第3話
瀬川麻美と私は向き合って座っている。
間をおいてから私は唐突に言った。
「べつに死んだ兄をとがめるつもりはないんですが……ただ、なにかもうひとつしっくりこないんです。まったく想像しえなかったことではないけれど、それにしてもここへ来たころ、兄は以前より人間らしい生活をしていたのではないかと思うんです。それに相応の満足を得ていたのではないかと……」
「でも、おにいさんはこの村へ来ても、そんなに変わった感じはしなかったな」
と麻美はいった。
「やっぱりどこか暗いというか、人間に失望しているようなというか」
「戦争が始まって様子に変化があったということはなかったでしょうか」
私が尋ねると、
「それはないわね。おにいさんは、それで変わるような人ではないでしょう」
「そんなことは当然ありうることだと……」
「ええ」
「それじゃあいったい」
「松次さんなら何か知っていたかもしれない」
「マツジさん?」
麻美はあれっという顔をして、
「松次さんを知りませんでしたっけ」
という。聞いたことがないというと、麻美はこういった。
「松次さんというのはガラス工芸の職人さんなんです。この村の数多い職人さんの中でもベテランのほうで、おにいさんは農作業の合間をみては、その松次さんの仕事場に出入りして、風鈴をつくっていたんですよ」
「風鈴を?」
「ええ。松次さんに教わって、憑かれたようにつくっていたらしいから、数も相当だったんじゃないかしら……聞いてませんでしたか?」
「それは初耳です」
私は気持ちが高ぶるのを覚えた。
「その、松次さんという方はどこに住んでいるんです」
「いえ、それが……」
彼女は急に申し訳なさそうにいった。
「去年病気で亡くなったんですよ」
「亡くなった?」
「ええ。奥さんはすでに亡くなっていたし、娘さんは県外に嫁いでいて、ひとり暮らしだったんですけど、去年、なんの病気だったかな……はっきり覚えてないんですけど、豊岡市の病院に入院して間もなく」
「そうですか……」
残念でならなかった。兄がこの村で風鈴をつくっていたというのは全く意外だったが、兄にそれほど親しくした人がいたというのも思いがけなかった。にもかかわらず亡くなったと聞くと、急に気持ちの高ぶりが消え、無念さがこみあげてくるのだった。
ふと、疑問に思うことがあった。
「じゃあ兄がたくさんつくったというその風鈴は、どうなったんでしょう」
「うーん、その話は聞いてないですね」
「知りませんか」
「ええ、どうしたのかちょっと聞いてないですね」
この村での兄の姿が、ほんの少しだけ見えかけた気がしたが、この話だけではどうすることもできなかった。兄がなぜ風鈴をつくるようになったか分からないし、憑かれたように風鈴をつくっていたという兄が、なぜ突然自殺したのかは一層分からない。
とはいえ自殺の理由にこだわるのは間違いかもしれない。そう思った。人は論理的な思考にもとづいて死を選ぶわけではないだろう。自殺する人間の心理など、理屈で理解できるものではないのかもしれない。1年にわたる兄の生活の中から、要因と思われるものを取り出してひとつひとつ並べ、それによって兄の内面をたどり直そうとしたところで何になるだろう。もっとも、それでも心底納得できる理由を見つけたくてから回りせずにいられないのが残された者の悲しみであるらしく、私は彼女に向かって次のようにいっていた。
「あす、長山さんのおたくを、もう1度訪ねてみようかと思っているんです」
長山とは、兄が生前間借りしていた農家である。
「挨拶に伺うと、瀬川さんのほうから伝えていただくことはできますか」
「いいわよ。あとで電話しておきますよ」
民宿はほぼ村の中心にあり、障子を開けると、ひろびろと広がる田や畑、そして遠くの山々の黒い影が見える。夜がふけるにつれて、いつしか霧が晴れ、空には明るく大きな丸い月が出て、無数の星が瞬いている。稲の穂が、闇の中で深緑の綿を敷きつめたようにぼんやりと輝き、時折微かにざわめいて、月あかりを照り返しながら柔らかく揺れている。遠くへいくとしだいにそれは黒々とした海になり、闇にまぎれて風景は形を失い、暗黒に溶け、その先の山の稜線だけが暗い大地と青みがかった空とをくっきりと分けている。
民宿のおばさんは自分のことを知っているに違いない。
月あかりの底に茫洋と沈む風景を眺めながらそう思った。宿に着いた時も、風呂に入ったあと、食堂でひとり夕食を食べている時も、50歳前後と思われるその人はたえず伏し目がちに、何かを恐れるように私に接していた。私が単によそ者だからというわけでもなさそうであった。ほかに客がいないので比較することができないが、不安げな表情の奥に本来のひとなつっこさを隠しつつ、あくまでもあたらずさわらずといった態度を崩さずにいる様子に見えたのだ。
村で面倒な事件を起こした男の弟だと知っていて、そのことに不安を感じているのかもしれない。
古ぼけた、6畳ほどのテレビもない部屋で、Wi-Fiもなければ雑誌ひとつ持ってこなかった私は、早々に布団を敷いて中にもぐり込んだ。夏だというのに綿の入った厚い布団である。標高が高いから朝方は冷えるのかもしれない…………
黄色い大きな月の下で、稲がざわざわと風にゆらめいている。月がゆっくりと、明るみの残った紺色の空を地平のすれすれまで降りてくる。稲はいつしかすすきに変わり、その向こうを白いうさぎがぴょんぴょんと跳ねている。1匹かと思うと、2匹、3匹、4匹とどこからともなくやってきて、すすきの穂の上を跳ね回っている。
遠くから微かに海の音が聞こえてくる。それは少しずつ近づいてきて、大きさを増す。波は静かに、ゆっくりと畑を浸し、ひと波ごとに近くまで寄せてきて、稲やりんごの木を冷たいしぶきで濡らす。
潮がさしてくるのだ。月の下で暗い海がちらちらと光を照り返し、白い波が打ち寄せ、うさぎは波打ち際をぴょんぴょんと跳ねまわる。
海はしだいに、畑を、山をのみ込んでしまうだろう。私は田畑とともに、うさぎたちと一緒に、潮に浸され、波にのまれ、海の奥に溶け込んでいくのだ。海の底で、私は形を失い、畑や山の1部になっていく……。
一瞬頭が急に冴え、覚醒した感覚が戻ってきた。
ここは山の中なのだ。東京から列車で何時間も山奥へ入った村なのだ。
しかし目をあけても、潮騒はまだどこかで鳴っている。波は穏やかに、しかし確実に寄せていて、私の耳にはその音がはっきりと聞こえてくる。
障子を開けて、ガラス越しに外を眺めてみる。
一層高くなった月が、相変わらずぼんやりと田畑を照らしだし、触れるとふんわりと柔らかそうな一面の稲の穂が、時折さらさらと風にそよいでいる。
潮騒はもう聞こえない。
錯覚だったのだろうか。そう思いつつぼんやりと外を眺めていると、窓の下の垣根のとぎれたあたりに、闇の中でおぼろに輝く何か白いものがあった。
目を凝らして見ると、明らかに人である。白い服を着ていて、その生地が月光を浴びて光っているのだ。垣根に半分その体を隠すようにして、顔はこちらをうかがっているように見える。
僅かに寒気を覚えた。ガラス窓を開けようとして鍵に手をかけると、もうひとつ腰の曲がった暗い影が突然現れて、白い影をひっぱっていく。腰の曲がったほうは、ほっかぶりをしているのが薄明かりのせいで分かった。白いほうの手をひいて、垣根の向こう側をそそくさと歩いていく。幻を見るような思いにとらわれていると、ふたつの人影は間もなく闇の奥に消え、あとには静寂に包まれた、青みをおびた暗い大地が何事もなかったように横たわっている。
不思議な気分にとらわれたまま、窓外をひとしきりぼんやりと眺めていた。今のはいったい何だったのだろう。海の音といい、白い姿の人間といい、夢を見ていたような気分である。
(つづく)
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