儚き少女のパラノイア

丸々

白昼夢ロンド

 三つ編みのツインテールに、茜色の派手目な服を着た黒髪の美少女が、路傍に座り込んでいた。周りには様々な種類の飲食店が並んでおり、こんな夜遅くでも男や女や子ども達が楽しんでいた。


 上下九路から西へ進み、第十甫路を通って少し進んだところを右に曲がると、ここ広州市一の繁華街と呼べる上下九歩行街の路地裏は、こんなにもゆっくりとした時間が流れているのだ。

 

 彼、にのまえ智貴ともきの任務は、自宅の冷蔵庫でとうとう尽きてしまった食料を、路地裏よりもっと先にある市場で調達することだった。彼は今、その任務を果たしてからこの路地裏を経由して帰路についてる頃だ。元から少なかった人の数はかなり減っていて、しかしその少女はまだそこにいた。


「家に帰らないのかい?」


 智貴は聞いてみた。


「…………」


 少女は頬を赤く照らして沈黙を護った。

 片手に握る半分以上減った酒瓶を見るに、泥酔状態でまともに会話もできないようにも思えるが、彼女の表情は不思議と真顔だった。


(もしかしてナンパとでも思われていないかな……?)


 正直に吐いてしまうと、智貴は自分が邪な気持ちを持って近づいていることを自覚している。実は彼、近頃は心がめっぽう衰弱しきっていて、その分、自虐精神も日に日に成長していく。現実世界がまるで、自分の生きるべき世界ではないと錯覚しそうになると、ついつい自暴自棄になるのだ。


 少女はそんな智貴の複雑な下心を見透かしているのか、智貴がどれほどアプローチを掛けて言い寄ろうとも、眉毛一ミリたりとも動かすことはなかった。


「そろそろ、僕はもう行くよ。でも、今日はかなり冷えるから、よかったらこのマフラーを使うといい」


 智貴は自分の首に掛けていたマフラーを彼女の座る横に置いた。十月の終わり、最近は気温が下がりつつあるというのに、少女の妖艶な首元には何も防寒するものがなかったからだ。



 不思議な少女に出会ったなと、智貴は見知らぬ美少女に話しかけたことを、居候している親戚の家へ帰り着いた頃には、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。


 それから翌日の夜。また同じ時刻に智貴は居た。理由は単純に昨晩のように重要な用事があるわけではなく、彼女のことをつい先程、ふと思い出したからに過ぎない。


「……えぇと……あっ!」


 やはり、昨日と同じ場所に彼女も居た。


(今日はなんだか雰囲気が何か違うような……)


 昨日と同じ時間、同じ場所に智貴と彼女はいる。だが、その中でも彼女だけが異なっているようだった。

 智貴は前のような勇気が思うように出せないまま、半ば特攻する心持ちで話しかけてみた。日本にいた頃、クラスに一人はいる、ありきたりな陽キャを自身の心に投影して。


「どこから来たんだい?」


 智貴は尋ねた。


「別に、貴方には関係ないでしょう」


(反応してくれた……)


 と、喜んだ智貴であったが、現実は非情で厳しいものである。


「こんな路地裏で一人、酒なんかを持った美少女が寂しい顔で腰掛けていたら、気になるものさ」


 少女はハッと驚いたように顔を上げた。

 智貴の方を向くことはなかったが、何か彼女自身の心に変化をもたらしたのは事実だった。


深圳しんせんの城中村から……」


 彼女は愛想のない表情で、また少し下を向いてからそう言った。

 

 そこは彼女の故郷だった。生まれた場所を口にするのが嬉しくないのか、顔はさらに曇っていく様子だ。


(深圳は……確かスラム街だったな)


 深圳市、そのさらに中心部の城中村。村の中ではビルとビルとが一メートル足らずの距離で密集していて、それは隣の部屋同士で握手ができるほどだ。

 聞くところによればインフラストラクチャーも未整備らしく、実に狭く雑然とした都市らしい。治安は悪くないそうだが、農民勢力と国との間に少しいざこざがあるのが特徴だ。


「貴方は?」


「僕は日本からさ。日本の大分ってところ。温泉とかが有名だよ」


「日本の、大分…………どうして中国へ?」


 日本の地名はあまり聞き慣れていなかったらしい。だが興味津々そうな彼女に智貴は少々躊躇いつつも話した。


「両親が……事故で死んでしまったんだ。衝突とかじゃない。急な崖の曲がり道を曲がりきれずに……。それから中国の北京にいる親戚に居候させてもらってるんだ」


 いくら親戚とはいえど、遠すぎる血縁だから、ほぼ他人同然である。見知らぬ土地であるという点と、両親が死んでしまったという後悔から智貴は、未だ乗り越えることができずにいたのだ。


「あの日、あの夕方。もしあの時の僕が、お父さんに買い物を頼まなければ、何かも変わっていたのかもしれない……」


 今度は智貴が暗い表情でそう語った。


「……そう」


 少女はそんな彼にぶっきらぼうに返した。


 ただそれは、彼女の性格が悪いわけでなく、こんな場合の反応の仕方を知らなかっただけなのである。


「そういえば、君の名前は何て言うの? 僕は一智貴」


 少し身の上を話したところで、智貴はいつの間にか彼女と心の距離が縮まった気がした。


「私の名前は——リ・鈴麗リンリー。知り合いからは“リン”とも呼ばてれているわ」


 彼女は初めて智貴の方を向いた。じっと見つめ、紅の瞳が夜の闇に浮かび上がり、まるで智貴を試すような鋭い視線を送ったのだった。



###



 それは、智貴があの繁華街の路地裏で鈴麗リンリーと初めて会話する、一日前のことである。


「やっと帰ってきたか智貴、急に外で歩いて何してたんだ? おい」


 怒気も込められた強い口調がリビングから聞こえた。


 声の主は、日本で両親を亡くした智貴の現在の保護者であり、義理の父親と呼ぶべき人である。

 義父は中国人で中国在中で、そしてそれに合わせるために、高校を中退して中国の北京まで引っ越してきた。


「いや、少し……用事があって」


「あぁ? 俺の指示する時以外は外出禁止、そういう決まりだったよな? 学校だってももう行かなくていんだから、お前は黙ってこの家に引きこもっていれば良いんだよ」


「……わかった、次から気をつけるよ」


 智貴は反論できなかった。いや、許されていなかった。

 ここで文句を言えってしまえば、また洗脳のように説教をされるだけだ。


 別に殴られもしないし、肉体的な痛い思いをしたことはない。今の社会がそういった虐待に厳しいという側面があったからだろう。


 こうやって、義父から何かを言われる度に、智貴は故郷で一緒に暮らしていた実の両親のことを思い出す。決して遠い日の記憶ではない。


「僕の、僕のせいで……」


 智貴は確実に、少しずつ追い詰められていった。

 両親を自分が死なせてしまったという自責の念と、さっきのような日常に、心はとうに疲れ切っている。

 

 もういっそのこと楽になろうか、と、思い至っては何度怯えて怯んだことか。


 だが、そんな彼にも転機は訪れた。

 


 

「そういう意味では、リンと僕は似ているのかもしれないね」


 身の上話をここまで明かすのは、智貴にとっても初めての経験だ。

 私的な友人関係は元より、学校の先生や単なる同級生の距離感でさえも、家の事情を話すことはなかった。


「いえ、決して似てないわ」


「え……?」


 智貴は予想もしなかった回答に、面食らったような顔をして、口を半開きにしたまま鈴麗を見つめた。


「確かに、私も貴方と同じように、恵まれた境遇ではなかったわ。でも、私はもう、その現実を“捨てた”の。決定的な違いはそこだわ」


 世界に絶望し、もう諦めようとしているところまでは共通していた。しかし、諦めきれない智貴とは異なり、鈴麗は『捨てた』と断言したのだ。

 鈴麗はさっき、現実を“捨てた”と確かに言った。それは智貴の解釈で言えば、イコール『死』なわけだが、当然彼女にとっての“捨てた”とは違う。


「私の父親は、家が貧乏ながらにも必死に働いてた。せめて家が無くなってしまわないように、必死にお金を集めていた。でも、結局過労であっさりと死んでしまった。だから、私は今ここにいる」


 智貴は勘違いしていた。

 自分がこの世界で最も不幸な人間であるかのように錯覚していた。彼女とは違って住む家もあるし、義理で性格も悪いが保護してくれる人もいる。そんな状況で、さもこの世の終わりなような顔をする智貴が、鈴麗にとっては腹立たしいのだ。


「ごめん。確かに、君の言う通りだ」


「いいえ、良いの、イラッと来たけど怒っているわけではないわ。別に謝るほど悪いことでもないでしょう。例えるなら、豪華な食事を毎日する大金持ちが、貧相な人間の食べる料理を不味いって言ってるのと、似たようなことだし」


(怒っていない、なんて嘘だろ……絶対)


 鈴麗の表情はわかりやすいように不機嫌である。元々鋭かった目元は今ので更に鋭利に研磨されてしまったようである。


「もう、家へ帰った方がいい。その義父が怒るんじゃない?」


 ため息をフゥッと一息した後、鈴麗はそう問いかけた。


「いや、その必要はないさ。もう戻るつもりはない」


「え、うん……?」


 目を丸くする鈴麗だが、それも無理はなかった。

 

「僕もついさっき、家を出る時に決めたことなんだ。実は僕、アパートを借りたんだ。この北京路に近いところで」


「そ、そう……」


「だから、君も一緒に来ないか?」


「…………」


 智貴の目は光を失っていなかった。というより半分取り戻したような様子だ。


「私は、行かないわよ、必要ないもの」


「いや、来るんだ、来るべきだよ。ここで凍え死ぬのは嫌でしょう?」

 

「……わかったわ、わかったわよ。でも、今日はダメ。せめて明日の、今日と同じ時間まで待って。その時になれば、またここで会いましょう」


 智貴はそれで頷いた。


 満足して家へ走って戻っていく智貴の後ろ姿を、鈴麗はただずっと眺めているだけだった。


 それから一日が経過して……


「どこ、どこに……!」


 智貴は息を酷く荒くして、あたりを探し回っていた。

 約束の時間よりも早く着いて、それから日付が変わった後も北京中を走り回った。

 

 でも、その甲斐虚しく、彼女がそれから彼の目の前に二度と現れることはなかった。



 ###



 夢が覚めた。

 良いところだったのに、とても残念だけど、取り敢えずは終わり。


「あの男の子は、結局あの少女と会えたんだろうか?」


 映画を見終わった後の余韻を共有するように、ただ誰にでもなく勝手に一人で呟いた。

 今までの登場人物は、実際にはこの現実世界には存在しない人物だ。あの少女の顔と性格は明らかに私と似ていたが、まぁ私の夢なのだからそんなものなのだろう。きっと、彼女があの物語の主人公だったのだ。

 

 酒に明け暮れて、喉もガラガラ。


「おい! それは俺のだぜ!」


「はぁ⁉︎ 俺が先に見つけて取ったんだから俺のだろう!」



 寝て起きても、目の前では争いごとはずっと続いている。

 こんな状況だったらやっぱり、酔っ払っていられずにはいない。


 そうやって、私は現実で生きる幸せを投げ捨てた。


 酒で酔い、自分が酩酊して、どうしようもない異常な状態であることを理解しながら、そうやって見る夢は私の望む世界そのもので理想だった。自分の手元にある幸せが、見えなくなるぐらいに霞んでしまう。

 


 だけど、その偽りの幸せを崩そうとする彼が現れた。

 私がどれだけ酔っ払っていて、情けなかったとしても、無視をしていたとしても、その人は何度だって話しかけてきた。

 泥酔して朦朧になっている意識が、どうしてかその人の声に耳を貸すと醒めていってしまうのだ。


 さっき映画の作者は、あの登場人物は全てフィクションだと、そのようなことを言ったかもしれないが、実のところそれは誤解だ。


 人の夢は結構曖昧なもので、そこに登場する演出者は自分に全く関係のない人物というわけではない。両親を亡くして自己嫌悪に陥っている彼もまた、私の嫌いな私自身の性格の一面でもあった。


 そして、この物語の主人公は何といっても私自身。それは、誰かどう言おうと変わりようのない事実だ。


 だから、彼は夢の中の登場人物なくせに、なぜか執拗に私を夢から醒まそうとしてくるものだから、何度か無視してやったこともあった。

 

 あの光景が、輪舞曲ロンドのように繰り返されて、脆い幸せがやってくる。

 対して、彼は台風一過のように過ぎ去っていって一瞬のうちに消えていくんだ。そう思うと、彼に服従して身も身体も染められる未来に、一体どんな幸せがあるのだろうか。


「まぁ、いっか」


 私の歩もうとする道は、ずっと逃げ続けるだけの人生で、決して褒められたものじゃない。だけど、この酔っ払い続けて偽りの幸せだけを見ていくのも、存外そう悪くないでしょう。


 さて、演者ももう全て退場してしまった。


 これで良いのだ。

 幻想に囚われ、逃げ続ける自分も、結局彼に屈してしまった自分も、確かにここで『生きている』のだから、それでいい。


 私はそうして、白昼夢の輪舞曲ロンドを締めくくった。

 


 

 

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