エッセイを書きま賞2024🥇🥈🥉 受賞作品その4

犀川 よう

「スプラッタ/佐藤宇佳子」に寄せて

「スプラッタ/佐藤宇佳子」

https://kakuyomu.jp/works/16818093086645158434


 いきなり私事から入るが、わたしは自主企画で「さいかわ賞」というものを時々開催させていただいている。お題を出し参加者に本気で小説を書いてもらい、わたしが賞をつけるという大変不遜極まりない企画である。しかも基本的にはわたしから褒めてもらえることはなく、厳しい言葉が投げつけられるのが常になっている。それだけでもハードだというのに中間選考まであり、その時点で参加作品の1/3しか残ることができない。他人事として見れば非情かつ無謀としかいえないような企画である。

 当然主催者であるわたしは落とした2/3に対して何故選ばなかったのかという理由を問われる責務が課されている。無論そんなことを問いかけてくる参加者はいないが、わたしは一貫性と根拠を持って返答をする義務があると思っていて常に考えている。今年四月開催したさいかわ卯月賞の落選作品ですら、寝る前に振り返ってその功罪を考えるときがある。ときには半日家事や仕事をしながらぼんやりと作品について考えることがある。――どうして最終選考まで残せなかったのだろう。何があれば残したのだろう――。堂々巡りすることは承知の上でわたしは思いを馳せるのだ。だから優秀な結果を残した作品よりも、自分が落とした作品の方が、愛着のようなものを感じているかもしれない。

 そういった自問自答の中で、特に多く振り返る作家のひとりが本エッセイの作者である佐藤さんである。佐藤さんはさいかわ賞のような理不尽極まりない企画であってもほとんど参加してくれている。しかもそのクオリティーはアマチュア作家としては上級であることを常に示していて、参加者や読者から惜しみない賞賛を贈られている。

 佐藤さんとの出会いは、わたしが佐藤さんの「ごう、ごうとうなる」という作品を拝読したことに始まる。当時衝撃を受けたのはその作品の人間関係や振る舞いに、文系出身作家にはあまり見られない良い意味のでのドライさとシビアさがあったことだ。文系出身作家にありがちな感傷的なベタベタ感がなく、心地良い理性的な自律を感じたのである。いいのもはいい、ダメなものダメという理系の思考ベースを作品の中に見出したのだ。

 随分後になって佐藤さんが理系の人であることを知って納得したのであるが、そこでまた一つの矛盾というか疑問を抱くことになった。というのもさいかわ賞に出している佐藤さんの作品は写実的ではあるものの、どちらかというと文系出身者作家の感性的な部分が多い小説だからである。この矛盾というのがお互い理系出身というある種の同族意識からでは理解できない混乱と困惑をもたらし、今日までわたしの中で何度も考えるテーマになっていた。だが本エッセイを拝読することで、佐藤さんはどこまでも理系出身的な思考回路の人なのだと再度理解することができ、大きな納得と安堵を得た気分になった。

 さて本エッセイであるが、もし小論文やゼミの課題として佐藤さんの作品を読んだとして、「このエッセイで一番重要なものは何であると考えるか。文中からキーワードを抜き出して、その理由を述べよ」といわれたら皆さんは何を選ぶだろうか。是非とも本エッセイを読み直して考えてみてほしい。もちろん絶対的な正解などはない。あくまでも自分自身がどこに価値観を置いているかでしかないからだ。

 わたしはというと、それは「1.5L」という数値であると考えている。つまり数値という絶対的な正義と単位基準をしっかりと据えて理系らしいかつエッセイとしての説得力を出している点に、ある種の安心を覚えたのである。文系出身作家にありがちな数的根拠のない理屈を並べただけのエッセイではなく、きちんと数値を持って説明するという理系の常識に基づいて書かれているところに「やっぱり佐藤さんの作品だ」という嬉しさのような納得を覚えたのだ。

 文系出身者には理解しがたいかもしれないが、数値というは絶対的な言語である。佐藤さんの1.5Lもわたしの1.5Lも皆さんの1.5Lもみな同じであるからだ。これは数値と単位が人為的ながらも不変的絶対的な基準を持っているから成り立っている。だから「約」はつくものの佐藤さんの説明する1.5Lをわたしはダイレクトに理解をすることができる。これが「愛」や「人には永遠というものは存在しない」というような抽象的な言葉や論理的な文章であれば、正確に相手に伝えることは叶わない。佐藤さんの考える愛とわたしの考えるそれでは、一万光年以上の隔たりあって当たり前だからである。

 極端な話、数値があれば文字や言葉などはいらない。数値とその根拠だけ覚えていれば物事の大半は理解し応用が利くからである。理系の人間が情緒に重きを置けないように、文系の人間が数値に重きを置けないのは理解ができる。それぞれの価値観や教育によって出自が違うからだ。しかしながらエッセイにおいて人を一番納得させるのは、長ったらしい文章やレトリックではなく、数値なのである。数値さえ押さえていれば感情的な相手に突っ込まれても冷静かつ厳正に対応できる。文系には得難い根拠の支柱というものを理系の人間は数値によって持っているのは、学校や社会で叩き込まれているからである。それが小説という感性で彩られた世界であっても、作品の奥底で強固な土台として根付いているからこそ、ブレることなく堂々としていられるのだ。

 佐藤さんもわたしも上記のような理屈をきちんと理解した上で、あえて感性のみの小説を書いている節がある。小説という感性や漠然とした感覚だけで表現できる世界に、ある種の新鮮味を感じて楽しんでいるのだと思う。でありながらやはりさがというものはなかなか隠せないもので、佐藤さんの作品には時折理系らしい理論的かつ潔癖的な自己主張表現が滲み出てくることがある。わたし自身は生来の気質からどこまでもそれを隠してとぼけることに快楽を覚えているのであるが、佐藤さんはきっと性を否定してまでそれらを伏して書くことは無いであろうし、それはそれで佐藤さんらしい作品を生み出している大事な要素になっているのだろう。

 今後佐藤さんがどんな作品を書くのか、わたしは本エッセイを通して更に楽しみや期待が膨らんでいる次第である。(犀川 よう)

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