第二話 約束の重み(後編)


「頼みがある。最後の、そして唯一の頼みだ」


 雨が二人の間を流れていく。荒木は既に察していた。この瞬間が来ることを、心のどこかで予感していた。


「千弘を頼む」


 その言葉は、命令ではなく、懇願だった。葦名は脇に置いていた包みを取り上げ、中から巻物を取り出した。


「これを見よ」


 巻物には、各地の寺院の動きが克明に記されていた。武器の調達、僧兵の訓練、そして何より気になるのは、各寺院と結びつく武将たちの名が並んでいることだった。


「佐伯は、その先陣を切る者たちの一人なのだ」


 葦名の声は重かった。


「寺院の僧兵たちは、もはや単なる守護集団ではない。戦術も装備も、明らかに何者かに導かれている」


「覚意の仕業かと」


 荒木の言葉に、葦名は目を細めた。

 覚意——かつて都で名を馳せた僧侶であり、今は当地の大寺院を仕切る存在だ。


「奴の野望は底知れぬ。この国を、仏の世にせんとしているのやもしれん」


 新たな伝令が駆け込んできた。


「殿! 佐伯軍、正面に姿を現しました! その数およそ八百!」


 続いて、別の伝令も。


「東の谷筋の僧兵たち、大きく迂回し始めております!」


 葦名は静かに立ち上がった。その動作には、かつての凛々しさが宿っている。


「荒木、覚えているか。十年前、我らが初めて刀を交えた時のことを」


「まさか、こんな時に」


 しかし荒木も、つい口元が緩むのを感じていた。


「お前は常に慎重だった。しかし、その刀は迷いを知らなかった」


 葦名は千弘の方を見やる。


「今、私はその刀に、最愛の子を託す」


 千弘は震える声で口を開いた。


「父上、私にも戦わせてください。私にも……」


「いかん」葦名の声は厳しかった。「お前には、見届けてもらわねばならぬことがある」


 葦名は再び巻物を手に取った。


「この動き、この陰謀、その全てを見極めるのだ。そして——」


 その時、激しい梵鐘の音が響き渡った。荒木は即座に察した。これは合図だ。


「佐伯軍、突撃開始!」


「僧兵たちも本陣めがけて進軍!」


 葦名は荒木と千弘に背を向けた。その背中は、かつてないほど大きく見えた。


「行け。これは父としての命令だ」


 千弘は涙を堪えながら、震える声で応えた。


「必ず……必ず戻って参ります」


「荒木」


「はい」


「武士の道は、ただ死ぬことではない。生き抜き、真実を見極めることも、また武士の務めだ」


 荒木は深く頭を下げた。

 この選択が、武士としての自分を永遠に変えることを知っている。戦場を離れることは、最大の恥。

 しかし、今は——。


「約束致します」


 荒木の声は低く、しかし確かだった。


「必ず、千弘殿をお守りします。そして、この陰謀の真相を」


 葦名は最後に振り返り、我が子と親友の姿を目に焼き付けるように見つめた。その目には、懐かしさと、誇り、そして限りない愛情が宿っていた。


「さらばだ」


 それが葦名の最後の言葉となった。


 荒木は千弘の手を取り、本陣を後にした。背後では、佐伯軍の喊声が近づいてくる。梵鐘は鳴り続け、その音は戦場全体を包み込んでいった。


 小径を下りながら、時折聞こえてくる戦いの音に、千弘が振り返ろうとする。その度に、荒木は彼の背中を優しく押した。

 前を向け。

 生きるために、前を向け。


「荒木殿」


 逃げ足を速めながら、千弘が小さく呟いた。


「父上は、本当に……」


「葦名殿は、武将として、そして父として、最後まで誇り高く在られました」


 荒木の声は、不思議なほど澄んでいた。


 雨は激しく降り続け、戦場の血の匂いを洗い流していく。しかし、二人の心に刻まれた約束と、葦名の最期の姿だけは、決して流されることはなかった。


 遠くで、新たな合戦の轟きが始まっていた。荒木は最後まで振り返らなかった。ただ、その耳に葦名の太刀筋を切る音が、微かに届いているような気がした。それは、親友の最期の雄姿を伝える、戦場からの最後の便りだったのかもしれない。

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時雨ノ誓 みなもとうず @uzuminamoto

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