第3話

ハロルドが馬で去ってから、私は少なくとも10分はピクリともせず立ち尽くしていた。


――俺がダイアナを妻に欲しいと言ったら結婚してくれるか?


それは紛れもないプロポーズ。


女ならば飛び上がって喜ぶはずの愛の言葉に、私はどうしてこんなに狼狽えているのだろう。

ハロルドが嫌いなわけじゃない。

むしろ幼なじみとしてとても信頼しているし、男では彼より親しい者はいない。


けれど。


結婚とは、もっと心がときめいて切なくなるようなものじゃないの?


私はハロルドから受け取った呼子笛を首にかけると、地に張り付いたかのように動かなかった足を一歩踏み出した。

いつもは見張り台の上から見下ろす森の中へ入っていく。


「ハロルドが私のことを好き? そんな、でも……」


いつから特別な気持ちを抱いていたのだろう?

思い返すと、私にとっては何でもないやり取りもハロルドには心をざわめかせるものだったかもしれない。


たくましい膝を枕にして昼寝をしたり、食べかけのリンゴを二人で分け合ったり。

特筆するべきこともない日常の些細な出来事が、急に深い意味のあるものに思えてくる。


そういえば、隊の兵士たちとの恋バナで「強くて意地っ張りな女が好き」と言っていたけれど、あれは私のことだったの?

どう考えても強くて意地っ張りな女より、料理上手な器量良しの方が妻にふさわしいだろうに。


「はあ」


思わずため息がこぼれて、私はひときわ大きな木に寄りかかった。

不意に、茂みから小鹿が二匹顔を出して目が合う。

兄弟だろうか。


私にとってハロルドは兄であり、友だちであり、信頼できる仲間であり。

今、この世でもっとも大切な男は誰かと聞かれたら、間違いなくハロルドと答えるけれど、でもそれは恋心じゃない気がする。

そういうのじゃない。


「でも、本当は私も好きで自分の気持ちに気づいていないだけだったら?」


そう自問自答せずにはいられない。

物心ついた時からずっと一緒だから、恋愛感情の自覚がないだけかも。

実は私もハロルドが……?


「いや、やっぱりそんなんじゃない」


心の中を探ってもときめく気配はなく、胸のうちは冬の湖のように静かで冷たい。

未だかつて恋というものをしたことがない私は、そもそも恋ができない人間なのかもしれない。

ハロルドをはじめ、男ばかりの軍に属して6年が経つが、狂おしいほどの感情を抱いた男は一人もいなかった。


「心まで男になっちゃったのかな」


呟きながらぼんやりと遠くに視線をめぐらせると、ちょうど真正面に立つ木にハートの形の洞(うろ)が開いていた。

可愛らしい形をしているのに中は暗く何も見えない。

それはまるで迷子になった私の心のようだった。


自分は結婚に縁がないと思いきや、想像もしないところから湧いた求婚に私はとても戸惑っている。

戦場で数多の敵兵と切り結ぶ最中でも、こんなに心が騒いだことはない。


なんだか癪に触って、私は背負っていた弓と矢を取るとハートの洞に狙いを定めた。

力いっぱい引き絞ってから矢を放つ。


――タンッ!


小気味良い音を立てて矢は洞の真ん中に命中。

くだらない憂さ晴らしでしかないけれど、そうでもしなければ私は落ち着けなかった。


しかし。


――ヒュンッ!


放った矢に反応するように、何かが私の顏めがけて飛んできた。

とっさに顔をそむけたものの、それは左の頬をかすって木に勢いよく突き刺さる。


「!!」


声すら出ないのは、驚きより恐怖の方が大きかったから。

慌ててしゃがみ込んで見上げると、ちょうど私の頭があったところに短剣が刺さっていた。


誰かいる!


そう思ったときはすでに遅く、私の前に黒い影がものすごい速さで走り込んできた。

視界を覆うほどの大きなマントと飛び上がる人影。


殺られる……!


絶望したのは1秒にも満たない刹那。

体制を整える間もなく、私は地面に押し倒されていた。


右の目玉まで数センチのところに短剣の剣先が迫り、それを握る男は無表情に私を見下ろしている。

大柄な体躯はデーン人か。

肩を押さえてくる手の力は強く、抵抗するだけ無駄とわかった。


奴が隊を引き連れていたら私は終わる。

とっさに握った呼子笛は唇まで届かず、胸の上にあった。


「誰だ? スティッチランドの者か?」


切れ長の紅い瞳、スッと伸びた鼻梁、さらりと額にかかる漆黒の髪。

すべてが凛とした美しさを醸し出すのに感情のない声は冷たく、男は底冷えするような不気味さを漂わせていた。


「わ、我はスティッチランド軍少佐、ダイアナ・セルディックである。ゆ、弓の稽古をしていただけで、人がいるとは知らず、無礼をお許しいただきたい!」


このデーン人が庶民でないことは明らかで、軍人であっても相当な手練れであることはすぐにわかった。

軍の中で格のある肩書を持っていてもおかしくない。


許してもらえるかどうかはわからないが、土下座して事なきを得るなら何度でも頭を下げてやる。

両国の和平を崩すなとは、つい先日聞いたばかりの父上の命令。

来月、デーン国の王子と結婚するリリベット姫の顔が思い浮かんだ。


「女のくせに……少佐?」


しかし、紅い瞳のデーン人は私の心を簡単にかき乱す。

『女のくせに』とは何?

随分とバカにした言い方にカチンときた。


「お言葉ですが、私の弓はそこらへんの男どもより役に立つんです! ちょっと失礼じゃないかしら。女のくせにってどういうこと? アンタがどんだけ偉いか知らないけど、さっきの矢を見たでしょ。洞の真ん中にぶっ刺さってたじゃない」


イラつくと我慢できないのは損な性格だと私も十分わかっている。

一気にまくし立ててから、自分がまな板の上の鯉だと思い出して改めて後悔する。

紅い瞳のデーン人は表情ひとつ変えず、鋭い眼差しでじっと私を見下ろしていた。


「と、と、とにかく私はあなたにも、デーン人にも敵意はないから。その剣を引いてもらえるかしら?」


「……」


「本当よ、こんなところで私とあなたが争ったって何の意味もないじゃない」


「……」


「えーっと、言葉が通じてないのかな? わかるよね、わかんない? ハロー?」


「……」


愛想笑いをしてもまったくリアクションがない男は、不気味に無表情のまま私を見下ろすばかり。

やっぱり殺すつもりなのだろうか。


心臓の鼓動が段々と早くなるなか、男の後ろで茂みがガサガサとざわめいた。

その音に男が振り向く一瞬、私は握っていた呼子笛を思いっきり吹く。


――ピイイイイイッ!!


目玉を狙っていた剣先がわずかに揺れた。

私はそれを見逃さずに左手で短剣を思いっきりなぎ払い、間髪を入れず頭突きを食らわした。


「うッ!」


後ろにのけぞる男を突き飛ばして素早く木の陰に回り込む。

呼子笛に驚いた小鹿の兄弟が茂みを飛び越えて逃げていくのが見えた。


「ダイアナーッ!」


笛の音が届いたのか、ハロルドの声が遠くから聞こえて、男は取り落とした短剣を拾い上げる。

私が木の陰に隠れたと知ると、短剣を構えて腰を落とし少しずつ後ずさった。


そこに近づいてくる馬の蹄。

しかし、足音はなぜかハロルドがいるはずのスティッチランド領とは反対から聴こえてくる。


「何事ですか!」


低く刺すような声と共につややかな黒鹿毛に跨った男が現れた。

長いプラチナブロンドの隙間から青みがかった紫の眼が覗く。


敵が増えた。まずい。

馬上の男は剣を鞘から抜き、私は最悪のケースも考えて弓に矢をつがえる。


「何者だ! ここをデーン国領地と知っての侵入か?」


腹に響く低い声に、私は今さらのようにハッとする。

国境を越えている?

不意のプロポーズに動揺していたのか、まったく気づかなかった。

これじゃ、何を言い訳しても私が100パーセント悪い。


「ごめんなさい! ごめんなさいじゃ済まないのはわかってるけど、ボーッとしていて。でも、本当に敵意はないの。見回りをしていたらうっかり国境を越えてしまったみたい」


木の陰から少しだけ頭を出して大声で謝り倒す。

みっともないこと極まりないが、悪いのは私。何とか事を荒立てずに収めたい。


「女?」


プラチナブロンドの男が怪訝そうな声で剣先を少し下ろした。


「女だけど少佐です。少佐だけど、ぼんやりしてて国境を超えちゃったみたい……」


「どういうことです?」

「わからん」


首をかしげるプラチナブロンドに紅い眼の男も肩をすくめる。


「本当に本当に敵意はないの。だって、うちのリリベット姫がそちらのスヴェン王子に近く輿入れすることはあなたたちだって知っているでしょう? 今ここで争えば国を巻き込んでの騒動になるわ。私はそんなこと考えてもいない。お二人には幸せになってもらいたいし。本当にうっかりしてただけ。ごめんなさい!」


こんなに平謝りしたのは人生で初めてかもしれない。

目だけを覗かせて男たちを窺うと、紅い眼の男が短剣を収めて踵を返した。


「帰るぞ」

「しかし……」


プラチナブロンドが何か言いかけるのを聞かずに紅い眼の男は歩き出す。


「ほうっておけ」


二人は足早に森の奥に消え、辺りは急に静寂に包まれた。


「はあぁぁ……」


深いため息とともに、私は全身の力が抜けて座り込んでしまった。

なんて失態。なんて羞恥。

私が全部悪いのだけれど、これでもかと下手に出て媚びまくった自分が情けない限り。


「あいつら、デーンの軍人だろうけど……あんなのとは戦いたくないな」


紅い眼の男は相当な手練れで体も大きく、力だって強かった。

接近戦になったら、とてもじゃないけれど勝てる気がしない。


ふと思い出して大樹を見上げると、奴が放った短剣がそのままにあった。

抜いて握ったそれはずっしり重く、鍔の中央に王冠を被った青い獅子の細工が施されている。

上質な鉄で頑丈に作られているだけでなく、造形も凝っていて美しい。

ただの軍人が持つには出来すぎた代物だった。


「ダイアナ!」


そのとき、聴き慣れた大声が馬の足音とともに近づいてきた。


「大丈夫か?」


馬が止まるのも待たずに鞍を降りたハロルドは、私の肩や背に触れて無事を確認する。


「怪我はないか……これは?」


そう言って、左頬を撫でると指についた血を睨んだ。


「誰だ? 誰にやられた?」


ワントーン低くなった声には荒ぶる感情がにじみ出ていて、私は慌てて首を振る。


「違うの。私がいけないの。国境を越えていることに気づかなかったから。相手は少し牽制しただけよ」


あの紅い眼の男がただの見回り兵とは思わないが、ハロルドにはそう伝えるしかなかった。


「お父様の命令にもあったでしょ。何かあっても事を荒立てるなって」


言いながら、私は青い獅子が彫り込まれた短剣を手拭いに包みベルトに差した。


「ちょっとボーッとしすぎたのかも。早く帰りましょ」


ハロルドの馬に跨り振り返って言った。

釈然としない顏のハロルドはまだ何か言いたげだったが、促されるまま私の後ろに乗る。


「お転婆も大概にしてくれよ。お前に何かあったら俺がセルディック公にぶっ飛ばされるんだからな」

「だって、ほんと気づかなかったんだもん」

「あのなぁ……」


いつもと変わりないハロルドとのやり取りに私はホッとする。

見渡す限りの緑は平和そのもの。

ざわめいた心は少しずつ落ち着いていった。




――それが、私と“彼”の出会いだった。

最悪で凶悪でみっともないやり取りは、お互いに強烈な記憶を残してロマンティックとは程遠いものだった。

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荒ぶる獅子女と奥手な乙女男(仮 沙木貴咲 @sakikisaki

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