第5話
引き戸の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。間もなく入り口からではなく、家の裏庭から、もんぺをはき、白いほっかぶりをした小柄な老婆が現れた。記憶にある顔だったが、老婆のほうでも、私が何者であるかすぐに察知したらしかった。
「どうも、こんにちは。神田です。以前お世話になっていた者の弟です」
「はあ、どうも、これは……」
皺くちゃの顔が困惑してひきつり、しぼんた目をしばたき、声が怯えたように震えていた。私の訪問が、明らかに弱々しい老婆を困らせているのが感じられた。
「その節はどうも。兄が大変お世話になったうえ、ご迷惑をおかけしまして」
「はあ、いえ……」
私はできる限り丁寧にいったのだが、兄の起こした事件が老婆に与えた苦痛の大きさが、ひたすら頭を下げるだけの慇懃な反応に表れている。少し申し訳ない気持ちになったが、とりあえず菓子折りを差し出していった。
「これ、東京から持ってきたんですけど、お口に合うかどうか……」
「それは、それは、はあ、どうも、すみませんことで……」
張りのない、しわがれた声を聞いていると、申し訳なさが募ってきて、相手を困らせたくないという気持ちが膨らんでくる。引き戸の前の物干しから下がったもんぺが微風に揺れ、地面に落ちた鮮明な影がそよいでいる。
「あのう、当時のこと、ひとつふたつお聞きしたいと思って来たのですけど……兄は自殺する直前、何か変わった様子でもありましたでしょうか」
老婆には何の責任もないことを強調したかったが、うまくいえなかった。途端に相手はいまにも泣きだしそうになり、
「いやあ、私どもも突然のことで、そんな、何も……」
「いやいや、そうですか。いいんです。どうもすみませんでした」
こちらも足が地につかなくなる。
「本当に、急にうかがって、申し訳ありませんでした」
どうやら退散するしかなさそうだと感じる。このような相手からは、とても兄について目新しい話は聞けそうにないと思ったし、素朴で、気の弱そうな老婆を、これ以上困らせたくなかった。
するとその時、不思議な音に初めて気づいた。澄んだ心地好い響きが、どうやら家のどこからか漏れてきて、あたりをたゆたっているのである。私は音のする方へ耳を澄ます。
「あの音は?」
「はあ……ああ、2階ですが。どうぞ……ご覧になってください」
私は玄関から家へあがり、老婆について目の前の階段を昇った。2年前の記憶が蘇る。2年前もこの階段を昇り、兄の部屋で3時間ほど遺留品の整理をしたのだった。
階段を上がってすぐのところにある襖の前で、私と老婆は一緒に立ち止まった。
「兄のいた部屋ですね」
突然内心が動揺し、興奮と期待が湧きあがる。老婆のこわばった顔が、心なしかゆるんだような気がした。
そっと襖を開けてみる。
瞬間、静かな輝きと落ち着いた響きが私と老婆を包み込んだ。6畳ほどの部屋は燦然とした色とりどりの光に満ち、それはあふれ出て私と老婆を照らしだした。薄暗い廊下や階段の隅々まで、走馬灯に似た光彩と清澄な音色が広がった。
風鈴である。それも10や20ではない。100か、あるいはもっとか。青や赤や緑の色をした、ガラスでできた夥しい数の風鈴のうち、数十個ほどは天井から下がっている。黄色や白や紫のものも小さく揺れ、散光を放ちつつ繊細な音をたてている。天井の下の頭の高さのところには数本の細い木材が渡してあり、そこからも何十、あるいはもっと沢山の、オレンジ、紺、ピンクなど様々な色のガラスの風鈴が下がっている。開け放たれた窓から夏の微風が流れ込み、何百という色鮮やかなガラスがそよいで共鳴し、擦れ合いながら、淡く、涼しげにざわめいている。
老婆は私の横で、今度は僅かにほほえみながらこの光景を眺めている。
(つづく)
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