わたくし時間トゥ・ヒム・イン・セカイ、あるいは記憶の街で会いましょう

カクヨムSF研@非公式

わたくし時間と貴時間イン・セカイ

わたくし時間、午前九時となっていますが、貴時間、午後四時の藤原様はご在宅でしょうか」

「お待ちください、時刻差、現在十二分となっております。保留音のあいだ、お待ちになりますか」

「ではそれで」

 朝日が昇る恵比寿の会社で、夕日の沈む神保町に繋ぐ。

 コーヒーを作ってしばらく待つことにした。サザンオールスターズのTSUNAMIが流れているあいだ、デスクに座り込んで、コーヒーを飲み干すと、くるくる回る気晴らしのオモチャが私の心を和ませる。出社時間まではしばらくあるというのに、もうすでに六割の社員がタイムカードを切っている。デメキンの異名を持つ上司、勅使河原てしがわらはすでに出社済み、と。

 かつて時間の神さまが、言葉を乱した神さまのように、人々の時間を乱した。世間には三度恋人を老衰で失くした少年や光の速度で一生を終えていくサラリーマンや異なる時間のために戦争している国々がある。幾重にも折り重なった時間が、共通の時間を取り戻すために人類は大型ハドロン衝突型加速器を過加速させたり、仮想現実のなかに基数を用いて数学的存在ナンバーズとして同期させたり、さまざまな試行錯誤を繰り返した。それでも私たちには共有できる時間など無く、スピンネットワーク・テクノロジーで時間を共有するようになった。時刻共有サービスがまさにそれだ。どういう仕組みなのかは交換手しか知らないことだが、私たちの時間のズレを誤差三時間まで埋めることができるらしい。

「藤原です、西村様でしょうか」

 思考が途切れていることに慌てて気づき、電話へと意識を戻した。途端にどっと緊張して、話すことメモを見ている。予定アプリに視線を移す。きょうは花火大会か。行けないだろうな。雲がタイムラプスで動いていく。

 星の見えない外の明かりは、無数の反対側の街の明かりでいっぱいで、星など見えなくてもいいのだと、私の心に風を吹かせる。時刻共有サービスにもう一件、連絡するところがある。それはずっと前に旅立った、彼との電話だ。

 もうずっと前、二十年前の春に、桜の木の下で私と彼は約束した。何を約束したかは思い出せない。ただ幼い、あどけない私たちはきっとつまらない約束をして別れたのだと思う。彼の微笑みの裏に何が隠されていたのかは知りようもない。

 私たちは電話を時々した。

「いる? 透君」

「原田か、何かあった?」

 相変わらず、朗らかな声色だ。もう彼の顔も写真で確認しないと分からなくなっているけれど、声はそのままな気がする。原田と呼ばれるのも久しぶりで、なんだかくすぐったい。

 相川透は私にとって何者なのか。友達だ。ずっと繋がっていたかった友達だ。高次元に折り畳まれたあの海を一緒に見た彼とはもう離れ離れになってしまった。

「原田、聞いてる? ゴジラ松井って凄いんだなぁ……」

 もう誰も驚かなくなったホームラン王の話をする相川君を見ると、子どものときテレビのまえで一緒に野球観戦した思い出が深く蘇る。今だったら大谷翔平が凄いんだよ、なんて子どもの私なら言ったかもしれない。限りなく速くなった硬式球をゆるやかなアーチを描き、ホームランにする彼の姿を。

「古くさいよ、いまどき松井の話なんて誰もしないよ」

「早く大人になっちまったのはそっちのほうだろ?」

 交換手が時を告げる。

「時刻共有サービスです。こちらの電話番号は残り十分で、通話時間が限度を超えます。続けてご使用なさる場合は一を、止める場合は二を押してください」

 何度だって帰れるかもしれない。あの時に、あの場所に、桜の木の下でなにを彼と約束したのか思い出せるかもしれない。彼に一度聞いてみたけれど、はぐらかされるばかりだった。

 勅使河原がどっさりと書類のデータを置いていったのが、勅使河原時間で午後五時のことだった。時間の差こそあれ、時刻共有サービスでそれほど時間が経っていないことを説明すれば、なんとか誤魔化せるかもしれない。私は書類の束を処理しつつ、勅使河原に時刻共有サービスを使ってみる。

「西村か、何の用だね?」

 ――イヤミな声だ。ねの音の語尾が下がる。勅使河原がすごく苦手だ。

「勅使河原さん、すこし書類の提出期限を延ばして頂きたいのですが……」

「西村、注文が多いとは思わないかね?」

 私は、はい、はい、を繰り返すばかりだった。作戦失敗だ。勅使河原とは時間のリズムを取れば基数として濃度が等しかった。そうそう嘘が通るはずもない。

 今日の花火大会、どうしてそんなに行きたいかというと、相川君が花火の話をしていたからだ。相川君の意識の見ている夏は、こんなに暑くなくて、むしろ夕方は涼しいくらいで、海風が心地よかった。潮の香りが川沿いを漂い、どこからか映画館のポップコーンみたいな色のついた匂いがして、心が華やいだ。

 思い出のなかの夏だった。

 もう過去になっている時間がいつだって問いただしている。もう期限切れの思いがどうにもポケットの中で疼いて離れない。相川君はどうしてるだろう。相川君は松井のホームランアーチを見ているかもしれない。私は夜がものすごい速さで迫ってきていることに動揺している。あっという間に私の就業時間で、人の影も、オフィスには見えないだろう。

 もうなんだっていいや。

 私は時刻共有サービスで相川君に電話をかける。二回ベルが鳴ってから、マンホールの形が妙に丸いなと思って、その下の水の音が川沿いに続いていく。私はあの時間に近づいている。相川君が見上げる花火の空は私の見上げる空とまったく同じなのだろうか。相川君の声が聞こえた。

「原田?」

 相川君は走っているようで、息が荒い。電話の向こうでなにが始まっているのかが掴みにくい。相川君の時と、二十年後かの私の時が花火の打ち上がる音と重なる。

「あ……」

「あ……」

 ふたりで同じ反応をしておかしくなってしまう。

 相川君がふふって笑って、私もふふって笑った。花火の色までは電話口から伝わってこないけれど、私たちは思い出を分かち合った。相川君の意識は遠い銀河のさきにあることを知っている。知識で知っていることと分かっていることは違う。彼はいつもの相川君で私が知っている親友だった。相川君が意識を変えたら、もう彼の時間は遠い旅路の果てにある。相川君は野球を見ている彼では無くなって、私は仕事場で黙々と仕事を熟す機械みたいな生活に戻るだろう。

 打ち上がった花火の音が頭の中で何度も鳴っては消えていく。時刻共有サービスが限度時間いっぱいになった。

 私は二度目のさよならを言う。

 相川君、また会えるよね?

 そう思って、会うことなんてできないと知っている。私たちの時間は花火の下から始まって遠のいていく。季節が何度巡っても、アキレスと亀のように私たちは追い抜かれることのないレースを走っている。

 この距離をどうにだって私たちは克服できない。


 ●


「時刻共有サービスです」

「私時間、午後九時となっていますが、貴時間、午後八時の西村隆也と繋がりますか」

「お待ちください。時刻差、三分となっています」

 花火の余韻が胸の中にある。私は普段の時間に戻ろうとして落ち着こうとする。隆也はきっと今頃電車のなかかもしれない。繋がって、言葉を交わす。いつもの私、いつもの関係、大人同士だ。甘えた声で隆也に愚痴をこぼして日常に帰る。三分差という気軽さが私と隆也との親密さだ。

 きょうはスーパーでお惣菜を買って帰ろうと思って、隆也に伝えた。隆也は朝食のパンと野菜ジュースを買って帰ると言って、通話が途切れた。

 ホームの電光掲示板が点々とした時刻の列車運行を伝えている。超音速で、あるいは低速で走る電車が私の時間を飛び越していくようだ。その様子さえ、私には届いていない。ダイアグラムを人工知能が制御しているとはいえ、私の列車が来るまで遅い。

 アプリで深宇宙探査機の軌道を見ている。

 相川君の意識がどうしてるかという思いが脳裏に掠める。

 その思いはやがて霧のように消え、列車がやってきた。

 時刻共有サービスによって時間の統計情報が集められているからこそ、電車のダイアグラムが人々の時間の最小公倍数的な運行時間システムを維持している。列車に揺られながら、列車の到着時刻を確認する。遠のいていく仕事場近くの雑居ビルの明かりが遠くの山沿いの点々とした街明かりに変わっていく。

 真っ暗にならずに人がいるなら、光もそこにある。

 列車を降りて乗り換えるためにもう一度列車を待つ。

 星は見えない。小学生のときに訪れた軽井沢で星はよく見えたと、ふと思う。

(一等星を見に行こうと言ったのは誰? )

 相川君だった。彼が一等星をいっしょに見ようって言って、みんなの列から離れていって、手を引かれて、私と相川君は二人きりになった。

 相川君は急にピッチャーみたいなフォームで夜空にボールを投げるふりをした。彼は星しか見てなくて、何も見えてなくて、つまらなくて仕方がなかった。ふたりで先生に怒られて、夜中にいっしょにレモンスカッシュを飲んだ。野球選手の話を朝までして、二人だけの時間があの時まで存在していた。点々と、何でもないいくつかの記憶が現れては消えていく。

 彼は確かに遠い世界にいる。

 部屋の鍵をくるりと開ける。隆也はシャワーを浴びているらしい。私は買った物を冷蔵庫に入れて、買った卵がひとつ割れていることに気づいた。ちぇっ、とこぼして熱湯の中へ卵を入れた。卵がゆであがる間に、服を着替える。皺の寄ったジャケットにハンガーを通して、テレビをつける。数時間前のニュースのなかの選択肢から、気になるニュースを選んでぼんやりと眺める。マディレ民主国の排他的時間領域にバーリエストルの護衛艦が侵入したらしい。日本もPKO活動でマディレ民主国に国連を介して平和維持軍を送ると閣議決定した。世界は動いている。

 滅多にかかってこない時刻共有サービスが急に鳴りだした。

「は、はい。西村香織です」

「もしもし、西村香織です」

 同姓同名の人物か? 私は少し考えて言葉を発した。

「なにかご用ですか」

「ちゃんと説明するわ。混乱するわよね。私はあなたよ。正真正銘のあなた。正確には三十年後の私だけど……」

 少し戸惑った。

 時刻共有サービスにこんなことができるなんて思いも寄らなかった。私は未来の私と話してるなんて! 

「香織、あなたに話したいことがある」

「なんでしょう?」

「相川君はいなくなる」

 目の前が真っ暗になった。

「私の時代には相川君との時刻共有サービスは出来なくなっている、そのことを伝えたくて……」

「相川君はどこへ?」

 三十年後の私はなにも言わない。鍋がぐつぐつ音を立てている。その音だけが部屋に響いている。

「相川君にはもう会えないってことなんですね……」

 仕方ないかもしれない。相川君は過去の時間を生きてるひとで、遠い、それこそ銀河の果てを進む探査機に同期させられている魂なのだから。

 三十年後の私は気まずそうに黙っている。

 カタカタと卵の殻が鍋に当たる音だけがしている。

 私は受話器を持ったまま、ガスのつまみを回し、ぱっと火が消える。湯気が眼鏡に当たって辺りが何も見えなくなる。眼鏡を取ってぼんやりとした視界のなかで答えを待ってる。

「相川君は私たちの世界から完全に消えてしまうわ。それでもいまを大切にしてちょうだい。私はもうあの瞬間には行けないから」

 あの瞬間ってなんだろう。私は聞き返そうとすると、時刻共有サービスが限度時間いっぱいであることを知らせる。未来の私は相川君と私にとって大切ななにかを知っている。何なのかはわからないままで。

 私は時刻共有サービスがただ時間切れになっていくのを黙って待っていた。三十年後の西村香織に興味さえ湧かなかった。彼女がどんな気持ちで私に連絡してきたのかだけが気がかりだ。すべてが過去になってしまったらと思うと私は怖くなる。

 隆也がシャワーから出てきた。タオルでごしごしと身体を拭き、リビングで茫然と立ち尽くしている私を見ている。目が合ったところで、私は作り笑いをして、お惣菜を冷蔵庫から出した。三分間の時間差が私と隆也の溝を淡く塗り潰していく。隆也はおっとりした人で、私の気持ちには気がつかない人だ。

 煮物の味はすこし薄かった。

 そこからのテレビのバラエティ番組の笑い声も、隆也の話す声さえも聞こえなかった。隆也には相川君のことは伝えてなかった。彼のことを教えてもいいのかずっと悩んできた。胸が苦しくなって涙が溢れる。

「香織、だいじょうぶ?」

 心配する隆也をよそに私は言葉を濁した。

「うん、分かってる、分かってる……」

 落ち着いたところで温かいお茶を隆也が淹れてくれた。

 私は相川君のことを隆也に話した。どんな反応をされても仕方ない。相川君は私の大切なものの一部で、その思いをずっと抱えて生きてきたんだから。

 隆也は黙って聞いていた。その夜、ベッドで横になって隆也と手を繋いで眠った。

 でも三十年後の私からの不思議な時刻共有サービスの話はしなかった。

 

 相川君の軌道のさきには、何もない。

 いや、ダークエネルギーが支配する空間が広がっている。目に見えない宇宙を支える力が支配する空間に相川君の意識は飛ぶ。そんな未来がいつか来る。その先はきっと暗闇だ。

 相川君はいつも通り、松井秀喜の話を長々と話している。

 時間がない。相川君に何から話せば良いか分からない。相川君、もうあなたは私の手の届かない場所まで行ってしまう。あなたの意識は途絶して、帰ってこない。そのことを伝えるのに、こんなにも勉強しておけば良かったって思ったことはない。

 野球選手の話を楽しそうにする相川君へ言った。

「相川君、もし、連絡が取れないようになったら、どうする?」

 相手に委ねるようなズルさが憎い。

「原田、もう終わりってこと?」

 ちがうよ、私が言いたいのはそんなことじゃない。

「あのね……、相川君は消えちゃうんだよ……」

 真実を話した。相川君の声は震えていた。怖いんだ、男の子だって。

「原田、ひとりの時間を過ごしていた俺に君はずっとそばにいてくれたよな」

「うん」

「連絡が途絶えるって、それって死ぬってことなのかな?」

 突然の質問に何も答えられなくなる。

「そうじゃないって思う。三十年後の私から見たら、相川君と私の交差点はなくなるってことなんじゃないかな?」

「そっか、なら今すぐってわけじゃない」

「相川君、もっと楽にしていいんだよ?」

 彼は息を継いでから言った。

「原田、女の子と付き合うってどんな感じなのかな」

 ぽつりと相川君は呟いた。つまらなさそうな、上の空の声で。

 相川君だってそういうこと考えるんだ。ホームランアーチの話より、もっと彼と話がしたくなった。相川君は頬を染めているかもしれない。いろんな彼の顔が見たかった。

「じゃあ、一週間、この香織様がガールフレンドになってあげようか」

 ふふっと彼は笑った。

 それからはずっと電話をして、思い出を作った。ガールフレンド、彼女、そんな響きに満足していた。もうずっとと思っていたことに気づいた。隆也への気持ちもほんとうだし、相川君への気持ちもほんとうだった。

 航空宇宙局の知らせが来たのは寒い朝のことだった。深宇宙探査機ヘルベイオンはダークエネルギーが集中すると言われるD領域へ侵入するらしい。そのあいだの通信は途絶し、相川君からの連絡はできない。これが正式なヘルベイオンの探査の始まりだと担当者は熱っぽく語ったが、取り残された相川君を思うと、ずきずき胸が痛む。

 私は時刻共有サービスを何度も利用したけれど、その通信が一切、彼に通じることはなくなった。松井の話を楽しげにする彼の声が聞きたい。もう何にも私には残されていなかった。

 花火大会の日がまた迫ってくる。打ち上がる大輪の花が、彼とのたったひとつの思い出を蘇らせる。どうして彼は走っていたんだっけ。思い出そうとする。そうだ、あの日は私と彼が喧嘩した日だった。

 ふたりで示し合わせた時間に彼が三時間遅刻してきた。

 そういう日だった。彼に異変が起こって、顕在化した。

 ちょうど彼の時間が私と明確に違うのだと気づいた日だった。

 忘れていた傷が痛み出した。

 記憶の隅でいつも私はひとりで待っていた。あの時間の孤独をなんとか忘れるために生きてきた。相川君がいない時間がこんなに寂しいことだなんて思ってもみなかった。

 待ち合わせなんて似たもの同士の人間しかできない。

 私と彼が違う人間だなんて嫌だった。

 ずっと同じで、そばにいて、未来が続いていくのだと思ってた。

 私は花火大会の日に、彼から逃げ出したんだ。いっしょに花火が見られたのが大人になってからなんて、皮肉だ。

 私は自分から桜の木の下で彼にさよならを言ったんだ。もう会うことがないって約束まで取り付けて、ふたりにある距離がとても遠いのだと知ったから、私は彼から逃げ出したんだ。

 ヘルベイオンの軌道がD領域へ入ってから、一年があっという間に過ぎて、二年目の夏が過ぎた。海風の匂いが鼻をくすぐる。もう何も残されていない、暑さも虚しさも退いていかない。

 私は、もうダメだ。缶ビールを片手によろよろ川沿いを歩く。隆也のいる部屋に戻って、抱きしめてもらいたい。紫色の雲が、世界を潰そうとしているみたいだ。

 ヘルベイオンのアプリも、アンインストールしてしまった。私にとっての大切なものはもうどこにもない。

「時刻共有サービスです」

 ふいに鳴りだした電話に驚く。着信はどこからだ。勅使河原からだったら、川に電話を投げ捨ててしまおう。

「……うっ……」

 少女の声だった。めそめそしてる。

「原田香織です、彼と喧嘩しちゃった」

 紛れもなく過去の私だった。


 ●


 彼女は二十年前の私だった。未来に生きている私に、何が出来るっていうんだ? もう相川君のことは過去になってしまった私に。

「どうして私なの?」

「交換手さんがそうしなさいと言うから」

 番号を共有するなんてプライバシーもへったくれもないな。私はため息をついた。

「あの……、未来の私だったら相川君に謝れるって思った」

 どうしようもなく真面目で愛おしい、過去だ。

 でも私は彼女の、原田香織の頬を叩いてやるしかないんだ。もう答えは決まってる。

「彼を追いなさい。彼に届くのはもうあなただけなんだ……」

「でも……彼は」

「関係ないよ、私、知ってるよ。原田香織がほんとうは寂しがり屋で相川君のことを想ってること」

 めっちゃ照れくさ……。言ってやらなくちゃ。

「時刻共有サービスをうまく使うの。三時間なら誤差よ、誤差」

 そうだ。私たちに空いた距離は決定的じゃない。テクノロジーで埋められる。あれからふたりの距離はとても遠くなってしまった。もう届かないほどに、だからあの花火をいっしょに見られたなら私は相川君にほんとうのさよならが言える。いや言ってやるんだ。

「ねぇ、香織って呼んでいい?」

 尋ねられてドキッとする。

「いいよ、何?」

「香織さん、相川君のこと、いまも好き?」

 ひとつ息を吐いた。もう言ってしまえ。

「ずっと松井秀喜のことしか喋んない人だけど、好きだよ」

 沈黙ができた。電話口のむこうで彼女が笑った。

「わかった……がんばるよ。相川君を引き止めて、いっしょに花火を見たい」

 見えないけれど花火は今頃フィナーレだろう。緊急メッセージがスマートフォンに通知される。バーリエストルがマディレ民主国首都ラルマニーンを制圧した。ある時間がある時間を従わせ、世界は動き出す。

 あの日の相川君にはもう連絡がつかない。それでも過去が変わったはずだ。信じるしかないのだろう。

「時刻共有サービスです」

「まだいたんだ。あなたは?」

「よく頑張ったね、西村香織さん。交換手の西村香織です」

 良く通る声の割りに年齢を感じさせる威厳があった。

「そうだったんだ。未来の私が……」

「私用で仕事を使うことなんて出来ないからね。最小限の介入をしたの」

 うまいこと出来てる。未来の私たちがなんとかして原田香織に勇気を出させたんだ。未来の私は低い声で言った。

「すべて過去になってしまうことだった、相川君とのことは」

「未来でもそうなんだ……」

「ええ、私たちがいくら頑張っても彼の時間は、人間の耐えられる時間のさきにある。肉体は無くなって、彼の意識はずっと記憶の街にいる。ヘルベイオンに同期された相川君の意識は十分複雑で強力な記憶の上にある。超記憶とも言うべきもの。ヘルベイオンが見せる幻は、現実の光景と記憶の光景とを見まがうほどで、相川君がパイロットになってからの間、彼にとって私は記憶の街で出会う存在だった。慣習とはふしぎなものね。いくら追っても届かない私に、相川君は時刻共有サービスで連絡していたらしいわ。彼と私にとって、すべてあの花火の日で交差点を無くしてしまう」

「でも知ってるよ。原田香織がうまくやれたとしても時間は戻らない。私たちは私たちの現実を、相川君を亡くした世界を生きるしかない」

 世界に潰されてしまうような気分だ。もうやってられない。

「そうね、でも知ることはできたはずよ。私たちは時のなかで忘れながら生きていく。それが良いことなのか、良くないことなのか、あなたは知ってるはず」

「良くなんてない……。だって私は、戻りたいよ……」

 くそっ。くやしくて堪らない。

「お願い、相川君に、メッセージを入れさせて」

 何でもいい。ただ伝えたい。相川君に馬鹿だって、お人好しだって、探査機に乗らないでって、そばにいてって……。

「わかったわ、それは今のあなたにしか出来ないこと」

 相川君へのメッセージを残すと、夜空の星が次第に大きく輝いて、一等星が明るく光った。すると硬式球が空から落ちてきた。

「これはいったい?」

「きっと素敵なことよ」

 拾ったら、そのボールは消えてしまった。どこかで子どもたちの笑い声が聞こえた気がした。


 D領域を超えたヘルベイオンからの知らせを聞いたのはずっと後だった。相川君とはそれきりでヘルベイオンの意識は無くなって、機械の返信音しかしなくなったらしい。ダークエネルギーは未知のエネルギーでは無くなって、反発する重力が宇宙を構成するフィラメント構造を支える力なんだとかなんとか。

 私は時刻共有サービスの交換手を勤めて三十年目だ。あの年齢での転職は思い切りが良すぎたと思うが、この職業は気に入っている。

 人が人を思うとき、このサービスがある。

 私は戻らなかった過去を抱きしめて生きている。

 次の仕事だ。

 機器からよく見知った声が響いた。

「私時間、午後三時の相川香織です。貴時間、午前四時の相川透に繋いで貰えますか」

 原田香織が、あの日からの私がどんな思いでこれまでの時間を、相川君との時間を繋いできたか、その苦労は想像し難い。

 いや、苦労だなんて言えるのはちょっとした負け惜しみだ。

 私は頑張ったんだ。知ってるよ。

 想像するんだ。ホームランアーチを二人で見た感動や、言葉のキャッチボールを繰り返す難しさや、夏は花火を見たこと、繰り返す春は桜を何度だって見て、笑い合って時間を過ごしたのだろう。そういう現実があるんだと思うと勇気が湧いてくる。

 相川君の声は優しかった。

 ――私に気づいて。なんて、言わない。あなたがそこにいてくれて嬉しい。

 ヘルベイオンの意識がもうそこにはないと知っている。ヘルベイオンをアプリで眺めるとき、からになった容れ物が宇宙の仕組みを解明してくれると願っている。それまで私が離れた時間を繋ぎ止めるんだ。

 私は交換機を手で押してスライドさせていく。

 世界一般では、時間と空間は分割される。限りなく時間の意味は透明になる。空間量子が連続することであらゆる出来事の網目ができて、そのあいだで事象が発生と消滅を繰り返している。時間は一様な織物ではない。アインシュタインの頃から知られた事実だけれど、時空としてひとつのものという認識も間違いだ。

 空間量子が相互作用しあって、透君の知らないずっと未来と永遠にも近い過去を連結させ、新しい因果律を生成し、時間はスピンネットワークを構成した。ふたりの時の流れの速さは逆転する。

 誰でも骨になるのは宿命だ。時の向こう、相川君と出会う。相川君はあっという間に歳をとって、野球の話を繰り返し何回だって彼女にして、一等星も、花火も、桜の木も、遠近法の彼方へ、すべては終わっていく。記憶のなかで広がっていく。彼の頭は禿げ上がって、顔に皺が寄って、腰が曲がって、蹲ったままの姿勢で咳き込み、ある朝、冷たくなった体を横たえているのを彼女が気がついたのだという。

 ネットされた事柄はマディレ民主国軍が首都ラルマニーンをバーリエストルから奪還した朝と重なる。時間戦争が世界の思わしい方向へ好転したのだ。バーリエストルへは国際的な非難が集まっていた。

 三十年かそこらの私時間のあいだ、バーリエストルとマディレ民主国ではマディレ民主国側で十五カ月間の時が経過していた。マディレ民主国は首都占領時には、バーリエストル統治政府が樹立し、言葉や文化、女性の地位も、バーリエストルに染められていた。ただ、その時間だけはマディレ民主国が固有のものとして存続させられた。時間だけは蹂躙されなかった。

 その裏で私たち世界の交換手たちがどれだけの努力をしてきたかを考えると目頭が熱くなる思いがする。時間の戦争はまさに時刻共有サービスの軍事転用の時代だった。時刻を共有することによって生まれる時間の端と端という概念は弾道ミサイルや巡航ミサイルの計算に使われた。これまでに様々なオペレーションで交換手たちが本意ではない計算を強いられた。私はそういう時代を生きた。

 ある意味で宇宙というフロンティアへ旅立った相川君は私にとって羨むべき存在だった。過去の私が抱えていた葛藤も、忘れることでなんとかしていた。相川君は希望の時代を生きている人で、私は絶望の時代を生きている人間でしかなかった。私たちは似ているようで立っている場所が違っていた。

 希望の時代に連れてきてほしかった。それが叶わないと知っているから、ささやかな願いだって。

 同時が存在しないからこそ、私は相川君との記憶を大切にしてきた。時刻共有サービスの交換手となって同時を手に入れてもなお、何度も何度も彼を思い出した。

 これまでの私と記憶が鮮明に完全な記憶の街をつくるほどに――。

 記憶が都市や運河を作り、広がるタワーマンションの群れや上空を飛ぶカモメを作り出した。モザイク状の家々のとなりに停めてある乗用車も、川を進む水上バスも川べりに落ちている潰れた空き缶や風に舞うビニール袋も、読んで捨てた新聞紙も、ホームレスの寝息さえも作った。電信柱に寄せたごみ袋にカラスが群がり、その瞳は青空を映した。

 学校へ行き、相川君のいない街で生活した。友達とつまらない話をして、夕焼けが街を染めて家族と夕食をとった。スマートフォンに入った時刻共有サービスを眺めて、夜が更けていく。ひとりぼっちの月の下で眠った。そうして朝が繰り返す。それが一週間になり、一か月になり、一年になり、十年になった。そして、三十年が過ぎた。

 相川君は帰ってこないって諦めてた。だから思い出の夏、記憶の街で彼に呼びかけた。彼の姿は子どもの姿で、ときどき大人の姿で、その姿ははっきりとしていなかった。私の視界に入る彼は相川君でそれ以外なかった。私たちはふたたびあの時みたいに知り合えないのだろうか。

 相川君を失うのは、もう嫌。 

 交換機をふたたび作動させる。相川君が宇宙の秘密を解き明かしたように時間の不思議は私が解くのだ――。


 ●


 スピンネットワーク監視台から複数の時間を覗き込む。時間戦争を起こした国々が無限遠にお互いの距離を離していく。戦争が終わる時だ。三度恋人を老衰で失くした少年も、光の速度で一生を終えていくサラリーマンも、異なる時間のために戦争している国々も、あなたへ賭けた彼女の全ても、すべてが隣り合っているようだ。

 記憶の街にあなたが来たのはもうずっと前のことだけれど、彼女もまたあなたを追って別の記憶の街にいた。何度かお互いを視界にいれて、お互いの存在を確かめただろう。夕闇がかかるなか、あなたと彼女は記憶を頼りに雑踏のなかから、一本の道を選び出した。

 奇遇にも同じ道を。

 長い隘路を越えて、暗がりの向こうに小さなベンチがある。そこに腰掛けたあなたたちは花火が打ちあがる様子を見ている。隣で時間戦争が始まり、終わる。同じ時間、ということはない。それぞれが違った角度で、違う時を、重なり合う時を共にした。

 あなたにとっては一瞬だったかもしれない。

 彼女にとっては永遠だったかもしれない。

 彼女の手にはあなたにしか見えない硬式球が握られている。泥だらけの球だ。そうしてあなたと彼女は無限遠の彼方へと離れていく、離れていこうとする。

 彼女があなたを呼び止める。ぎゅっと手を掴み、あなたがすきと言った。

 あなたは頷く。そのときには彼女は遠くに行ってしまう。

 彼女は記憶の街にいる。

 あなたは別の記憶の街にいる。

 記憶という空間がそれ自体の空間を構成するなら、彼女の記憶さえ現実化するのだ。つまり、あなたのいた街と彼女のいた街は空間量子で隣り合っていることになる。彼女の記憶のなかのあなたはニカっと笑ったようだ。彼女は硬式球をあなたに向かって投げたらしい。

 向こうのあなたの面影が鮮明で、彼女にとっては出会う前なのにも関わらず、懐かしくて安心したようだ。あなたの熱は彼女に届かない。時間が存在しないから。あなたは切なく思っている。

 投げた剛速球はぐんぐんと飛距離を増していくようだ。試してみる。思いの強さをあなたが信じてくれたなら。隣り合う彼女の夜空と、マディレ民主国の朝焼けと、あなたが眺めた暗黒の宇宙と、バーリエストルの上にかかる虹と、若き少年の撫ぜる年老いた恋人の横顔と、ローレンツ収縮で縮んでいくスーツパンツの裾と、地球と火星と木星と土星、天王星、海王星、さらに冥王星、はるか遠くを越えて――。

 あなたを自由にしなかったのは、誰? 

 彼女を自由にしなかったのは、誰? 

 D領域のずっと先へ、あなたたちの時間を空間量子が記憶しているうちに、泣きながら飛んでいる。その涙は、あなたたちのほんとうの卒業なのだ、と。

 あなたを硬式球が飛び越していく。

 受け取れなかった思いを。

 たしかに通じたという思いを。

 ともに宇宙の果てまで、連れて行こう。


 ● 


 私は、また記憶の街にいる。彼ほど鮮明ではない途切れ途切れの時間のなかで、ふと相川君が通りの向かい側に見えた。私が彼の記憶の街の人間でも良かった。彼もまた私の記憶の街の人間だからだ。私たちは時間を共有しているのだ。

 私は手を振った。きょうはふたりの時間がちょうど同じ速度を持つ記念日で、私たちは約束の街にいた。

 信号が青に変わると人々が違う速度で横断歩道を渡っていく。相川君はいつものように朗らかな笑顔で出迎えてくれた。

「遅かったね」

 時間が必要だった。

 彼の横顔を眺めると、彼は私の視線に気づいた。

「今日はさ、どこへ行こうか?」

「どこへでも」

 相川君は手を差し出した。私の手が滑るように彼の手に包みこまれる。

「きょうは良い夜になるといいね」

 私たちは同じ速度で歩き出す。

 青色のイルミネーションの明かりが私たちを出迎えた。彼の顔が少し真剣になったような気がする。視線が空中を漂った。

「相川君?」

 彼の視線は空高く放物線を描く硬式球に向けられている。

「相川君にはが見えるんだね」

 世界を飛び越える、あの硬式球が。

 ふと、彼がいない世界を考える。それはきっと寂しい世界で耐えられなくて、私の大切な何かが存在しない世界だ。

 私たちはいま同じ速度で歩いている。その速度は、かつて彼が追い越していった私の夜空のとなりにある。私たちが互いに純粋な記憶のなかで同居していることは本来ありえない。

 それでも私たちにあった遠さは、時間の距離は、世界では大した距離じゃなかった。手を伸ばせば届く、となりにある場所だった。

 いま手のなかにある温もりはほんとうだ。〈了〉 

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