後編

 隊列が動く。後方にいた馬が1頭、前に出てきた。


 気配を感じた隼太が少しだけ振り返って確認すると、1番人気の馬のカグヤノナミダだった。黒鹿毛の毛並みが一際艶やか。


 昨年の年度代表馬で、今年も海外のトップレースで首差の2着、前走の国内レースでは完勝している。誰もが認める現役最強馬だ。このレースでも断然の一番人気に推されている。


 騎乗しているのは浜口利一郎。今年の騎手リーディングトップ3の一人。そして、隼太の同期でもある。


 真横に来て、馬体を寄せてくる。


 スカイウィングの調子が悪い時の悪癖が出る。寄せられると逃げようとして、結果、体のバランスが崩れて、スピードが落ちてしまう。


 ――ヤバい。


 と隼太は思ったが、スカイウィングは崩れない。むしろ、張り合うかのよう。


 カグヤノナミダの目の力がみなぎっている。


 隼太が利一郎にちらっと視線をやれば、目が合った。ニヤッと笑いかけてきた。


 彼がレース前、取材で周りを囲んでいた記者たちに向かって、口にしていたことを思い出す。


「ライバルはスカイウィングだよ」


「スカイウィングは11番人気ですよ」


「人気なんか関係ないさ」


 カグヤノナミダとは格が全然違うと指摘する若手記者の言葉に真顔で、だけど、真剣味の欠片も感じさせない軽い口調で利一郎は返していた。


 飄々として雲をつかむような性格から、誰も真に受けないことを口にして、記者の取材をはぐらかすのはいつものことだった。でも、時々、本当のことも漏らす。


「あーあ、煙に巻かれちまったよ。やっぱり、あれはいつものことかね」


 はぐらかされて散ってゆく中で、顔馴染みの記者が偶然近くで利一郎の取材の様子を見ていた隼太のそばに寄ってきた。そして、声を潜める。


「それとも、本音かな」


 心当たりが無かった隼太は訝しげな顔をするしかなかった。


 一癖ある利一郎の本音は同期であっても分からない。競馬学校で共に学んでいた時から、変わらない。変わらないのは、馬への騎乗技術、技術向上への飽くなき探求心、勝利への貪欲さも。どれを取っても敵わなかった。せいぜい、隼太が勝てたのは馬の気持ちを汲み取ること。


 競馬学校卒業してすぐ、隼太の騎乗成績が利一郎を上回った時期もあった。そのせいで、天狗になって、長くなった鼻はボキリと叩き折られたわけだが。


 以来、天と地ほどの差がある。利一郎はトップジョッキーの道を常にひた走り、隼太は2.5流のポジションに甘んじる。


 その飄々とした性格に隠れがちな、利一郎の競馬に取り組む姿勢の真摯さには、


 ――到底、敵わない。トップジョッキーに相応しい。


 そう思っている。


「だって、そうだろ。カグヤノナミダの国内唯一の負けた相手がスカイウィングだ。あのデビュー戦の」


 記者から言われて、隼太は思い出した。


 カグヤノナミダは海外レースで土がつく前、ずっと連勝で、国内では敵無しだった。


 でも、無傷だったわけではない。新馬戦では2着に終わっていた。騎乗していたのは利一郎。そのレースで1着だったのが、隼太を乗せたスカイウィング。


「カグヤノナミダの陣営はスカイウィングを高く評価しているぞ。今度のレースも強く警戒している」


とも囁かれた。首を傾げるしかなかった。


 あの時から2頭が歩んできた道は全く違う。カグヤノナミダは強敵をバッタバッタとなぎ倒してきたが、カグヤノナミダが戦った強敵よりはるかに劣る弱敵にスカイウィングは勝ったり負けたり。積んできた経験も実力も違う。


 カグヤノナミダの陣営が、このレースを勝って有終の美を飾り、満を持して種牡馬入りさせる。そんな未来図を描いていることは、誰もが知っている。


 だから、結局、利一郎の言葉が取材を誤魔化すものであっても、逆に本音であっても、隼太が思うことは1つだけ。


 ――勝てるわけなんかないだろ。


 


 *


 


 3コーナーからの下りの坂道を一気に駆け下り、4コーナーに入る。


 8万人の大観衆が集まる観客席が隼太の視界に入ってくる。


 カグヤノナミダに騎乗する利一郎が馬にゴーサインを出す。1番人気の馬現役最強馬のギアが一段上がる。


 隼太は何もしていないにもかかわらず、スカイウィングもギアを一段上げて、加速する。


 こんなことは初めてだった。調子が良い時でもこんな動きを見せたことがない。


 直ぐに、少し前を走っていた2番人気のチュイルチュイルに並び、追い抜こうとする。


 チュイルチュイルも負けることなく、ギアを上げる。


 3頭並んで走る。1番人気と2番人気の馬に挟まれても、スカイウィングの勢いは負けない。止まらない。


 先頭を走るラメゾンとの差がみるみる詰まっていく。


 3頭がラメゾンのすぐ後ろに付いた。ラメゾンはカーブの一番内側を走っている。チュイルチュイルのすぐ前。横を走るスカイウィングとカグヤノナミダが外に膨らむことはない。


 チュイルチュイルの進路が塞がる。スピードを落とすしかない。


 スカイウィングとカグヤノナミダの2頭がラメゾンの横を駆け抜け、置き去りにする。


 カーブが終わる。ゴールまで残り500m。


 観客席からの8万人の大歓声がスタート時よりももっと大きくなる。


 あとは、ゴールまでは直線。ここからキツイ上りの坂道。


 利一郎がステッキムチを振るった。カグヤノナミダが加速する。上り坂にもかかわらず、半馬身、スカイウィングより前に出る。


 加速する一瞬前、カグヤノナミダが注意をスカイウィングに向けたことを、隼太は気付いた。


 カグヤノナミダがデビュー戦でスカイウィングに敗れたことを覚えていることも。負けた屈辱を晴らそうと意識していることも。


 利一郎もカグヤノナミダと一緒に雪辱を果たそうと本気でこのレースに勝とうとしていることも、気配だけで感じ取ることができた。


 そして、スカイウィングは前だけを見ている。


 カグヤノナミダを追いかけるために、レースに勝つために、隼太もステッキを振るわなければならない……が、まだ持ったままなのは、勝利よりももっと大切なことがあったから。


 ――お前は何を見ているんだ?


 スカイウィングに問いかけても答えは当然返ってこない。


 隼太の身体にはさっきから嫌な予感が悪寒になって盛大に走り回っていた。


 その悪寒がレース中に心室細動を起こしたスカイグレーのことを思い出させる。その記憶が、ここまでのレースではたから見れば絶好調だが、知る者であれば異例、どころか異常な走りを見せるスカイウィングにステッキを振るうことを躊躇わさせた。もちろん、レース前のチェックでは異常は全くなかった。


 スカイウィングの声が聞こえない。その初めての事態も、万が一ではあるけれど最悪の可能性を隼太の頭にちらつかせ始める。


 ――止めるべきか。


 レースを中断する。その選択肢が隼太の頭に浮かんでくる。


 瞬間、スカイウィングの横に並び追い抜こうとする芦毛の馬があらわれた。


 ――は?


 先程追い抜いたチュイルチュイルとラメゾンの毛色はそれぞれ栃栗毛と栗毛。少し前を走るカグヤノナミダは黒鹿毛。そもそも、このレースに出ている馬はみな栗毛か鹿毛で、芦毛の馬は一頭もいない。


 なにより、その芦毛の馬には騎手がまたがっていない。それどころか、鞍もハミも馬具を何ひとつ付けていない。


 ありえない光景に目を疑う。


 けれど、少し前を走るカグヤノナミダも騎乗している利一郎は何も反応していない。視界には入っているはずだ。


 ――は?


 頭がパニックになりそうになる。


 その時、声が響いた。


(先に行くよ~!)


 スカイウィングの声では無い。でも、聞き覚えがあった。


 ――スカイグレー?


 芦毛の馬はスカイウィングを追い抜いて、坂の向こうに消えていった。その馬には影が無かった。


 スカイグレーの声に反応したかのように、スカイウィングが加速する。


 カグヤノナミダに並ぶ。


 利一郎が隼太の方をちらりと見て、さらにステッキを振るう。


 隼太は迷う。


 馬体を挟む両足からは異常は何も伝わってこない。


 スカイウィングの様子を見ても、異常は見当たらない。


 でも、明らかに普通ではない。


 止めるべきか、走り続けるか、止めるべきか。


 もしも、止めなければ、この走りであればレースに勝てるかもしれない。


 最高峰のこのレースでの勝利。栄冠を戴いたことがない者にとっては、喉から手が出るほど欲しい栄誉。一度でも手にしたことがある者にとっては、勝利の美酒をもう一度味わいたいと夢に出るほど。この栄冠は隼太も正平も康次も戴いたことはない。


 でも、無事にレースを走り切ることが大前提。馬の命が最も大切。


 決して、人間の栄誉ではない。


 ――決めた。


 手綱を引き絞り、レースを中断することを。


 落としていた視線を前に向ける。


 スカイウィングが坂を上り切る。


 ゴールが見えた。あと200m。ゴールを最初に駆け抜ければ、勝利の栄冠はスカイウィングと隼太たちのもの。


 手綱を握りしめ……。


(待って! 待って! ボクも一緒に行くよ!)


 スカイウィングの声が聞こえた。


 同時にありえない光景も。


 決勝線を示すシンボルとして設置されているゴール板の前に人がいた。


 ――……オーナー正平


 いつも浮かべている彼の優しい目が、200m離れていても、隼太には見えた。


 その足元に影がない。


 影が無かったスカイグレーの姿とダブル。


 ありえない光景が1つの可能性を隼太の中に浮かび上がらせる。


 馬たちが愛している正平の死。


 だから、天国に行っていたスカイグレーが戻ってきた。そして、スカイウィングも……。


 ――パドックでお前が天を見上げた時。あの時にはお前は分かったんだな。オーナーが死んだことを。


 隼太の心の中でストンと落ちるものがあった。


 残ったのは、今、騎乗している馬スカイウィングの気持ちを案じる心。


 スカイウィングが加速する。


 カグヤノナミダに跨る利一郎がさらにステッキを振るった。


 カグヤノナミダも加速する。


 スカイウィングのギアがさらに一段上がる。


 スカイウィングがカグヤノナミダの前に出る。


 後ろからステッキを振るう音が隼太の耳にいくつも聞こえてくるが、隼太は振るわない。手綱は……。


 ――絞る! たとえ、人間のエゴと言われようとも、スカイウィングには替えられない!


 でも、


(待って! 止めないで! ねえ、ボクの声が聞こえるんでしょ! 聞こえるんなら、止めないで!)


 思わず、絞ろうとした手を止めてしまう。


 スカイウィングに伝わらないとは分かっているが、


 ――なあ、なんでだ? なんで、そこまでして走ろうとする?


 隼太は心の中でそう思ってしまう。けれど、


(なんでかって。簡単だよ。だって、ボクはあの人のことが大好きだから!)


 隼太の目が驚きで大きく丸くなる。馬から返事が返ってきたのは初めてだったから。


 手綱から伝わったのか、鐙から伝わったのか、背に乗っているからなのか、スカイウィングが賢いからか、だから伝わったのかは分からなかった。


(あの人と一緒に天国に行けるのはこのタイミングだけ。あの人をボクの背に乗せられるのもこのタイミングだけ。ねえ、だから、止めないで)


 どうしてそんなことが分かるのか、と問い詰める時間も余裕もない。それでも、隼太はこう思うのを止められなかった。


 ――知っているか? 俺もお前のこと大好きなんだぞ。俺だけではない。お前のまわりにいるみんな、そうだ。


 それだけではダメか? オーナーの代わりにはなれないか? そんな問いかけも込めていた。


(えへへっ。知ってるよ)


 嬉しそうな返事が返ってきた。次いで、照れくさそうに、


(ボクもみんな、大好きだよ!)


 ――だったら……!


(でもね、あの人はもっともーっと大好きなんだ!)


 それは、打算なんか一切ない、純粋で無垢で一途すぎる思い。


 ――……ずるいな。あの人が羨ましい。


(えへへ。ごめんね)


 隼太は決意する。心がねじ切れそうなほどの悲しい痛みとともに。


 ――もういい。分かった。……だったら、走れ! お前が行きたい所まで走れ!

 ――天まで駆けていけ!


(うん!)


 スカイウィングがさらに加速する。


 背中に感じる気配が遠くなっていく。


 1馬身。2馬身。3馬身。


 スカイウィングが正平の幻の横を駆け抜けた。


 その瞬間、隼太には、正平が駆け抜けるスカイウィングを追うように振り返ったのが見えた。


 彼の口が動いたのも。口から紡がれた言葉が「ありがとう」だったのか「おめでとう」だったのか、は分からない。それ以外だったかもしれない。


 それを見て、隼太の心の中に正平への妬みと憎しみが入り混じったものが浮かんできてしまう。一緒にスカイウィングも連れて行ってしまうことへの。


 ゴールを1着で駆け抜けたスカイウィングの走る速さが落ちていく。


 馬体を挟む両足からスカイウィングの心臓の鼓動が伝わってくる。レースを駆け抜けた直後のバクバクと激しい、だけど正常な鼓動ではない。


 異常な心臓の鼓動が伝わってくる。


 同じレースを走った15頭がスカイウィングを次々に追い抜いていく。


 隼太はスカイウィングから下りた。


 締め付けている腹帯を緩め、鞍を外し、スカイウィングが少しでも楽になるようにする。


 寄り添うように、ともに歩く。


 横から生気がみるみる消えていくのを感じていた。同時に、死の気配をまとっていくことも。


 ポツリ ポツリ


 雨が降ってきた。


 そして、その瞬間が来る。


 馬体が揺れ、地に崩れ落ちる。


 生気がなくなったその姿を、隼太は呆然と見ることしかできなかった。


 カグヤノナミダが戻ってきて、スカイウィングの顔にその頬をこすりつける様も、騎乗している利一郎から声を掛けられたことも、気づかなかった。


 気がつくと、辺りは真っ暗になっていた。


 雨がしとしとと降っている。


 遠くで落ちた雷の音が聞こえた。


 周りには競馬場の関係者たちが取り囲み、慌ただしく動いている。


 スカイウィングのかたわらには調教師の康次が膝をついて、その体を愛おしそうに撫でていた。隼太には背中を向けて、顔は見えない。


 けれど、後悔しているのが彼の背中越しに伝わってくる。スカイウィングに病気が潜んでいなかったのか。レースが始まる前、異常は本当に無かったのか。……。


 隼太もそうだ。


(待って! 待って! ボクも一緒に行くよ!)


 ――スカイウィングの背中を押してしまったのは、本当は間違いだったのではないだろうか。

 ――もしも、スカイウィングの声が聞こえなかったら、自分は手綱を引いていたか。

 ――手綱を引いてレースを中断していたら、目の前のこの結果は避けられたのだろうか。


 彼らの後悔は人間の感傷に過ぎない。馬には関係ない。


 康次が、後ろを振り返ることなく、ポツリと言葉を口からこぼした。


「武藤オーナーが亡くなられたらしい。ここに来る途中、交通事故で」


「……ゴールを駆け抜ける前、オーナーの幻が見えました」


「……そっか」


 康次の身体が震える。


「……そうか。こいつはオーナーを背中に乗せたのか」


 雨が強くなる。


「背中に乗せて天国に駆けて行ってしまったんだな」


 隼太は天を仰ぎ見た。


 いくつもの雨粒が頬を垂れて流れていく。


 稲光が光る。まるで天へ昇っていく龍のように。

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