第10話



 雨がやんだ。

 風鈴の音と潮騒を聞きながら、川岸の平たい大きな岩の上で仰むけになって疲れを癒した。相変わらず晴れていたが、夕刻の近づいた空は青が薄れてみず色に近くなっており、降りてくる光はクリームのような黄色味を帯びていた。山の木も、せせらぎも、岸辺の岩や石も、淡いクリーム色にしっとりと染まっている。

 兄が息絶えた平たい岩の上に横たわりながら、私は自分の体をいつしか兄のもののように感じていた。今、ここにこうして横たわっているのは兄の死体なのだと思い始めていた。自分は今仰むけになり、たそがれの近づいた空をじっと見つめている。頭からは血が流れているだろう。全身がひどく痛む。

 上方の橋をじっと見て、兄の飛び降りたあたりの見当をつけると、私はゆっくり立ち上がった。するとその時、石と石の間に挟まるようにして、ひときわ大きな、野球のボールくらいのガラスの風鈴が落ちているのを見つけた。近づいて拾うと、無色透明で、山の木々やクリームの光を吸い込み、手のひらの中で柔らかく輝いている。

 私はそれをシャツの胸のポケットに無理やり押し込むと、橋に向かって右手の岸壁に近づいた。岸壁といっても,人の頭ほどの大きさの玉石をコンクリートで練り積みにした石垣で、20センチくらいの間隔で石が無数に壁面からとび出している。コンクリートは上の橋のたもとまで塗り固めてあり、傾斜は比較的なだらかであるものの、高さは相当なもので、落ちてまともに頭を打てば助からないことは確かだった。

 私はすでにある特殊な精神状態の中に、いってみれば狂気の中に入り込んでいたのかもしれない。というのも、夢の中にいるように、危険や死の可能性など微塵も考えずに、自分の力を自在なものと感じていたのだ。

 少し戻れば、藪の中に入って雑木の幹から幹へと伝いながら山を登り、橋のかかっているあたりへ出ることも可能だろう。しかし私はあえて橋のすぐ横のその岸壁を選び、およそのコースの見当をつけると、コンクリートからとび出した石に手をかけ、そして足をのせ、ヤモリのようにへばりついて登り始めたのだ。古くなったコンクリートはぽろぽろと細かい粒を落とし、砂礫が下方へ散った。

 手をかける場所や足場は充分にあったから、理屈では体力さえもてば登れない壁ではなかった。しかし平常の心理からすればこれほど危険な行為を実行することは馬鹿げている。途中で息切れがすれば谷底に落ちるほかないのだし、もうひと息というところで、高さのために予想もしなかった恐怖心に襲われないとも限らない。事実、私は疲れきっていて、石にしがみついて登りながらようやく3分の2ほどの高さまできた時、もうだめだ、よしてしまおうと思った。それもまるで夢を見ている時に似て、落ちたところで大したことはないかのような思いかただった。下は見ないようにしていたし、おそらくまともな心理状態ではなかったから、さほどの恐怖も感じない。腕の力も足の力も使いはたし、体力はほとんど限界に近づき、波の音も、川辺の風鈴の響きも、すでにまったく耳には入っていなかった。

 そんな私を励まし、力を与えたのは、唯一胸のポケットの中の風鈴だった。ガラスが溶け、透き通ったしずくが私の左の胸を濡らしていた。しずくは乾きかけていたシャツに染み込み、胸のあたりがぐっしょりと重くなって肌に貼りついた。心臓のあたりだった。私は落ちてもいい。私の頭は川原の石の上で粉々に砕けてもかまわない。そう思ったが、しかしこの風鈴だけは割ってはならなかった。なぜならーー私はこう思ったのだーーなぜなら、兄のいうようにこれを空に放り投げるかわりに、こうしてここまで持ってきたのだから。

 しかし体に力が入らなくなり、休み休み登りながらも、ようやくあとひと息というところへきた時、このままうしろ向きに落ちれば風鈴は無事なのではないかという考えがひらめいた。背中から落ちれば、案外身体に守られて、風鈴が割れることはないのではないか。これほど苦しむ必要はない。これほどの努力をする必要はないのではないか。手を離しさえすればすべてが無へと帰るのだ。

 しかし疲労しきった脳の奥で、無に帰るのはわたしひとりでしかないのだと考えた。海の音も、村の風鈴も、あの白いワンピースの女も、そして父も母も、決して消えはしない。すべて残して、私ひとり……そう思った時、橋の欄干に手がかかった。最後の力をふりしぼると、欄干にしがみつき、体を必死で引き上げながら岸壁を蹴った。とその時、私の体を一緒になって引き上げ、欄干の内側へひっぱり込もうとするものがあった。先ほどの女である。次の瞬間、私の体は橋のコンクリートの路面に落ち、1回転して仰むけになった。同時に胸のポケットから風鈴が落ちて、橋の上を転がった。

 風鈴は路上で突然砕けると、数えきれないほど沢山の小さなガラス玉になった。空の色や山の色、夕べの光線など、色とりどりの光を反射する無数のガラス玉になって橋の上を転がり、それから急に宙に舞い上がった。様々な色を映した無数のガラスのシャボン玉が、空中を漂い、ゆらめきながら空へ昇っていく。

 波の音はもう聞こえない。橋の下は嘘のように静まり返っている。

 私を引き上げた女は仰向けの私に覆いかぶさって、強く私を抱きしめた。私はあたたかな気持ちになった。

 ふと東の空に目をやると、クリーム色に輝く片側の山の端から、反対側のもう片方の山の端へ、暮れ始めた空の彼方に、コンパスで引いたような見事な虹がかかっていた。

 いや、そんな気がしただけかもしれない。

 オレンジ、黄色、緑、青、赤……おぼろな意識でひとつひとつ色を数え、それから瞼を閉じた。

 なんだ、虹というのは、7色なんかじゃない。5色なんじゃないか。

 遠ざかる意識の中で、そう考えていた。


(完)

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狂気と風のレクイエム レネ @asamurakamei

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