第2話


 私の背後には小高い山が連なっているはずだった。目の前は谷で、その向こう側も山並みが続く。山と山に挟まれたその深い谷に、20メートルほどの長さのコンクリートの橋がかかっているのである。

 しかし麻美と共に車を降りて見渡すと、山は霧に覆われ、かろうじて眼前にくすんだ橋のみが見えるだけで、橋の向こう側のたもとも霧の奥にかき消えてここからは見えなかった。雲の中に立っているような錯覚に陥る。

 まとわりつく霧の流れをかき分けるようにして橋の中ほどまで進み、欄干から身をのりだすと、下方も濃い霧だった。橋だけが雲の中に浮いている。

 ふと、ここはどこなのだろうという気になった。自分が現実の大地の上に立っている気がしなかった。唯一小柄な瀬川麻美の平静な表情だけが、私を現実に結びつけている。

「こんなに霧が濃いのはよくあることなの?」

 麻美に尋ねると、

「いや、そんなことないわよ。今日は特別ね。どうしたのかしら」

 たもとに戻って確かめると、欄干のひとつ目の支柱には『かわなばし』と彫ってある。その、石に刻まれた文字から受ける古びた印象には覚えがあった。胸が熱くなり、身を切られるような感覚が蘇ってくる。

 兄が飛び降りた場所に違いなかった。

 兄がその上で息絶えたという、2年前に見た平たく大きな岩とその脇の流れは、この霧の遥か下方に沈んでいるのだ。

 手持ち無沙汰にしている麻美をよそに、ふたたび白い空気をかき分けて橋の中央に戻ると、私は下の方を眺めながら、その平らな岩と、兄の死体を想像した。仰向けに倒れ、割れた頭から夥しい血を流し、もうまばたきも、息もしなくなった痛々しい兄の姿を思った。私は実際にはその姿を見ていない。兄の遺体は2年前隣の豊岡市の病院で初めて見たのである。しかしこうして橋の上に立ち、下方を眺めていると、この白く淀んだ空気の底に、冷たくなった兄が今でもじっと仰向けに横たわっているような気がするのだった。

「兄はなぜ自殺したのだろう」

 2年前から頭にこびりついて離れずにいた思いが、つい口をついて出た。

「そうねえ……」

 答えようがないといった様子で、瀬川麻美が応じる。


 兄は私とは違ってかなりの美男子だったが、気難しい性格で、人づきあいはよくなかった。しかし社交性を欠く分、何事においても偽りや欺瞞のない人で、兄のいうことだけは心から信じることができた。少ない口数で、ぽつり、ぽつり、と本当のことを、あるいは大切なことだけを語る人だった。

 そんな兄を思う時、私はいつも不思議に夜空の澄んだ満月が目に浮かぶ。月のように孤独だが、しかし静かに輝く魂を持った人だったと思う。強い光こそないけれど、兄との対話を通じて、私は常に、心が穏やかに浄化される思いがするのだった。

 しかし大学の哲学科を卒業し、その後小さな出版社に3年近く勤めていた兄は、ある日そこを辞めると、突如この村に引きこもってしまったのだ。「もう一度自分が生きられる場所を探してみる」というのが、別れぎわに兄がいった言葉だった。

 しかし兄はこの村に引きこもってもなお、自身が抱えていた何らかの苦悩から抜け出せなかったのかもしれない。もちろん、それだけの理屈で兄の自殺の理由を理解できるとは思わないし,自殺にいたるまでは、様々な過程や要因があっただろうと思っている。ただ、もう一度自分が生きられる場所を探してみるという兄のもくろみは失敗したのだろう。兄がどんな苦悩を抱えていたのかは分からないが、そのことだけは確かなのではないか。


 車や麻美が待っているのも忘れ、霧の中にかかった橋の上から、下方を覆っている厚ぼったい、白い流れを長い間見つめていた。あたりは静まり返って物音ひとつしなかった。小鳥も蟬も、霧の中で身を屈めているらしい。

 駅に着いた時から感じていた腹痛が、その時急に激しくなってきた。中に異物を埋め込んだような痛みが、腹部全体に広がり始める。またきたか、と私は思った。時々起こる持病の発作に似たもので,仕事中でも町中でも、これが痛み出すとどうにもやりきれない。じっと立っているのも苦痛になってくる。

 もうしばらく橋から下を眺めていたかったが、渋々麻美と車に戻ると、待ちくたびれた様子の運転手に「村役場へ」といった。


「確か、会計事務所にお勤めでしたね」

 兄の大学時代の友人で、村役場に勤める瀬川麻美は、役場のこじんまりとした会議室に私を通すとそう尋ねた。

「ええ、休みをとってきました」

 蛍光灯が頭上で絶えず瞬き、瞬くたびに、銀縁の眼鏡をかけた整った麻美の顔に青白い影を投げかけた。黒い椅子に浅く腰掛けてあたりを見回すと、いったい何十年、煙草の煙や隙間から吹き込む土埃にさらされればこうなるかと思うほど、薄茶と、灰色で染めあげられたうえに、触れるとぽろぽろと崩れそうな白壁が、村と役場の歴史を物語るように私たちを取り囲んでいる。

「もう2年になるのかあ」

 眼鏡を人差し指で押し上げながら麻美がいう。

「ええ、2年ですねえ」

 勧められたコーヒーをひとくち飲んで答えた。

「ご両親も大変だったでしょうね」

「そうですね。父は変わり者だし、母も比較的割り切った考え方をする方だから、兄がこの村に住みつくようになったことに関しては、間もなくどちらも愚痴らしいことはいわなくなっていたんです。まあ、そうした生活もあるとあきらめていたというのか……しかし突然の自殺には随分ショックを受けたようで……もちろん私もですが」

 麻美は深く頷き、カップを口もとへ運ぶ。

「でも今では、両親の気持ちも落ち着いてきたようです。私もようやく兄の死を、現実として受け止められるようになってきたというか」

「大変だったわね」

「ええ、色々な意味でね。それに何といっても、私は兄を信頼していた。兄は心の支えでした」

 心の支えなどという言葉は使いたくなかったのだが、ほかに兄に対する気持ちを表現する言葉が見つからなかった。私がこの村に来ずにはいられなかった気持ちを、麻美に分かってもらいたいとも感じていた。というのも、ここへ来ることをあらかじめ東京から電話で知らせた時の麻美の反応を、多少そっけなく感じていたからだ。

「大変だったわね」

 言葉を探しあぐねたかのように同じセリフを繰り返した麻美の色白の顔は、瞬く蛍光灯のために病みあがりのように青くくすんで見えた。たえず俯きかげんにカップを見つめ、決して私をまっすぐに見ようとはしない。

「兄は、なぜ自殺したのか……」

「……」

「瀬川さんも何も知りませんか」

「ええ、わたしには分からない」

 大きくため息をついて、私は黙り込んだ。


(つづく)

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