第4話


 障子を閉めて電気をつけると、薄汚れた部屋に佇む私の影が、天井の暗い電球に照らされて、薄茶に染まった和紙に映っている。

 自分のうなだれた影を見ていると、急にわびしい気持ちになってくる。

 ふたたび電気を消し、布団にもぐり込んだ。

 闇の中のぼうっと白くかすんだ姿が目に浮かび、まどろみはなかなかやってこない。

 じっと目を閉じていると、きいんという耳鳴りによく似た音が静まり返った夜の奥から湧いてくる。

   ………………………

  にいさん

  ぼくはにいさんを失って

  わかりあえる人が誰もいなくなって

  しまったんだよ

  心を許せる人も通じ合う人もなく

  夜ごと酒を飲んで自分を慰めて

  いるんだよ

  コンクリートのはざまで

  ネオンに褪せた月を眺めながら

  永遠に明かされることのない心を

  もてあましているんだよ

   ………………………

 小鳥の鳴き声が聞こえる。春かと思ったら、静かに、音もなく粉雪が舞っていて、山々も、畑も,ほんのりと白く雪化粧を始めている。その中にぽつんと後ろ姿の人影が佇んでいて、グレーのコートの肩のあたりを、降りしきる細かな雪がしだいに白く染めていくのである。

 冬なのになぜ鳥が鳴くのだろう。田舎ではこうして、雪の中でも鳥が鳴くものなのだろうか。それにあのうなだれて、じっと寂しげに風景に見入っている後ろ姿は、もしかしたらにいさんなのではなかろうか。もしにいさんなら、こちらを向いてくれないか。どうかぼくに気づいてくれないか。

 にいさんーーそう呼ぼうとしたのだが、声がどうしても出なかった。いくら兄を呼ぼうとしても、私の口は思うように動かず、のどのあたりがうわずってひきつり、声帯から漏れる音はどうにも言葉にならないのであった。なぜ私は兄のほうへ駆け寄ることができないのであろう。なぜ私の足は動かないのだろう。しかしその時、兄がゆっくりとこちらを振り向こうとした。頬の線が見え、次に顔が見えるかと思ったのだが、なかなかしっかり振り返らない。どうしても顔が見えないのである。

 小鳥の声が聞こえる。雪が舞っている。

 どうして兄はこちらを向いてくれないのだろうか。私がここにいることに、どうして気がつかないのだろう。

 やるせなさとあせりでもう1度叫びそうになる。と、その時、急にフィルムが終わってしまったように映像が白くかすれて、私は障子を透かして忍び込む朝の光に気づいたのだった。



 長山宅へは4キロほどの道のりである。

 民宿を出ると、すでに日は高く、空は青く澄んでおり、アスファルトの1本道を歩き始めるとすぐに全身から汗が吹き出してきた。木々や畑は日差しに眩しく輝き、アスファルトからは炎熱が立ちのぼり、半袖のオープンシャツはまたたく間に湿っていく。蟬の声があちらこちらの木かげから響いてきて、私を方々から包み込む。

 長山の家は老夫婦2人だけが住む農家で、兄は出版社をやめてから自殺するまでの1年間、その家に部屋を借りていた。瀬川麻美を通じ、農協の紹介でいくつかの農家の仕事を手伝いながら生計をたてていたのである。

 のぼりの道は右に左に曲がりくねっていて、左側には道にそって澄んだ小さな川が流れている。流れの向こうは広い畑で、その背後には青々とした低い山並みが連なっている。

 道の右手にもしばらく畑が続いていたが、やがてそれが雑木林になり、林を過ぎるとまた一面の畑になった。その向こうはやはりどこまでも山である。右に左に、稲の穂が黄緑色に輝き、そのうしろには常に小高い山がずっと続いていて、時に道は杉の林の中に入り,しばらく林をめぐるとまた畑の中に出た。

 日差しは一層明るく、刺すほどに激しくなり、シャツはすっかり体に貼りついている。私は汗をふきふき、のぼりの道を歩き続ける。

 畑や田の中に、たまにマネキン人形を見かけることがある。私は都内で育ったから、かかしについては木の棒を十字に組み、野良着を着せた1本足のイメージしか持っておらず、この光景は意外だった。百貨店などの不況でマネキンが不要になり、それがこうしたところにたどり着いたのか知らないが、雀や烏はおろか、この私さえ、畑の中に長身の外国人が立っているのかと思い、最初ははっとさせられた。時には片腕のないものや、斜めに倒れかかったものもあったが、皆まだ着られそうなシャツや、鮮明な色のついた古着をつけている。頭巾や編み笠をかぶったものもいるにはいるが、素朴さの片鱗もなく、田舎らしい趣きのかけらも感じられなかった。

 こんな様変わりが農村に起こっているのかと苦々しい思いで歩き続けると、農作物を積んだリヤカーをひく、40くらいのジーパン姿の女に出会う。川の水で何か洗っているのか、左手の岸辺にしゃがんでさかんに手を動かす女がいる。オートバイに乗った郵便配達の男とすれ違う。

 思いすごしかもしれないが、皆どこかよそよそしかった。こちらを見て、そ知らぬふりを装うのである。その表情や仕草に表れるとっつきにくさを、何なのだろうと思わずにいられない。私のことを知っているのであろうか。それとも一瞥して単によそ者が来たと思い、警戒しているだけなのだろうか。

 そういえば昨日車に乗っていた時、あれほど鳴っていた風鈴が、きょうはひとつも見当たらない。いったいどうしたのだろう。まるできのうのは幻聴だったかのようである。

 立ち止まって耳を澄ましてみる。やはり蝉の声と、せせらぎの音以外、何も聞こえなかった。

 ふたたび歩きだし、右側に鬱蒼とした杉木立ちを眺め、左側に段々になった畑を見て歩いている時、私はふと足を止めた。

 またマネキンが服を着て立っている。

 グレーの生地にチェックの筋の入った半袖のシャツである。私はその落ち着いた色合いに見覚えがあった。

 間違いない。生前兄が着ていたシャツである。兄の遺留品といえば、なぜかスマートフォンも、本の一冊もなく、古新聞と衣服くらいのものだったから、2年前すでに長山宅からひきとっていたのだが、しかし僅かに持ちきれない分は、何かのついでに焼き捨ててくれるよう頼んで、戦争の報道ばかりが目立つ古新聞と一緒に長山宅へ置いてきたのである。

 マネキンが着ているのは、確かにそのうちの1枚であった。兄がまだ東京にいたころ一緒に撮った写真に、兄はそのシャツを着て写っていた。だからはっきりと思い出すことができるのである。

 急に懐かしさがこみ上げてきて、胸が締めつけられる思いがした。兄がこの村で生活したばかりでなく、2年を経た今もなお残っていたその確かな証拠が、突然生きていたころの兄の実感をまざまざと呼び覚ました。兄と都内で最後に別れた時、身につけていたのも同じシャツではなかったか。

 兄が東京を発った晩の情景が、急に脳裏に蘇ってきた。

 町にはすでにネオンがあふれていたが、暮れたばかりの空はまだ明るい紺色をしていた。光り輝くビルが道の両脇にそそり立ち、谷間からようやくかいま見たその空に、くっきりと明るい満月が浮かんでいたのを覚えている。

 ほんの数秒、兄はじっとそれを見上げていたのだが、ちらとこちらを振り向くと、「じゃあ」といって軽く手をあげた。それが最後だった。地下鉄の入り口にゆっくり消えていった後ろ姿が忘れられない。チェックの筋のグレーのシャツが、階段の向こうに沈んでいった瞬間が、いまでもはっきりと目に焼きついたまま離れない。

 兄は、確かにこの村に生きていたのだ。

 マネキンに向かって駆け寄りたい衝動をおさえ、私はじっとその場に立ちつくしていた。

 しばらくそうしていると、明るく柔らかな輝きを放つ一面の稲の穂のかげに、森の木立ちのそこかしこに、私は兄の気配を感じた。風に触れ合う木の葉の音に、立ち昇る炎熱の中を漂う蟬の声に、あるいは傍らに湧き上がる瀬の音に、兄の声を聞く思いがした。

 兄は間違いなく、私を取り囲む風景のどこからか、私をじっと見つめているのだった。

 ひとしきり佇み、さらに兄が生きていたころの実感を求めて歩きだす。間もなく道の左側に、トタン屋根の古ぼけた2階建てが見えてきた。屋根だけが取って付けたように赤く、壁は今にも崩れ落ちそうな廃屋にちかいその家に、私は見覚えがあった。


(つづく)

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