第9話
ためらう様子のその人をよそに、私は川原へ降り、服のままさぶさぶと水の中へ入った。女性を見て「ありがとう。会えてよかった」というと、私はそのまま上流へ歩き始めた。流れは速くなかったが、しばらくは浅瀬を選んで歩く。彼女の姿はすぐに川原の藪や木立ちのかげになって見えなくなる。両脇に小高い山がそびえている。その間の谷底の小さな流れを、私はひたすら上流に向かって歩いていく。
私の頭には兄のいった言葉のみが残っていて、もはやそれ以外いかなる邪念もなかった。『ぼくの魂を拾ったら、空に向かって放り投げてほしい。殺し合いをやめない人類を照らす月を持てなかった魂が救われる方法は、唯一それしかない』この言葉は啓示のように脳裏にまとわりつき、私を勇気づけ、がむしゃらに行動へと駆りたてた。この兄の遺言を、叶わなかった兄の思いを、なんとしても成し遂げなければならないという考えが、強く私をとらえていた。
空は晴れているのに、腰まで水につかって歩く私の上半身を、いつしか雨が濡らし始めた。雨脚はしだいに強まり、清い流れに、跳ねるような無数の輪が現れては消えた。
200メートルほど歩くと、左右に大きな岩が重なって行く手を遮り、その中央を3メートルほどの高さから水が滝のように落ちていた。幾筋にも分かれて水が落ちる小さな滝つぼも、深い濃紺の水をたたえている。
滝つぼを泳いで数メートル先のその岩壁まで行くと、岩の小さな突起に手をかけ、もがきながら体を引き上げる。しかし1メートルほど登ると、右足がすべってむなしく体は宙に舞い、滝つぼの中に突き落とされた。頭から細い放水の群れを浴び、水中で靴をばたつかせながらかろうじて水に浮きつつ顔を拭う。
2,3度繰り返したが、そのたびに同じように突き落とされた。手前の浅瀬に戻り、息を整えつつ、おうとつがもっとも著しい右端の壁面に目をつけて、もう1度岩にしがみつくと、慎重に体を引き上げる。指先に渾身の力をこめ、窪みをさぐって足をかける。そのまま1メートルほど右に移動し、こぶのように突き出た部分に手をかけて、自転車のペダルを踏むようにして一気に体を持ち上げた。即座に左手を頭上の窪みにかけ、水面から2メートルくらいのところに安定した足場を得ると、右側の藪からのびた太い蔓を数本わしづかみにした。蔓に体重をかけすぎないようにして右側に移動し、そのまま脇の藪の中に倒れ込む。こうしてやっと何とか1段上の流れに出ることに成功した。
雨は、まだ激しく降り続いている。
大きな石の上にうつ伏せになり、荒い呼吸が静まるのを待っていると、また腹が痛みだす。中のガラス玉がまたころころと転がって、痛みはしだいに背中を、肩をはい上がってきて、やがて半分は胸に、そしてあとの半分は脳天に達した。
「にいさん、今行くからな!」
そのままの姿勢で、私は思わず叫んでいた。とにかく進むしかないと思った。息を鎮め、顔をあげ、立ち上がるとふたたび水の中を歩きだす。
風鈴である。
10メートルほど先の右手の藪から突き出した小枝に、赤い色をしたガラスの風鈴が道しるべのように下がっている。すでに山のために暗く翳り始めた谷底で、木の実が光を反射するようにみずみずしく輝き、揺れるたびに内心に染み入るしみじみとした音をたてている。歩くにつれて音ははっきりし、近づくにつれて水の中にも赤い風鈴が現れた。緑と空の青に染まりながら流れる澄んだ水の表面に、突如その風鈴が映ったのだ。形ははっきりしない。ただ、さざ波の立つ川面に映った谷の緑の中央に、ぽつんと赤く、月によく似た丸い点が揺れている。
兄が吊り下げたに違いない。これといった根拠もないのに、私はそう信じていた。
川底の大きな石に足をとられ、何度も転びそうになりながら重い足をひきずって歩いていくと、またひとつ、さらにふたつ、風鈴が風に鳴っている。心が洗われるように感じながら歩くうちに数はどんどん増え続け、いつの間にか、赤、青、黄色や緑、そして紫に白、あらゆる色の無数の風鈴が、両脇の藪の木の枝で風に揺れて、澄んだ響きをたてている。
私は思わず、ああ、と感嘆の声をあげた。それ以外にどんな言葉もなかった。安堵と高揚が内心に湧きあがり、間もなくしみじみとなって立ち止まる。
空は明るいのに、相変わらず雨脚は弱まらずに私の全身を叩いている。
どこからともなくまた海の音が響いてきた。それはしだいに大きさを増して、沢を、木々を、山を覆う。濡れねずみになった私を、潮騒が高まりながら浸し、高波の音が私を頭から覆いつくす。風鈴の音に深く包まれ、雨に頭と背を打たれ、潮騒にせかされるように私はさらに水をかきわけて進む。雨に潤った風鈴はせせらぎに共鳴し、せせらぎは潮騒に打ち砕かれてやがてそれぞれの区別がつかなくなる。響きは境界を失い、乱れて混ざり合い、谷底の私の全身を包み込む。
ふと見ると、橋であった。昨日霧の中で私の立ったコンクリートの橋が、はるか頭上で柔らかくなった日差しを照り返し、濡れそぼって雨脚にけぶりながら私を見下ろしていた。
(つづく)
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