第7話
兄が自殺した場所から数百メートル下流である。
川の両側は小高い山で、木が鬱蒼と茂り、山の緑が眩しく光を反射していた。無数の蟬の鳴き声が山や谷にあふれている。川幅は狭かったが、流れは燦爛として、冷たく澄んでいた。
しかしここから見える空は、山に挟まれてあまり広くはない。村の地図を思い出すと、川は北から南へ流れていたように思えるので、川面に月が映る時刻はかなり限られているのではないか。
透き通った水の奥で、時折銀の鱗がひるがえる。
あたりを埋める大きな石ころの中から座りごこちのよいのを選んで腰をおろし、缶詰を開け、パンをほおばりながらビールをひと缶飲み干した。するとその時、私は急にばかばかしい気がしてきたのだった。こんなところで、手の中の水に月が映るはずがない。仮に映ったとしても、月はすぐに山並みに隠れてしまって、あとには手の中に、暗黒だけが残るに決まっている。兄があんなことを大まじめにいうはずないじゃないか。
一気にもうひと缶あけ、酔いが腹や胸から膨らんで立ち昇ってくるにつれ、その思いは強くなってきた。徐々に思考も麻痺し始め、村で唯一信用できるかと思われた女性に、適当なせりふであしらわれてしまった自分を少し愚かしく感じた。
しかし川原の大粒の瓦礫の中に埋もれて横になり、左右の緑の稜線にくっきりと区切られた青空を見ていると、それもどうでもよいことに思われるのだった。谷底から見る太陽は、すでに背後の山のかげに消え、対岸の山の中腹に、その山の影がくっきりと暗く落ちている。酔いはあらゆる思考を麻痺させて、月の光も、麻美も、自分の単純さも、しだいに拘泥すべきこととは思われなくなった。すべてを酩酊の中に洗い流し、形見の風鈴と兄の思い出だけを頼りに、明日は東京へ帰ればいい。この村には兄を自殺へ追い込むものなど何もない。それが分かっただけで、今回の旅は充分価値あるものになるのだ。
いったん目を閉じ、ふたたび開いて蒼穹を見上げた時、しかしそれはひどく寂しい考えのような気がしてならなかった。兄の自殺の理由が分からないままで終わることが、兄を遠いものに感じさせ、昨日から忘れていた腹の中のガラス玉が、またころころと疼きだした。寂寥が背中のほうからしだいに覆いかぶさってきて、痛みと、わびしさのために全身が急速に収縮していく思いがした。それでも腕組みをして、横向きに寝たまま、じっとその感覚に耐えていると、知らないうちに瀬の音にまどろんでいた。震えるせせらぎも、蟬の声も、空の光も、もはやあたたかみを失った別の世界のものと感じられ、それらがいったん意識から遠のき、いくらかの時間が過ぎてふたたび私を包み始めた時だった。私はまたはっきりと海の音を聞いた。波が静かに寄せてきて、砂か岩を打ち、ゆるやかにひいてはまた寄せてくる。そのやや緩慢な繰り返しの音が、川音や蟬の声に混ざって、どこからかはっきりと聞こえてくるのだった。
私は音のするほうを目で探した。それから立ち上がると、おぼつかない足どりで石ころの上を右へ左へ行きかけて、もう一度耳を澄まし、背後の木立ちの中へ向かった。木々の間の草むらか、薄暗い木かげに、その音のみなもとがあるように思われた。と、その時、木かげから突然白く輝くものが飛び出した。はっとして立ち止まると、私の行く手を遮るように、次の瞬間、それは眼前に立っていた。まぎれもなくさきほどの女である。女は私の顔をのぞき込むようにしてこう問いかけた。
「神田さんの弟さん?」
目鼻だちのはっきりした、気の強そうな顔をしている。瞳には、やや鋭い、どこかまともでないものを感じさせる光が宿っており、私は2、3歩あとずさりした。
「神田さんの弟さんでしょ?」
「きっ、きみはだれ?」
私はその時、くるものが来たという気がした。この時がくるのを心のどこかで確信していたとさえ感じられた。
「ぼ、僕を知っているんですか?」
「ええ、こんな小さな村ですから」
女は横を向いて俯きかげんになると、じっと体を固くして、顔をこわばらせた。少しの間をおいて、私は相手の気持ちをやわらげたいと思いながら尋ねた。
「あなたは、兄を、知っていたんですね」
(つづく)
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