狂気と風のレクイエム

レネ

第1話


 霧にかすんだ窓外を、山や畑が通り過ぎていく。

 その速度が遅くなると、目の前を流れていた稲が止まった。床の振動も消えた。バックパックを網棚から降ろして背負い、閑散とした車内を出口の前へ進むと、扉がぎこちなく開く。

 降り立ったのは私と瀬川麻美だけである。青い制服姿の車掌が乗降客がいないのを確かめて笛を吹き、扉が閉まると、2両編成の列車はガタンと揺れ、軋みながらゆっくりと遠ざかる。やがて赤黒い車体は白い空気にかき消され、音だけが微かに残り、私たちはぽつんと、田の中の小さなホームに置き去りにされた。

 風景は一面に白色に濁り、あらゆるものは大気に溶け、形といえるものは何もなかった。夏なのに涼気を感じるほどで、駅舎もなければ駅員もいない。コンクリートの低いホームを降り、田の中に敷かれたレールをまたぐと、霧のとばりの向こうに四角い空色の箱があった。長方形の小さな穴があいていて、黄色い文字で『切符を入れてください』と書かれてある。

 予約しておいた黒いタクシーが目の前の道路脇に停まっている。バスは1日に数本しかないから、ローカル線に乗り換える時、迎えに来てくれていた瀬川麻美が、あらかじめ到着時刻を知らせておいてくれたのだ。近づいて名前を告げ、開いたドアから乗り込むと、私たちを乗せた車は行き先を告げる間もなく走り出した。

 駅前からまばらに続く家並みには、たばこ屋、食料品店、そして小さな郵便局、それ以外店らしい店は何もない。皆さびれて、霧にけぶっていて、人影らしいものもない。家並みを通り抜け、ゆるやかなのぼりの道にさしかかると、霧は一層深くなり、窓外の光景が消失して雲の中を走るように何も見えなくなった。あたりは田や畑で、その向こうになだらかな山並みが続くはずなのだが、フォグランプが照らす数メートル先までしか、視界はきかなかった。

「こう霧が濃いとどうしようもないです。ゆっくりですけど、勘弁してください」

 運転手がようやく口をきいた。

 兄の自殺から、もう2年になる。

 煩雑な日常に追われるうちに虚脱感が少しずつ薄れ、気力も徐々に戻りつつあった。まだ26歳だった兄の死を、現実として、ようやく冷静に受けとめ始めていた。

 兄は自殺までの1年間をこの村で過ごしたのだが、悲しみがやわらいでくるにつれて、その土地をもう一度訪れたいという気持ちが最近起こっていた。衝動は日に日に強くなり、私を行動へ駆りたてた。

 兄が自殺した現場までは6キロほどだろうか。急ぐわけではなかったから、運転手の言葉に「かまわない」と答えたが、一面の霧に包まれてのろのろと進むうち、内心はむしろ引き返してもいいとさえ思い始めていた。この村へ来た以上、まずもう1度、兄が息絶えた場所を見ておきたいと思ってタクシーを頼んだのだが、考えてみれば明日にでも、民宿から出なおしたってかまわなかったのだ。

 そうもいえずにシートに座ったまま、窓ガラスに少しずつ吸いつき、時折すっと筋をひいて流れる水滴を見ていると、間もなくどこからともなく涼しげな音が聞こえてきた。それは初めりりりん、りりん、と時々微かに響くだけだったが、しだいに大きくなり、右から、左から、こだまのように響きだし、ますます高い音色となってあたりを覆っていく。その乱れながら飛びかうこまやかな音は、しだいに大きく膨らむ一方で、私を沈んだ重苦しい気持ちにさせた。2年前、兄の遺体をひきとるためにこの村に来たときも何度か耳にした音で、すでに記憶からは遠ざかりつつあったのだが、改めてその響きを耳にすると、やはり懐かしさよりも悲しさを多く誘うのであった。

「あれは、何の音だろう」

 知ってはいるのだが、わざわざ麻美にそう問わずにはいられなかった。知らないふりをすることで、内部に染み入る沈んだ音色を遠ざけようとした。

「あっ、あれ。あれは風鈴よ」

 霧に覆われてほとんど見えないが、このあたりはかなりの数の家が集まっているのかもしれない。そして軒下という軒下に、風鈴を吊るしてあるのだろう。そうでなければこれほど方々から聞こえてくるはずがない。しかし考えてみると、それほど民家の密集した場所がこの村にあっただろうか。2年前の記憶では、人家の少ない、山と畑ばかりの寒村だった気がした。ひとつの家の軒先を過ぎ、次の軒先を通るまで、随分距離があったように思ったのだ。そのことを麻美に尋ねると、家は少ないが、かかしや電柱、木の枝、そして軒先、吊るせるところにはどこにでもかまわず風鈴を吊るすのだという。

 風鈴の音で雀や烏が逃げるという話は聞いたことがないから、どこにでも吊るすというのはこの村の風習なのだろうか。それとも何か理由があるのだろうか。シートの上で重くなるばかりの心身を持て余し、麻美に尋ねるのも億劫になって、もし単なる風習だとすれば随分奇妙な風習もあるものだと思いながら、しばらくの間、窓外を飛びかう繊細な音に耳を傾けた。音はどこまで行っても涼しげに共鳴してあたりを覆い、車の中に忍び込んでくる。車はさらに、霧の奥へとゆっくり進んでいく。


(つづく)

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