第8話


「あなたは、兄を、知っていたんですね」

 おそるおそる目の色をうかがっていると、女はゆっくりと顔をあげた。

「ごめんなさい、びっくりさせちゃって……」

「いや、べつに……」

 女はふたたび下を向く。

「あなたは、いったい……あなたと、兄のことを、話してくれませんか」

 するとまたゆっくり顔をあげ、唇を小さく震わせながらようやくこういった。

「ごめんなさいね。こんな小さな村だから、どうやってお話しする機会をつくればいいか、分からなかったんです。人に見られたくなかったし……」

 私は大きく頷いてみせた。

「……わたし、神田さんがこの村に来たころ、村の小学校の教師をしていました。今は戦争のせいでちょっと具合を悪くして、休んでいますけど……」

「戦争……ですか?」

 何もいわないと黙りこんでしまいかねない様子だったから合いの手を入れる。

「それで……神田さんと……その……親しくなったのは、神田さんが亡くなる半年ほど前なんです」

「兄と、おつきあいしてくださっていたんですね」

「はい」

「もっと、もっと話してくれませんか」

 女は真摯な、しかし焦点の定まらない眼差しを空に漂わせ、少し強い口調で続けた。

「神田さんと親しくなるにつれて……なんだか変ないい方ですけど……私が失ったもの、そしてわたしが生きていくために必要なものーーそれが神田さんだということがしだいに分かってきて……」

「……」

「本当に変ないい方ですけど、あの人は、救いでした」

 私はひと言もなかった。どうやら相手はかなりまともなようである。口調もしっかりしているし、気のふれた人間が、これほど筋の通った話し方ができるとは思えない。しかしもし、この女性が一時でも気がふれたことがあるならば、それは兄とも深く関係しているのかもしれない。

「あなたは、あなたはここで何をしていらっしゃるの?」

「ぼくは……」

 私は自分の行為のほうが狂気に近い気がして、いい淀んだ。

「ぼくは、瀬川さんという村役場に勤める人から月の話を聞きまして……」

「月の話?」

「そのう、月を掬えないかと、つまり、この両手で……」

「神田さんと同じせりふですわ」

「同じ、ですか?」

 その人は暗唱するような話し方でいった。

「月には、触れることも、話をすることもできないけど、えっと……それは確かに存在し、夜ごと淡い光で人々を包んでいる。それから……その月こそが、人々の救いであったのに、結局それを掬うことはできなかった。どんなに待っても、手の中に澄んだ月が映ることはなかった、と……ごめんなさい、もっと早くあなたに伝えればよかったのですけど、おにいさんが亡くなられた時から、わたしは神経を患って、豊岡市の病院に入院していたものですから」

「そうですか。でも……それだけではよく分からない」

 その人は黙ったままである。彼女にもよく分からないのかもしれない。あるいはそれとも彼女の頭はやはり狂っていて、今の言葉はその狂気がつくりだしたたわごとなのだろうか。

 が、いずれにせよ、彼女がやはりおかしくなったことや、それが兄の自殺のせいであったことは、もはや容易に推察できた。私は彼女に対して申し訳ない気持ちがした。俯きかげんの表情に痛ましさを感じた。しかし同時に、兄の死をそれほど深く悲しんでくれた人がこの世界にいたことに救われる思いがした。そのことに感謝する気持ちが私の内に起こっていた。兄にとってよりも、むしろ私自身にとって、兄という人の価値を理解したこの女性の存在が、このうえなく貴重なものに感じられるのだった。

 私がその気持ちをうまく表現できずにいると、相手は続けていった。

「そしてこうも……もしもぼくの魂を拾ったら、暗い空に向かって放り投げてほしい。殺し合いをやめない人類を照らす月を持てなかった魂が救われる方法は、唯一それしかないだろう……」

 私は少し唖然とした。兄はもしかしたら狂っていたのではないか。しかしこの言葉のつかみどころのなさに困惑しながらも、必死にそれを噛み砕こうとした。すると咀嚼を繰り返すうちに、その言葉は徐々に私の脳裏で溶解し始め、とけるにしたがっておぼろな光芒を放ち、私の内に、ある決意に似た考えをもたらしたのである。兄の自殺の理由は依然完全には得心できないものの、自分のなすべきことだけは理解できた気がしたのだった。

 つまり、この女性の言葉が狂気によるものでないとしたら、兄が狂ってなかったとしたら、私は兄の死んだ場所へ行って、兄の魂を見つけ出し、空へ向かって放らなければならない。これからも人間は殺し合いをやめないだろう。だから兄の言葉を忠実に実行する以外、いったい自分にどうすることができるだろう。

 兄の死について思う時、麻美が『気のふれた女』と断言したこの人以外に、今の自分には信じられる者はいなかった。狂気から生まれ出たとも感じられる彼女のいくつかの不可解な言葉は、まさに兄の遺言なのだ。私は今初めて、兄の死にぎわの言葉に接触したのだ。私は心がすっと落ち着くのを感じた。初めて兄との接点が生まれ、また兄との最後の繋がりが見つかった。

「ほかに、兄は何かいってましたか?」

「いえ、そういわれても、ほかには……」

 その時、また潮騒が響いてきた。微かに聞こえ始めたと思ったら、すぐに大きくうねりつつ、木々を、せせらぎを、そして私たちをも包み込んだ。私はゆっくりと顔をあげ、眼前の山肌を仰いだ。

「あの音は、何なのだろう……」

「山の木が擦れ合う音でしょう」

「山の木?」

「ええ。山じゅうの木の枝や葉っぱの擦れ合う音が、風にのって聞こえてくるんです」

 私たちはしばらく佇んだまま、じっと音に耳を傾けていた。それは最高潮に達すると、やがて潮がひいていくように小さくなり、せせらぎにかき消され、木立ちの奥に吸い込まれていった。

 音が消えると、私は彼女に向かっていった。

「兄が飛び降りた橋を知っていますか?」

 相手は頷く。

「あの橋の下へはどう行くんです」

「橋の下?」

「そう、橋の下へ行きたいんだ」

「橋の下へはこの沢をのぼっていかないと、上からは行けないと思いますけど」

「よし。ぼくはこの沢をのぼって兄が飛び降りたところへ行きます。あなたはもう帰ったほうが……こんな小さな村ですから、一緒にいるところを見られたら、あなたもまた何かと……」


(つづく)

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