天駆けるな!
C@CO
前編
年間を通して数多く設定されているレースの1つと見る人もいるかもしれない。
でも、スタートからゴールまで懸命になって駆ける馬たちのレースには、馬と馬を愛する人々によって紡がれる、全てを語りつくそうとすると永遠の時を必要とするほど数多の物語がこれから勝負が決するまでわずか2分強の短い時間に隠れている。
ガゴン
太陽の光が差す中、ゲートが開いた。
栗毛と鹿毛の16頭の馬が一斉にスタートする。
一瞬遅れて、競馬場に押しかけた大観衆の大歓声が響いた。
歓声が圧となって押し寄せ、観衆の興奮と熱狂を伝えてくる。
普段のレースとは段違い。最高格付けの大舞台だ。観衆の人数は8万人。その歓声の圧は凄まじい。
――お! 良い感じじゃないか。
騎手の斎藤隼太は騎乗するスカイウィングの出だしの良さに手ごたえを感じた。スタート前に抱いた悪い予感を忘れるために。
ゲートから出るタイミングは一際良かった。おかげで、他の馬に揉まれることなく、前に出られた。
――もしかしたら、掲示板も狙えるんじゃないか?
観客席正面前に設置されている着順掲示板に掲示されるのは、上位5着。
ちょっとした欲も出す。初めて出るこの大レースへのプレッシャーを踏み台にするために。
隼太にとって、このグレードのレースに出た経験はキャリアの中でほんの数回だ。
彼が騎乗するスカイウィングにいたっては初めてだ。
――ははっ! やっぱり、こいつは大物だよ!
初めてなのに、8万人の大歓声に気圧される様子を見せない馬に賛辞を贈る。そうすることで己の気を引き締める。
レース前に逃げ宣言した馬が前に出て行く。
このレースに出走するには、スカイウィングの成績ではぎりぎりで、同様に成績がギリギリの他の馬との抽選の末、出走権を獲得した。単勝馬券は16頭中11番人気。
それでも、デビューの時から何度もコンビを組んで、一緒に走ってきたから知っている。
――いい素質、持ってんだよな。
難点はムラっ気があること。調子が良い時悪い時のレース結果が極端。後続を引き離してぶっちぎりで勝つこともあれば、最後の最後まで走る気を出さずにドンケツになることも。もっとも、そうしたところも愛される所以であったりもする。
『手のかかる子供ほどかわいい、と言うじゃないですか』
スカイウィングの
同感だった。今乗っている競走馬の中でも、それどころか、これまで乗った馬の中でも、隼太にとってスカイウィングは特別だった。隼太だけではない。
スカイウィングに関わったことがある誰もがスカイウィングを愛している。
隼太は思い出す。正平がスカイウィングの首筋を優しい目で見つめながら撫でていた様子を。スカイウィングに自身の白髪をモシャモシャ甘噛みされていた。馬が甘噛みをしてくるのは信頼の証である。もちろん、引っ張られたり毟られたり、と危険な場合もあるが、スカイウィングの場合、絶妙な力加減で正平に甘えていた。こんなことをするのは正平にだけ。普段スカイウィングを世話している厩務員にもしない。馬の気持ちを誰よりも汲み取ることが出来る隼太にもしない。
だから、みんな正平に嫉妬した。
でも、どうして、スカイウィングがそんなに正平に懐いているのかは誰にも分からなかった。単純に馬が合うのか、それとも競走馬の仔馬として買い手がつかず処分される寸前に正平に買われた恩義を感じているのか。
父馬は中央競馬で重賞勝ちしたことはあれど、その程度は山ほどいる。父馬の父馬が超が付く有名馬だったから、血統を残すために種牡馬とされた。もっとも今は行方不明。より優秀な成績を残した異母弟が種牡馬になったから、用済みとされた。母馬も似たようなもの。
スカイウィングも、仔馬の時は馬体が細く、性格も繊細で臆病で、競走馬としての将来性に疑問符がついていた。なにより、血統主義の競馬世界で父母の評価は仔馬の評価に直結する。
それでも情を入れてしまった生産牧場の牧場主が買い手を探し回って、
『いいですよ』
頼み込まれた正平が引き受けた、と隼太は人伝に話を聞いた。
正平の馬主歴は長いが所有した競走馬の数は多くない。その馬が競走馬としての馬生を終えてからも維持し続けるからだ。競走馬として活躍できるのはせいぜい10歳まで、最盛期は3歳から5歳くらいのわずかな時間しかない。でも、馬の寿命は約25年。競争馬が自ら活躍して、自らが寿命を迎えるまで生きていけるだけの金を稼げるのは、その世代の中でごくごく一握りだ。
走れない馬はさっさと見切り、新しい馬を買う。そういうやり方は正平は大嫌いだった。自分の手のひらから零れ落ちるのが圧倒的多数というのは分かったうえで、それでも手に入れた馬はその寿命が尽きるまで面倒を見た。ホースクラブを立ち上げ、競走馬から引退した馬を受け入れた。だから、所有する競走馬はホースクラブで受け入れられる数だけ。
正平がスカイウィングの購入を頼まれた時、ちょうど、彼のホースクラブに空きが1頭分だけ出来ていた。
*
レースが4分の1の地点を越えた。スタート直後の各馬のポジション取りも終わり、隊列が出来上がった。
先頭はスカイウィングと同様に抽選で出走権を得た6歳牝馬のラメゾンが走っている。栗毛の牝馬が刻んでいるペースは平均より少し早い。
5馬身くらい離れて、3歳牡馬のチュイルチュイルが走る。クラシック戦線で二冠を達成して、このレースでは単勝2番人気。この栃栗毛の馬の勝利の方程式は、先頭馬を見据えられるポジションで平均より少し早めのペースに走り、ラストでスパートをかける。前を走る馬をとらえ、後ろから追ってくる馬は根性でねじ伏せる。乗っている騎手は若手トップ。今日これまでのレースで3勝していて絶好調だ。
その横を1馬身ほど遅れてスカイウィングが走る。
4番手以降は少し離れている。
――お! よしよし。これで悪いなりでもベストを走れる。
進路を塞ぐように前を走る馬もいない。横からかぶさるように馬体を寄せてくる馬もいない。
調子が悪い時のスカイウィングは、進路を塞がれれば走る気を失くし、横からかぶさられるとバランスを崩してスピードが出ない。
だから、ベストを走れる保証は整えられたのだが、鞍上の隼太の胸騒ぎは治まらない。
なぜなら、スカイウィングの声が聞こえないから。
騎手「斎藤隼太」は乗っている馬の声が聞こえる。聞こえるだけで会話が出来るわけではない。それに、聞こえると言っても大したことは出来ない。
大抵、聞こえてくるのは、
(かったるいなー)
(あ、
(この男がつけている香水、嫌い。臭い)
そんなことばかりだ。たまに、
(蹄鉄が外れそう)
とつぶやくのを耳にした時があれば、反応する前に、馬の蹄に蹄鉄を打つ装蹄師が近寄ってきて馬から下ろされ、その場で新しい蹄鉄を打ち直された。
(ハミが気持ち悪い)
と耳にした時があれば、手綱を引いていた厩務員がハミの状態を調整した。
それでも、聞こえることで役に立つこともある。
(あーあ。砂被るの嫌なんだよな)
こんなことを呟く馬に乗った時のダートレースでは、馬を先頭に導き、見事に勝利に導いた。
(今日は後ろからゴボウ抜きしてやりたい)
こんな時は、後ろに付けて、ゴール手前からスパートをかけさせ、ゴボウ抜きさせたりもした。順位は2着だった。
だけど、こんな風に上手くいくことは多くない。同じレースを走る、より速い馬に力でねじ伏せられることの方が圧倒的に多い。
馬の声が聞こえるようになったのは、競馬学校に入ってから。本当に幼い頃に乗馬体験で馬に乗った時に「聞こえた」と言っていたこともあったらしい。記憶に無かったが、その時の写真を見ていた母親に教えられた。このことがなくても、馬に関わる仕事がしたい、と考えていた。だから、競馬学校に入った。騎手になろうとしたのは、コンプレックスだった小柄な身体が応募要項の体重制限をクリアしていたことと、騎手が格好良く見えたから。
馬の声が聞こえることは誰にも話していない。普通にはあり得ないことで、話しても妄想扱いされると思っている。
けれど、「自分は特別だ」と勘違いしてしまった時もあった。若気の至りも加わって、「自分が馬を勝たせてやっている」と思い違いをしてしまった。
つまり、天狗になった。
報いはすぐにやってきた。競馬のイロハを教えてくれる師匠で所属していた厩舎の調教師からは特大の雷を落とされ、可愛がられていた有力馬主からは愛想をつかされた。
狭い業界だから悪評はすぐに広がった。
結果、騎乗依頼が激減した。依頼が無くなれば、競走馬に乗れない。レースに出られない。レースに出られないと勝負勘も鈍くなる。レースに勝てないと強い馬の騎乗依頼は来ない。弱い馬にばかり乗っていたら、レースに勝てない。勝てないと……。悪循環。
隼太は不貞腐れた。「どうしてこんな目に合わないといけないんだ」と。
そんな彼にでも騎乗を依頼する馬主はいた。単純に他の騎手の都合がつかなかったから消去法で、もあったが、
『若いんだからこんな失敗もするさ。まあ、頑張りなさい』
と見捨てずにいてくれた馬主もいた。その一人が正平だった。
一つの転機が来た。未勝利戦に出る正平の持ち馬、芦毛のスカイグレーに隼太が乗ることになった。未勝利戦とはデビュー後一度も勝利していない競走馬が出るレース。
(走りたい! 走りたい!)
スカイグレーはスタート前から気合十分で、なだめるのに周りが一苦労するほどだった。スタートしてからも前に行きたがるから折り合いをつけるのに苦労した。とはいえ、手ごたえも十分。隼太にとってもスカイグレーにとっても念願の勝利も夢ではない、と思えた。
異変が起きたのは4コーナーを曲がり終えて、ゴールまでの直線に入った時だった。
(……苦しい。胸が……。なんで? 胸が痛い)
馬体と接している両足からは何も伝わってこない。だが、
「後ろ、空けろ!」
隼太はパッと後ろを振り返って叫んでいた。スカイグレーの後ろには何頭もの馬がひしめき合っていたが、ザッと後ろまで続く馬1頭分のスペースが開く。そして、あっと言う間もなく、スカイグレーを追い越していった。
手綱を引いて、なおも前に行きたがるスカイグレーをなだめながら、スピードを落とさせる。
否、もう走れなくなっていた。
心室細動だった。一時的に心臓から全身に血を送れなくなって、走れなくなる。多くの場合、しばらくすれば問題はなくなるが、どれだけレース前に健康状態のチェックを重ねても、今の医療技術では防ぐことはできない。スカイグレーもレース前のチェックでは異常はなかった。馬から降り、スカイグレーをクールダウンさせる。
でも、これで済めば幸運な方だった。
最悪、心不全を起こすと、命を落とす。
しばらくして、異常を察して駆けつけてきた競馬場の関係者にスカイグレーに委ねたが、その間も幾度となく、ゴールの方を向くスカイグレーの様子が目についた。
(あーあ。勝てなかったなー)
隼人が下馬する前に聞こえた呟き。
このレースの後、スカイグレーは競走馬として引退した。馬体に問題があったわけではない。理由は勝てなかったから。
1年の間に生まれた7000頭の内、競走馬としてデビューできるのは5000頭。この段階で2000頭が脱落している。病気をしたり、ケガをしたり、買い手がつかなかったり、etc。
ここからさらに勝ち残れるのは3分の1。勝てなければ、残される道は競走馬からの引退。
スカイグレーもそんな1頭に過ぎなかったが、
――俺が勝たせているんじゃない。
――勝たせてもらっているのは、俺の方だ。
そんなことをスカイグレーの姿を見て、隼太は考えていた。
違う。ようやくそう考えるようになった。
引退したスカイグレーは正平のホースクラブに移って、乗用馬となった。正平をその背に乗せているところを、隼太は見たことがあった。
背から下りた正平に、スカイグレーは親し気に顔を寄せて、じゃれついていた。時折、正平の髪を甘噛みしていた。
とても幸せそうだった。スカイグレーも正平も。
でも、スカイグレーは数年前に天国へと旅立った。
ホースクラブに来た心無い客がしたことによって、パニックになり足を骨折。500kg以上の身体を支える細い足を折ることは、馬にとって致命傷に等しい。結局、安楽死の処置がとられた。
ホースクラブの敷地の一角にある墓が色とりどりの鮮やかな花々で今も囲まれているのを、毎年会いに行く隼太は知っている。
でも、この死によってホースクラブの枠に空きが1つできた。その枠に入る予定なのが、スカイウィング。
*
レースの半分を過ぎる。
スカイウィングは賢い。
デビュー前の調教の段階から、「教えることがないくらいだ」と隼太の師匠で調教師の菊澤康次が口癖にしていたほど。
デビューした新馬戦でも、力を入れるところ抜きどころをその場で察していた。騎乗していた隼太がやったことは、ゴールが近くなったからスパートをかけろ、という合図をしただけ。
簡単だった。
そして、後続をぶっちぎりに引き離して快勝した。
騎乗していた隼太も、調教師の康次も、オーナーの正平も、スカイウィングの未来に期待した。
でも、第2戦ではボロ負けした。
スタートするまでは落ち着いていて、前走との違いはほとんどなかった。
でも、スタートのゲートが開いて、走り出しても気合が入らない。途中でムチを入れても、全然ダメ。結局、ドンケツ負けだった。
敗因は誰にも分らなかった。
その後も勝ったり負けたり、走ったり走らなかったり、を繰り返した。
そういう馬を「気まぐれ」「ムラっ気がある」と呼ぶ。人間も同じだ。
そんな中、隼太は1つのことに気が付いた。
パドックでの周回を終えて、本馬場に入る際、スカイウィングが誰かを探すそぶりを見せることを。
そして、オーナーの正平を見つければ、
(行ってきます!)
と上機嫌な言葉を発していることを。
見つからなければ、
(ふーん。今日はいないんだ)
と力ない言葉を発することを。
表面上の雰囲気は変わらない。でも、レース結果は全く違う。
正平がいた新馬戦は快勝した。正平がいなかった第2戦はボロ負けした。
正平が見ている前では懸命に走り、正平がいない時は手を抜く。
でも、これは人間の見方。だって、人間だって、大好きな人の前では100%以上の力を発揮しようと懸命になる。いなければ、その時のベストを尽くす。スカイウィングも同じ。それだけだ。
だから、スカイウィングの言葉を抜きにして、隼太は気が付いたことをスカイウィングの世話をしていた康次に話してみた。プライドを傷つけるのではないか、と恐る恐る。
「やっぱり、お前もそう思うか」
康次も気付いていた。隼太が予想していたネガティブな反応はなかった。
「俺の調教師としてのプライドが傷ついているんじゃないか、って余計なことを考えているんじゃねえよな」
逆に、スカイウィングのブラッシングをしていた手を止めて、睨みつけられた。そして、鼻を鳴らすと、
「馬が人間様の気持ちを忖度するわけなんかないだろ」
再び、ブラシを動かし始める。
「それに、気まぐれで奔放で美人なお嬢ちゃんをどうにかして振り向かせるのも、良い男ってもんだろ」
でも、康次の表情が変わる。
「もっとも、こいつはさっさと引退して乗用馬の道に入った方がいいかもな」
寂しげな彼に向かって、隼太はあえておどけてみせた。
「スカイウィングは賢いですからね。大好きなオーナーを背中に乗せられるって特大の人参が目の前にぶら下がったら、再調教もすました顔して楽々クリアするんじゃないですか」
競走馬は気が荒い。負けん気が強くなければ、レースに勝てない。その気の荒さゆえに、馬への騎乗経験が少ない一般人を簡単には背に乗せられない。だから、乗せられるように
賢いスカイウィングなら十分にありうる話に、「だな」と康次は笑顔を見せた。
そして、今日。
競馬場に正平は姿を見せなかった。
「明後日は必ず見に行きますよ。なにせ、スカイウィングの一番の晴れの舞台ですから。何があっても行きます!」
2日前には、隼太と康次の目の前で笑顔で言っていた。
でも、姿を見せなかった。
パドックから本馬場に移動する際、スカイウィングの鞍上から必死に正平の姿を探しても見つけられなかった隼太は心の中で嘆いた。
スカイウィングの手綱を引く康次もキョロキョロしながら探していた。
スカイウィングの足が止まる。
スカイウィングが力ない言葉を発するのか、と隼太は身構えたが、
――別にそれならそれで構わないか。
――いつものことだから、無理はさせない。騎手として力が出ないなりにレースを組み立てればいい話だ。
と思い直した。
けれど、スカイウィングから言葉が聞こえなかった。
こんなことは初めてだった。
ただ、一瞬、天を見上げたような気がした。
嫌な予感がした。
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