第6話


 何も考えることなどなかったのかもしれない。

 明日帰京する前にバッグを持ってこの家に立ち寄り、形見にいくつかもらっていく約束をして長山宅をあとにすると、曲がりくねった道を歩きながらそう思っていた。

 取りつく島もない、どこかよそよそしい雰囲気がこの村にはあるが、それは田舎の人々の閉鎖性というものかもしれない。兄に自殺を促すものなど、この村の中には何もなかったのではないだろうか。

 私はいささか気の抜けた気分になり、自分がこの村へやってきた理由も分からなくなり始めていた。もともと、別に兄の自殺の理由を何としても探ろうなどと思ってきたわけではない。いうなれば、心の安らぎや充足を与えてくれる、兄という失われた存在への郷愁だったのだ。

 兄の死の原因についても、もうこれ以上こだわるべきではないだろう。自殺の理由など、理性的にも感情的にも納得できるものであるはずがないのだ。私は自分にそういい聞かせながら、一層強くなった日差しを照り返す、畑や林の間のアスファルトの道を、汗をふきふき村役場のほうへ引き返した。

 その時、道の左端の杉木立ちのかげから、こちらをうかがう白いものがあった。

 女である。白いワンピースを着て、太い杉の幹に隠れるように立って、じっと私を見つめている。昨夜民宿の窓から見たおぼろな白い人影はこの女だったとひと目で気がついた。どこからか、私のあとをつけてきたのだろうか。それとも、たまたまそこにいて、通り過ぎる私をじっと見ているのか。

 数メートル歩いてしだいに歩みをゆるめ、さらに少し歩いてから立ち止まって振り返った。女はまだそこにいた。十数メートル後方の木立ちの薄暗がりから、まだこちらを見ているようである。

 私に何か用があるらしいことは明瞭だった。しかしそれならばなぜ声をかけてこないのだろう。いったい何の用があるのかも見当がつかない。もしかすると、兄のことだろうか。生前の兄と、何か関わりがあった人なのだろうか。

 ふと、兄の女性関係のことが頭をよぎった。

 兄は女の人とも、あまりつきあいは多くなかった。深いつきあいがあった女性も私は1人として知らない。そんな人がいるのかどうか聞いたことはなかったが、少なくとも私にはいないように見えた。あの麻美でさえ、ガールフレンドといえるほどの相手ではなさそうに思われたから、たぶん親しくしていた女性などいなかったのだろう。

 しかしこの村に住みついてからのことは知らないし、今こちらを見ているその人が、私に用があるとすれば兄のこと以外にないはずで、だとすれば兄と何らかの関わりがあった人だと考えざるを得ない。

 私は2、3歩あと戻りして、声をかけてみようとした。するとその人はすっと木の幹の向こう側へ隠れてしまったのだ。何を考えているのだろう。少し気味が悪い。その女の妙な態度にこちらもあえて近づいていこうという気は失ってしまった。触れてはならないものに触れるような不安も同時にふつふつと湧いてきて、気持ちがそがれたのだ。

 結局、女の方へは足を踏み出せずに、踵を返すとそのまま村役場に向かって歩きだした。


「なんていうか、どうもよそよそしいんですよ。私のことを知っていそうでいて、通りすぎる時は知らん顔をするんです」

「いや、田舎の人ってそうしたものですよ。見知らぬ人だから、つい警戒心を起こしてしまうんだと思うわ。なにも別に秘密なんかないだろうし」

 ふたたび村役場へ行き、出口から外に出てきた麻美に、村の人々から受けた印象を話すと、塗装のはげた扉の前に立ったままそう答えた。

「わたしも東京の大学へ行ってなかったら、皆と少しも変わらなかったと思う。皆臆病だけど,元来気持ちはやさしいのよ」

「そうですか。するとやはりこの村には、兄に自殺を促すものなど何もなかったのでしょうね」

「うん、そうだと思う。おにいさんの自殺の理由は、何かもっと別のことだったのかもしれないわね」

 麻美の表情に、私の煩わしい猜疑から逃れた安堵がよぎるのが分かった。

「そういえばきのう話すのを忘れたけど、なぜそんなに風鈴をつくるのか尋ねたことがあったんですよ。そしたらおにいさんは、月のかわりなのだといっていたのを思い出しました」

「月のかわり?」

「ええ、月は遠くから眺めるしかなくて、人間は永久にそれを手にすることができないから、しかたなく風鈴をつくっているのだと……」

「それはいったい、どういう意味なのだろう」

「そうですね。それはわたしにも分からない」

 謎をかけられた気分になって、一瞬考え込んだ。私はそこで、この際だと思って聞いてみる。

「そういえば、昨夜と、それからついさっき、白いワンピースを着た女性を見かけたんです。ちょっと気になるんですが、あの女性はいったい……」

 麻美の表情が、一瞬僅かに曇ったのを、私は見逃さなかった。

「ああ、あの女性ですか。あの人は気にすることないですよ。気のふれた人でね。ああやって1日中外をぶらついてるんです。家族もあきらめてほうってるんですよ」

「気のふれた人?」

「ええ」

 あの人が気のふれた人なのだとしても、そうなった理由まで尋ねるのは気が咎めたし、妙な胸騒ぎがして、多少不安でもあった。

「そうですか……」

 しかしそう答えながら,兄となんらかの関わりがあった人ではないかという疑念は深まっていく。

「なんだかこの村について少し誤解されていたみたいね」

「いえ、そうではないんです。ただ、大事なよりどころを失った空虚な気持ちがあまりに強かったもので、つい……」

「あまり考えすぎないことよ。よりどころ、よりどころといってつかもうとすれば、かえってそれは指の間をすりぬけてしまうでしょう」

「そうでしょうか」

「そうですよ。夜、おにいさんが亡くなられた川へ行ってみては? そういえばおにいさんもこういっていたわ。月の光は川面に映るけど、つかもうと思って追っても、それはどこまでも永久に逃げていく。川面の月は決して掬うことはできないのだ。そんな時は足もとの水を両手で掬い、そして待つしかない。きっといつかそこに、月が映るだろう、だったかな」

 どういう意味なのだろう。

 また謎をかけられた気分だったが、兄が本当にそんなことをいったのだとすれば、兄の死を思う時に私の内にくすぶるわだかまりを解く糸口は、案外この言葉の内にあるのではないかと思わされた。

 水面に映った月影はどこかで見た覚えがあるが、確かにそれを掬ったことはない。

 麻美と別れて村役場をあとにしてから、何度も光の反射の図を頭の中に描くうち、屈折するはずの光線が路上のかげろうのようにゆらめいて、やがてこんがらがってしまった。両手で川の水を掬ったら、その手の中に月が映る時刻というのが本当にあるのだろうか。あるとしても、あの空の月は、手の中に充分入りきれるのだろうか。

 手の位置と手のひらの中の水、そして目の位置を何度も頭に思い浮かべ、月が手のひらに浮かんで揺れる光景を想像するうちに、私は神秘的な感覚にとらわれていく。

 どうやら私は麻美のいった言葉にのまれてしまったようである。本当に兄がそんなことをいったのかどうか分からないにもかかわらず、どこといって行くあてのなかった私は、さびれた食料品店でいくつかの缶詰と、パン、それに渇ききったのどを潤すビールを4缶買い込むと、日盛りの畦道を渡り、低い山を越えて、谷底の川へ向かったのである。谷底には多少の涼気も流れているだろうし、ビールを飲んで、流れの脇でうたた寝でもしていれば、やがて月の出る時刻になるかもしれないと思ったのだ。戻りたくなったら民宿へ戻って寝ればいい。私はたかだか、麻美のいった言葉に惑わされているだけのことなのだから。

 (つづく)

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