淑女としての教育を受けてきた。しかし、フローラは不幸な結婚をした。表向きだけの誠実さを装った男の熱烈な愛の言葉を信じ、家族の反対を押し切って結婚した。二人は小さな家に引っ越して、最初こそ幸せな生活が続いたが、フローラの妊娠が発覚すると、男の態度は急によそよそしくなった。そしてウリアンが生まれてすぐに、男は財産のほとんどを持ち逃げして愛人と姿を消したのだった。


 乳飲み子を抱えたまま取り残されたフローラは、家族に頼ることもできず、二束三文の家財道具にウリアンを乗せて、他所の土地へ流れていくしかなかった。各地を転々としながら一日を食い繋ぐ生活を続け、今いる町に流れ着いたのは一年ほど前のことだった。前にいた場所を去らなければならなかったのは、喘息を患ったせいだ。不衛生な環境と精神的な負荷が、彼女の心臓に病魔を植え付けたのだ。


 ウリアンは母親が病に侵されて弱っていく姿をそばで見続けていた。それによって、少年の生まれ持った実直で明朗な精神に、人生の無情たる暗い翳が差し込んでいた。


 今は心にかかる暗い影のことなど忘れ去って、ウリアンは母のために真夜中の道を、若く瑞々しい筋肉を躍動させ、息を切らして走っていた。切妻屋根の続く家屋の並んだ通りを過ぎると、正面には教会の尖塔が天を突き刺さんばかりにそそり立っている。尖塔はぐんぐん近づいてきて、その下の円錐屋根が姿を現し、石造りの重々しい雰囲気を漂わせる教会の聖堂があった。


 過去にはウリアンは熱心に教会に通い、身廊で跪き、主祭壇に鎮座する聖像に、母の病気が良くなるようにと毎日祈っていた。ある日祈りを捧げていた時にゴーニュ医師から声を掛けられ、事情を知った医師はすぐに治療に駆けつけてくれた。その日からウリアンはもっと実際的な存在に救いを求め始めた。科学と医療である。それ以降、教会に足を運んだことはなかった。


 教会前には円形の広場があり、中心にはオベリスクが置かれている。この町よりはるかに古い時代に造られ、海を超えた南方の地からこの場に運ばれてきたと言われている。四面には解読不能の古代文字と、頂部付近に月相を模した模様が彫られていて、満月に始まりに右回りに、右欠けの半月、三日月、左欠けの半月と続いている。


 ウリアンは広場を西に横切り、家と家の間の路地へ向かった。地面は様々な大きさの敷石が隙間なく敷き詰められた石畳に変わり、住民が投げ捨てた生活排水と雨が所々に水溜りを為している。ウリアンは水溜りを勢いよく飛び越え、時に迂回しながら路地の奥へと進んでいく。


 この辺りは文明の発展から見放された区画であり、敷石は欠けた箇所が多く、剥き出しとなった地面から雑草が生えている。建物はどれも古く、古色蒼然めいていて、太古の面影を宿しているようだった。翌日になって分かるのだが、この区画が嵐によって受けた被害は住民達が予想していたよりずっと少なく、瓦や窓ガラスが吹き飛ばされたり割れたりしたが、倒壊した建物は二棟のみに留まった。


 満月はいよいよ高く昇り、狭い路地にも煌々と月明かりが降ってくる。前方に何の用途で造られたのか今では誰も知り得ない石造りのアーチ門が見えた時、ウリアンは思わず息を呑み、全身の筋肉が硬直したように止まった。アーチの下、月光の遮られた濃い影の中から、一対の光る眼がウリアンを見つめていたのだ。


 (狼だ!)咄嗟にウリアンはそう思ったが、町中に狼がいるはずがないと思い直し、それなら野犬だろうかと考えたが、微動だにせずこちらを凝視する眼の位置に違和感を覚えた。犬や狼なら、地を這うような低い位置に眼があるはずだ。しかしあの眼はウリアンの背丈よりも高い、大人の目線と同じ位置にある。そして黒い瞳には野生の獣にはない理性の光と、頭上にある満月に似た冷たさを備えた知性の内在が感じ取られた。それに気づいた時、背筋を戦慄が這い上がった。もしかしたら、人ならざる何かに遭遇してしまったのだろうか。


「怖がらないでおくれ、坊や」


 闇が声を発した。影がわずかに蠢き、こちらに向かって動いているのが感じられた。ウリアンは緊張と恐怖で動けずにいたが、一瞬後に全く別の理由で動けなくなった。アーチの影から月明かりの下に現れたのは、一人の貴婦人だった。

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Crying Beast -Beginning- 阿陀弥肆朗 @adamisirou

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