Crying Beast -Beginning-
阿陀弥肆朗
The story has begin in the storm night
その夜は、今までで最も美しく、しかし本能的な恐怖を呼び起こすような夜だった。日没間近に東の空から雲が迫ってきて、空を覆い尽くした。重苦しい空気が町に垂れ込め、異様な静けさが人々の神経を嫌でも過敏にさせた。嵐の到来を予感させる天候の急変に、男達は仕事を早々に切り上げ、店仕舞いを終えると酒場にも寄らずに家路に着いた。女達は窓を固く閉じ、夫や子供を家に入れると、扉にも用心深く鍵をかけ、薄暗い室内に蝋燭を灯した。日暮れを告げる聖堂の鐘が鳴る頃には、往来や横丁には馬車も通行人も無く、痩せこけた犬が空に向かって吠え立てるのみであった。
嵐が兆しを見せ始めたのは、日が沈みきってしばらくしてからだった。遠くから雷鳴が聞こえたかと思うと、蓄えていた力を爆発させたかのように風が町に降りかかった。上下左右へと目まぐるしく方向を変え、風同士が絡まり、戦場の狂乱に似た唸りを上げる。町全体を大地から引き剥がし、海の彼方まで吹き飛ばそうとする勢いだった。凄まじい暴風は一時間足らずの間に半世紀分にも及ぶ被害を町にもたらした後、始まった時と同様唐突に収まり、死を思わせる静寂が戻ってきた。
町は惨状の様相を呈していた。老朽化していた建物の大半が崩壊し、木屑の山と化し、その破片を至る所に撒き散らした。町の人々は吹き荒ぶ風の音に耳を澄まし、兎のように怯えていたが、風が収まると一安心したとみえ、それでも囁くような小声で会話を再開し、やがて多くの者が蝋燭を消して早めの床に就いた。明日は朝早くから嵐の後始末に追われると分かっていたからである。町は災禍の時を過ごして安寧の眠りに落ちたと思われたが、眠りの浅瀬に足をつけている者の耳に、屋根の上で小人が走っているような音が聞こえた。足音は徐々に大きく、激しく鳴り出し、まどろみから目を覚ました者達は、大粒の雨が降り出したのだと気付いた。
嵐の第二幕は雨と風鳴りの共演だった。木々の葉が激しく揺さぶられ、雨粒が窓に叩きつけられる。夜のしじまは混然とした喧騒に取って代わった。時折暗い夜を稲妻の閃光が照らし出すが、刹那の強烈な光は、嵐の夜にあっては人々に恐ろしい幻影を想像させるもので、余計に不安にさせるのだった。雷、雨、風の狂乱。ほとんどの住民にとって、この夜は破壊的で荒々しく、地獄のように恐ろしい夜だった。
夜半を過ぎると嵐は過ぎ去り、町はこの夜三度目の静けさに包まれた。町の医師で高齢のゴーニュは眠りが浅く、嵐が立てる騒音のせいで寝付けずにいたので、蝋燭を灯して書き物机に向かい、紙にペンを走らせていた。玄関の扉を叩くような音が聞こえた気がしたが、嵐の名残がそうさせたのだと思い、ペン先に注意を戻したが、今度ははっきりと扉をノックする音が聞こえた。
「こんな嵐の夜に来客とは。急病人か、あるいはこの嵐が墓場から死者を起こしてしまったのか」
ゴーニュ医師はペンを置いて立ち上がり、蝋燭の燭台を持って扉に向かい、慎重に開けて外の様子を見た。外は穏やかともいえるほどで、風は落ちた葉を揺らすことすらなく、雲は一片も残らず消え、爛々と輝く満月の光が、玄関の前に立つ少年の顔を白く照らしていた。柔らかな金髪、丸みを帯びた優し気な目、着古した衣服から覗く手足は痩せっぽちだが、少年らしい溌剌さが内から滲み出ている。走ってきたのか、頬は上気して肩で息をしていた。
「なんだ、ウリアンじゃないか! 一体こんな夜にどうしたというんだ!」
ゴーニュは扉を開け、少年を中へ入れた。ウリアンという少年は中へ入るなり、早口で喋り出した。
「先生、夜分遅くに失礼かとは思ったんですが、どうしても先生の力を借りたいんです」
「構わんよ。お前さんの母親のことだろう。薬が必要になったのだな?」ゴーニュは承知顔で言った。
「そうです、先生。発作が起きてしまって、家に置いてあった薬はわずかで、それだけじゃ治らなくて」
「今日の嵐はひどかった。こんな夜では病人の容態も悪くなる。すぐに薬を持っていこう。お前さんは先に行って、母親を安心させてやるといい」
「僕が鞄をお持ちしますよ」ウリアンが申し出た。
「年寄り扱いするんじゃない。わしは走ろうと思えば、この町を一周することだってできる。具合の悪い病人を長く一人きりにさせておくもんじゃない。いいから、行きなさい」
ウリアンは一つ頷くと勢いよく外へ駆け出していった。ゴーニュは寝間着姿から着替え、処方する薬の入った薬瓶をいくつか見繕って診察用鞄に詰めると、コートを羽織って急いで外へ出たが、突然立ち止まった。辺りは全くの無音で、動くものは何もない。町は満月の光に青白く照らされ、夢を見ているように現実感が欠けていた。
「この夜は初めから何かが異常だ。この時期にこんな勢力の嵐は経験したことがない。それにこの月明かり! まるで昼間のように明るいが、影は見通せないほどに濃い。こんな不気味な夜には恐ろしい怪物が現れても不思議はない。墓場の土の下から這い出て、夜を彷徨い、生者の血を啜る怪物、ヴァンパイアが!」
ゴーニュは家へと戻り、先ほどまで座っていた書き物机の引き出しを開け、中に入っていた短剣を取り出した。かなり古い時代の品だと一目で分かる代物だった。柄には鎖の輪を連ねた十字の装飾が施され、革製の鞘から抜くと、手入れを怠っていない磨かれた刃が鈍色の煌めきを放った。四十センチある刀身は銀で造られていた。鋭さを保っていることを確認すると、鞘に戻し、鞄の中に仕舞い込んで、先に行ったウリアンに追いつこうと急いで追いかけた。
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