小さい女神に何を願うか

@y-n76

小さい女神に何を願うか

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 僕はいま、文字通り頭を抱えている。

 理由は僕の目の前に”願い事を叶えてくれる女神”なるものが現れたからだ。

女神は

「さあ、あなたの願い事を言って下さい」

 と神々こうごうしく両手を広げてそんなことを言っている。

 これは夢でもなければ、僕の頭がおかしくなって幻覚が見えているというわけでもない。確実に現実だ。しかし、いったいどうしろというのか? 自慢じゃないが僕は頭が悪い。どうしたらいいかと悩むことは多いが、その答えが出ることはほとんどない。

 もうかなり落ち着いたと思うのだけど、いま一度、自分を落ち着ける為に今日1日あったことを思い出して整理してみよう。正直、あまり思い出したくない1日だが、だいたい毎日こんな感じだ。


 高校2年生の16歳というのはまさに青春時代の真っ只中だ。しかし青春時代イコール楽しい時代、というわけではない。みんな青春時代特有の様々な悩みを抱えて生きている時期でもある。僕にもやはり悩みがある。ありがちな悩みで、それでいて解決が難しい悩みだ。

 毎朝僕は早く起きる。そしてまず台所のテーブルの上に置いてある母が用意してくれた朝食とお金をチェックするのだが、この時から既にその悩みの一端は始まっている。朝一から『今日は”合格か不合格か”』みたいな気持ちで心臓が高鳴ることになる。良かった。今日は”合格”という気持ちだ。1000円札が置かれていたのだ。ここのところは1000円の日が続いているので助かる。

 ホステスをしている母は昼夜逆転の生活をしているのでまだ自室で寝ている。洗濯機のタイマー機能で洗濯が終わっている衣類をベランダに干すのが僕の毎朝の仕事だ。温めた朝食を食べ終えて登校の準備をすると足が重くなり、住処の公営住宅の1階のドアから出ると身体が重くなった。一度深呼吸をしてから駅を目指して歩いた。

 電車に乗ると他校の生徒たちと出会う。爽やかな雰囲気なのだが、おそらく僕だけは暗い顔つきだと思う。下車する駅が近づいてくるほど暗澹たる気持ちになる。

目的の駅で降りると僕はまっすぐには学校に向かわない。しばらく線路沿いの緩い上り坂を歩く。けっこうな田舎で、田畑が広がっている。そして用水路に掛かっている小さな橋。ここに来ると大きなため息をつく。道路の脇から田畑に降りる為の小さな階段があって、毎朝ここを降りる度に僕のはマックスになる。

信矢のぶや

 後ろから声を掛けられた。重雄しげおだった。その沈んだ表情を見て僕は察した。

「俺、今日は”500円の日”でもなくて母さんが弁当を作ってくれたんだ」

 そう言ってため息をつく。やっぱりだ。

「そりゃまずいな……」

 僕もうなだれながら階段を下る。

「いまいくらあるんだ?」

 そう僕が訊くと、

「300円ちょっとしかない……」

 と重雄はため息をついた。

 ああ、それじゃあ全然だめだ。僕は1000円以外にも少しだけお金を持っているが、重雄より少ない。持ち金に余裕のある時は互いにし合ってなんとか1000円にすることもあるのだが。

 階段を下り終わったそのすぐ右側は先ほどの用水路を渡す橋の真下で、短いトンネルになっている。人気はまったくないところだ。トンネルは僕の方から見て左3分の2くらいが田畑に水を通す為の用水路で右側に人が1人半通れるかという程の細い通路になっている。用水路と通路を隔てる頑丈な欄干があるのだが、その欄干にキョーリューの2人が背中からもたれかかって加熱式タバコでタバコを吸いながら喋っていた。僕らの姿に気がつくと二人とも用水路にタバコを投げ捨てて、

「やあ、おはよう。信矢くん、重雄くん」

 とキョーイチがいつも通りのわざとらしい笑顔で挨拶してきた。

「おはよう……」

 僕も重雄も消え入りそうな声で言ってうつむいた。そんな僕らに対して2人はニヤニヤ顔で近づいてきて

「はい、スマホを預かります」

 とリューイチがこれまたいつものわざとらしい笑顔で言って手を出してきた。僕らは言われた通りスマホを渡した。この時、電源を切ることも忘れない。

 リューイチもキョーイチもとにかく大きい。格闘家かと思わせるほどのゴツい体をしている。筋肉の塊だ。ただ、首から上は正反対でキョーイチがツルツルのスキンヘッドで眉毛まで剃っているのに対して、リューイチはロンゲの金髪を後ろで束ねている。そして左眉と右下唇にピアスが通っている。正直、2人ともセンスが悪いと思うのだが、もちろんそんなことを言えるわけがない。首から上で共通しているのは2人とも目つきが悪いということだ。

 常に2人で行動している為”キョーリューコンビ”(略してキョーリュー)、と呼ばれている。その呼称の響きからしてこの2人がどれほど強くてかつ恐ろしいのかが伝わってくる。

「さて2人とも、今日は”お友達”になれるかな?」

 リューイチが嫌味な笑顔で訊いてくる。僕は黙って財布から1000円を出した。本来は僕の昼食代なのだが。

「おお! 信矢くんは今日もお友達だな! よろしくやろうぜ!」

 と1000円を取り上げて僕の肩をバンバンと叩いた。顔をしかめてしまうほどの力だった。さて、重雄の方は……

「ごめん」

 と頭を下げた。

「おやおや、どうした?」

 とキョーイチがまだ笑顔で訊いてくる。

「今日、弁当だからお金が全然ないんだ」

 怯えるように重雄が言うと、キョーリューの2人は「あーあ!」とわざとらしくため息を吐いてキョーイチはトンネルの天井を見上げ、リューイチは「がっくり」と言いながらうなだれて「お友達になれないのお? 残念だなあ」と首を振った。もちろんまったく残念そうじゃない。

 キョーイチが作り笑顔を消して、

「お前の母ちゃん、気まぐれで弁当作るよな。仕事大変なんだろ? 『弁当いらない、毎日1000円くれ』って言えばいいだろ……って何回お前に言ったかな?」

 と重雄に凄んだ。リューイチからも笑顔が消えている。

「だいたい、本当に弁当があるのか? ごまかしているんじゃないだろうな? ちょっと見せてみろよ」

 それはまずいぞと重雄を見たが、

「本当だよ」

 と重雄は素直にスポーツバッグの中から弁当を取り出した。するとキョーイチはそれを奪い取り、あっという間に弁当の包みと蓋を開けて用水路に中身を投げ捨てた。

「あ……」

 重雄が弱々しい声を出して用水路にバシャバシャと落ちていく唐揚げ、ウィンナー、卵焼き、ふりかけが掛かっていたご飯等に小さく腕を伸ばした。

「ああ、すまんすまん。手が思いっきり滑った」

 キョーイチは笑いながら謝り、空の弁当箱を重雄に突き返した。

「家に帰って、弁当落としたから金くれって言って来いよ。いまからならまだ学校には十分間に合うだろ?」

 重雄は深くうつむいたままだが、拳は固く握られている。

「ん? なんだ? 何か言いたそうだな?」

 リューイチが、凄みのある声と顔で重雄の顔を覗き込む。重雄が怒っているのがわかる。僕だって同じ気持ちだ。重雄の父親は2年前に亡くなって母親だけが働いている。介護士をしている重雄の母親は日勤も夜勤もあり、弁当を作るというのは大変な作業のはずだ。だからお金を渡すだけのことも多い。それでも弁当を作ることがあるのは、ちゃんと親らしいことをしてやりたい、という母親の愛情なのだ。決して気まぐれで作っているわけじゃない。僕の両親も離婚して父がいないが、母は昼食以外はほとんど毎日作ってくれている。だから重雄のいまの怒りはよく理解できるのだ。でも、それだけの怒りがあってもこの2人に抵抗する勇気や度胸は重雄にも僕にもない。

「もう仕事に行ってるから家にはいないよ」

 と言うだけで重雄は精一杯のようだった。

「あーあ。じゃあ重雄は今日はお友達じゃないな」

 リューイチが後頭部を掻きながらそう言うと「ごめん」と重雄は呟いた。

「とりあえずいまある金を出せ」

 キョーイチが言うと重雄は財布を渡す。

「なんだこりゃ? 320円? 小学生でももう少し持ってるぞ」

 と笑いながらもキョーイチは自分のポケットにそのお金を入れた。

「学校いくぞ」とリューイチは僕と肩を組んだ。一方の重雄は「早く行け」とキョーイチにケツを蹴られている。

 キョーリューの2人は制服のシャツではなく半袖のTシャツを着ているが、キョーイチはドクロの描かれた、リューイチは龍が背中から胸にかけてうねって描かれた、これまたセンスの悪いシャツを着ている。そして2人ともTシャツの袖口付近の腕や首元に少し傷痕が見える。これは度重なる喧嘩で負った傷らしく、2人は『名誉の負傷だ』と言っている。全身にはもっと多くの名誉の負傷こと”喧嘩傷”があるということだ。そんな喧嘩慣れしている2人に挑んだとしても痛い目に遭うだけだ。

 教室に入るとこれもいつものことだが、みんな大騒ぎをしている。サルの檻の中で多くのサル達が激しく騒いでいる、という感じか。いや、それよりずっと酷いか。

机の上に座って化粧をしている女子や、机に足を乗せて漫画雑誌を見ている男子や、パンやお菓子を食べながら叫ぶような大声で会話している女子達なんていうのは”優等生”だ。大音量で音楽を流しながら机の上で踊っている者とそれを見ながらやんやとはやしたてる集団。タブレットでやはり大音量であえぎ声が流れているエロ動画を見てニヤニヤしている男女の集団。加熱式タバコでタバコを吸いながらカードゲームをしている集団。同じく加熱式タバコでタバコを吸いながら携帯オンラインゲームで対戦して騒いでいる集団。エイジとコーダは教室の後ろでサッカーをしている。こんな連中の集まりだ。 

 しかしなぜか学校をサボったりするやつはほとんどいない。むしろ早く登校して来るくらいだ。

「おーい、みんな聞けー」

 リューイチは僕の肩を組んだままで教室の前に行くと教壇をバンバンと叩いた。その時だけはみんな一瞬静まる。キョーリューの2人はこのクラスを締めているのだ。クラスといっても1学年1クラスしかない。このクラスの生徒も30人。それくらいの不人気校だ。僕の高校はいわゆるFランク高校で世間からの評判も悪い。もちろん毎年定員割れである。頭の悪い僕はこの高校しか受からなかった。そしてこのクラスは間違いなくこの学校で最も素行の悪いクラスだ。

「今日は信矢はお友達だ。手ぇ出すなよ」

 と言うと全員「うぇーす」「はあーい」とか気の抜けた返事をした。

「でも残念ながら重雄君は今日はお友達になれなかった。好きにしろ」

 そうキョーイチが言うと、全員が「イェーイ!」「やった!」などとはしゃいだ。

 2人の”言いつけ”が終わると皆また騒ぎ始めた。

 僕は静かに自分の席に座った。

「おーい、重雄。的当てゲームやろうぜ」

 教室の後ろにいたエイジが自分のスポーツバッグを持って重雄を呼ぶ。重雄は無表情でうつむいて言われた通りエイジとコーダのところに歩いて行く。

「俺達もやらせろ」

 とキョーリューの二人も後ろに向かった。エイジがさきほどのバッグの中からバイクのヘルメットのような”面”を取り出した。格闘技のアマチュアの試合等で使用されるスーパーセーフ面だ。顔の部分が透明で頑丈なプラスチックで大きく盛り上がって覆われている。その真ん中には直径5cmくらいの黒マジックで丸く塗られたが描かれている。

 重雄はその面を渡されるともう諦めているような顔で慣れた手つきでそれを頭に被り、やはり慣れた様子で窓ガラスを背にして手足を大の字に広げた。エイジがバッグの中から袋を取り出す。ジャラジャラという音がしている。エイジが袋に手を突っ込むと小石が出てきた。あの中には小石が大量に詰まっているのだ。

「おりゃ!」

 とエイジがかなりの速さで石を重雄に向かって投げた。石は重雄の胸元に当たって、重雄は「うっ」と声を上げる。「下手くそ」という笑い声が他の3人から起こった。

「俺のコントロール見とけよ」

 リューイチが小石を投げると面の黒丸の的より少しズレたところに当たった。

「あー惜しい!」

 とリューイチが声を上げる。

「俺は手の平を狙うぞ」

 とキョーイチが言うと「おお!」と言う声が3人から上がった。

「オラ、重雄! 手の平しっかり広げろ!」

 キョーイチがそう怒鳴ると重雄は手の平を大きく広げた。

「ガッシャーン! は止めてくれよ」

 リューイチが言う。重雄の後ろは窓ガラスだ。重雄に当たらなければガラスが割れることになる。

 キョーイチは、

「わかってる――」と振りかぶり「よ!」と言うと同時に石を投げた。バチン! という嫌な音を立てて重雄の手の平に当たった。

「ぐがっ!」

 と重雄が叫ぶ。キョーイチはガッツポーズをして他の3人は「おお!」と手を叩いた。手の平は”的”としては小さい。だから当てると拍手喝采が起こるのだ。

 僕の、いや僕と重雄の悩みはこれだ。いじめられているのだ。毎日”友達料”と称して1000円を取られる。1000円を払うことができればいじめられない。しかし、1円でも足りないとクラス中からいじめの標的にされるのだ。この的当てゲームという名のいじめであの面を着けさせられるのは彼らの最低限の優しさ、なんてことではない。顔に傷が残らないようにする為だ。顔という目立つ場所に傷が残るといじめられているのではと疑われてしまう。いじめをする者は先生等に気づかれないようにやるものだ。でも手の平は傷付いてもあまり目立たない。だから的にされる。

「ぐうっ!」と重雄がうなって股を閉じて押さえている。4人が笑ってエイジが「いま当たったのはサオか? タマか?」と訊いている。どうやら股間に当たったようだ。すまない重雄、と思いながら僕は重雄から視線を逸らした。でも逸らした視線の先にもいじめが待っていた。

 こちらは女子のいじめだ。林さんという、まったく化粧っ気のない顔に黒縁の眼鏡をかけて、黒髪を後ろで束ねている女の子がいる。制服も他の女子のように着崩したりすることはせず、しっかりと着ている。要するに地味な子なのだ。でもこのクラスの中ではその地味さが逆に目立つ結果となってしまっている。

 クラスを締めているのはキョーリューの2人だが、キョーリューとほぼ同等の権力があるのが”アカ”だ。赤石朱里あかいしあかりという氏名と赤く染めている髪でそんなあだ名で呼ばれている。なんだか政治的な意図がありそうなあだ名だがもちろんそんなものはない。というか本人を含めて周囲もそんな知識はないだろう。

 アカを含めて4人の女子達が、アカをリーダーとして常に集団で行動していて”アカ軍団”などという通称で呼ばれている。アカ軍団はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながら林さんの机の周りを囲った。何かを読んでいた林さんに、

「おい、亜由美。なにを読んでいるんだよ?」

 とアカが本を取り上げた。林さんはうつむいたままだ。

「少女マンガか? くだらねえ」

 と笑ってアカは床に本を放り投げた。林さんはうつむいたまま動かない。

「あれえ? 亜由美さあん。この左手首の傷はどうされたのお?」

 アイラがねっとりと絡みつくようなわざとらしい声色で、林さんの左手首を持ち上げて大声でそう言った。またが始まった、と僕はうんざりした。林さんの左手首にはしっかりとした傷痕がある。ためらい傷とはよく言うが、あれはためらってなどいない傷だ。一撃でザックリとやった傷だろう。

「確か、去年の10月最初の頃だったかしらねえ? 手に包帯を巻いて登校されたのは?」

「だめよ、アイラ」

 シオリがアイラの耳に手を当てて、ひそひそ声のつもりの大声で

「それ、自殺未遂の傷だから」

 とニヤニヤと横目で林さんを見ながら言う。

「ええ! そうだったの! 気持ちわるっ!」

 そう叫んでアイラは林さんの左手首を放り投げた。

 林さんはそれでもやはりうつむいたまま動かない。

「止めときなよ2人とも。遺書に私達の名前書かれて自殺されたりしたら面倒でしょ」

 今度はモモミが止める気のまったくない口調で止める。林さんの左手首の傷を標的にしたこの”いじめ寸劇”はいままで何度も見てきた。やっていてよく飽きないものだ。

「そうよ。あんまり触れてやるな」

 アカはそう言いながら林さんの左手首を持つと傷痕に触れた。4人ともクスクスと笑う。林さんには僕らのような友達料というものがないようで、暇があればいつもいじめられている。特にこのアカ軍団の4人に。

 しばらくの間、林さんをそうやっていじめで囲っていたが、飽きたのか行ってしまった。

 林さんは床に投げられた本を拾おうと中腰で本に手を伸ばしたが、そこに素早くアイラがやってきて、「おりゃ!」と本を蹴飛ばした。「あ……」と林さんが蹴飛ばされた本を中腰のまま追いかける。しかし、手が本に触れようとした瞬間、また今度はシオリが蹴飛ばした。さらにそれをモモミが蹴飛ばす。林さんはその度に本が飛ばされた方向に中腰で追いかける。それを見て4人はやはりクスクスと笑った。最後にアカが林さんより早く本を拾い上げると、「おらよ!」と林さんの机の方に投げた。本は机の上に乗り、そのまま滑って林さんの椅子の上に落ちた。

「アカ、凄いコントロール!」

 アイラが感心する。

「アカに感謝しなよ、あんたのところに戻してあげたんだから」

 とモモミが言って4人は笑う。

 林さんが自分の机に戻って椅子の上の本を持ち上げたその時、「おい、先生が来たぞ」とコーダがキョーリュー達に言った。「おっと」と言いながら4人で小石を拾う。重雄はこれまた慣れた様子で面を取り、エイジに手渡した。いじめの痕跡は残したくないのだ。しかし、先生が教室に入って来てもクラス内の騒ぎ自体は収まらない。

 先生が、

「おい、みんな席に着け! 静かにしろ!」

 と大声で言うも、僕と重雄と林さん以外はみんな無視している。「おい!」と先生は手を大きく叩いて言うが、やはりみんな無視だ。先生がため息をついた時、

「おい、お前ら。席に着いて静かにしな」

 とキョーイチが言うとみんなその指示には素直に従って各々の席に黙って着いた。これもいつものことで先生の言うことはまったく聞かないのにキョーリューの言うことはあっさりと聞くのだ。先生に屈辱を味合わせる為だ。でも先生ももう慣れてしまったかもしれない。先生は「出席を取ります」とため息混じりに言った。出席番号1番はアカだが……

「赤石朱里」と先生は呼ぶが、アカはスマホをいじって聞こえないふりをしている。

「赤石」先生は言うが、アカは何事もないかのようにスマホをいじっている。「赤石、スマホをしまって返事をしなさい」これも当然無視だ。

 先生は険しい顔つきでアカの元まで歩み寄る。先生がスマホを取ろうと手を伸ばした瞬間、アカは自分の胸に――かなりの巨乳だ――スマホを押し付けた。先生の手が反射的にアカの胸に伸びる格好になった。その時、

「きゃあ! 先生! 何するんですか! やめてください!」

 とアカは胸を押さえて横を向いた。先生は戸惑ったように「何って……」と呟くが、その時、アイラがその様子をスマホ動画で撮影していることに気がつき、すぐに手を引っ込めた。しかし、その慌てた様子が逆にいかがわしいことをしようとしたかのような誤解を招く結果になっていた。

「先生。僕、去年みたいな騒ぎになるの嫌ですよ」とコーダが言った。「僕もです」「私も」などという声が教室のあちこちから発生した。先生は唇を固く結び、うなだれると深いため息をついてそのまま教壇に戻った。この高校では先生までいじめられているのだ。実際、不登校になっている先生が2人いる。僕はよく2人で済んでいるなと思う。

行田いくた竜一」とリューイチが呼ばれるがこちらも無視だ。

「行田」と先生はリューイチを呼ぶがリューイチは先生を睨み付けると

「いるよ。だいたい、毎日毎日点呼なんか取らなくても見たらわかるだろ? 目がないのかお前には?」

 とドスの効いた声で答える。先生はまたため息をついた。

 その後何人か呼ばれるが適当なやる気のない返事が返ってくる。まあ、返事をするだけマシだが。

紀熊きぐま恭一」キョーイチが呼ばれる。キョーイチは無視はしなかったが、

「さっきリューイチも言ったけど、見えるでしょ? 本当に目がないの?」

 と小ばかにするように言うと教室に笑いが起こった。先生は疲れたように点呼と通達事項を言うと肩を落として教室を出て行った。

 そしてみんなまた騒ぎ始める。アカはアイラの元に向かって行って、「どう?」と訊いている。モモミとシオリもアイラの元へ行く。アイラは撮った動画を見せながら

「これじゃ微妙だね」

 と首を傾げる。

「いっそその巨乳をしっかり触らせたら? その方がもう言い訳のしようがないし」

「やなこった」

 とアカは笑う。

「セクハラに見える動画を作るのは難しいかな?」

 などと言って盛り上がっている。

 僕は先生と同じように深いため息を鼻でついた。

 こんな高校だが、意外にも学校内は荒れていない。よくアニメや漫画に出てくる不良高校というのは、窓ガラスは割られ、備品は壊され、壁は落書きだらけ、なんていうことが多い。でもうちの高校は整然と保たれている。たまに僕のクラスの窓ガラスが割れることがあるが、それ以外はちょっと掃除が行き届いていない程度だ。しかし、これには彼らなりの”策略”がある。

 授業中も意外に静かだ。時々小さな笑い声が聞こえる程度だ。でも真面目に授業に参加しているわけではない。スマホをいじる者、ラインで会話する者、寝ている者、漫画を読んでいる者等々……。リューイチとキョーイチは片手にハンドグリップを持って握力を鍛えながらスマホをいじっている。とにかく勉強などしていないのだ。

 国語の授業で漫画を読んでいるやつが教科書を読むように先生に当てられても、「頭が悪いんで漫画以外読めませーん」。

 数学の授業で寝ていたやつが起こされて問題を答えるように先生に当てられても、「寝ぼけているんでわかりませーん」。

 物理の授業でラインをしているやつが当てられても、「いま”会話中”なんで他の人にしてくださーい」。

 こんな調子だ。英語の授業でリューイチに英文を読むように当てた女性の先生は

「俺は日本人だ。英語なんか話す必要はない。てか、俺に当てるな! 今度当てたらぶっ飛ばすぞ!」

 と怒鳴られて「ひっ!」と肩をビクつかせていた。しかし、確かにリューイチに当てるのはどうかと思う。そんな結果になるのはわかりきっているだろう。

 午前中の授業が終わって昼休みになると僕は”避難地区”へと向かった。校舎裏だ。日当たりはほとんどなくて、校舎の壁の下の方にはコケが生えている。人はほとんどやってこない。冬は寒い場所だが最近になってちょうどいいくらいの気温を感じるようになった。

 友達料を払っていじめを受けないとはいえ、やはり何をされるかわからない。だから避難するのだ。それに校内に僕の居場所などない。

 今年は空梅雨になると天気予報では伝えているが、その予報が当たってほしい。水不足などの弊害はあるだろうが、傘を広げてこの場所に避難するのは本当にみじめな気持ちになるのだ。

 そんなことを考えていると、重雄がやってきた。彼も避難して来たのだろう。

「よう……」

 と力なく僕に言う。僕も

「ああ……」

 とだけしか言えなかった。しばらくの間、僕も重雄も黙っていたが、

「どうだ? 今日は?」

 と僕は訊いた。今日のいじめがどんなものか訊いたのだ。

「今日はまだマシかな」

 重雄はうつむいて言う。

「朝の的当ての他には、授業中に消しゴムや紙くずなんかを投げつけられたのと、背中を蹴られたのと、腹を殴られた。でも一番きつかったのはカバ子のスカートめくらされたことだな」

「うわ……」

 僕は顔をしかめた。

「ビンタされたけど、何回やられても慣れないなあのビンタは」

 重雄は叩かれたらしき左頬を撫でた。

「でもこの学校にプールがないのはラッキーだな。プールなんかあったら何をされるかわからない」

 彼は何度もプールがないことを『ラッキーだ』と言う。いったい、プールでどんないじめをされたことがあるのだろう……?

 またしばらく黙り込んだが、重雄が

「なあ?」

 と何やら意味深に口を開いた。 

「ん?」 

 と僕が重雄の方を向くと、

「俺、このまま一生いじめられて生きるのかな?」

 と重い事を重い調子で言った。

「幼稚園の頃から、小、中、高とずっといじめられているんだよ俺」

 それも何度か聞いた。僕は小学生の頃に少しいじめられていたが、中学生の時は幸いいじめられなかった。でも、友達はひとりもいなかった。そして高校ではガッツリいじめられている。

「いまは金を払えばいじめられないけど、それもいじめだろ? こんなんじゃあ社会人になってもいじめられるよ。俺は一生、いじめから抜け出すことはできないのか……?」

 重雄は右肩から壁に寄りかかり、肩を壁にこすりつけるように、足をひきずるように向こう側に歩いていく。が、校舎の角を曲がったところで立ち止まると慌てたようにこちらに静かに戻ってきた。

「どうした?」

 僕が訊くと

「林さんがいる」

 と声をひそめた。

「え?」

「林さんが、非常階段の一番下に座って何か読んでる」

 そういえばあそこには非常階段があるな。

「何かって漫画か?」

「いや、違う。何か原稿みたいなものだ」

 僕は少し迷ったが、ゆっくりと校舎の角に忍び寄り、しゃがんでまるでストーカーのように壁から顔半分だけ出して様子を伺った。

 確かに、林さんが非常階段の一番下に座ってひざの上に何かの原稿を置いて読んでいる。

「なんだろう?」と重雄も僕の上から顔半分出して小声で言った。「さあ?」と僕も小声で言う。林さんは眉間に皺を作って真剣に原稿らしきものを見ている。が、僕も重雄もほぼ同時に顔を校舎の陰に引っ込めた。向こうからアカ軍団がやってきたのだ。

「おい、亜由美。こんなところで何やっているんだよ?」

 薄ら笑うアカの声が聞こえてくる。

 僕は勇気を出して――いや、”勇気”などと言えるほどのことじゃないが、とにかくもう一度壁から顔半分を出して見てみた。重雄もまた僕に続く。

 林さんは焦ったように膝の上の原稿を抱きかかえた。

「なんだあ?」

 とアカはその原稿を奪い取った。林さんは

「あ……」

 とそれに手を伸ばすが「うるせえ」とアカに押し返される。

「はあ? なんだこの漫画。お前が描いたのか?」

 とアカがせせら笑う。

「お願いします。返してください」

 林さんは弱々しい小さな声でだが、珍しく抵抗した。が、アカは意に介さず、「見てみろよ」と笑いながら原稿を他の三人に渡した。

 その漫画を読んだシオリ、アイラ、モモミは「キモッ」「ダサッ」「くだらねー」などとそれぞれ嘲笑の声を飛ばす。

「お願いします、返してください」

 林さんはまったく動かなかった朝の時とは違い、ヨロヨロとだが手を伸ばした。

 アカは

「はいはい」

 と嫌らしく笑いながら3人から原稿を回収すると、

「返してやるよ。ホラ」

 と林さんの足元に放り投げるように原稿をばら撒いた。

 林さんは慌てたように地面に散乱した原稿に手を伸ばしたが、その手の前の原稿の上にアカの足がどん、と降りてきた。

「あ!」

 林さんが声を上げる。

「ごめーん。踏んじゃった」

 とアカは薄ら笑う。すると他の3人も「あ、私も踏んじゃった」「ごめなさーい。私も」「あ、私もいつの間にか」などと言いながら次々と原稿を踏み、さらに足首をグリグリと動かす。原稿がぐしゃぐしゃと音を立てる。

「お願いします。止めてください」

 泣きそうな声で林さんは必死に頼んだ。

「なあ亜由美。お前、頼むから不登校になってくれないか?」

 アカは薄ら笑いを止めて怖い顔になると林さんにそう言った。

「ウザいんだよお前。毎日毎日しみったれた顔見せられて。学校に来るなよ」

 林さんは原稿に目をやったままだ。

「聞いてんのかコラァ!」

 アカは怒鳴った。林さんはビクッと動いてアカの顔を見上げた。

「学校に来るなって言ってんだよ! わかるか! 明日から学校に来るんじゃねえぞ!」

 林さんの目から涙がこぼれ落ちたその時、

「うるせーよ!」

 という大声が聞こえた。上を見ると非常階段の2階の踊り場からカバ子が顔を出していた。顔が引っ込むと下に降りて来る気配がした。非常階段からカバ子の巨体が徐々に姿を現し、林さんの隣に立った。

 カバ子は僕らより1学年上の3年生だ。カバ子というのはもちろんあだ名だ。本名は……そういえば知らない。とにかく女子としてはカバのように大きい。身長は僕やそのへんの男子よりずっと高い。髪は短髪で顔は四角い。目は小さいのだが鼻と口は大きい。まさにカバのようだがその身体からだは顔以上にカバみたいにゴツい。柔道道場に通っていて二段の腕前らしい。耳はつぶれている。半袖から見えている二の腕は僕の腕よりも2倍、いや3倍以上は太い。足も太い。スカートをめくらされるので知っているが、太ももなんか僕の胴回りくらいあるんじゃないだろうか? 胴長短足だがそれがまた威圧感を与える。

 いじめで彼女のスカートをめくらされる。すると先ほど重雄が言ったように思い切り平手打ちをしてくるのだが、何度か気を失いそうになったことがある。女子は皆、スカートの下にスパッツや体操服の短パンなどを履いているのだが、なぜかカバ子は履いていない。だからといってこの女の子のパンツ目当てでスカートをめくらされているわけじゃない。僕や重雄がカバ子にぶっ飛ばされているのを見て楽しむのが目的なのだ。

「なーにやってんだお前ら?」

 カバ子は顔をしかめながら周囲を見回して状況を把握する。

「なるほど、弱い者いじめか。私もやろうかな?」

 と右肩をグルグルと回す。

「ただし、いじめるのはあんたたちだけど」

 とアカ軍団を睨み付けた。その迫力にアカ達もさすがにたじろいでいる。

「なんだこの……」

 とアカがカバ子の前に一歩踏み出そうとしたがカバ子が「お?」と大きな顔を前に突き出すと踏み出そうとした足を一歩後退させた。

「やるか? いいぞ。1対1か? それとも4人まとめてか?」

 カバ子は右手で大きな握りこぶしを作ると、大きな左の手の平をパンパンと強く叩き始めた。その威圧に4人ともさらにたじろぐ。

「てめぇ……覚えておけよ。やってやるからな」

 アカはそんな捨て台詞を残して他の3人と去って行く。

「おう、いつでも来い。待ってるぞ」

 そう言ってカバ子は4人の後姿に中指を立てた。

 林さんは地面に落ちた原稿を丁寧に拾っている。カバ子もそれを手伝う。

「ありがとうございます……」

 林さんは小さな声でだがしっかりとそうお礼を言った。

「どういたしまして」

 とカバ子は拾った原稿を林さんに渡した。

「私、2年生の林亜由美と言います」

 林さんはそう言って丁寧に頭を下げた。

「私は3年の木村奈々なな。みんな『カバ子』っていうけどな」 

 と笑う。

 木村奈々というのか。正直、顔と名前があまり合っていないな。

 カバ子こと木村奈々は、原稿を見て、

「ぐしゃぐしゃになったけど、破れてはないな。まだ大丈夫だろ」

 と笑顔で言った。

「はい。本当にありがとうございました」

 林さんは深々と頭を下げた。

「いいんだよ。私は弱い者いじめが大嫌いなんだ。それと――」

 と、なんと覗き見している僕らの方に目を向けて、

「いじめを陰からコソコソ覗いてるような連中もね!」

 と怒鳴った。

「気づいてないと思ったか! 出て来い!」

 僕も重雄も飛び出した。

「藤崎君、岬君……」

 林さんはそう呟いた。

「気づいてなかったのか? ずっと見ていたんだぞこいつら」

 そう言ってカバ子は僕らに”蔑視線べっしせん”を向ける。

「どっちが藤崎でどっちが岬だ?」

 カバ子はその目のまま訊いてきた。

「僕が藤崎で、こっちが岬です……」

 僕が小声でそう答えた。

「まったく。男ふたりもいて、いじめられてる女の子ひとり助けられないのかよ」

 返す言葉がない……

「いつも私のスカートをめくらされている2人だな?」

 腕組みをして大きな顔を突き出してくる。「はい……」と僕らは縮こまって返事をした。カバ子は大きなため息をつく。

「私はさ、短気だからどうしてもぶっ叩いてしまうけど、それは単にスカートをめくられたことだけに怒っているんじゃない。あんたらがいじめてるやつらに全然抵抗せずに、ただただ言いなりになってることにも怒りを感じるんだよ」

 僕と重雄は手を後ろで組んでうなだれて聞いている。

「スカートめくりをやらせた連中を追いかけるけど、すぐ逃げやがる」

 確かに、カバ子はいつも追いかけているけど相手を捕まえられない。それは相手が速いのではなく、カバ子がとんでもない鈍足だからだ。僕よりも遅い。

「もう少ししっかりしろよな」

 険しい顔でごもっともな説教をしてくれる。

 そこでカバ子は優しい顔を林さんに向けて、

「ひょっとして漫画家目指しているのか?」

 と穏やかに林さんに聞いた。

「はい」

 林さんはちょっと慌てたようにうなずいた。

 カバ子はうんうんとうなずき「夢があるのはいいこった」と笑顔になった。

「私、勉強は苦手だけど、漫画を描くのは少し得意なんです」

「私も頭悪いよ。こんな高校に来てるくらいなんだから」

 と笑う。

「いじめられているんだったらそういう大切な物は学校に持ってこない方がいいぞ」

 と林さんに忠告した。

「はい。そうですね」

 林さんはうなずく。

「じゃ、私は昼寝に戻るから」

 と手を振って非常階段を上がろうとする。

「え? 昼寝ですか?」

 林さんが驚いたように訊く。

「ああ。ここは静かだから、非常階段の2階の踊り場で昼寝しているんだよ」

 と言って階段を上って行った。

 その場に僕ら3人が残された。なんともいたたまれない気持ちになり、僕と重雄は無言でそそくさとその場を立ち去った。

 立ち去っている最中に重雄が

「なあ。林さんがどうしてアカ軍団によくいじめられているかわかるか?」

 と訊いてきた。

「え? そりゃあ大人しいからだろ?」

「それもあるよ。でも可愛いからだよ」

「え?」

 僕は驚いた。

「言いたくないけどアカも可愛いだろ? でも林さんの方がもっと可愛いんだ」

「そうか?」

 僕は首を傾げた。僕も言いたくないけどアカはかなりの美少女だと思う。

「普段は地味だからあまりわからないけど、よく見てみたら林さんも可愛いよ。眼鏡を外したらよくわかる。男連中はみんな言ってるぞ。『アカも可愛いけど、よく見たら林の方が可愛いよな』って」

 そうだったのか。僕はそういうことに疎いから気がつかなかった。

「つまり妬みでいじめられているんだよ。林さんがいなければ自分がこのクラスで、いや、この学校で一番可愛いのにって。だから『学校に来るな』とか言われていたんだ」

 なんともまあ……アカらしいと言えばアカらしいけど。

 そのまま午後をやり過ごした。重雄は午後もやはりいじめられていて、放課後になってほっとしていた。

 帰り際に、キョーリューの2人からスマホを返してもらう。その際、重雄は2人からスマホ画面に「ペッ」と唾をかけられていたが……

 校門を出るとスマホの電源を入れながら急いで帰途につく。誰からも連絡はなかった。

 家に帰って玄関を開けると、ちょうど母が起きたところらしく、寝巻き姿で自室から出てきてボサボサの髪を掻きながら

「お帰り」

 と寝ぼけた声で言ってきた。

「ただいま」

 とだけ言うと、僕は自分の部屋に入った。そこで部屋着に着替えるとほっと息をついてベッドに座り、少し休んでからテレビと勉強机の上にあるノートパソコンを点けた。録画しているアニメや配信アニメを観て現実逃避をすることで学校で疲労困憊して澱んだ心を浄化する為だ。もちろん録画だけじゃなくてリアルタイムでも観る。僕は深夜アニメも土日の午前中にやっているアニメも、ゴールデンタイムにやってるアニメも全て観ている。腐女子向けアニメやショートアニメ、小さな子供向けのアニメまでしっかり観ている。映画アニメも当然観る。僕の自由時間はアニメで消費されるのだ。我ながら立派なアニメオタクだな、と思う。

 しかしアニオタの割にはアニオタらしくない部屋だなとも思う。気合いの入ったアニオタの部屋というのは壁中にアニメのポスターを貼っていたり、フィギュアが所狭しと飾られていたり、アニメのBDやDVD、アニソンのCD等が本棚を占領していたり、アニメキャラの描かれた抱き枕がベッドにあったり、いわゆる”痛部屋”状態なんてことも多いのだが、僕の部屋にそんなものはまったくない。せいぜいお気に入りの漫画が小さな本棚に何冊か並んでいる程度だ。痛部屋を作るだけのお金はない。そんなお金があったらそれは友達料に回しているし、売れそうな物があったら友達料の為に売っている。いま本棚にある漫画は本当に譲れない、お気に入りの漫画だけだ。

 夜は寝る必要があるので深夜アニメのいくつかは録画して学校から帰ってから観る。もしくはネット配信で観ることにしている。テレビ放送はなく、ネット配信だけのアニメも多い。テレビ録画しているアニメで気に入ったアニメはBDにコピーする。だからアニメBDなどは買わなくてもそれで間に合うのだ。

 しばらくして、母が夕食を作ってくれる音がし始めた。そして僕に「じゃあ行って来るから」とばっちりメイクした顔を見せて仕事に出かけた。19時くらいになって温めた夕食を自分の部屋に持って入ってアニメを観ながら食べる。食事が終わると食器を洗い、風呂に入って歯を磨く。それからまたアニメを観る。深夜アニメと言うが、早いものは21時くらいからやっている。

 今日はいつもより早目に寝ようと、23時には消灯してベッドに入った。 

 これが僕の今日の一日だ。いつもに比べて何か大きな違いがあるだろうか? カバ子や林さんの件はいつもと少し違うけれど、だいたいはいつも通りだ。少なくとも”あんなこと”が起こるような前触れはまったくなかったはずだ。しかし、僕が目をつむると何か光を感じた。ん? パソコンの電源をを消し忘れたかな? と思って目を開けると僕の目の前に小さな女神がいたのだ。


 あれ? と思った。変だな。僕はもう寝たのか? 夢を見ているのか? しばらくぼんやりとそんなことを考えてを見ていた。すると、は僕を見てにっこりと笑うと

「おめでとうございます。あなたは幸運な人です。私は願い事を叶える女神です。まずは私の存在を信じて下さい。全てはそれからです。私の存在を信じてくれた者の願いをひとつだけ叶えるのです」

 とか言い出したのだ。女神とやらの大きさはよくあるフィギュアと同じか、それより少し大きいくらい。髪はショートカットで背中から蝶々のような形をした透明な羽が生えている。スパンコールみたいなキラキラする服を着ていて、後光のような光が射している。女神というより妖精という感じかなあ? と僕はぼんやりと思ったが次の瞬間、

「え!」

 と上半身を跳ね起こした。

 なんだ? どうした? 僕にはいま何が見えていて、何が聞こえたんだ? 女神? 願いを叶える? 信じる? そんなことが聞こえた。そして妖精のような女神とやらはにっこりと笑顔で僕の顔の前で浮遊している。

 僕はまず、右手で頬を叩いた。痛い。耳を引っ張ったがこれも痛い。他にも体中をバンバンと叩いてみた。夢ではないようだ。ということは夢ではないのにこんなものが見えて聞こえているということだ!

「うわあああああ!」

 僕は叫び声を上げた。

 ついにおかしくなってしまった! 幻覚が見えるようになってしまった!

 いやちょっと待て。と、僕は部屋中を見渡した。どこかにプロジェクターのようなものがないか? それがこれを映し出している……なんてものが僕の部屋にあるわけない! ということはやっぱり……

「おかしくなった!」

 と僕はまた叫んだ。

 アニメの観すぎか? いじめられているから病んでしまったのか? それともその両方が原因か? とにかく僕は頭がどうかなってしまったんだ!

「嘘だ! 見えない! 何も聞こえない! 俺は正常だ!」

 僕は髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回しながら叫んだ。すると女神から笑顔が消え、逆にふくれっ面になった。

「嘘じゃない! 僕は神だ! どうして信じないんだ!」

 キンキンする声高な大声で言う。やっぱりしっかり見えるし聞こえる!

「いや、違う! お前なんかいない!」

 僕は僕でそう大声で言う。

 とにかく落ち着こう。明日朝一で母に病院に連れて行ってもらおう。まだ間に合うかもしれない。いや、きっと治る。まだ大丈夫だ。が、そうやって必死に自分を落ち着けようとしている僕のことなどまったく無視するかのように

「ほら、これを見ろ!」

 と女神は叫ぶと部屋中をかき回すかのようにめちゃくちゃに飛び回り始めた。まるで部屋の中に入ってきた蛾みたいな小虫が暴れまわっているみたいだ。

「これが夢や幻に見える? 現実だよ現実。君の頭がおかしくなったわけでもない! 僕は神だ! 神が現れたんだ!」

 そう言いながらひとしきり部屋の中を飛び回った後、僕の目の前で止まって、

「ほら、わかるだろ!」

 とわからないことを言った。

「やめてくれ!」

 僕は頭から布団を被った。なんだ。なんだというんだ! 頭も悪くて、いじめられてて、根性も度胸もない。その上おかしくなってしまったのか? 僕が何をしたというんだ? これ以上僕の人生を壊すのは止めてくれ!

「信じない人はホント信じてくれないなあ」

 というため息混じりの声までしっかりと聞こえる。ああ……これは重症だ。とりあえず今日はもう寝よう。そして明日しっかりと病院で診てもらうんだ。

「ねえ、ちょっとちょっと」

 という声が聞こえるが無視をする。

「ねえってば!」

 無視だ無視。

「顔を出してよ!」

 うるさいな。

「おいコラ! ツラ見せろ!」

 口の悪い幻覚になってしまった。

「僕を信じて願い事を言わないと何も叶えてやらないぞ!」

 願い事?

 僕は布団に隙間を作ってそっと女神を見た。ふくれっ面で腕組みをしている。

「願い事?」

 と僕が言うと、女神は無言でうなずいた。

 僕はしばらくの間、恐る恐る女神とやらを凝視してから

「本当に本物の女神なの?」

 と訊くと、

「だからそうだっての!」

 と地団駄を踏み始めた。いや空中にいるから”地”団駄じゃないけれど。

 僕は大きく深呼吸をして呼吸を整えた。

 そして考えてみた。夢かもしれない。頭がおかしくなって幻覚が見えているのかもしれない。でも、万が一ということもある。ものは試しだ。願い事が叶うというのならとりあえずは信じてみたらいいじゃないか。

「はい。信じます」

 僕はなんとか自分を落ち着けてそう言った。

「信じるので、願い事を叶えてください」

 少し震える声で言う。すると女神は元の笑顔に戻り、

「わかりました。それではあなたの願い事をひとつ叶えましょう」

 とさっきまでわがままな子供みたいに騒いでいたのが嘘のように真摯的な態度になった。

「ただし、願い事に責任を持ってもらう為、叶えた願いは撤回できません。それをよく心得ておいて下さい」

 と女神は言う。うん、まあ、そりゃそうかな?

「そして叶えられる願い事には以下の制限があります」

 その言葉には

「ん? 制限?」

 と僕は眉間に小さく皺を寄せた。

「はい、その制限に触れる願い事は叶えることはできません。そしてこの制限は言い終えると同時にあなたの頭にしっかりと刻まれます。では……」

 と言ってから女神は次のようなことを言い始めた。

・お金、もしくはお金に成り代わるもの、株券や債権や宝石や貴金属などは一切与えられない。

・高価な物は与えられない。飲食物に関しては一切ダメ。

・動植物を作り出すことはできない。

・権力者にはなれない。

・人気者にはなれない。

・超能力だとかそういう特殊能力を身に付けることはできない。

・いまより高い地位を与えることはできない。

・何らかの凄い才能を与えることはできない。

・身体的能力をアップすることもまったくできない。

・頭脳をいまより良くすることもまったくできない。

・容姿をいまより良くすることもまったくできない。

・性格をいまより良くすることもまったくできない。

・運勢をいまより良くすることもまったくできない。

・異性にモテることもできない。意中の人に好きになってもらうこともできない。

・性欲を満たすようなこともできない。

・「憎いあんちくしょう」を懲らしめることはできない。もちろん殺す、この世から消すなんてこともできない。

・大きな病気や怪我を治すことはできない。不老不死なんてもちろん不可能ね。

・無病息災も無理。

・自然に変化や影響をもたらすことはできない。いま問題になってる温暖化だとか、自然災害なんかもどうにもできない。

・他人を自分の思うような人間に変えることはできない。それと同じで他人を自分の思うように動かすことはできない。

・他人を救うこと、助けることはできない。

・いままで犯してきた罪を許すことはできない。その逆に何も善行をしてないのに善行を積んだなんてこともできない。

・世の中に平和や安寧をもたらすことはできない。争い事を鎮めることはできないわけ。

「以上が制限になります」

 と言って女神は一礼した。

 僕はしばらくの間、ポカンと口を開けていたが、

「ちょっと待て。なんだその多くの制限は? 願い事を、なんでもひとつ叶えてくれるって言ったじゃないか」

 と呆然としながらそう言うと

「『なんでも』叶えるなんて一言も言ってないよ?」

 と女神は目をパチパチさせながらそう言った。そういえば確かにそうだった……

「いやいや、でもそんなに制限なんてものがあったら叶えられる願いなんかないよ」

 僕はそう抗議した。

「しっかりと考えてみなよ。考えればまだできることもあると気がつくよ」

「そりゃそうかもしれないけど……考えろと言ってもそこまで制限されてて何か願えることがあるか?」

 僕はしかめっ面で言う。

「何か願い事を思いついたら、『こういうことはできる?』って質問してくれればいいよ。『質問に答える』ということは制限とは関係なくいつでもできるから。あ、でも答えられないことも多いけど。答えられたとしても具体的には言えなかったりもする」

「それも制限があるんじゃないか」

 どうやらこれは夢でも幻でもなくしっかりとした現実だと僕は確信した。現実だからこそ、そんな上手い話があるわけないのだ。しかし女神の方は

「さあ、あなたの願い事を言って下さい」

 などと言いながら両腕を広げている。僕は頭を抱えてしまった。どうしてこんなことになってしまったのだろう? いま一度、落ち着くために今日1日を振り返ってみる。どこかに間違いがあっただろうか?――いや、間違いなどない。林さんやカバ子の件なんかはあったけど、それを除けばほぼいつも通りだ。

 先ほど女神が言った通りすべての”制限”が僕のこの記憶力が悪いために勉強に役立たない頭の中にしっかりと残っている。いや、それ以外の女神が言ったこともしっかり覚えている。そこから考えてみるが……何も思いつかない。

「お前、本当に願いを叶えてくれる女神なのか?」

 と僕が言うと

「まだ信じてないのか!」

 と、またキンキンする声で部屋中を飛び回り始めた。鬱陶しい。

「いや、信じてはいるよ。神がいるってこと自体は」

 でも”願いを叶えてくれる女神”だとは思えないのだ。でもその言葉で女神は飛び回ることを止めてくれた。しかしその顔は「まったく……」とご不満そうだ。

「でもまあ、信じない人間がいるのも当然と言えば当然だけどね」

 などと、何か矛盾を感じる発言をしている。

「そう言う割にはやたらと自分を信じるように必死にアピールしてたよな? 信じてくれないなら願い事を叶えないとも言ってたし」

 すると女神はまたキンキンする大声で言い……いや叫びはじめた。

「あのね! 僕は神なんだ! 偉いわけ! 信じてもらえないというのは神のプライドとして絶対許せないの! だから僕を信じてくれない人間の願い事なんて叶えないの!」

 ちっさい! こいつ、姿形だけじゃなくて叶えられる願い事のスケールまでちっさくて、おまけに人間性もちっさい! いや、女神らしいから人間じゃないけどとにかく高慢なプライドのせいでちっさくなっている。こういうのを小さなプライドというのだ。本当に女神なのか? 信じて損したかも。

 それでも僕は、う~む、と口をへの字に曲げ、腕組みをしながら考えてみる。しかし、いい考えが浮かばない。また頭を抱えた。が、いや、待てよ……

「そう言えばお前、さっき言った制限の中に『願い事がひとつだけじゃなくて何回でも叶うようできる』とか、そんな制限はなかったよな?」

 と僕は訊いた。

「そこに気がついたか。そこに気がつく人はけっこういるな。確かにそれは制限にはないよ。その願いをすれば制限内であれば何回でも願い事が叶えられる。ただし、それでも叶えられる願いは1日1回だけだよ」

 そこにも制限があるのか。でもまあいいや。あ、ひとつ疑問が浮かんだ。

「同じ願い事であっても何回でも叶えられるのか? それも制限にはなかったはずだ」

「そこにも気がついたか。まあそれに気がつく人もけっこういるけど。確かに同じ願い事でも1日1回だけなら叶えられるよ」

 よし。それなら『何回でも願い事が叶えられる』ようにしてもらおう。いずれは何か良いアイデアが思いついて自分の思う通りの願いが叶うかもしれない。そしていじめを止めさせることができるかもしれない。

「願い事を言うぞ。願い事をひとつだけじゃなくて、今後何回でも叶えられるようにしてくれ」

「その願いを叶えましょう」

 女神は神々しく言ったが……何か変化は感じられない。でも考えてみればそれはそうか。

 しかし疲れた。もう0時前だ。とりあえず寝てしまおう。僕は背伸びをしてからベッドに横になって目をつむった。

 ……女神の光が気になる。

「なあ。今日はもういいぞ」

 僕は目を閉じたままそう言った。

「え? いいってなにが?」

 女神が不思議そうに訊いてくる。

「いや、今日はもう願いを叶えただろ? だからもういなくなってくれていい、って言っているんだよ」

「それはできないよ」

「え?」僕は目を開けた。

「できないってなんで?」

「なんでって『何回でも願いを叶える』ことになっただろ? だからだよ。普通はひとつ願いを叶えたらそれで僕の役目は終わりだからいなくなるけどその願いを叶えたら僕が君の前からいなくなることはもう一生ないよ」

「一生?」

 僕はまた上半身を跳ね起こした。

「一生って……死ぬまでお前は俺に付いて来るのか?」

「うん、そうだよ」

 実に軽く女神は言うが冗談じゃない!

「止めてくれよそんなの! 一生お前が付いて来るなんて冗談じゃない!」

「言ったでしょ。一度叶えた願いは撤回できないって」

 僕は唖然として固まった。こいつが一生僕に付いて来る……悪夢だ……

 やはり僕の頭がおかしくなってしまったんじゃないのか? まだその方が救いがある。

 しかしもうとにかく疲れた。今日は寝よう。ひょっとしたら目が覚めたらこれはやっぱり夢か幻で、こいつがいなくなっているかもしれない。でもこいつの発する光は鬱陶しい。

「せめてその光をどうにかすることはできないのか?」

 と僕は訊く。

「あ、これはどうにもできない。制限にはないけど、これは”神の後光”だから」

「ああ……」

 と僕はうなだれた。

「大丈夫。そのうち慣れるよ」

 何か言いたかったけど、本当に疲れた。言い返す気力もない。寝ることにした。本当に疲れていたのだろう。僕は気にしていた光を気にすることなくすぐに眠ってしまった。


 目を覚ましたときに最初に見えたものは女神だった。

「やあ、おはよう」

 声もしっかりと聞こえる。やはり夢ではなかったか。もうひとつの希望は僕の頭がおかしくなった可能性だ。そんなことに希望を見い出さないといけないとは……

 僕はスマホを見て特に何も連絡がないことを確認する。その時、ふと動画で女神を撮影できるかとスマホのカメラを向けた。

「ひょっとしてカメラ? そんなものに僕は写らないよ」

 女神はしらけた顔で言った。確かにカメラの画面の中に女神の姿はなかった。でも自分の目にはしっかりと見える。これはやはり僕の頭がおかしいからなのか?

「今日の願いはもう叶えられるよ。0時を過ぎたらもう1日1回の願いを叶えられる」

「ああ、そうですか……」

 こっちのことなどまったく考えてないな。どうする? 病院にいくか? でも母はこの時間は一番深く眠っている頃だよな。

 そんなことを思いながら台所に行ってテーブルを見て「ぎゃあ!」と思った。今日は500円が置かれていたのだ。女神のことばかり考えていてこっちのことを忘れていた。最近は1000円が続いていたのに。母も高校の学食が安いことは知っている。昼食代としては500円で十分だ。それでも1000円をくれるのは残りはこづかいとして使えという母の心遣いだ。ただ、お金に余裕のない時は500円になる。これは重雄も同じだ。

 まずいな、と思ってそばにいる女神に

「なあ? 金は本当に全然だめなのか? 1円もだめ?」

 と訊いた。

「うん。1円たりとも与えられない」

 女神は腹の立つほどあっさりと言った。

 とにかく洗濯物を干し、朝食を食べた。そこで考えた。病院行きは止めだ。学校を休むいい口実にはなるが、そんなの一時しのぎにしかならない。こいつが本当に本物なら何かいじめを回避する上手い方法を思いついたときには役に立つ。それに、病院なんかに行ったりしたらまた昨夜みたいに『僕を信じていないのか!』とか大騒ぎしそうだ。

 ん? 待てよ。そんなふうに考えるってことは僕はもうこいつを信じているということか? 自分でもわけがかわらなくなってきた。

 登校準備をすると昨日の数倍足が重くなる。

 女神は本当に僕について来る。夜じゃないので昨日ほどではないが、やはり後光の光が目立つ。

「言っておくけど、君以外の人に僕の姿は見えないし、僕の声も聞こえないからね。僕はあくまでも君の前にだけ現れたんだから」

 そりゃそうだ。もしこいつが他の人に見えたりしたらパニックになる。しかし、

「俺はどうすればいい? お前としゃべっていたら独り言を言ってるあぶないやつになってしまう」

 いや、こんなものが見えている現時点で既にあぶないのかもしれないけど。

「心の中で僕に呼びかけてくれ。それが僕に聞こえるから」

 心の中?

(ええっと……これで聞こえる?)

「はいはい。聞こえるよ」

 聞こえるのか。

「お前、俺の心が読めるのか?」

 だとしたら最悪だ。

「いや、読めないよ。そちらから呼びかけてくれない限りは」

 ほっとした。

 いつもの階段に近づいてきた。そこで重雄と出会った。今日は昨日とは違って余裕のある顔に見えた。でも逆に僕の方が昨日の重雄みたいな顔になっていたのだろう、

「ひょっとして、500円?」

 と顔を曇らせて訊いてくる。僕がうなずくと重雄は申し訳なさそうに謝ってきた。

「ごめん。俺は今日1000円持っているけど、それ以外の金はないんだ」

「別にお前が謝る必要はないよ……」

(いじめを避けることはできないのか?)

 重い足取りで階段を下りながら女神に訊く。

「”息災”はできないっての。昨日説明したでしょ。考えてわからないの?」

 確かにいじめなんかも”災い”だよな。しかしそんな言い方があるか。ホント腹立つな。

 キョーリューの反応は正に昨日の逆だった。重雄はお友達として肩を組まれ、僕の方はケツを蹴られた。そして500円はしっかりと取られた。

 ひとついつもと違ったのは、キョーイチが僕を見たとき、なぜか眉間に皺を寄せて首をかしげたということだ。怖い感じじゃなくて何か不可解に思っているような顔だった。そしてこの時、女神が

「あの頭に毛がない人はキョーイチっていうの?」

 と訊いてきた。

(ああ。それが?)

「あの人ちょっと霊感があるね。それで僕の存在をちょっとだけ感じたみたいだ。でも自分では霊感があると気がついてないね」

 キョーイチに霊感がある? 意外だな。でもそんなことはどうでもよかった。問題はこれからだ。

 教室に着いてからの反応も昨日と逆だった。今日は僕が的当てゲームの標的になった。

女神は教室が珍しいのか、静かに教室のあちこちを見回っている。

(おい)

 と僕は女神を呼んだ。

「なに?」

(やつらのやることを止めさせることはできないのか?)

「他人を自分の思うように動かすことはできない」

 僕はため息をついた。そうこうしているうちに小石が飛んできて、僕の右胸に当たった。

「ぐっ」と僕は顔をしかめた。

(痛みを感じないようにするとか、俺の体を硬質化するとかできないのか?)

「そんな特殊能力は身につけられない」

 くそ! と思っていると今度は左肩に石が当たって痛みが走る。キョーリュー達は楽しそうにはしゃいでいる。この的当てゲームで上手く”的”に当てたら彼らになんらかの特典があるのか? いや何もない。お金などを賭けているわけでもない。ただただいじめて楽しむためだけにやっているのだ。

(キョーリューとか、あいつらをやっつけることはできないのか?)

「『憎いあんちくしょう』を懲らしめることはできない」

(じゃあせめてあの石を柔らかくするとかできないのか?)

「自然に変化や影響をもたらすことはできない。石は硬いのが自然だ」

 だああああ! もう!

 HRまでまだまだ時間がある、今日はどこにどれほど石をぶつけられるか。ひょっとして久しぶりに窓ガラスが割れたりするかも。いままでこのゲームで教室の窓が割れたことは5回ある。これが多いのか少ないのかはわからないがこんなことがあっていいわけがない。このゲームが始まったのは去年の10月初めの頃だった。それ以前から僕も重雄も早くからいじめられていたが、こんな手間のかかることまでして僕らをいじめたいのだろうか?

 そして、キョーリューの2人が

「友達の証として友達料を1日1000円渡せばその日はお前らをいじめられないようにしてやるよ」

 とニヤつきながら持ちかけてきたのもその頃だった。その頃は”あの騒ぎ”がようやく収まり始めた頃でもあったな……

 このいじめで窓ガラスが割れても、もちろん彼らは謝らない。では僕らのせいにされてしまうのか? それもない。ガラスが割れていることをHRで先生に訊かれたら

「知りませーん」

「また勝手に割れましたあ」

「先生、やっぱりこの教室、霊かなにかいますよ! お祓いしてもらいましょう!」

 などと言って何人かの生徒がふざけてお祓いの儀式の真似をするだけだ。先生はうんざりしたような顔で「後でもいいから割った人は名乗り出てきなさい」と言うが、それで名乗り出たやつはもちろんいままでいない。

 HRが始まって、このゲームは終わったが、他の多くのいじめが待っていた。授業中には先生が板書の最中に僕の背中や頭に消しゴム、紙くず、そして小石などが飛んできた。授業間の休みに”ローキック”の的にされた。痛みで立てなくても無理やり立たされて何度も蹴られた。他にも背中を蹴られる、プロレスの関節技や絞め技の練習台にされる、僕が教室にちょっといない間に鞄の中の教科書や、ノートや文房具などを教室中にばら撒かれるなど。ただ、やはり顔に傷が残るようなことはされないし、教科書やノートを破られる、机に落書きをされるといったそんな類のいじめはされない。いじめの痕跡が残るようなことはしないのだ。しかし、昼休みになって避難地区に行こうと校舎から出て窓際を歩いていると、ふと嫌な気配を感じて上を見ると2階の窓から水の塊が降ってきたのが見えて寸前でなんとか避けた。2階の窓からはバケツを持っているやつと「外すなよ」と笑っているやつがいた。2人ともクラスメイトだ。いじめの痕跡は残さないはずなのに、僕がびしょ濡れになっていたら痕跡が残るだろうに。そういうことをわかっていないやつらもいるのだ。窓際を歩くときには上を向いて歩くことにしていたのに、ここのところ1000円の日が続いたからつい忘れていた。「上を向いて歩く」というのは本来ならポジティブな意味合いなのに、僕にとってはとことんネガティブな意味合いになってしまっている。

 そして、だ。いじめられている僕に女神はなにかしてくれたか? いや、何もしてくれない。しれっとした顔で僕のそばにいるだけだ。神なのに何もしてくれないのだ。

 避難地区で疲れてしゃがみ込んだ。しばらくして重雄も来た。彼は今日はいじめに遭ってないようだ。重雄は

「大丈夫か?」

 と、申し訳なさそうな顔で言った。彼は悪くないのに。僕は

「なんとか」

 と答えた。腹が減った。毎朝なるべくたくさん朝食を食べるようにはしているのだがやはり昼になるとお腹は減る。育ち盛りが憎い。

(なあ?)

と僕は女神に訊く。

「なに?」

(高価なものが駄目っていうのはまだわかるんだけど、飲食物まで駄目なのはどうしてなんだよ?)

「なによりも高価なものだからだよ。食べ物や飲み物は”命の綱”なんだよ。これ以上高価なものがある? いまこの国はどうやら飽食の時代になってるみたいだからこれがわからない人間が多いみたいだね」

 そう言われれば確かにそうだな。

「ちなみに動植物を作り出すことができないというのはそれに繋がっている。食することができる動植物というのは多いからね」

 徹底しているな……なんなんだろうその徹底ぶりは。

「腹減ったな」

 と重雄もお腹を押さえて言った。


 そんなこんなで、女神が現れてから10日が経ったが、結局願い事は何も叶えてもらえず、事態は何も好転せず、何も変わらなかった。いや、変わったことがひとつある。この女神との喧嘩だ。1日に1回くらいは喧嘩している。

「結局、何もできないじゃないか!」

 と言った時は

「だから最初に言ったようにしっかり考えてみなよ。そしたらできることもある。君、全然考えないんだもの」

 と小ばかにするように言われた。

「お前を信じてむしろ損したかも」

 と言った時は

「君がちゃんと考えないからだ。僕のせいにするな!」

 と怒って僕の部屋の中を飛び回った。

「お前本当に神なのか?」

 と言った時は

「当たり前だ! 神を冒涜するな!」

 と怒りながら僕の部屋の中を激しく飛んで叫んだ。

「わかった。お前は神は神でも疫病神なんだな」

 と言った時は

「疫病神だと!」

 と顔を真っ赤にしながら激怒して部屋の中を乱れ飛んだ。

 最初にこいつを信じなかった時もそうだったが、こいつはどうやら怒ったりムキになったりすると飛び回るらしい。

 そしてもう病院に行くということさえ考えなくなった。やれやれという気にしかならない。事態は悪化しているんじゃないのか?

 そしていまは土曜の夜。明日は学校がないと思うと一番心休まる時間だ。僕は少しの安寧を感じながらアニメを観ていた。女神は普段はテレビなんか興味はないという感じで僕がアニメ等を観ている時は好き勝手に浮遊しているのだが今日は珍しくテレビを観ていた。いや、テレビを観ている僕を見ているようだ。

「なんだよ? 俺のこと見てるけど」

 アニメが終わると同時に僕は訊いた。

「君、本当にアニメ全部観ているの? ぼんやりしている時とかスマホをいじっている時とかけっこうあるよ」

 少しどきりとした。確かに惰性でとりあえず視聴を続けているというアニメも多い。

「まあ、アニオタなんてそんなものだよ」

 としか言えなかった。考えてみたら、僕がこの女神の存在を信じたのはアニオタだからもしれないな。

 しかし、アニメに出てくる女神とはまったく違う。

「アニメに出てくる女神ってのはもっと何か役立つものなんだよなあ……」

 と僕は嘆きの息を吐きながらそう言うと、

「例えば?」

 と女神は訊いてきた。

「そうだな。例えば……異世界に転生させてくれたり、転移させてくれたりとかだな」

 ちょうどいま観終わったアニメがそういうアニメだった。

「異世界転生? 転移? なんだそれ?」

 女神は首をかしげ、

「ちょっと調べてみるかな」

 なんてことを言った。

「調べられるの?」

「その程度のことできるに決まってるだろ。僕は神なんだよ。いまの人間の世界で言うところのネット検索みたいなものだ。でも精度も確度もネットなんかより何百倍も高いけど。一瞬にして全てを見られるんだからね。関連する多くの情報も同時に伝わってくるし」

 やたらと上から目線で高慢に言ってくる。本当にちっさいな。

 女神は調べているのか少しの間動かなかったが、突然、

「ぶはははははははは! なんだこれ!」

 と両目に涙を浮かべて大笑いし始めた。

「要するに君みたいな現実の世界で冴えない人間や世の中に不満のある人間がネットゲームみたいな世界に行って、大した努力をすることもなく凄い能力を得ることができて、仲間も沢山できて、英雄になれて、挙句の果てには可愛い女の子たちに囲まれてハーレム状態になるってことじゃないか。こんなものに憧れているの?」

 世界中のアニオタを敵に回すような発言をしやがった。

「それと、引きこもりやニートがこの異世界とやらに行ったらしっかり者になったりすることも多々あるみたいだけどなんで? 異世界行っても引きこもりは引きこもり、ニートはニートでしょ? どうしてこんなに都合良く人が変わるの? ひょっとして自分の理想とする世界だから? 甘ったれの極みだね」

「おい、いくら神でも言って良いことと悪いことがあるぞ」

 さすがに頭に来て僕は強い調子でそう言った。が、女神は

「うん、いまのは言って良いことだよね」

 と右手小指で鼻をほじっている。こいつ本当に神なのか?

「こんな上手い話があるもんか。まるで何かの詐欺みたいな話じゃないか」

 お前だって詐欺みたいなものだろ。最初に登場したときの言葉なんて、典型的な詐欺みたいなこと言っていたじゃないか。と思ったがそれを言うとうるさくなりそうなので黙っておいた。

「アニメや漫画の世界ではそんなものなんだよ。何か大きな能力を持っている者が現れたら、主人公をいろいろと助けてくれるものなんだ」

「ふーん。例えばどんなの?」

「そうだな……わかりやすいのはドラえもんかな?」

「ドラえもん? なんだそれ?」

「調べてみろよ」

 と言うと、また少ししたあと、

「ぶはははははははは! なんだこれ!」

 と両目に涙を浮かべて大笑いし始めた。

「なんだこの『のび太』ってのは? 最悪の人間じゃん。せっかくドラえもんが便利な道具をいろいろ出してくれているのに、全然成長しない。いや、成長したかと思ってもすぐ元の駄目人間に戻ってる。ドラえもんもよくこんな人間を何度も助けようと思うな。さっきの異世界とかいうのより酷いかも」

 正直、言ってることに大きな間違いはないと思う。それでも

「アニメや漫画ってのは人に夢を与えるものなんだから、こういうのでいいんだよ」

 と僕が反論すると

「夢を与える?」

 と女神は首をかしげた。

「夢どころか悪影響があるだろう? こんな現実的にあり得ないような甘い話で現実逃避させるなんて」

 こいつはPTAか? いや、いまどきPTAでもこんな難癖は言わないだろう。

「お前だって人の夢や願いを叶える女神じゃないか」

「うん。だから僕はそんなに甘くないんだよ。人間世界の現実はシビアだろ? こんなのに夢中になって現実逃避しているようじゃシビアな世界でやっていけないよ」

 確かに現実はシビアだな。アニメや漫画みたいに甘くない。

「でもなあ、シビアな言動ばかりしていて失敗する人もいるよ」

「へえ? 例えば誰?」

 うーん……言ってはみたものの、あまり思い当たらないな。僕はしばらく考えてから

「ホリエモンとかかな?」

 と答えた。

「ホリエモン? さっきのドラえもんとは違うの?」

「調べてみろよ」

 少しした後、

「ぶはははははははは! なんだこいつ!」

 と両目に涙を浮かべながら大笑いし始めた。そこは僕と感性が同じだったか……

「あのな、俺にとって”1000円の日”とアニメや漫画は”救い”なんだよ。この救いがあるからいじめられていてもなんとか毎日やっていけるんだ。たとえ”ながら観”でもな」

 少なくともお前よりは役に立っている、と言いたかったがこれもうるさくなりそうなので止めておいた。とにかく僕には漫画やアニメといった現実逃避ができる材料が必要なのだ。それが救いなんだ。幸い日本という国は漫画やアニメなどに事欠くことはない国だ。

 それと重雄という友達がいることも大きい。単なる”いじめられ仲間”かもしれないけれど、それでも同じ悩みを共有し合える仲間がいるということは大きな救いになっている。

 でもこんな小さいのにうろうろされるのにはまだ慣れない。鬱陶しくて僕の救いや安らぎを奪う。あの後光には女神が言っていた通り慣れたけど。

 僕は何気なく、

「いまのお前は蛾みたいなんだよな」

 と言うと

「蛾!」

 と女神は目口鼻を大きく開いてそう叫んだ。

「神の僕のことを『蛾』だと!」

 と部屋中を飛び回り始めた。しまった。うかつなことを言ってしまった。

「そんなことを言われて、女神のプライドが黙っちゃいないぞ!」

 お前のそのちっさいプライドが黙ってないことがあったのか? 女神は部屋中を鬱陶しく飛び回る。

 ああ……もううんざりだ。やはりこいつが来てから事態が悪化した。

「だいたいね、僕らに”実体”というものはないんだ。だけどわざわざこうして姿を現してあげているんだよ」

「え? どういうこと?」

「だから、本来神には姿形ってものはないの。最初の頃は、声だけで人前に現れていたんだ。それで信じてくれる人もいたけど、信じてくれない人も多かった。そこで何か実体を作った方が信じてくれるかと思った。だからトラ、クマ、ライオン。そんな実体になって現れたけど、怖がってみんな逃げ出した」

 当たり前だ。

「そりゃそうだろう。なんでそんな緊張感のある動物になった?」

「そりゃあ神の威厳を保つためさ」

 ああ、ちっさいちっさい……

「で、それなら人間の姿になろうと思った。でも、人間に近い姿で現れたら『人間が現れた』と思われるだけだった。いろんな力を見せても手品か何かと思われて信用しない人間も多かった」

 まあ、そりゃそうかな。

「だったら、人間の姿でなおかつ人間ではありえない姿になろうとして、いまのこの姿になったわけなんだよ」

 なるほど。

「それから僕に性別はないんだよ」

「え?」

「だから、僕は男でも女でもないの」

 そう言われてみれば、小さい顔をよく見てみると、女にも男にも見える顔だな。体つきもほっそりとはしているが、女にも男にも見える体だ。僕は思わず女神の股間を注目してしまった。

「どこ見てやがる」

 女神が軽蔑の目で言う。

「まあこの際はっきり言っておくけど、性器なんてものもない」

「じゃあなんで神なんだよ」

「知らないよ。人間が勝手に僕のことをそう呼ぶんだもん。だったら別に女神でもいいかと思って」

 そういうところは安易なんだな。

「強いて言うなら、声が女の子みたいなのかな?」

 確かに。声は女の子みたいな声だ。僕がこいつを女だと思い込んだのもそこが大きい。でも考えてみれば自分のことを『僕』と言っているな。アニオタの僕は自然に”ぼく”かと認識してしまっていた。

 ん? 待てよ。

「お前、姿形を変えられるんだな?」

「そこに気がついたか。というか、さっき僕が言っちゃったな」

 そうか、それなら。

「もっと大きくなることもできるよな?」

 小虫くらいの大きさで動き回られるのが鬱陶しいのだ。女神は「できるよ」と頷く。そうか。いや、でも普通の人間くらいの大きさで常に付いてこられたり、飛び回られたりしたらそれはそれで鬱陶しいな。

「サイズは1メートルくらいでいいからいまより大きくなってくれ」

 とにかく虫くらいの大きさでなければいい。女神はふんふんとうなずく。そうだ、ついでに――

「そのスパンコールみたいな服装もやめてくれ。どこかの売れない演歌歌手じゃないんだから」

「これ、気に入っているんだけどな。じゃあ白い服でいいかな?」

「そうだな。大人しくて落ち着く」

 僕はうなずく。

「それからさ、その”羽”もなくしてくれ。それのせいで蛾みたいになっているんだぞ」

「羽じゃなくて翼だよ。翼はなくせないよ。これは神のプライドとして絶対必要だから」

「だったらせめてもっと翼らしくしてくれよ。あんな羽だから虫っぽくなるんだ」

「じゃあ白鳥みたいな翼でいい?」

「そうだな。白鳥は優雅な翼だし。よし、いま言った通りに変わってくれ。それが今日の願いだ」

「その願いを叶えましょう」

 女神がそう言うと一瞬にして女神は変身した。それは見事に注文した通りの姿だった。サイズは1メートルくらい、衣服は白で、背中からは白鳥のような白い翼がゆったりと生えている。大した変化だ。しかし、しまったと思ったことがあった。

「後光が増してるな……」

 サイズが大きくなった分、それに比例して女神の発する光も強くなってしまった。ようやくあの光に慣れたのに、また慣れるのに時間がかかってしまう。

「そりゃそうなるよ」

 女神は腕組みをして言う。『不満があるのか?』という顔だ。不満を言ったりしたら面倒臭いことになりそうだ。これで良しとしよう。

 しかし、その姿は

「女神というより、天使みたいだな」

 前回は妖精みたいだったけど、今度は天使か。

「あんなガキどもと一緒にしないでくれ」

 女神はふくれっ面になる。またプライドを揺さぶってしまったみたいだ。普通は『天使みたいだ』なんて言われたら喜ぶものなんだけどな。でも実体がないはずなのに、”天使”というものが存在するのか? 大人とか子供とかいう概念があるのか? 変な話だ。

 しかし、ようやく叶えた2つ目の願いがこれか……

 日曜の0時になった。これでまた今日の願い事ができるわけだけど、何か有益な願い事はできないものか?

 深夜アニメを観ながら考える。テレビの中ではコメディタッチのファンタジーアニメをやっている。間抜けな主人公が他人を自分の思うように動かすことのできる能力を使うがうっかり自分自身にその能力がかかってしまい、パニックになっている。

 ん? 待てよ?

「なあ? 他人を思うようには動かせない、と言ったけど俺自身は俺の思うように動かせるのか?」

「何を当たり前のことを言ってるの? いまも自分の思うように動いているんだろ?」

 女神は呆れているがそういう意味じゃない。

「そうじゃなくて、やりたくても勇気がなくてできないこともある。そんな自分を願い事で自分の思うように動かせるのか、ということだ」

「そこに気がついたか。いままでも何人かの人間に同じような願いをされたことがある」

 なるほど。やっぱり他の人もそうなんだな。自分に正直に、素直にこんなことができたらいいのに、言えたらいいのに、てなことをみんなたくさん抱えているんだ。

「できるよ。でも身体能力をアップさせるような動きをさせることはできないよ」

「いや、そんな必要はないんだ」

 と言ってから、僕はノートを取り出すと、そこにある事を書き込んだ。

「母さんが帰ってきたら、を僕に言わせてくれ。それだけだ」

 女神はそれを覗き込んで眉を寄せた。それは『母さん、相談があるんだ』『俺、いま学校でいじめられているんだ。なんとかできないかな?』という、実にシンプルなことだった。

「こんなことが言えないの?」

 呆れたように女神は言う。

 そう、言えない。

 母にいじめの相談ができないのはある不安があるからだ。もし僕の不安通りになればいじめは解決しない。正直、そうなるのではと思う。だからこそいままで相談する勇気がなかった。何度か相談してみようとしたことはある。でも直前になってやはり尻込みして結局何も言えなかった。これを機会に試しに言ってみるしかない。

「とにかく、これが今日の願いだ。叶えてくれ」

「その願いを叶えましょう」

 女神がそう言ったが、体に特に変化は感じなかった。とにかく母が帰ってきてからだな。

 しばらくの間アニメを観ていたが、2時半を過ぎた頃になって玄関のドアが開く音がした。ご帰宅だ。

「おかえり」

 と僕は出迎えたが……しまった……

「おう! 息子よ! まだ起きていたか! 出迎えごくろう!」

 と真っ赤な顔でろれつの回らない陽気な大声で言い、さらに僕の頭を豪快にバンバンと叩いた。とてつもなく酒臭い。玄関から廊下に上がろうとするが、その足元がおぼつかない。ぐでんぐでんに酔っている。これはまずい。もう結果は見えたようなものだ。

 母はホステスだからお酒を飲むのは当たり前なのだが、毎日こんなにベロベロになるほどには飲まない。お酒はある程度で、あとはお茶などでやりすごす。毎日こんな状態になるほど飲んでいては接客ができないし、何より身体からだたない。しかし、たまにだがこんな状態になって帰ってくることがある。運悪く、今日はその”たまに”に当たってしまった……

 しまったなあ。母が帰ってきて、母の様子をちゃんと確かめてから願うんだった。しかし、もう撤回はできない。

 身体が僕の意思とは関係なく勝手に動き始めた。うお! と驚いた。女神が現れてから初めて人間の力ではあり得ないような事が自分の身に起きた。これはもう幻覚じゃないな、と僕はやっと納得できた、が、なんともタイミングが悪い。

 台所で水を飲んでいる母の元に体が勝手に向かい、

「母さん、相談があるんだ」

 と口が勝手に動いた。くそ、いまはマズいのに止められない。

「んん? 相談? なんだあ?」

 母は「よいしょっと!」と台所の椅子にミニスカートからパンツが丸見えになるほどだらしなく大股を広げて座り、両膝にそれぞれ手を乗せて腕を”がに股状態”にする。サウナの中によくこんなおっさんがいる。

「言ってみろ息子よ!」

 と大声で言う。いや、言いたくない……でも口が勝手に動く。

「俺、いま学校でいじめられているんだ。なんとかできないかな?」

「はあ? いじめられてるだあ?」

 ドキドキした。おそらく、母の反応は……

「かー! なっさけねえなあ!」

 とまるで江戸っ子みたいな口調で言って右手で顔を覆い、天を仰いだ。やっぱりだ。不安通りになった。

「それであれか? お前は何もできないでいるのか?」

 僕がうなずくと、また「かー! なっさけねえなあ!」と天を仰いだ。

「小さなガキじゃあるまいし、やってやれよ、そのいじめている連中をよ」

 真っ赤な顔で拳を振ってみせる。フラフラしていた。僕はため息をついた。

「強いんだよそいつら。とても俺が敵う相手じゃないんだ」

 正直、もう何を言っても無駄だと思ったけれど、勢いで言ってしまう。

「まったく……喧嘩のやり方くらい覚えろよな!」

 とフラフラしながら立ち上がると、食器棚の引き出しを開けた。そこから折りたたみ式の果物ナイフを取り出した。まさか……

「さすがにこれはマズいか」

 と母は引き出しの中に仕舞った。良かった。あんなもの使えるか!

 母は今度は食器棚の一番下の大きな扉を開くとごそごそやり始めた。あそこには、離婚した建設作業員だった父の忘れ物がいくつかある。僕があまり触らないようにしているところだ。母はそこからハンマーを取り出したが首をかしげ、次はバールを取り出して首をかしげた。物騒なものばかり出してくる……そして、

「お、これがいい」

 と何か取り出して僕に手渡した。なんだこれは? と僕はそれをまじまじと観察する。大きさは鉛筆と同じくらいで、形もやはり鉛筆と同じような六角形、いや、八角形だ。先端も鉛筆みたいに尖っている。しかし、鉛筆と決定的に違うのは重さと硬さだ。なんの金属でできているのかわからないが金属製で、ずっしりと重く、硬い。

「チスタガネっていうんだ」

 母はろれつをなんとか回しながら言った。

「コンクリートなんかのハツリ作業に使う道具だ。それを喧嘩の時に使え。それで相手を突いてやるんだ。そのサイズなら携帯するにも便利だろ。ポケットの中にだって入る」

「……」

「関節や骨が出ているところなんかを狙うといい。手首、肘、膝、手の甲でもいいな。背中なら肩甲骨。胸骨なんかは効くぞ」

「いや、母さん……」

 それ以上言葉が出なかった。母はそんな僕など無視して続ける。

「もちろん関節や骨じゃなくてもいい。胸や腹や腕や足でもいい。それで突いてやればダメージは大きい。あ、ただし、顔や頭や喉なんかは止めておけ。顔は下手すると目をつぶしかねないし、頭は頭蓋骨を砕いたりしかねない。喉は穴が開きかねない。そうなったらさすがにシャレにならないから」

 いや、どこを突いてもシャレにならないだろ……僕が手の中のチスタガネとやらを見ながらそう呆然としていると、

「じゃ、頑張るんだぞ」

 などと言って、「うー! 暑い暑い!」と言いながら自室に入って服を脱ぎ、下着姿になると布団もひかずに畳の上に倒れるように寝転んで、大きないびきをかきはじめた。

 最近、確かに暑くなってきたけどさすがにその格好で寝ると風邪をひくかも。僕は押入れからタオルケットを出すと、母にかけた。

 見事に心配していた通りになってしまった。母は、いや父もこういう人間なのだ。

 母は高校生の頃、いわゆるヤンキーだった。ただし、自称”正義のヤンキー”だったらしく、弱い者いじめは絶対にしなかったという。そして喧嘩に明け暮れていた。そこでひとつ年上の建設作業員の父と出会い、同じ喧嘩好き同士ということで気が合って付き合うようになった。そして、母は17歳の時に僕を身ごもって高校を中退して父と結婚した。そして18歳の時に僕を産んでくれた。父も母も僕にはとても優しく接してくれたが、2人はまだ若く、よく喧嘩した。僕はその喧嘩が嫌で布団の中で耳を塞いでいたものだ。僕はそんな強気な2人の性格を受け継がなかったようだ。

 そして、ちょうど10年前に両親は離婚した。父と離れることになった。それは悲しかったけれど、もう夫婦喧嘩を見なくていいというのは正直ほっとしたのを覚えている。

 養育権などがどうなっているのかは具体的にはいまでも知らない。なんだか知りたくない。離婚してからは僕は父とは一度も会っていなかった。

 離婚してから母はホステスとして働き始め、女手ひとつで僕を育ててくれている。それには本当に感謝している。しかし、だ。さすがにはない、と、僕は手の中のチスタガネを見た。

 そういう経歴があって、そんな性格の母にいじめの相談をすればこうなるだろうと予想してはいたが、酔っていたことで結果は予想していた以上に酷くなってしまった。

 せっかく女神に願いを叶えてもらえたのに。しかもこいつの存在を完全に信じることができたのに、結果が伴わなかった。

 いじめをやめさせるにはどうしたものか。僕は部屋に戻って考えた。先生達もいじめられている。学校の”主導権”は生徒側が握っているのだ。やはり弁護士や警察なんかに相談するか? でも重雄は、「警察や弁護士なんていうのはしっかりした証拠でもないと動いてくれないよ」と言っていた。本当だろうか? しかし、キョーリューの2人が毎朝僕と重雄のスマホを没収するのは僕らがいじめられているところを動画に撮られたりして証拠を残されないようにする為だということは確かだ。その他にも普段の学校内の様子を撮られたりしない為だ。

「よりによってこんな日にあんな願いをしてしまった。俺はツイてないな……」

 ベッドに座ってそう呟くと、

「何を言ってるの?」

 と女神は驚いたように言った。

「僕は人を選んでその人の前にだけ現れる。真面目な人の前にだけしか現れないんだ。良い子のところにサンタクロースがやって来るみたいにね」

 と言ってから、「でもサンタなんていないけどね」と笑った。ホント嫌な神だな……

「でも真面目な人なんて世の中に沢山いる。何億人という真面目な人の中から君を選んだんだ。しかも前に来たのも日本だったんだよ。今回も日本に来てあげたんだ。これだけ広い世界の中から2回も日本を選んで、さらに多くの人の中から君を選んだんだ。それがどれくらいの確率かわかる? どれくらいツイてることかわかる?」

 どれくらいの確率かはわからないが、そんな確率から選ばれたのにできるのはショボいことだけとは……いったい僕はどれだけツイてないんだ……

 少し落ち着いてから、

「前に日本に来たのっていつなんだよ?」

 と何気なく訊いてみた。

「97年前だね」

「はあ?」

 僕は声を上げた。

「つまり、97年もこの世に来なかったのか?」

「うん。この世に来るのは気が向いたときだけ。来る場所も気まぐれ。日本に2度も続けて来たのも単なる気まぐれ。でも毎年この世に来ることもあるし、逆に200年くらい来なかったこともある。今回はけっこう間が開いたね」

 気が向いたときだけってただの怠慢だろ、と言いたかったが、これもうるさくなりそうなのでやめた。

「だからさっきの検索能力を使っていまのこの世界のことはある程度は調べてから来たんだ」

「お前は全知全能の神じゃないもんな」

 僕はそんな皮肉を言ってやった。特に『全能』ではない。ショボイ神だ。

「あ、また『ショボい神だ』とか思っているんだろ?」

 正解だ。

「言っておくけどね、最初はここまで多くの制限なんてなかった。多くの願いを叶えていたんだ。でもこれだけ制限が増えたのは人間のせいなんだぞ」

女神は口を尖らせる。

「人間のせい?」 

「そうだよ。真面目な人でも、”何でも願いが叶う”となるとあまりにも強欲な、私利私欲の為に願いを言う人間が多かった。だからこうなったんだ」

 まあそうかもな。人間なんて誘惑に弱い生き物なんだから。

「歴史上有名な人間で最悪だったのはカリグラだね。善政していたから信頼したのにね」

「カリグラ?」僕は首をかしげた。

「知らない? あの暴君ネロの伯父に当たる人だよ」

 ネロは何か聞いたことがある気がするけどカリグラは知らない。スマホで検索してみた。いくつかの情報が出てきた。第3代ローマ帝国皇帝。最初の頃は善政を行っていて民衆や身内からの評判も良かったが……

「おい、ちょっと待て。これお前のせいじゃないのか?」

 と僕は顔をしかめた。

「大病を患って、頭がおかしくなった、とかあるけどこれはお前が現れたことが原因じゃないのか?」

 女神は「そうかもね」などと軽く言う。                

「カリグラが『女神と話しているけど、お前たちには見えないのか?』なんてことを言った、とあるぞ? この女神ってのはお前のことだろ?」

 こいつの他に人の頭をおかしくするような女神などいないだろう。

「僕のことを信じてくれなくてね。当時は神を信じる人はけっこういたのに彼は頑なに信じようとしなかった。だからこっちも意地になって信じさせようと必死になった。それで結果的には信じてくれたんだけど、その時にはもうおかしくなっていたな」

「そりゃそうなるだろう」

 何考えているんだこいつ……

「それで最初の願いが『何回でも願いが叶うようにしてみろ』だった。まだ少しまともな思考もあったんだろうね、僕のことを試したんだと思う。でもその願いを叶えてあげたらさらにおかしくなってしまった。当時は制限もまだいまみたいに多くなかったから、願い事でもうめちゃくちゃを始めた。さすがにどうしようかとまいったよ本当。だから暗殺された時はほっとした」

「……」

「でも心配ない。この人に不幸にされた人達は天国に行って幸せに暮らしているから。あ、元々悪かった人はその範疇じゃないけど」

「そういう問題じゃないだろ……」

 やっぱり疫病神だこいつ。

「でもその反省から僕も人間の時間で、24時間、つまり1日経っても信じてくれない人や、願い事を言わない人の前からはもう消えるようにした。凄く腹が立つけどね」

 そういう小さいプライドを捨てたら腹も立たなくなるぞ、と思ったがもちろんそんなことは言わない。

「他にもいろいろな人のところに行ったけどね、やっぱり欲深くなる人が多かったな。歴史的有名人では玄宗もそうだったな」

 玄宗も知らない。こちらもスマホで検索してみる。中国、唐の第9代皇帝。30年もの間善政をしていたのだが、楊貴妃と出会って……

「だいたいわかった。楊貴妃を自分のものにしたい、とかそういう願い事をしたんじゃないのか?」

「そうそう。でもその願いを叶えたら酷い事態になった」

 楊貴妃にうつつを抜かして政治を怠った。結果、国は荒れ果てて反乱を起こされて皇帝を退いた。

「カリグラの善政は7ヶ月くらいだったけど、この人は30年も善政をしていて、すぐに僕を信じてくれて、願い事もひとつでいいと言うし、そんな人なら大丈夫かなと思ったんだけどね。誠実な人間だと思ったのに、いざ願いが叶うとなると人は変わるんだよねえ。私腹を肥やす願い事をする人が多いのなんの……そんなだからあっという間に願い事の制限が増えていったんだ。ちなみに『異性にモテることもできない。意中の人に好きになってもらうこともできない』という制限はこの玄宗の反省からできた」

 だろうな。

「それと、一度は『願い事が何回でも叶うようにする』ということを制限したこともあったんだ。叶えられる願い事は本当にひとつだけにしたこともあった。でも制限が多くなりすぎて、叶えられる願い事の質があまりにも落ちた。それでショボい神だとか思われるのは僕のプライドが許さなかった」

 ほんとちっさいな。

「それで、制限が増えたから、どうせ大した願いは叶えられないんだし、何回でも願いが叶うということは復活させてもまあいいか、と思って復活させた」

 『まあいいか』って軽いな……

「あ、でも願い事は1日に1回だけという制限ができたのもその時だったなあ」

「何があったの?」

「真面目でちょっと頭の良い女の人の前に現れたんだけど――あ、言っとくけどカリグラや玄宗みたいな歴史的に有名な人とかじゃないよ。有名人より普通の一般の人のところに現れる方が圧倒的に多いんだから。いつの時代も政治を行っているような人間は何をするかわからないと学んだからね」

 カリグラの暴政の時にしっかり学んでおけばよかったのに……

「その女の人は”絹糸”を求めたんだ。その時代のその国ではいまの日本の5000円くらいの価値のある絹糸をね。その頃は1日1回だけという制限がなかったから、絹糸がほしいという願いを1日に何回も叶えた。そして、彼女はそれを毎日沢山売って、結果けっこうなお金持ちになったんだ。そこまで良質な絹でもなかったんだけど彼女はそれを安値で売った。僕が与えているから原価0だもんね。だから彼女には売上げのほとんどが手に入った。これじゃあ結果的に大金を与えているのと同じだと思ってね。それで願い事ができるのは1日1回だけだという制限を設けたんだ」

 なるほど、そういういろいろな経緯があって願い事のスケールが小さくなったというのは理解した。

 ん? そういえば……

「さっき天国とか言ったな? そういう天国や地獄とかいう死後の世界があるのか?」

「当たり前だ。神がいるんだから。いまごろ気がついたのか?」

 そうなのか。

「天国や地獄ってどんなところなんだ?」

「こちら側の世界のことは具体的には教えられないんだよ」

「じゃあ大まかにでいいから教えてくれよ。天国ってどんなところ?」

「素晴らしいところ」

「地獄ってどんなところ?」

「最悪なところ」

「いくらなんでも大まかすぎるだろ……」

 僕は顔をしかめる。

「ま、もう少し具体的に言ってもいいか」

 そんな軽いノリで言ってもいいのか?

「天国はとにかくこの世界よりずっと素晴らしいところだ。そして地獄だけど……地獄と言ってもどれだけ悪行を積んで減点されたか、つまりは罪の重さで受ける責め苦も違う。人間にもわかりやすく”レベル”という言葉で言うと、最悪の地獄レベルは100になるね。レベル1から15くらいまでの地獄は人間でもなんとか耐えられる”低レベル地獄”。レベルが高くなって50以上になると人間にとってはもはや筆舌に尽くしがたい責め苦を受ける”高レベル地獄”だ。その責め苦が永遠に続く」

「ヒトラーなんかはどこにいる?」

「ヒトラー? ああ、あいつか。まあ、彼がやったことは世界的に有名だから教えてもいいか。レベル100の地獄だ」

 納得。

「さっきと言ったよな? 罪を犯したら減点されるわけか」

「あくまでも人間の世界の言葉で言うとだけど、”減点”ということになる。人間が生まれたときはみんな100点満点を持っていて、そこから減点していく。そしてマイナスになったら地獄行き。さらに悪行を積んだらマイナスがどんどん増えて地獄レベルも高くなる。ちなみに僕らの”採点方式”は基本的には加点方式じゃなくて、減点方式なんだ」

「どうして?」

「善行を積むより人の嫌がることをしない方が簡単だからだよ。人間の感性ってのは個々によって違うから、良かれと思ってやったことが人によっては大きなお世話だったり、迷惑になることがある。人に喜ばれることをするのは意外に難しい。でも人が嫌がることをしないというのは簡単だ。悪行をしないということの方が人間にとっては簡単で、なおかつ人様に役立つことにもなるはずだ。そういう心遣いをしてあげているんだよ僕達は」

 なるほど、そう言われれば確かにそうかもしれないな。

「”加点”をしたい場合にはどうしたらいいんだ?」

「よほどの善行をしないと駄目だ。でもどんな善行をするとどれくらい加点されるか、逆にどんな悪行をしたらどれくらい減点されるかとかは具体的には教えられない。教えると今後それをひとつのにして行動するだろう? 神が人間の善行・悪行についてそんな計算ずくの行動をさせるわけにはいかないからね」

 これもなるほど、だ。こいつの言うことに連続して納得できるとは。

「人殺しや人を死に追いやるような事をした連中やレイプ犯みたいな、そんな凶悪犯はどうなる? 大まかでも教えられないか?」

 女神は口を曲げてしばらく考えているようだったが、

「ま、そのへんははっきりしているから言ってもいいか」

 とやはり軽く言った。柔軟性があると言えばいいのか、無責任だと言えばいいのか……

「そういう凶悪な連中、重罪を犯した連中はもう1発でレベル50以上の高レベル地獄行きだ。しかもそういう連中はどんな善行をどれだけ多く行っても、もうまったく加点されない。高レベル地獄行きは絶対避けられない。どういうわけか、人間の世界では『罪人を許せ』みたいな教えや考え方があるみたいだけど、あんなの僕らからするとまったく理解できないね。制限にもあったように僕らは罪を許すということはしない。レオ10世やドミニコ修道会の免罪符なんかは僕らの世界にも伝わってきたけど大笑いになったよ。そういう意味ではマルティンルターの方がまだ偉かったかな」

 よくわからないが、とにかく犯罪者は、特に凶悪犯は生きているときは良くても死んだら永遠に苦しむわけか。

 だったら……

「キョーリューの2人はどうだ? 大まかな回答でいい。天国か? 地獄か?」

 女神は少しだけ考えてから言った。

「酌量の余地があるみたいだけれど、地獄行きだね。どれくらいのレベルの地獄かは具体的には言えないけど」

「は? 酌量の余地?」

「うん。人間の世界にもあるだろ? 酌量ってやつが。罪を許すことはないけれど、その罪の重さを確定して減点点数を決める時に酌量は与えるんだ」

「いや、そうじゃなくて、どうしてあんなやつらに酌量なんてものがあるんだ?」

「酌量等については具体的に教えられない」

「なんでだよ? 気になる。あんな連中に酌量なんて」

「加点、減点と同じだよ。『こういうことなら酌量の余地があるのか』という目安を与えてしまうことになる」

 まあ、そう言われればそうかな? 気にはなったが、とにかくあいつらがこれから『よほどの善行』を積んでいくとは思えない。これからも積むのは悪行だけだろう。

「俺のクラスの生徒は、全体的にはどうなんだ?」

 僕や重雄や林さんをいじめているのはクラス全員だ。女神は少し考えてから、

「9割が地獄行きだね。どのくらいのレベルの地獄かはやっぱり言えないけど」

 30人の生徒数の中で9割。おそらく、その9割に含まれないのは僕と重雄と林さんの3人だろう。まっとうな人間だ。

 そうか、人権派とかいう犯罪者の人権やら更生やらを声高に訴えてる連中のやってることはまったく無意味なことというわけだ。例えキョーリューの2人がそんな連中に擁護されたとしても地獄行きだ。他の連中も同じくだ。いい気味だ。それを生き甲斐にしてなんとか生きて行こう。

「自殺はやっぱり地獄行きなのか?」

 何気なく訊いてみる。

「基本的には地獄行きになるほどの”超大減点”になるけどならない場合もあるよ。例えばうつ病での自殺は自殺じゃなくて病死となる。あと病気に苦しみたくない為に安楽死を選ぶこととか、誰かを助けようと命を懸けた結果死んでしまった時などのいわゆる自己犠牲だとか。これらはまったく減点にはならない。自己犠牲はむしろ加点になるね」

 うん、確かにそうだな。いまのこいつの言うことには珍しく納得できることが多いな。

 しかし疑問もあった。

「私腹を肥やすようなことをさせない為の願い事の制限はわかる。でも、他人を救ったり、争いごとを止めさせたりすることまで制限されるのはどうしてなんだ?」

「それは後から加えられた制限じゃなくて最初からある制限なんだよ」

「え? どうして?」

「人間の世界を平和、安寧にするのは”神が人間に与えた最大の課題”なんだ。人間がやらなきゃならないことなわけ。だからどんな争い事や揉め事があっても神が人間の平和や安寧になることを直接してはいけないんだ。世界的な大戦争から子供の喧嘩まで全てね。これは制限というより”神の摂理”だね」

 う~む……それはどうにも納得できない。

「まあとにかく、だ。1回くらい思うようにならなかっただけでそんなに肩を落とさなくてもいいだろ。自分が思うような願いが叶うようにするにはどうしたらいいのか、とにかくもっと考えてみるんだね。もちろん制限内で、だけど」

 そんなこと言われてもなあ……正直頭の悪い僕は考えるということほど苦手なことはないのだ。

 それでもとにかく必死に考えてみることにした。

 日曜は1日中アニメを観ながら過ごした。日曜日はだいたいアニメを観て1日を過ごす。いま放送、配信されているアニメの数はとにかく多い。すべてを観るためにはそんなことになってしまうのだ。他にも、昔のアニメを配信で観たり、ちょっと前のアニメはコピーしたBDなどで観直すこともある。それがアニオタというものだ。

 そんなふうにアニメを観ながら同時に願い事に関していろいろと頭を働かせてみたけれど、良い考えは何も思いつかなかった。

 そうこうしている間にも月曜日が近づいてくる。そしてついに月曜の午前0時になってしまった。

 だめかあ……。僕はうなだれた。いや、まだ時間はある。もう一度願い事の制限や女神が言った事などをまとめてみた。これらは見事に頭に入っている。

「なあ? 高価な物はダメだけど、具体的に高価な物ってどれくらいの物なんだ? 何円くらいからが高価な物なんだ?」

 と訊いた。換金したら1000円くらいになる物を願えないだろうかと考えたのだ。

「まあ、いまの時代の日本なら5000円くらいの物だね。いや、正確にしよう。5001円からは駄目だ」

 女神はそうしっかり線引きをした。そういえば女神の話の中で絹糸はいまの日本の5000円くらいの価値だったと言っていたな。5000円。換金できる物を考えてみるがその程度の物じゃあリサイクルショップに売っても良くて数百円程度だな。ネットで売ってもやはり大した金額にはならないだろうし、1000円以上になったとしても手間隙考えたら効率が悪過ぎる。

 いや待てよ。

「商品券はどうなんだ?」

 あれはお金じゃなくて”物”だ。

「あれはいろいろな物と等価交換できるからお金に成り代わるものだ。駄目だね」

 僕は肩を落とした。少し考えてゲーム、BD、CDアルバム、書籍などはなかなかのお金になることがあるなと思った。しかし5000円程度のゲームなどなかなかないし、売っても大したお金にはならないだろう。映画等のBDやDVDなどの値段は5000円を超えるものがほとんどだし、安い物を売ってもやはり大した値は付かない。だったらCDか本だ。最新の人気作か、希少価値のあるCDや本。希少価値のあるCDや本ってどんなのだ? と僕はスマホで検索しようとしたが、ふと手を止めた。

 そう言えばこいつ、さっき商品券のことを訊いたとき”検索”しようとしなかったよな。

 僕は商品券の歴史について検索してみた。すると、江戸時代には商品券の元となるものはあって、明治時代にはすでにいまで言うところの商品券はあったようだ。97年前の日本にも当然あったはずだ。ひょっとしてこいつ、昔の知識だけでわかった気になってないか? 僕はさらに図書カードで検索した。女神はもう僕のことなど関心がないかのように浮遊している。『いまのこの世界のことはある程度は調べてから来た』と言っていたが、あくまでも『ある程度』だ。ドラえもんを知らなかったくらいだし。ものは試しだ。

「図書カードはどうだ?」

「図書カード?」

 よし、図書カードについては知らないようだ。しかし検索されたらやっかいだ。

「本だけを購入できるカードだ。商品券と違っていろいろな物を買えるわけじゃない」

 スマホで図書カードの画像を見せた。そして必死に説明をした。

「俺は漫画が好きだからあると助かるんだよ。本だけしか買えないんだからお金とは違うだろ? 商品券なんかとは違う。そうだろ?」

 嘘は言っていない。図書カードでは本しか買えない。

「ふーん……」

 頼む。何も調べるな。検索するな。

「じゃあ、まあいいか」

 やった!

「今日の願い事だ。5000円分の図書カードをくれ」

「その願いを叶えましょう」

 女神がそう言うと、僕の手に5000円分の図書カードが現れた。よし! とりあえずこれで安心だ。寝ることにする。”朝のお金”を気にせず眠れるなんていつぶりだろう? ようやく有益な願い事が叶った。

 翌日、いつもの階段の近くで重雄に出会う。冴えない顔をしている。

「今日500円なんだ。それ以外の金もない」ため息混じりそう言った。「俺もだよ」と僕は言った。「じゃあ今日は2人ともいじめられるのか……」重雄は悲痛な声を出したが、

「重雄。友達料のことだけど、ちょっと俺に任せてくれないか?」

 と僕は言った。重雄は『は?』という顔で

「何かあるのか?」と訊いてきた。

「とにかく、今日は俺から話してみるから」

 そう言うと重雄は首を傾げながらもうなずいた。

 トンネルで、いつものようにスマホを預ける。そして友達料を求められる。僕はそこで「これを……」と図書カードを出した。それを見てキョーイチは顔を険しくして

「は? 図書カード? 俺は本なんか――」

 と言いかけたが、それをリューイチが

「いや、ちょっと待てキョーイチ」

 と止めた。

「図書カードは金券ショップでけっこうな値で売れるぞ」

 と、スマホで調べ始めた。

「ん? 金券ショップ?」

 という女神の声が聞こえた。そして

「あ! なんだこれ! いまはこんなものがあるのか!」

 と、女神はそう驚きの声を上げた。僕は、(ふっふっふっ)とわざとらしく笑ってやった。

(97年前に日本に来た時にも商品券や金券はあったかもしれない。だが「金券ショップ」なんてものはまだなかっただろう? 検索もせず昔の知識だけで全てを判断するとは愚かだな。自分は神だからと傲慢になって商品券のことはもう知っていると慢心したんだ!)

 女神は「ぐぬぬ……」と歯をくいしばっている。

(お前の言うとおり「しっかり考えた」んだよ! その結果がこれだ! もう叶えてくれた願いだからな。一度叶えた願い事でも何回でも願っていいんだよな? 1日1回だけという制限はあるけれど。そして最初に『願い事に責任を持ってもらう為、叶えた願いは撤回できない』と言ったよな? お前も神なんだから責任を持ってくれよ。もう撤回できないぞ。これからも頼むぞ)

「不覚!」

 女神は悔しそうにそう叫んだ。初めて女神に勝った気がした。クオカードも考えたが、『それって何?』と訊かれて説明したら商品券と変わらないと言われると思った。だから図書カードにしたのだ。結果、見事に成功した。自慢じゃないがこちとら長い間金を巻き上げられてる身なのだ。どうやって合法的にそれなりの金を捻出するか、のスキルはある程度身に付けているのだ。本当に自慢じゃないが……

「やっぱり。5000円分の図書カード、正確には図書カードNEXTだけどとにかくそれは金券ショップで4500円くらいで売れる」

 リューイチがスマホをキョーイチに見せて言うと

「本当か」

 とキョーイチはスマホを覗き込む。

「そうだよ。これは金になる。友達料になるだろ?」

 僕がそう言うとキョーリューの2人は少し考えるように顔を見合わせていたが、

「わかった。いいだろう」

 と2人ともニヤリと笑った。そして、

「て、ことはお前は4日分の友達料を払ったということか」

 とリューイチは言ったが、

「いや違う」

 と僕は首を振って、

「重雄の分も頼む」と言った。

「え?」

 重雄が驚いて僕を見た。

 キョーリューの2人は一瞬ポカンとして顔を見合わせ、次の瞬間吹き出し、笑い始めた。

「おい、聞いたかリューイチ?」

 キョーイチはあざ笑う。

「ああ。美しい友情だな! 感動で涙が出てくるぜ!」

 リューイチも大笑いだ。ひとしきり笑ったあと、リューイチが

「ああ、いいぜ。その代わり4日分じゃなくて2日分になるぞ? 2人分だからな。それでもいいのか?」

 と笑い涙の残った目で小ばかにするように言った。

「わかってる」

 と僕はうなずいた。

 月水金と図書カードを女神に願えば毎日僕と重雄の分の友達料を払える。そうすればもういじめられない。我ながらいじめを脱する良いアイデアを思いついたものだ。

 彼らは僕らからせしめたお金で週末パチンコに行っているらしい。キョーリューみたいな人間が1日1000円程度で満足するはずがない。僕らからせしめるお金はあくまでなのだ。パチンコのことはよく知らないが2人ともかなりの腕前で5000円くらいで勝つことが多いらしい。それくらいのお金で勝てることはなかなかないそうだ。2人とも卒業したら就職はせずパチプロになるらしい。

 学校に向かう間、重雄は驚きの顔でずっと僕を見ていた。教室に着くとキョーリューは2人に手を出すなと皆に言い付け、全員了解の返事をした。重雄は僕の席まで来て「信矢。本当にありがとう」と頭を下げた。

「いいんだよ。いじめられている人を見るのは俺も辛いから」

 重雄は「そうかもしれないけど本当に恩に着るよ」とまた頭を下げた。

 しかし、だ。こちらはよくても林さんはまたアカ軍団に囲まれている。そして、

「あれえ? 亜由美さあん。この手首の傷はどうされたのお?」

 とまたあの寸劇が始まった。あの手首の傷はどうしてもいじめの標的にされてしまう。

 この間カバ子に説教されたけど正直どうにもできない。と思っていたその時、教室のドアがガラリと開いてそこにカバ子が立っていた。

「え?」

 と僕と重雄はほとんど同時に驚いた。

「あれえ? ここは2年生の教室かあ? 間違えたなあ」

と、わざとらしい大声で言うと教室を眺め回し、

「お! 亜由美!」

 と教室にドカドカと大股で踏み入ってきた。クラスの皆が静まって「なんだ?」という顔でそんなカバ子を見ている。

 林さんの周りを囲っていたアカ達を事も無いかのように押しのける。4人は大きくよろめいて周囲の机や壁に寄りかかった。

「どうだ? あれから上手くやってるか?」

 と満面の笑顔で、大声で訊く。

「ええ……まあ」

 林さんは戸惑ったような顔で小さくうなずいた。

「こうやって偶然教室を間違えたのも何かの縁だ。ラインの連絡交換しないか?」

「え?」林さんは驚きの顔を向ける。

「嫌か? だったら別にいいけど」

「いえ、そんなことは。じゃあ……」

 とカバ子と林さんはスマホを取り出してしばらくやりとりしていた。

「遠慮しなくていいから何かあったら連絡してこいよ!」

 カバ子の笑顔はそこまでだった。林さんの周りにいたアカ達を見ると顔は豹変した。

「あれ? なんだお前らいたのか?」

 怖い顔でそうわざとらしくとぼける。そしてアカを見ると、

「お前さ、『やってやるからな』とか言っていたけどいつやるんだ? こっちは待っているんだけど全然来ないよな?」

 教室にいる全員に聞こえるようなあからさまな大声でそんなことを言う。アカも他の3人も奥歯を噛んでいる。

「ま、やる気になったらいつでも来いや。と言っても、やる気になるのかわからないけどな!」

 そう大声で言ってこれもまたわざとらしく笑った。皆のいる前で、これはアカにとって大きな屈辱だろう。

「じゃあな、亜由美」

 と、カバ子は林さんに優しい顔を向けて手を振って行ってしまった。林さんは戸惑いを最後まで残して去っていくカバ子に一礼した。

 カバ子がいなくなると教室中が「いまのなんだ?」と、戸惑いに満ちた。「『やってやる』ってなんのことだ?」などとざわめいている。

 アカは憎々しそうな顔でカバ子が行った方を見ていた。

 キョーリューの2人がアカに近寄って

「おい、なんだいまの? なんのことだ?」

 とリューイチがアカに訊く。が、アカは「何でもないよ!」と叫ぶと「つまらねえ! 今日は学校サボりだ!」と怒鳴って教室を出て行った。アカ軍団の他の3人は無言で困惑した顔を見合わせている。

「なんだよ……」

 キョーイチも無い眉毛を歪めていた。

 リューイチはアイラに

「大丈夫か?」

 といつになく心配するように訊いていた。


 そして今週は見事に僕も重雄もいじめられなかった。そして昼食も食べることができた。昼食を味わえることがこんなに幸せなことだとは思わなかった。

 うかつに願い事を叶えてしまった女神はしかめっ面で

「今度から何か願われたらしっかり調べてやるからな」

 などと憎まれ口を叩きながらも、毎回図書カードを出してくれた。

「なんでそんなに毎回都合良く図書カードが貰えるんだ?」

 金曜日に渡す時、リューイチが不可解な顔でそう訊いてきた。まあそりゃそう思うだろう。重雄も同じ疑問を口にしたくらいなのだから。

「母さんの仕事のお客さんで、こういうのをよく持ってくる人がいるんだよ」

 と僕はなんとかごまかした。

 リューイチは不可解な顔を崩さなかったが、

「ま、俺は金になりゃいいけどよ……」とそこには大してこだわらなかった。

 しかしこの時、キョーイチがリューイチとは違う不可解な顔で僕を見て首を傾げていた。

 土曜日は午前だけで授業が終わる。校門から出て、重雄は

「1週間無事だった! 昼飯も食べることができた!」

と言って羽を伸ばすかのように大きく背伸びをした。

「いじめられない! こんなのいままでの俺の人生で初めてかも。いじめられないことがこんなに嬉しいとはな!」

 そう晴々とした調子で言った後、

「あ、でも友達料は取られているんだから、いじめられてないわけでもないか……」

 と僕を見て

「ありがとうな信矢」

 とあらたまって頭を下げて礼を言ってきた。「いいよ、別に」僕は苦笑いした。そもそも女神のおかげなんだし。そこで僕らは別れる。重雄は歩いて来れる距離に家があるらしい。

 僕は僕で駅に着いた。とその時、同じホームの隅に林さんがいるのを見つけた。林さんも僕に気がついて「あっ」という顔をした。そのまま無視するのもなんだか気まずい……そう考えながら僕はなんとなく林さんの方に向かって行った。

「林さんも電車で通ってたんだ」

 僕はなんとか笑顔を作ってそう言った。

「うん……」

 林さんは小さくうなずいていつものようにおとなしくうつむいている。やっぱり気まずいな……

「まあ、考えてみればそうだよね。ほとんどはバスか電車か自転車だよね。いままで会わなかった方が不思議かな」

 わけのわからないことを言っているな、と自分でも思うが他に話題を思いつかない。

「うん……」

 と林さんはやはりうつむくだけだった。まいったな……と思っていたら

「私は下りなの」

 と林さんも話題を出してきた。

「そう。俺は上りだけど」

 やはりどうでもいいような会話だな、と思っていたその時、

「ねえ、藤崎君」

 と、林さんは僕の方をまっすぐ見ながら僕の名をしっかりと呼んだ。何か意味深な顔をしている。

「え?」

 僕は思わず声が上ずってしまった。

「あのね。前から誰かにわかってほしくて言おうと言おうと思っていたんだけどなかなか機会がなくてね、私のクラスだったら岬君か藤崎君ならわかってくれるかと思っていたんだけど、それでもなかなか言えなくて……」

 思い切って何か言おうとしているようだ。林さんは少し黙った後、左手首の傷を突き出すように僕に見せた。

自殺未遂じゃないのよ」

 と伏し目がちにそう言った。

「え? そうなの?」

 僕が驚いて訊くと

「うん」

 と、林さんはしっかりとうなずいた。

「たまたま去年の”あの時期”に怪我をしただけなの」

 そうなのか?

「でもそんなこと、あの人達が信用してくれるわけない。わたしがあの出来事にショックを受けて、自殺未遂をしたと勝手に騒ぎ立てて、からかわれて……いまじゃもうみんな完全に私が自殺未遂をしたと思っている。藤崎君もそうでしょ?」

 確かに。僕は素直に「うん」とうなずいた。林さんは少し息を吐いて

「私が漫画を描いていることはこの間知ったよね?」 

 『この間』。格好悪かったあの時だ。

「去年のあの頃、漫画の新人賞の締め切りが迫っているのになかなか出来上がらなくて毎日徹夜状態で凄く焦って漫画描いてたの。で、真新しいトーンカッターでスクリーントーンを切っていたんだけど、かなりぼんやりしてて、左手首をざっくりやっちゃったの」

 確かに、考えてみたら自殺未遂した翌日に学校になんて来るだろうか?

「信じてくれる? 誰でもいいから自殺未遂じゃないって知ってほしくて」

 僕はうなずいた。

「信じるよ」

 少なくとも、いま僕の右上で背後霊のようにすまし顔で浮いている女神よりはいろいろな意味で信じられる。

「それ、重雄にも話してみたら? きっとあいつも信じてくれるよ」

 林さんはほっとしたようにうなずき、

「ありがとう」

 と悲しそうな顔で少しだけ笑った。

「ただ、山木先生みたいな良い先生があんなふうに貶められて辞めたことは本当にショックだったけどね」

 山木先生が辞めてクラスが嬉しそうにバカ騒ぎしている時に林さんは泣いていた。

 その時、下りの電車が来た。

「じゃあね」

 林さんは小さく手を振って電車に乗った。僕も「じゃあ」と手を振った。

 あの出来事。本当に嫌な出来事だった。そして自分が何もできないことが情けなかった。


 去年の9月の下旬ごろだった。その頃の僕はアカと席が近かった。アカとキョーリューがなにやらヒソヒソと珍しく真顔で話していたのを覚ている。何を言っているのかまではよくわからなかった。でもそれからだった。山木先生へのいじめが始まったのは。山木先生は50代の日本史の先生で、とても真面目な先生だった。もっとも、それでも皆、授業を真面目に聞いていたわけじゃないけれど、でもいままではこの先生をいじめるなんてことはなかった。しかしキョーリューの2人が先生が板書しているその後姿に向かって、消しゴムや紙くずなどを投げたりし始めたのだ。山木先生は驚いたような顔で後を振り向くとクスクスという笑いが教室全体から起こった。そんなことがたびたび起こるようになったが、山木先生が怒ることはなく

「こんなくだらないことはやめなさい」

 と険しい顔でではあるが、穏やかに注意するだけだった。

 その後もキョーリューの2人とアカ軍団やさらに他の何人かが頻繁にコソコソやっていた。なんなんだいったい? と疑問には思っていたが、ある時が起こった。

 リューイチが小石を先生に向かって投げ始めたのだ。最初に投げた石は外れて、先生の近くの黒板に当たった。さすがに先生は

「誰だ!」

 と大声を上げたが、みんなクスクスしているだけで何も言わない。先生はしばらくクラス全員を見渡していたが、諦めたのかやがて板書を続け始めた。

 すると、またリューイチが石を投げてそれが先生の後頭部に鈍い音を立てて当たった。

「つっ!」

 と先生は痛みの声を発して後頭部を押さえ、さらに先生が険しい顔で振り向いたところにやはりリューイチの投げた石が先生の眉間に当たって

「ぐう!」

 と先生は眉間を押さえてその場にしゃがみ込んだ。

「おい、見たか!」

 リューイチは立ち上がって先生を指差し、

「2回連続頭に当たって、しかも2回目は眉間だぜ! 凄いだろ俺のコントロール!」

 と言うと皆が笑った。僕は何がおかしいんだ? と先生を見ながら冷や冷やした。

 先生はさすがに怒りの顔でリューイチを睨みつけた。それを見たキョーイチが、

「あれ? 先生何かご不満のようですね? いや、ひょっとすると”欲求不満”かな?」

 と嫌らしくニヤつきながら言った。先生は顔を真っ赤にして立ち上がった。

「先生、欲求不満なら風俗行った方がいいですよ」

 リューイチもやはり嫌らしくニヤニヤしながら言う。さらにアカがやはり嫌味な笑顔で

「こんなおっぱいの人、いっぱいいますよ」

 と自分の巨乳を服の上から自らみずか両手で持ち上げて言う。

「お前ら……」

 先生が奥歯を噛み締めている。

「先生、キョーイチや赤石の言う通りですよ。欲求不満なら風俗へ行くべきです。ヤレる女がいないからそんなにいらいらするんですよ。もう奥さんもいないんだし、気兼ねなく風俗行けるでしょ? 奥さんなんかよりいい女いっぱいいますよ」

 なんてことを言うんだ! 僕は心臓に冷や汗をかいた。山木先生は半年ほど前、ちょうど僕らが入学した頃に奥さんを病気で亡くしたばかりなのだ。先生は大きなショックを受けたらしく、しばらく学校を休んだ。いまようやく立ち直り始めた頃ではないだろうか? そんな時にそんな酷いことを言うなんて。

「なんだと!」

 山木先生がいままで見たことのない恐ろしい形相でリューイチに迫って行った。そして両手でリューイチの顔面を大振りの平手打ちで2回ぶっ叩いた。教室中に「きゃあ!」とかいう悲鳴が起こった。先生はさらにリューイチを突き飛ばすとリューイチは椅子から転げ落ちた。また悲鳴が起こり「先生止めてください!」という声も起こる。しかし先生は床に尻餅をついているリューイチを足を大きく振り上げて何度も踏んだ。悲鳴と「止めてください!」の大声が飛ぶ。エイジとコーダが山木先生に飛びついて止め、リューイチから引き離した。山木先生は

「私の妻を……侮辱しやがって!」

 と涙ながらに怒り、まだリューイチに向かおうとしている。が、エイジとコーダに両腕を抑えられて動けない。少しの間そんな状態が続いたが先生が教室の外へ向かおうとするとエイジとコーダは手を離し、先生は泣きながら教室を出ていった。

 僕はこの時、混乱すると同時に不自然さというか違和感を感じた。上手く言えないけど何か変だ。と思っていたら、リューイチがアイラのところに行って

「どうだ?」

 と訊いていた。アイラを見るとスマホを構えていた。

「ばっちり」

 ニヤリとアイラは笑みを浮かべた。

 一瞬なんだ? と思ったが、アイラがいまの出来事を動画で撮影していたのだと気がついた。さらにクラス中が「いまのでいけるのか?」「あれで本当に思い通りになるんだろうな?」などと言っている。困惑の顔を浮かべているのは僕と重雄と林さんだけだ。

 まさか、クラス中がグルになってやったことなのか? しかしなんでこんなことを? まさかSNSでいまの動画を流すのか?

 僕のその推測は半分当たっていて、半分間違っていた。

 何日か経ってローカルのテレビ局がやってきた。「なんだ?」と僕は驚いた。

 地元のマスコミもこの学校の評判は知っているはずだ。だから特に荒れた様子のない校内を見て意外そうな顔をしていた。そしてマスコミは、校長先生やリューイチやその他のクラスメイトにもいろいろインタビューしていたがクラスの皆が口裏を合わせて嘘を言っているとすぐにわかった。やはりすべてはやらせだったのだ。でもその時点ではなぜこんなことをしたのかまではわからなかった。夕方のローカルニュースで取材した内容が放送された。最初に女子アナがこう切り出した。

「数日前、視聴者から動画が添付された告発メールが届きました」

 そしてアイラが撮影した動画が流された。顔にボカシが付けられた山木先生がやはり顔にボカシが付けられたリューイチに暴力を振るう映像だった。だがそうなったは流されてなかった。この前後の様子はバッサリ切り落とされていたのだ。テレビで流されたのは山木先生がリューイチをぶっ叩き、悲鳴が起こり、「止めてください!」の声の中、リューイチが突き飛ばされて先生が足で何度も彼を踏み、エイジとコーダに押さえつけられるまでだ。あとで知ったのだが恣意的に編集した動画をマスコミにメールで投稿して告発したのだ。

 さらに女子アナは

「メールの内容によりますと、この先生は日常的に体罰をしているということで、今回、生徒のひとりがその様子をなんとか撮影して番組に送ってきたということです」

 などと言っていた。なんだそれ? 嘘八百だ。山木先生が体罰しているところなんて見たことがない。

「私たちは事情を訊く為にこの学校に取材に行ってきました」

 学校の映像が流れる。荒れた様子のない綺麗な校内の様子が映し出された。やつらの目的はだ。こういう時の為にこの学校の……いや、自分たちのイメージを悪くしない目的で校内を比較的小綺麗に保っているのだ。加熱式タバコを使ってタバコを吸うのもタバコの臭いが身体からだや教室内に染み付かないようにする為だ。それがやつらの策略だ。

 校長先生が映像を見せられて、「こんなことが日常的にあったとは把握していませんでした」と青い顔で答えていたが、把握していなくて当然だ。普段起こっていないことなのだから。

 さらに生徒へのインタビューが流れる。最初は”被害を受けた生徒”というテロップが付いた、首から下だけが映ったリューイチの映像が流された。

「あの先生にはよく叩かれたりしてました。ちょっと居眠りとかしていただけで。でも今回が一番キツかったかもしれません」

 などと普段は絶対にしないようなしおらしく、礼儀正しい態度と口調でそんな嘘を並べ立てていた。いつもは着ていない制服も着ていた。

 さらにこれはキョーイチだとわかるインタビューもやはり顔から下だけが映った状態で流された。リューイチと同じく、いつもなら絶対にあり得ないようなしおらしく、礼儀正しい態度で答えていた。

 他のクラスメイト達もみんな異口同音だった。そしてやはり普段はそんなことは絶対ないだろうという礼儀正しさでインタビューに応じていた。やっぱりみんなグルだったのだ。

 この時、僕らいじめられている者は当然口止めされ、終始見張られていて本当のことは何も言えなかった。キョーリューの2人が毎朝僕らからスマホを没収するのはこの高校の”正体”を撮影させない為でもある。林さんはスマホこそ没収されないものの、アカ軍団などから常に見張られていた。

 唯一先生たちだけは「あの先生はそんな先生ではない」などと必死に山木先生を擁護していたが、体罰をしている映像をマスコミに見せられて「この先生の全てを見ていたわけではないですよね? 把握してなかっただけでは?」などと問われると歯切れが悪くなった。捏造された動画とはいえ物的な証拠があるのと、『そんな先生ではない』というあくまでも”個人の感想”とでは説得力がまったく違う。それに「そんなことをする人ではない」と言われている人が事件や問題を起こすということはよくある。先生達のその証言はむしろ学校のイメージを必死に守ろうと見苦しく言い訳しているという悪い印象しか与えないだろう。

 あの時僕が違和感を感じたのも当然だ。すべては演技だったのだから。いま考えてみれば、リューイチがあんな大振りの平手打ちを避けられないわけがないし、ちょっと押されただけでリューイチの巨体が椅子から転げ落ちるなんてこともあるわけがない。周囲のあの悲鳴や声もわざとらしかったし、エイジとコーダが先生を止めに入るのも手際が良すぎたし、逆に山木先生が教室を出て行こうとした時は抑えていた手をあっさりと離していた。全ては計画的に仕組まれていたことだったのだ。もっとも、これは僕がこのクラスの普段の雰囲気を知っているからこそ感じることができた違和感だと思う。何も知らない人がこの動画を見たら額面通り捉えてしまうだろう。

 結局、学校側は謝罪に追い込まれた。学校はその翌日からしばらく休校となった。

 この動画は丁度その休校になった日にワイドショーなどで全国放送で流された。見識の浅いタレントMCや同じく無知蒙昧なタレント気取りのキャスターや、バカなタレントゲスト達が好き勝手に批判した。しかしいくらそう見えるとはいえもう少し洞察力がある人間がいないのかテレビ界には? 教育の専門家でさえ「何があったかはわかりませんがこれは駄目ですよ」などと声高に批判していた。何があったかわからないのにどうして『これは駄目だ』なんてことが言えるんだ……本当に専門家なのか?

 変な言い方だが最初にSNSに流したりせずにマスコミに直接告発したのは賢いやり方だったと思う。ネットなら好き勝手に騒がれるだけだ。そのうちマスコミも取り上げたかもしれないが、もしネット経由で取り上げたトピックだとしたら、ネット上の様々な書き込みなども同時に紹介していただろう。そうなったらあの捏造動画を額面通り捉えることは、少なくともマスコミが直接取り上げるよりはなかったかもしれない。実際マスコミに流された後でSNSなどネット上でこの動画が拡散され、学校に対する多くのバッシングが書き込まれていたが、やはり中には賢明なネット民も多くいて「この学校の生徒達の評判は悪いぞ」「この場面だけを見ただけじゃわからないだろ」「この学校出身だけど、この先生が誰だかわかる。こんなことはしない人だ」という類の書き込みも多数あったのだ。が、それらはすべてマスコミで報道された後でのことだ。マスコミの方はというと、たった1日でこの話題を終わらせて、もう報道することは全くなかった。あれだけ好き勝手騒いだのにその後の検証はまったくしなかったのだ。無責任とはこのことか。やはり順番として最初にネット上で動画を公開しなかったのはあざといやり方だった。

 山木先生は頭に馬鹿が付くほどの真面目な人なので学校側の調査に対して一切言い訳しなかったということだ。「とにかく生徒に暴力を振るったのは本当です。私の責任です」そんなことの繰り返しだったという。もはやこの真面目さは長所ではなく欠点だ。そして山木先生は引責辞任した。ここまで計算して山木先生という人をターゲットにしたのだろう。リューイチは警察に被害届を出すなんてことはもちろんしなかった。

 学校はしばらく大変な状況だったが学校が再開した日の放課後、全員が教室に残り、僕らいじめられっ子以外に缶ビールが渡された。

「こんなに思い通りになるとは思わなかったわ!」

 とアカは机に上ってはしゃいだ。

「これでこの学校の主導権はしばらくは俺たち生徒側にある。先公達はしばらく俺たちに強く出られないだろう!」

 リューイチもやはり机に上ってそう言ってはしゃいだ。

「みんな覚えておけ。世の中弱い者ほど強いんだ! 強い者が正しいことをしていても、正しくない弱い者を信じるんだ! 情緒的になって哀れみの目で見てくれるんだ! これからもそれを利用してやろうぜ!」

 キョーイチがそう言うと教室内でビールかけが始まった。僕は呆然としていたが、林さんは泣いていた。

 生徒側に主導権があるというのは本当だろう。この間、先生がアカのスマホを取ろうとして撮影されていることに気が付き、慌ててやめたことなどを見てもそうだ。その他にもとにかく学校内では先生たちが縮こまって、生徒側が大手を振っている状態だ。すべてはこれが目的だったのだ。そして、いまでも隙があれば主導権を確かなものにしようといろいろと企てている。もっとも、そう簡単に上手くいくものでもないみたいだが。

 アカの近くの席だった僕は後日、アカ軍団のこんな会話を聞いた。

「でも私の親はちょっと怪しんでいるんだよね。今回の件こと」

 アイラがそう心配するように言っていた。

「あ、私の親も」

 とシオリ。

「私の親もだよ。この学校の状況や、生徒がどういう連中か知ってるしね」

 モモミも同じようだ。アイラがアカに

「あんたのところの婆ちゃんはどうなの?」

 と訊くと、アカは

「はあ? うちのババア?」

 といつものいやらしい笑みを浮かべた。

「あのババアはちゃんといるよ」

「躾けている?」

 アイラが首を傾げる。

「うん。何でもあのババア、ガキの頃に親に毎日のように虐待されていたみたいでね。名前がシズコっていうんだけど私が、『おい、こらシズガキ!』って怒鳴ると酷く怯えるの。当時のトラウマが酷いみたいなの」

「へえー。児童虐待ってそんな昔からあるんだね」

 シオリが興味深げに目を丸くしていた。アカはニヤつきながら続ける。

「そりゃそうよ。日本で初めて児童虐待防止法が制定されたのが昭和8年なんだから」

「え? 昭和8年? そんなに昔? てことはそんな昔から児童虐待が問題になってたってこと?」

 3人は驚く。

「そうよ。でも実効性がなくてあまり役に立たなかったみたい。昭和22年には児童福祉法ができて廃止されちゃったしね」

 詳しいんだね、とアイラが本当に感心したように言うとアカは得意になったような笑みを浮かべて続けた。

「調べたことがあるんだけど、昔の方が多かったんだよ子供への日常的な虐待って。でもいまみたいに虐待という考え方がほとんどなかったのよ。体罰なんか当たり前の時代だったし子供を殴って何が悪い? って時代だったみたいだからね。昔は親に殺される子供はいまよりずっと多かった。昭和30年代は毎年平均百150人が赤ん坊を殺して捕まってる。これ、いまの約7倍だよ。親殺しなんていまの約20倍あった。20歳未満の殺人事件が一番多かったのは昭和36年で毎日1人以上が20歳未満に殺されていたのよ。単純な件数じゃなくてでも昭和20、30年代の20歳未満による殺人事件はいまの3、4倍近く起きていたの。ていうか、そもそも殺人自体がいまよりはるかに多かったから珍しくもなくて、よほどの事件じゃないとさほど大きく報道されなかったのよ」

 アカはなぜか自慢するように語っている。

「たとえば昭和29年に14歳が7歳にあだ名を言われただけで追いかけて絞殺して遺体に土をかぶせてそのままご帰宅。でも全国紙でこの事件を扱ったのは2紙だけで社会面の片隅にごく小さく載ってるだけ。そのわずか9日後には17歳が強盗目的で友人宅に侵入して2人をバットで撲殺して1人に重症を負わせる事件があって、数日後に自首したんだけどこのことを載せた全国紙はなんとたったのひとつだけ。しかもさらに小さく新聞の片隅に載ってるだけ。探すのに虫眼鏡が必要なくらい小さな記事なの」

「マジで? いまならトップ扱いになるような事件じゃない!」

 アイラ達から半分驚き、半分楽しむような悲鳴が起こった。それがアカの”語り”を勢い付けた。

「昭和30年には17歳が幼女を誘拐、レイプしてから殺して口と鼻に砂利を詰めて埋めるなんて事件もあるし、昭和32年には5歳と6歳のガキが赤ん坊を荒縄で縛って引きずった挙句、溝に落として殺した事件もあるし、同じ年に8歳が同級生にビニール袋を被せて首を絞めて窒息死させた事件もあるし」

 3人ともまた楽しむような悲鳴を上げる。

「子供が起こす残虐非道な殺人事件が珍しくもなかったのね」

 とアイラが興味津々な顔になる。アカはさらに勢い付いた。

「そういうこと。戦前も凄いわよ。昭和14年には15歳が幼女2人を殺してから死体をレイプ! 昭和8年には11歳がお金を盗んでそれを捕まえようと追いかけてきた3人の子供を殺しているし、昭和2年には小学校で10歳の女の子が授業中に同級生を殺害している。それに子供の親殺しも多かった。”いじめ殺人”も多くて、有名なのは昭和4年に当時の小学6年生がいじめで女の子を殺してる。親は我が子がいじめられているのを知っていながら対策は取らなくて、学校なんか事実を隠蔽しようとした。昭和6年には9歳がやっぱりいじめで殺人。昭和9年には小学3年生3人が同級生を木に縛ってなんと火あぶりで殺人未遂! 他にも調べたらまだまだいくらでもあるよ、そういう昔の猟奇的な少年犯罪。さらにはね、昔は警察や検察の捜査なんかもいまよりはるかにいい加減だったのよ。だから冤罪も多かった。そんないい加減な警察だから逆に殺人事件なのに殺人として処理しなかったことも多かったみたいなの。そもそも警察にバレなかった犯罪、『暗数』って言うんだけど、この暗数もいまよりずっと多かっただろうって言われてる」

 どこで調べたのか知らないが、そんな下らない知識を自慢気に披露する。いや、自慢気じゃなくて、しっかりと自慢している。きっと自分だけが知っている知識だからと悦に入って語っているのだ。

「いまよりずっと酷い時代だったんだ……」

「おっさんたちがよく『昔は良かった』なんて言うけどあんなの大嘘なんだね……」

 アイラ達は楽しみながら引いている。

「そうかな?『昔は良かった』というのは間違ってないと思うわよ。犯罪がバレなくて、人殺しさえ珍しくもなくて大して報道されないなんて羨ましいわ。ね? 昔の方が良い時代でしょ?」

 アカがそう言うと4人とも大笑いした。


 そりゃこんな連中なら9割が地獄行きになるわけだ。僕がそう思っていたところで上りの電車がきた。

 家でアニメを観ていたが女神に「また観ながら観ていない」と退屈そうな声で言われた。その通りだ。山木先生をなんとか助けられないかと考えているのだが『他人を救うこと、助けることはできない』という制限があるせいで僕の頭ではどうにも良いアイデアが浮かばない。僕は女神に何気なく、

「アカも地獄行きなんだろ?」

 と”女権力者”の死後について訊いた。

「酌量の余地があるみたいだけど地獄行きだね」

 女神はそう答える。

「だからなんだよその酌量の余地ってのは」

 僕は顔をしかめた。

「だからそれは教えられないっての」

 女神もしかめっ面で答える。

 僕はしかめた顔のままで腕組みした。ない頭で山木先生を助ける方法を必死に考えるが……ダメだ。ないものはないのだ。

 では林さんを救えないだろうか? いじめの標的となってしまっているあの左手の傷、本当に自殺未遂じゃないのだろうか……? 林さんには悪いけど、正直疑ってしまう。 

 その時、ふとないはずの頭に何か浮かんだ。それを必死に具体化してみる。はどうだろうか?

「なあ? 宗教には”自己犠牲”という考え方がある宗教もあるよな?」

 女神が現れてからいろいろな宗教のことを調べてみた。それで信仰心が芽生えたというわけではないけれど、宗教によってはこの自己犠牲という教えや考えがあることを知った。自分を身代わりにして他人を助ける、簡単に言うとそういうことだ。

「まあ、あるみたいだね」

「自己犠牲で人を助ける、ということはできるのか? 実際、この前『自己犠牲は加点になる』と言ってたよな?」

「そこに気がついたか」

 女神はそう言って、「できるよ」とうなずいた。

「ただし、犠牲になる人がそれだけの犠牲を払う覚悟があるのかが問題だよ」

 犠牲を払う……ドキリとする言葉だ。

「僕たち神が考える自己犠牲ってのは人間の考え方よりシビアで単純明快だ。自分が身代わりになって他人を助ける。そういうことだ。身代わりというものがなければ、ただただ人を助ける、ということと変わらないからね。それじゃあ制限に引っかかる。死にそうな人を助けたいならその人の身代わりになって自分が死ぬ。一生動けないほどの重症を負った人を助けたいなら自分が身代わりになって一生動けないほどの重症を負う。そういう犠牲を払うからこそ特例として人を助けることが認められる。それが自己犠牲だ」

 女神は淡々と説明する。僕に山木先生を救えるか? 貶められて先生をという職を失った。自己犠牲をしたら自分もそうなるのか。いや、待てよ。でも自分に失うものがあるのか? 地位も名誉もない。僕には何もない。僕はそれを女神に訊いてみた。女神は笑った。

「そうだね。君には高校の日本史の先生というほどの地位や名誉や資格や頭脳はない。だから無理だね。例えば大金を失った人を助けたいのなら自分がその人と同じだけのお金を持ってないと身代わりのにはなれない。さっきも説明したけど僕ら神が考える自己犠牲はそういうこと」

 だめか、と鼻でため息をついた。

 それでもしばらく考えた。夕食を食べながらアニメを観ながら考えた。よく”ながら”はダメだ、集中できないと言われるが、僕の場合は多分違うと思う。何かをしながらの方が頭が働くのだ。やっぱりだ。あることを思いついた。

「単純に、人の傷を負う、ということはできるか?」

 山木先生を救う方法ではないが、林さんを少しは救うことができるかもしれない。

「林さんの左手首の傷を俺が身代わりに負う。これなら俺の能力等とは関係ないことだろ」

 あの傷がいじめの原因のひとつになっているのだ。傷がなくなればいまよりはマシになるかもしれない。林さんがいじめられるている身代わりに自分がいじめられるというのがいちばん確実なのだが、そんな勇気があるわけがない。せっかくいじめがなくなったのに、またいじめられるなんてさすがに耐えられない。僕にできることはせいぜいこれくらいだ。

「確かにそれならできるよ」

 そうかと思ったが同時にある懸念を抱いた。

「もし林さんのあの傷が事故じゃなくて、自殺未遂の傷だったら?」

 自殺は罪になるんだ。もし自殺未遂だったとしたらおそらく……

「そこに気がついたか。その場合は自己犠牲はできない」

 やっぱり。

「『いままで犯してきた罪を許すことはできない』に引っかかる。自分で自分の体を正当な理由なく傷つける、いわゆる自傷行為は罪なんだ。その最たるものが自殺なわけでね」

 なるほど。でもそれなら林さんの言っていることが本当かどうかも確認できるわけだな。

 そこでまたふと思った。

「『大きな病気や、怪我を治すことはできない』という制限があるけど、それはどれくらいのやまいや怪我なんだ? 『大きな』と言われても具体的にはどれくらいの大きさだ?」

 女神は少し考えてから

「ま、致命傷じゃなきゃ治せるかな」

 といつもの軽い調子で言った。なんだよ。だったら石をぶつけられたり、蹴られたりしたダメージを回復してもらえばよかった。それくらいのダメージなら簡単に治っただろうに。

「あ、でも自己犠牲で負った傷を治すことはできないよ。それじゃあ自己犠牲の意味がない。そうだろ?」

「確かにそうだな……」

 女神にで言われてしまった。自己犠牲で代わりに負った林さんの傷を治してもらおうかと考えたのだが、そんなに甘くないよな。

 だったら本当に覚悟を決めないと。時計を見た。まだ21時だ。覚悟を決めるためにしばらくアニメを観て現実逃避しよう。普通こういう時は現実を直視して覚悟を決めるものなのかもしれないが、僕には僕のやり方がある。

 23時を過ぎた。頭を現実に戻す。本当に林さんの傷が事故であったのならあの傷なら相当血が出る。ネットで手や腕が傷ついて出血した時の応急処置方法を検索した。傷口を水で洗い流して消毒してガーゼや清潔なタオルなどで強く押さえつけて止血する。が、出血が激しい時は洗浄や消毒したりする前にすぐに止血する。おそらくすぐに止血する必要があるだろう。腕の根元などを圧迫する止血法もあるがこれは難しいやり方のようだ。傷口は心臓より高くする。他にもいろいろあるが、なんにせよこれは病院に行く必要があるな。救急病院まで傷口を押さえながら何分くらいで行けるかな? 救急車を呼んだ方がいいか? どうして傷を負ったのかの説明も必要だ。医者に対してはもちろん、母に対しても。どう言い訳したらいいだろう? 医療費は後払いにしてもらって……いろいろと大変だなこれは、などとどこか他人事だった。現実感がないのだ。

 ガーゼは薬箱の中にあった。清潔なタオルも何枚か用意する。出血量を考えたら裸になって浴室の中でやった方がいいなと思って全裸になって浴室に入った。排水溝に左手首を近づける。ようやく現実感が出てきた。怖い……

 大きく深呼吸を2回すると、下腹に力を込めて覚悟を決めた。

「よし、じゃあ今日の願いだ。林さんの左手首の傷を自己犠牲として負います」

 少し震える声でそう言って左手首に力を込めた。左腕が小刻みに震えて心臓が高鳴る。

「その願いを叶えましょう」

 女神がそう言った直後、僕の左手首に突然が現れた。あれ? と思った。”傷”が出ない。痛みも無い。傷痕の違和感を少し感じる程度だ。

「おい、なんだよこれ」

 僕が困惑しながらそう訊くと女神は笑い始めた。

「だから、林さんのだよ」

「……はあ?」

「林さんのいまの傷の状態はだ。あるのはその傷痕だけ。君は傷痕を代わりに負ったのさ」

「なんだよ……」

 僕は全身の力が抜けて全裸のままその場にへたり込んだ。でも確かに考えてみればそうなるよな。

「君が青い顔をしているのが面白かったよ」

 笑ってやがる。

「本当に嫌な神だな」

 僕は睨んでやった。でもとにかくこれで林さんの左手首の傷痕は無くなったはずだ。僕は傷痕を負ったけど。そして、あれは自殺未遂ではなく、本当に事故だったということも確認できた。

 しかし、本当にこの女神は……それならそうと言ってくれればいいのに。

 いやいや、いまさらだ。こいつは必要以上のことはしないんだよな。服を着ながらそう思った。

 ん? そう言えば。

「お前、『そこに気がついたか』と言うことがけっこうあるよな」

 一番最初の願いの時もそうだったし、先ほども言った。

「うん。そうだね」

「それって本来ならできることを隠しているんじゃないのか?」

「いや、別に隠しているわけじゃあない。できることの説明が不足しているだけ」

「それを隠していると言うんだろ」

 僕はそう強く言って顔をしかめた。

「あのね、まずできないこと、制限されていることはしっかり言ってるわけ。そして最初に『しっかり考えろ』と僕はちゃんと言っているはずだ。その後も何度もそう言った。そして実際、君が考えてこれができると気がついたことはある。つまり、『これができると気がつくことができるような状況』をちゃんと与えているんだよ。隠しているとは言えないね」

「めちゃくちゃな理屈だぞ。詐欺師か政治家みたいな屁理屈だ」

「でも気がつかれたら僕は『気がついたか』と正直に言ってるだろ。隠してなんかいない。つまり、そちらの考え方次第なわけ」

 納得できない。

「神様が説明不足ってのはどうなんだよ?」

「保険の営業とかじゃないんだから説明不足でも悪くはない」

 保険の営業だとかそういうことは知っているのか。いまの時代のことはある程度調べて来たとか言っていたな。

「お前、自分にとって都合の良い言い訳になりそうなことはしっかり調べて来たんじゃないのか?」

「まあね」

 いつものしれっとした顔で女神は言う。

 本当に神かこいつ……正直に認めているところだけはまだマシだけど。

 いや、でも、逆に考えてみたら

「お前も屁理屈を言っているように俺の方も屁理屈であったとしても制限に触れないなら叶えられる願い事がある、ということか?」

「そうそう。そういうこと」

 いちいち上から目線の言い方が癇にさわる。実際、僕より高いところから僕を見下ろしているし。

「なぜしっかり説明してくれないんだよ?」

「制限には触れないけど、”それに気がつかれたら面倒な願い事”もあるんだ。だから頭の良い人の前に現れるのはなるべく避けているんだけどね」

「面倒って……怠慢じゃないか」

「面倒でも願われたらちゃんと叶えるんだよ。怠慢じゃないね」

「わかったわかった」

 こいつはこういうやつだ。もう言い争うだけ無駄だ。これ以上言い合ってまた鬱陶しく飛び回られたら面倒だ。

 しかし、理屈次第、考え方次第では思ったよりもこの女神は使えるということがわかった。もっと僕の頭が良かったらすぐにでも何か有益な願い事を考えつくかもしれないのにな……

「それとね。『叶えられるけどそれをやるのは神のプライドとしてちょっと屈辱』ということもあるからなるべく避けたいわけ。そんな理由もある」

 本当にちっさいなこいつ。


「おい、その左手の傷痕はなんだ?」

 キョーイチが不可解な顔をして僕に訊いてきた。しまった。気がつかれた。なるべく見えないようにキョーイチには手の甲の方を向けていたのに。いつものトンネルで図書カードを渡していた。カードは右手で渡したが、傷跡のある左手は鞄を持っているので完全に隠すということができなかった。鞄を置いてから二人に近づくべきだった。

 リューイチも、そして重雄でさえその傷痕を不可解な顔で見ていた。

「前からあったよこの傷痕は」

 僕は苦しい嘘をついた。

「嘘言うな」

 キョーイチは僕の左腕を取って自分の顔に近づけた。

「この傷痕……なんか亜由美の傷痕に似てないか?」

 くそっ。そこまで気がつかれたか。

「あいつの傷痕を何度か間近で見たことあるけど、ちょうどこんな感じだったぞ」

 キョーイチには霊感があるんだったな。その力が働いているのかも。

(おい、キョーイチの霊感ってどれくらいのものなんだ?)

 女神に訊いた。

「大したものじゃないね。ただ、いままで霊とか神とかそういうものに出会ったことがないんだろう。霊とか神とか滅多にいるものじゃないしね。僕が初めてなんだろう。だからいままで感じたことのない初めての違和感に戸惑っているのかな」

 女神はさらりとそう答えた。

「どうでもいいよ。こいつの傷がどうだろうが。さっさと行くぞ」

 と、リューイチが助け舟を出してくれた。キョーイチは最後まで不可解な顔で僕を睨んでいたが、リューイチにそう促されると学校へと向かった。クラスはいつも通りの大騒ぎだったが、僕らはいじめられなかった。

 林さんはどうなんだろう? ちゃんとあの傷痕はなくなったのか? ここからでは確認できない。そう思っているとアカ軍団がまた林さんに近づいてきた。林さんが読んでいた本をアカが取り上げて

「こんなのいつまで読んでいるんだよ」

 と投げ捨てた。そして、アイラが林さんの左手を持ち上げた。あれが始まる。

「あれえ? 亜由美さあん。この手首の傷は……あれ?」

 と、アイラの動きがそこで止まった。ない。傷痕がなくなっている。良かった。ちゃんと消えたんだ。

「あれ? なんで?」

 アイラは右手首を確認したがそちらに傷があるわけない。

「え? ついこの間までここに傷痕があったのに……」

 アイラは困惑したように林さんの両手を交互に見た。その表情は実に間抜けだった。

「おい、亜由美。お前、この休みの間に何をやった?」

 アカが凄みのある声で言って睨みつけた。

「何もしてないわ」

 林さんはしっかりした声で答える。

「嘘言うな。あの傷痕を隠せるような、何かを――」

「何もしてない!」

 林さんは毅然と立ち上がると、大声でそう言った。

「何もしてないわよ! 私にもわけがわからない! 私が知りたいくらいよ! というか、もういい加減にして!」

 あの林さんがアカたちに向かって怒鳴っている。こんな林さんを見たのは初めてだ。これには教室中が驚いた。もちろん僕と重雄もだ。アカたちでさえ驚いている。

 しかしアカはすぐに凄みのある顔に戻り、

「カバ子か?」

 と細目で林さんを睨みながら言った。

「え?」

「カバ子がバックについてるからそんなに強気になっているのか?」

 林さんは顔を大きく歪めて、

「違う! あの人は関係ない!」

 とまた怒鳴った。

 しかし、アカは抑揚のない顔で林さんをしばらく睨んで

「わかった……」

 と、何か含みのある様子で林さんの前から消えた。

 しまったな。これは逆効果になってしまったか? アカのあの顔は何か企んでいる感じだった。余計なことをしてしまったかもしれない。確かに善行というのは思ったより難しいことのようだ。

 そしてこの時キョーイチが、僕のことを眉間に皺を寄せて見ていることに気がついた。僕はそれに気づかないふりをしてその場をやり過ごした。

 昼食になって学食で僕も重雄もラーメンを食べていたが、重雄は

「凄かったな林さん。俺もあんなふうに抵抗できたらな……」

 と、林さんの毅然とした態度に感心しきっていた。僕もそれは凄いと思うのだが、アカのあの様子は嫌な予感しかしない。そして、残念ながらその予感は当たってしまった。


その3日後、友達料以外ではいじめられることもなく、キョーリューにスマホを返してもらい、重雄と別れてからスマホの電源を入れ、ずいぶん暑くなってきたなあ、空梅雨という予報は当たったな、などと思いながら駅へと向かっている時だった。本来ならこの安寧に感謝して家でアニメを観る予定だったのだが非常に嫌な予感がするものを偶然見てしまった。

 カバ子がアカの後ろをついて行っているのだ。その雰囲気はどう見ても仲良くマックででもお話しよう、という空気ではなかった。ふたりから嫌な緊張感が漂っている。

 僕はかなり迷ったが、距離を取って跡をついて行くことにした。2人とも僕に気がつくことなく人気のない場所に向かって行く。

 そこは山の片側だけをざっくりと切り落としたような住宅団地の宅地造成地帯で、まだ全て更地状態で家の基礎さえない状態の場所だ。公園がひとつだけ整備されていた。

 山を切り開いて斜面に作られた造成地である為、家を建てる予定の場所に盛り土がしてあり、それを石ブロックで補強している。そんな状態の土地が上に向かって、階段状になって並んでいる。人気はまったくない。僕は距離を保ちながら、盛り土を固めているブロックに身を隠すようにしながら2人の後をつけた。2人は真新しいアスファルト道路をどんどん上手に向かって歩いて行く。それと同時にますます人気から遠ざかることになる。

 これはもはや嫌な予感しかしない。

 そして、そこを曲がって道を登って行ったらそこはもう山の斜面で行き止まりだ、というところを2人が曲がった時だった。

「なんだあ! コラァ!」

 というカバ子の焦ったような大声が聞こえた。あの人がそんな大声を出すなんてただ事じゃない。僕は慌てて曲がり角まで近寄り、石ブロックの陰からそっと覗いてみた。

 はっと息を飲んだ。4人の大男が、カバ子の両腕と両足にそれぞれひとりずつ馬乗りになってカバ子をうつ伏せに押さえ付けていたのだ。カバ子は頭以外はほとんど動かせない状態になっている。4人の男はいずれもどこの誰だか知らないが、どう見ても人の良さそうな連中じゃない。4人ともキョーリュー並みに体が大きくムキムキだ。全員腕や首筋からタトゥーが見える。さすがのカバ子もあれじゃ抵抗できない。「お前……」と顔を上げたカバ子の口にアカが不敵な笑みを浮かべながらガムテープ、いや、ダクトテープを何重にも貼り付けた。フガフガ言いながらカバ子が必死に首だけを動かす。これはまずいぞ。どうする? 110番するか? そして「警察に通報したぞ!」と脅せば……警察が来るまでの間にボコボコにされるだろうな……カバ子だってその間にやられてしまうだろう。それにこの場所を上手く説明できない。助けを呼びに行く時間もないし、もちろん僕1人が立ち向かって行ってもやはりボコボコにされるだけだ。それならせめて確実な証拠を、と僕は石ブロックの陰からいまの状況をスマホ動画で撮影し始めた。最大にズームアップして状況を克明に撮影する。音声もしっかり捉えられるはずだ。「アカ、ナイフは俺のケツのポケットの中だ。早くしろ。こいつかなり力があるぞ」カバ子の右足に馬乗りになって両手でカバ子の太い足を押さえ付けている男がそう言った。アカは言われた通り、男のポケットからナイフらしきものを取り出した。その時男が「お前、本当にやらせろよ」とアカに確認するように言った。

「わかってる、やらせてやるよ。だからしっかり押さえとけ」

 アカはそう言って手にした物の柄のあたりを親指で押すと刃が飛び出した。いわゆる飛び出しナイフとかいうやつだ。あんなものを持っているなんてやはりロクな連中じゃない。

 アカはカバ子の顔の前にしゃがみ込むとそのナイフを嫌らしい笑みを浮かべながらチラチラと見せ付けた。

「ちょっと小耳に挟んだんだけど、あんた卒業したら女子プロレスラーになるのが夢なんだって? でも両足のアキレス腱が、ぐちゃぐちゃになるほど切れた、なんてことになったら、そんな夢叶えられるかな?」

 なに?

 カバ子は押さえ付けられたままアカを睨みつける。

「警察に訴える? 無駄よ。私達のアリバイ工作はしっかりやるよ。私に協力してくれるこういう連中は沢山いるんだから。証拠もない。あんたが暴力的なのも有名。私が頼めばあんたが私を貶めるためにデタラメを言っているとクラスのみんなだって口裏合をわせてくれるわ。あの山木の時と同じようにね」

 馬鹿な理屈だ。そんなの警察等がしっかり調べればすぐにバレるぞ。山木先生の一件の時、リューイチが警察に被害届を出さず示談で済ませたのは警察に調べさせない為だ。あの程度の件で、被害届もなく示談で済んでいるのなら警察もわざわざ事件にしないだろう。でもアキレス腱を切るなんて、そんな凶悪なことをすればさすがに警察も動く。しかし、いまカバ子を押さえ付けている連中はアカのそんな理屈で上手くいくと思っているようで、アカに「早くやれ!」と大声で急き立てている。

「わかってるわよ」

 アカがカバ子の足にしゃがみこんだ。

 さすがにこれはまずい!

「おい待て!」

 体が勝手に動いた。スマホ動画を撮りながら大声で前に出て行く。

「さっきからお前らがやってたこと、ずっとスマホで撮影してたぞ! これを警察に突き出してやる!」

 全身が震えた。もう確実にやられてしまう。いじめでの殴られたり蹴られたりなどはあるがこういう連中にやられるのとはまた違うだろう。

「お前……」

 アカが驚いたように僕を見る。他の男4人も僕を睨みつける。逃げるか? いや、僕の足じゃすぐ追いつかれるし、僕のいない間にカバ子が何をされるかわからない。

「あいつ、捕まえて」

 アカがそう言う前に、カバ子の両足を押さえていた2人が鬼の形相で近づいてきた。致命傷でなければ女神に治療してもらえる、と思ったが、

「スマホもぶっ壊して!」

 というアカのその言葉に「わかってるよ」と2人の男が言った。それはまずい。せめてこの動画だけは確保したい。

――くそ、何か願いをするしかない。

(おい! 女神!)

「ん? 何?」

 こんな状況でも相変わらずのんびりとした女神の声がする。

(スマホを壊されないように、スマホを硬質化するとかできないか?)

「スマホってのはある程度の衝撃で壊れるものだろ? それを硬質化するってのは”自然に変化や影響をもたらす”ことになる。石を柔らかくするのと同じでできない」

 そういう”自然”もダメなのか。

 いや、待てよ。この動画をメールで家にある僕のパソコンに送ればいいんだ。と思ったが、ただでさえ手間のかかる作業なのにこんなに焦っていたら上手くいくわけない。2人はもうそこまで来ている。あ、そうだ!

(女神! 今日の願いだ。さっきこのスマホで撮影した動画をメールで家にある俺のパソコンに送信してくれ!)

 スマホで動画をメールで送るなんてことは当たり前にできることだ。それを女神に頼みさえすればいいんだ。

「その願いを叶えましょう」

 女神がそう言ったと同時にスマホの画面が瞬間的に動いた、と思ったら『メールの送信を完了しました』と画面に表示された。が、それと同時に恐ろしい顔をした男に胸倉を捕まれた。

 僕はとっさに

「撮影した動画はメールでパソコンに送った。このスマホを壊しても意味ないぞ」

 と震える声でなんとかそう言った。今日はもう女神に治療してもらうこともできない。

 もうひとりの男も「なんだこのやろ。殺すぞ」と僕の髪を横から鷲掴みにした。やられる、そう思った瞬間「おいバカ! 足を離すな!」「こいつ、立つぞ!」という声がした。見ると、カバ子が自由になった両足を立てて、「ふがあ!」とこもった叫び声を上げながら押さえられている両腕をパワーリフティングの選手かのように持ち上げようとしている。そしてそのまま男たちから両腕を引き抜いた。男はふたりとも尻餅をつく。「この!」とふたりとも体を起こしてカバ子に掴みかかろうとする。が、その中腰のような体勢がよくなかった。カバ子はふたりの顔面にサイドキックを一発ずつ食らわせた。凄いスピードとパワーで、嫌な蹴り音がしてふたりとも「ぎゃあ!」と叫んで顔を両手で覆ってその場に倒れた。

「このやろ!」と僕の胸倉を掴んでいた男がカバ子に向かって行く。カバ子は相撲取りのように構えて向かってくる男にやはり相撲取りかのようにタックルして腰に組み付いた。さらにそのまま大木でも引っこ抜くかのように男を持ち上げる。「おお?」と男は戸惑ったように足をバタバタさせるがカバ子は左腕だけで男の腰を抱え、右腕でバタつく男の両足を抱えた。男はいわゆる”お姫様だっこ”のような状態になる。カバ子は男をそのままさらに高く持ち上げ、アスファルトの上に男の腰を叩きつけた。「ぐがあ!」男は尾てい骨あたりを押さえて叫びながらその場でのたうち回った。あれは痛いぞ……

 カバ子は口のダクトテープを剥がすとアカの方に向かって行く。

 アカは

「来るなあ!」

 とナイフを持った右手を伸ばして威嚇するが、へっぴり腰でナイフを持つ手も震えていてまったく威嚇になっていなかった。カバ子はそんなナイフなど気にすることもなく両手でアカの胸倉を掴む。

「このくそアマ! 何が1対1で堂々と勝負する、だ!」

そう怒鳴ると固めた大きな右拳でアカの腹を殴った。

「ぐう!」

 とうめき声を上げてアカがナイフを落として腹を抱えてうずくまった。そしてカバ子はこちらを睨んだ。僕の髪を掴んでいた男も僕も「ひっ!」と怯えの声を上げた。おそらくキョーリューの2人でもあんな恐ろしい顔は見せたことがないだろう。目がつり上がり、その目は血走り、顔は真っ赤で歯を噛み締めている。頭から湯気が出ているようにも見えた。そのあまりの迫力に髪を掴んでいた男は逃げ出した。

「待てコラァ!」

 カバ子は追いかける。速い。いつもの鈍足とはまったく違う。僕は慌てて後を追いかけた。男の逃げ足も速いがこれはもうすぐカバ子が追いつくぞ。そうなったらあの男もどんな目に遭うか……ってなんでさっきまで僕の髪を鷲掴みにしていたやつの心配なんかしているんだ。

 でもカバ子がやろうとしている行為はまずい。

(おい!)

 女神に問う。

「なに?」

 のんびりした声がムカつくがそれどころじゃない。

(カバ子がさっきやったことは”減点”になるか?)

「あの4人にやったことは正当防衛になるね。男3人は襲い掛かってきていたし、アカも最後までナイフを持って脅していたから」

(じゃあ、あの逃げている男をカバ子が捕まえてボコボコにしたら?)

「それは正当防衛にならない。立派な暴行・傷害で減点行為だね」

 僕はなんとかカバ子に追いつき、太い左腕を右手で掴んだ。

「まずいですよ、木村さん」

 と止めようとするが、もの凄いパワーで止めることはまったくできず、情けないことにまるでマネキン人形かのようにズルズルと引きずられた。

 カバ子は

「邪魔だ!」

 と僕を振りほどこうとする。

「まずいですって」

 僕は持っていた鞄を手放して両手でカバ子の腕を掴んだ。それでなんとかカバ子の勢いを少し止めることができた。

「うるせえ! あいつもぶん殴ってやる!」

 なんとか説得しないと。でもこれだけ興奮しているバカ力の人間をどう説得する? まさか『減点になります』なんてわけのわからないことを言えるわけがない。僕はこの状況の中、なんとか落ち着いて考えた。

「木村さん、さっき聞いたけど女子プロレスラーになりたいんでしょ?」

「ああ! あのアマどこで小耳に挟んだ?」

 まずい、余計興奮した。僕は必死になって言った。

「だったら事件を起こしたらまずいですよ」

 カバ子の勢いが少し落ちた。

「それにさっきの連中が回復したらまた来るかもしれませんよ? ナイフも持っているような連中です。そんなやつらを同時に相手にしたらさすがにカバ……じゃなくて、木村さんでも敵わないでしょ?」

 カバ子はようやく立ち止まって睨むように来た方向を振り返った。

「あいつら追いかけて来たりしてないか?」

「いまのところは大丈夫みたいですけど、でもいつ来るかわかりませんよ」

 僕がこの場で考えたにしてはなかなかの説得方法だと思う。カバ子は鼻から「ふうー」と大きく息を吐いてなんとか落ち着いたようだ。

「だからもう止めましょう。とりあえず人の多いところまで行きましょう」

 ともう一押しカバ子を説得した。すると

「くそっ!」

 とカバ子は吐き捨てるようにそう言うと、憤懣やるかたない、という感じでではあるが歩き始めた。どうやら諦めてくれたようだ。僕も手放した自分の鞄を手に取り、ふたりで団地道を足早に下って行く。とにかく早く人のいる場所に行った方がいい。

「あいつ、私と1対1で堂々と勝負したいって喧嘩売ってきたから買ってやったんだ。でもどんどん人気のないところに行くからおかしいとは思った。でも何をしようが私がこいつに負けるわけないと侮っていた。そしたらさっきの連中が待ち伏せしていた。考えてみたらあんなやつが堂々と勝負しようなんてことするわけない。まったく、頭が悪いってのは損するな!」

 カバ子は大股で歩きながら大声でそんな愚痴を言う。僕は「そうですね……」と弱々しい声で同意する。上司の機嫌を取る部下ってのはこんな感じなのだろうか?

 ようやく人目のあるところまで来た。そのころにはカバ子もだいぶ落ち着いていた。

「しかし、お前のお陰で助かったな。アキレス腱をめちゃくちゃに切られるなんてことをされていたらプロレスラーなんて無理だ。少なくともかなり難しくなる」

 カバ子は僕を見て

「ありがとうな。恩に着るよ。ひとつ借りができたな」

 そう礼を言ってから

「しかし、やるじゃないか。あんな連中を脅すなんて。見直したぞ」

 と感心したように僕のことを褒めてくれた。

「いえ、木村さんがやっつけてくれなかったら僕もどうなっていたことか」

「カバ子でいいよ」

 カバ子はそう言って笑った。

「普段はそう言っているんだろ? さっきも言いかけてたし」

 確かに。しかし、さすがに本人を目の前にしてそんなあだ名で呼ぶのも気が引ける。僕は少し考えてから

「じゃあ、せめてカバ子と言います」

 と言うと、カバ子さんは笑った。よかった、とりあえず機嫌は良くなったようだ。そしてカバ子さんは

「そうだ。さっき撮ったっていう動画だけど私にも送ってくれないか?」

 と言ってスカートのポケットからスマホを取り出した。

「スマホは……大丈夫みたいだな。あんたの言う通りあの連中がまたいつ来るかわからない。その時は相手になってやるが、それでもいざという時の為のとして持っておきたいからな」

 なるほど、と思って僕はカバ子さんとライン交換してラインから動画を送った。

「うん。これはよく撮れている」

 カバ子さんはすっかり機嫌も直ってご満悦のようだ。でもそこで深刻な面持ちになって言った。

「お前も早く帰った方がいいぞ。あいつらがやってきて見つかったらお前だって何をされるかわかったものじゃない」

 そう言えばそうだ。くそ、僕もタチの悪い連中に関わってしまった。それにしても咄嗟のことだったとはいえよくあんなことができたな。普段の自分じゃ考えられない行動だ。ひょっとすると気の強い父と母の血を少しは受け継いでいるのかもしれないな。

 翌日、教室の前に腕組みして仁王立ちしているカバ子さんの姿があった。僕はひやりとした。まさかアカを待っているのか?

 キョーリューの2人は

「何やってんだお前?」

 とポカンとした顔で訊いたが、カバ子さんは無視する。2人とも「ケッ」と言って教室に入った。そしていつものように教壇に立って「重雄と信矢に手を出すな」と言ってくれた。最近はそればかりなので皆もうロクに返事もしなくなっていた。

 僕はカバ子さんのことが気になって仕方なかった。教室の外に出ると、カバ子さんに

「あの、もしかしてアカに何かしようと?」

 と恐る恐る訊いた。でもカバ子さんは首を振って、落ち着いた声で言った。

「違うよ。心配するな」

 しかし何もしなくても威圧感のある人なので、そんな人が教室前で構えているというだけで不安になる。しばらくしてカバ子さんは

「くそ、来ねえな」

 と呟くと、なぜか教室内に入った「え?」と僕が思ったのと同様、教室内の皆も「なんだ?」という空気に包まれる。カバ子さんはアカ軍団をみつけるとアイラに歩み寄り、

「ちょっと来てくれ」

 と有無を言わせずアイラの腕を引っ張って廊下に連れ出した。僕は冷や冷やしてその様子を見ていた。

 キョーリューの2人も廊下に出てきた。

 カバ子さんはアイラに小声でなにか訊いている。

「おい、何をやってんだよ」

 キョーイチがカバ子さんとアイラに近づきながらそう呼び掛けたがカバ子さんは、

「うるさい! お前らには関係ない!」

 と、怖い顔で怒鳴った。その迫力にキョーリューの2人も一瞬たじろいだが「ああ?」と怒り顔になってカバ子さんに迫って行く。が、そこでカバ子さんが

「あ、そう。ありがとうよ」

 と何か納得したように言うと行こうとする。「おい!」リューイチが大声でカバ子さんの後姿に向かって叫んだが、カバ子さんは無視してそのまま行ってしまった。

「何を訊かれたんだよ」

 リューイチがアイラに訊く。

「アカのスマホの電話番号を聞かれた」

 アイラも困惑顔でそう答える。

「なんだそりゃ? アカとあいつ何かあったのか?」

「今日、アカが来てないことと何か関係があるのか?」

 キョーリューはそうアイラに訊いたが、

「わからない……」

 とアイラは首を振った。昨日のことを本当に何も知らないのだろうか? でもとぼけているようには見えなかった。

「お前は何もされなかったのか?」

「ああ、お前に何かあったら俺たちが困るからな」

「大丈夫よ。ていうか、止めてよこんなところで……」

 キョーリューとアイラは何かそんなことをコソコソ言っている。

 昼食を終え、避難地区で――なぜかここに来てしまう――重雄と話してると、そこへカバ子さんが来た。僕も重雄も「ん?」と思ったが、カバ子さんが重雄に

「悪いけど、ちょっと外してくれ」

 と言うと「はい」と重雄は恐れるようにそそくさと行ってしまった。カバ子さんは別に脅す気はないのだろうが、とにかく威圧感があるのだ。

 重雄がいなくなると、カバ子さんはひとつ息を吐いて

「朝、アカが来なかったからあの女にアカの携帯番号を聞いたんだ」

 僕はうなずいた。それは知っている。

「で、かけてみたけど出なかった。まあそうだろうな。でもボイスメールが設定してあったからこう言っておいた。『お前と昨日みたいな連中が私と信矢と亜由美にもう何もしなければ私も何もしない。ただし何かしたら信矢が撮影した動画を警察に突き出してやる』てな」

 僕は驚いて、

「大丈夫なんですか?」

 と目を見開いて訊いた。そんなことをすれば余計にアカやあのタチの悪そうな連中を怒らせることになるかもしれない。

「さあな」

 カバ子さんはあっさりと言う。

「でもあいつの面子は立ててやったつもりだ。学校で直接そんな話をしたらあいつの面子は丸潰れだと考え直したんだよ。あいつ、おそらくあのクラスで女子の中じゃトップなんだろ?」

 僕はうなずく。

「だからスマホでそう言ってやったんだよ。それでも何かしてくるようならその時はもう一切の容赦はしねえ。いろいろな意味でな」

 カバ子さんは少し怖い顔になってそう言った。

「ま、だからもし何かあったら私に言って来い。もちろん、お前が警察に行ってあの動画を突き出してやってもいい。ただ、それはあくまでも次に何かしてきたら、だ。今回の件は猶予を与えてやる」

 まあ、カバ子さんがそれでいいなら。

「わかりました。ありがとうございます。僕らのことまでわざわざ」

 と僕はお礼を言った。

「いや、これは私の為でもあるからな。これで昨日のお前の恩を返したとは思ってない」

 義理堅い人だなあ。感心する。

「じゃあな」

 とカバ子さんは軽く手を振って非常階段の方に行ってしまった。また非常階段の踊り場で昼寝をするんだろうか?

 翌日、アカは何事もなかったように登校してきた。そして僕にも特に何も言わなかった。目を合わせようともしなかった。でもあの連中にまた狙われるかもしれない。そう思うと怖かったが、それもなかった。

 しかし、災いはまったく予期しないところからやってきたのだ。


 月曜日、いつものようにキョーリューに図書カードを渡した。2人はもはや図書カードをどうしてそんなに貰えるのかということに疑問を抱かなくなっていた。そしていつものように教室で僕らに手を出すなと皆に言った。

 僕も重雄も安心していたのだが、授業中、僕の後頭部に小石が当たった。え? と思って振り向くと何人かがニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべていた。僕が顔を前に戻すとまた後頭部に小石が当たった。なんだ? もう一度振り向くと何人かが吹き出して笑っている。変だな。友達料を払っているのに。と思っていたら、重雄の方も小石をぶつけられていた。なんだ? 一体どうなっているんだ?

 さらに授業間の休みの間に背中を蹴られたり、すれ違いざまに腹を殴られた。重雄に訊くとやはり同じような被害に遭っていた。

「どういうことだよ?」

 と重雄も頭を抱えていた。

 翌日にはさらに酷くなっていた。毎時間、どの授業でも石をぶつけられる。休み時間には蹴られ、殴られる。さらにとび蹴りや、足を引っ掛けて倒されたり、すれ違いざまに唾をかけられる、プロレス技をかけられるなど明らかにいじめがしていたのだ。

 翌日、僕はキョーリューに図書カードを渡すときに言った。

「またいじめられているんだけど。どうしてなんだ?」

 僕は真顔で言ったが、2人は明らかにとぼけた顔で「さあ?」と言うだけだった。僕はなんとか勇気を振り絞って言った。

「友達料は払っている。いじめられないようにしてくれよ」

 しかし、2人は凄みのある顔になって

「ちゃんと毎日お前らに手を出すなって言っているだろ? 今日だって学校行ったらそう言ってやるよ」

 と迫ってきた。

「それでもいじめられているんだ」

 僕が言うと、

「しつこいな!」

 とキョーイチは怒鳴った。リューイチも

「知らねえよ! じゃあ何か? 俺たちにお前らのボディーガードでもしろってか?」

 と怒鳴る。

「いや、でも……」

 そこでリューイチに胸倉を捕まれてそのまま用水路の欄干に押し付けられた。

「もう一度言う。俺たちはちゃんと毎日お前らに手を出すなと言っている。それ以上どうしろと言うんだ?」

 もう何も言えなかった。学校に行って、教室に入ると確かにリューイチは僕らに手を出すなと言った。しかし、それに対する返事はない。そういえばここのところ返事がなかったな。みんな了解していなかったんだ。その日もしっかりいじめられた。

 家に帰ってから僕は女神に怒鳴った。

「おい! いじめをやめさせてくれよ!」

「だからそういうのは無理だって」

 女神はしれっと答える。

「なんなんだよお前は! 神なんだろ? なのに、俺に付きまとっているだけでほとんど助けてくれないじゃないか!」

 僕はまた怒鳴る。

「八つ当たりは止めてくれ」

 女神はいつものようにしらけた顔でそう言うだけだった。

 確かに八つ当たりだった。しかし、そうでもしないとあまりにも理不尽だ。いじめられないようにこいつに図書カードを頼んでようやく収まったと思ったのに、どうしてこうなるんだ。何より、願い事を叶えてくれる女神なるものが現れたのにこいつは大して役に立たない。なんなんだよこの状況は?

 それでも改めて考えてみた。何かいじめを止めさせる方法がないかと。このポンコツ女神を使って何かできないかと。何か良い方法があるのかもしれない。でも僕のこの拙い頭ではもう何も思いつかなかった。

 次の日も同じようにいじめられた。しかもキョーリューの2人がいじめにしっかりと加わるようになっていた。的当てゲーム以外はほとんど元通りにいじめられている。

 そして図書カードを渡した金曜日も同じくだ。もはや友達料やキョーリューの言い付けなど完全に形骸化していた。

 昼休みに重雄と2人で食堂でラーメンを食べようとしたところにリューイチが僕のラーメンに、キョーイチが重雄のラーメンにそれぞれ唾を吐きかけた。僕も重雄も呆然としたがキョーリューの2人は大笑いしながら去って行った。重雄が泣きそうになっている。

「重雄。俺、まだ金に余裕があるから、それで奢ってやるから」

 僕はそう言ってなんとか重雄をなだめた。一番安いすうどんを2人分買って、今度は周囲を警戒し、注意を払いながらなんとか腹を満たした。

 重雄は食堂では泣かなかったが、避難地区で号泣した。

「なんだよ! どうしてこうなるんだよ! せっかくお前が友達料を払ってくれているのに、なんでまたいじめが始まるんだよ!」

 短い間だったが、重雄にとっていじめのない期間があった。一度そういう幸せを味わえたが故に余計に辛いだろう。僕だって泣きたかった。

「やっぱり無理なんだ。俺がいじめられずに生きることなんて。もう疲れた……」

 その言葉に僕はどきりとした。まさか、死ぬことなんて考えているんじゃないだろうな?

(なあ? もしいまの重雄が自殺したらどうなる?)

 僕は女神に訊いた。

「地獄行きだね」

 くそ。やっぱりそうなるか。

「なあ、変な間違いは犯すなよ」

 僕はそう念を押しておいた。地獄行きになるから、なんて説明してももちろん理解してもらえないだろうけど。

「全部あいつらのせいだ。キョーリューのせいだ」

 泣きながらそう呪詛でも唱えているかのように重雄は呟く。

 僕は大きくため息をついた。

 翌日の土曜日は逃げるように帰宅すると相変わらずのんきに浮遊している女神を見ながらなんとかできないかと強く再考した。

 カバ子さんに守ってもらう? いや、ダメだ。四六時中僕らを見守るなんてことできるわけないし、できたとしても1学年上のカバ子さんが卒業したらそんなことはもう不可能になる。この女神は全然役に立たない。何かないのか? 僕は頭を抱えて掻きむしった。

 そして顔を上げた。

 こうなったら……ノートパソコンの電源を入れた。アニメ目的じゃない。youtubeで格闘動画などを片っ端から観た。使えそうなものもあったが、いずれも習得するにはかなりの時間がかかる。

 しかしそんな中でも「これならなんとかいけるか?」というものを見つけた。僕は迷った。本当にこんなことをして大丈夫なのか、と。でも他に何も解決方法を思いつかない。

 その日から僕は筋トレを始めた。腕立て、背筋、スクワットをそれぞれ30回、腹筋だけはなんとか50回やった。腹を殴られるのはヘタに顔なんかを殴られるより効く、腹筋を鍛えるのは基本だとネットの情報で見たのだ。さらに女神にハンドグリップを願った。ハンドグリップは5000円もするものはほとんどない。それで握力を鍛える。握力も格闘では重要だと知ったのだ。そして、僕は両手を伸ばし、手の平を起こした状態ですり足で移動する練習をした。目の前に人がいると想像して、手で相手の顔や頭や肩等を押すことをイメージする。「なにやってんだ」という女神の声がするが、無視して続ける。

 次の日、全身筋肉痛だったがなんとか同じトレーニングを続けた。

 そして月曜日。図書カードを取られ、僕と重雄はしっかりいじめられた。それがまた毎日続いた。ひとつ幸いだったのは昼食を食べることはできたということだ。以前のようなことがないように周囲にかなりの注意を払いながらだが、それでも空腹を満たすことはできた。

 僕はいじめられながらもなんとか体を鍛え続けた。

 そして土曜日。今週はいじめられない日はなかった。重雄の目は澱みきっていた。もういつ間違いを犯しても不思議ではないように見える。

 キョーリューの2人にスマホを返してもらうとき、僕は大きく息を吸うと言った。

「お前らに、喧嘩を売りたい」

 重雄が目を大きく見開いて僕を見た。

「は?」

 とキョーリューの2人はほぼ同時に言ってポカンと口を開けた。

「お前らと喧嘩したいんだ」

 僕はもう一度はっきりとそう言った。

 キョーリューはしらけた顔でポカンと口を開けている。重雄はまだ驚愕の顔で唖然と口を開けて僕を見ている。

「はいはい。そういう冗談はいいから、早くおうちに帰っていじめられないようにしろよ……」

 キョーイチはため息混じりに言って取り合おうとしなかった。リューイチも同じだ。

「逃げるのか?」

 僕は挑発した。

「あ?」

 2人とも僕を睨む。僕はその顔に負けず真正面から2人の顔を見た。

「あのな、お前の為に言ってやっているんだぞ? てか、これ以上俺を怒らせるな」

 リューイチが凄みながらも面倒臭そうに言う。

「お前らの取り柄はパチンコと喧嘩が強いことくらいだろ?」

 僕はさらに挑発する。

「はあ?」

 2人の顔色が変わった。正直逃げ出したいほどの恐怖を感じる顔だった。重雄が「おい、止めろよ……」と、震える小声で僕に言う。

「やってやろうじゃねえか」

 キョーイチが近づいてくる。僕はそこで

「ただし、条件がある!」

 と張りのある大声で言った。キョーイチの動きが止まる。

「まず、ハンデがほしい。お前らは喧嘩が強いんだろ? まともにやり合っても俺が負けるのは当然だ。そうだろ?」

 キョーリューは顔を見合わせた。

「それともハンデがあったら勝つ自信がないのか?」

「てめえ……」

 キョーイチがさらに近寄ってきたがリューイチがそれを手で制した。

「面白いじゃねえか」

 リューイチはニヤリと笑う。

「どんなハンデだ?」

 と口だけで笑いながら訊いてくる。

「下半身への攻撃は止めてくれ」

 下半身への攻撃、特に金的への攻撃がなくなるだけで相手の攻撃力をかなり削げるはずだ。

 リューイチは小ばかにするようにふんふんとうなずく。

「そして、はっきり言って俺がお前らを倒すことは不可能だ。だから1人5分間、2人合わせて10分間、そっちの攻撃に俺が耐えられたらこちらの勝ちにしてほしい。その代わり、こっちは両膝を着いたらもうその時点で負けだ。ダメージを受けてなくて喧嘩を続けることができる状態であってもだ」

「5分? 5秒の間違いじゃないのか?」

 リューイチは笑う。そんなリューイチとは対照的にキョーイチは

「何が『その代わり』だ。それはお前がやられ過ぎない為の、自分を守る為の、お前にだけ都合の良いルールじゃねえか」

 と、僕の胸倉を掴んだ。

「まあ、待て待てキョーイチ」

 リューイチはそう言ってキョーイチを落ち着かせる。

「いいぞ。その程度のハンデでいいなら」

 そういやらしく笑みながら言ってうなずく。

「それと、素手であること、1対1であることだ」

「当たり前だ! お前相手に武器やふたりがかりが必要なわけないだろ!」

 さすがにイラついたようにリューイチは大声を出した。

「そして最後、これが絶対的な条件だ」

「なんだよ!」

 リューイチは苛立ちを最大にしたように怒鳴る。

「俺が勝ったら、もう俺や重雄をいじめるのは止めてくれ。他の連中にもしっかりとそう言いつけてくれ。もう友達料も払わない」

 はあ、とキョーリューの2人はうんざりしたような深いため息をついた。

「わかったわかった、約束してやる。でも意味のない約束だぞ。お前が負けるのは決まっているんだから」

 面倒臭そうにキョーイチはうつむいて後頭部をボリボリと掻いた。

「じゃあさっそく……」

 とリューイチがこちらに迫って来たが、

「学校内や人目のあるところじゃまずいだろ。人気のない所に移動しよう」

 僕は強く言って迫るリューイチを止めた。

「おいおい、いいのか? それじゃあお前は誰にも助けてもらえないぞ?」

 リューイチはついにあくび混じりに言った。「ああ」と、僕はうなずく。

「どこでやるんだよ?」

「いいところがある。そこへ行こう」

「面倒くせえなあ」

 キョーイチがまた深いため息をついた。

 僕は「行こう」と2人に言ってから、「お前は帰ってくれ。そして俺の勝ちを祈っていてくれ」とまだ呆然としている重雄に言った。僕が歩き始めると2人はだらだらと面倒臭そうについてくる。重雄は最後まで呆然としてそんな僕らを見送っていた。

 先日、カバ子さんがアカに連れて行かれたあの場所に向かう。もちろん、誰も待ち伏せなどしていない。

「どこまで行くんだよ」

「もういいだろここで」

 キョーリューの2人のダルそうな声が聞こえるが僕は宅地造成地帯を無言で上って行く。正直、とんでもなく怖い。心臓が破れるかと思うほど高鳴っている。吐きそうだ。でもやらなければ。

 カバ子さんが襲われていた場所まで来ると、

「ここだ」

 と僕は鞄とスポーツバッグを置いた。

「やっとかよ」

 キョーイチとリューイチはまったく緊張感を感じさせない、面倒臭そうな声で言う。

「俺たちが山側に行ってやるよ」 

 と、リューイチが上の方に歩いて行く。

「お前がこっち側じゃあ泣いて逃げられないだろ」

 リューイチがそう言うとキョーイチが「そう言えばそうだな」と笑った。

 僕はそんな2人のことなど無視して深呼吸すると全神経を集中させ落ち着かせた。でもちょっと油断したら全身が震えそうだ。大丈夫、致命傷じゃなければ女神に治してもらえるんだ。自分に必死にそう言い聞かせる。

 そんな僕とは対照的な様子でキョーリューの2人はのんきにジャンケンをしていた。どちらが先に僕とやるか決めているようだ。結果、リューイチが勝った。

「ああ、くそ」

 とキョーイチが悔しがる。

「はい、もうお前の出番はなしね」

 リューイチはそう言うと、手をポケットに突っ込んでこちらに来る。キョーイチは自分の鞄を座布団代わりにしてその場に座った。

「5分計ってくれ」

 僕はキョーイチにそう頼んだ。キョーイチは「はいはい」とうなずいて、まずタバコを取り出して吸い始めてから、スマホをいじり始めた。

「ほら、タイマー5分にしてやったぞ」

 そう言ってやる気なさそうにスマホ画面をこちらに見せた。

「よし、じゃあ始めだ」

 リューイチが余裕な顔と声で言うと同時に僕は足を前後に広げ両腕を伸ばし、あごを引いて顔を伸ばした両腕の中に隠し、上目遣いでリューイチを見ると手の平をリューイチに向けた。

「なんだそりゃ? なんの構えだ?」

 リューイチがあざ笑う。が、次の瞬間、僕に掴みかかってきた。僕は下腹に力を込めて伸ばした腕で掴んできた腕を振り払い、さらに片手でリューイチの顔を押した。

「お?」

 とリューイチが少しバランスを崩した。が、すぐに元に戻って

「このやろ」

 とこちらに向かって来る。僕はすり足で移動しながらやはり腕を伸ばして手を出してきたリューイチの顔を押しのけるようにしていなす。さらに続けて肩を押していなした。またリューイチはバランスを崩して今度は少しよろめいた。リューイチは一瞬「え?」という感じの顔になったが、すぐに

「この!」

 と、飛び掛ってきた。先ほどまでと違ってかなりの力だ。それでも僕はなるべく冷静に伸ばした腕でリューイチの顔や頭を中心に肩や腕も押していなす。そんなやりとりが何度も続く。でもキツくなってきた。時間はまだか? ひたすら時間が経つことを祈った。が、

「てめえ!」

 と怒鳴ったリューイチに僕の両手首を上からガッチリと掴まれた。手首が潰れるかと思うほどの力で僕は顔をしかめる。さらに掴んだ僕の両腕を左右に広げながら同時に自分の方に引き寄せるように斜め下に強く引っ張った。もの凄い力で僕はまったく抵抗できず、前に大きくバランスを崩した。なんとか倒れなかっただけでも頑張った方だと思う。しかし、大きく前のめりになって腕のガードがなくなった僕の腹に、リューイチは硬い拳をぶつけてきた。「ぐうっ!」僕はうめき声を上げた。さらに腹に何発かのパンチをもらって足の踏ん張りが効かなくなったところでまた両腕を掴まれ、強く引っ張られると僕はアスファルトの上にうつ伏せに倒された。

「はい、終了」

 キョーイチが言った。

「お、残り時間2分27秒だ。半分以上はったじゃないか」

 キョーイチは本気で感心するように言う。しかし、リューイチは「このやろう!」と僕のわき腹に蹴りを入れてきた。ダメだ、完全に怒らせてしまった。僕は手足を丸めて亀のような状態になった。しかし、リューイチは僕のシャツを掴むと仰向けにひっくり返した。そして容赦なく全身に蹴りを入れてくる。僕は顔を両腕で包み込むようにガードして、腹部は折り曲げた足でなんとかガードした。怒りにまみれたリューイチは僕の頭部まで狙って強烈な蹴りを何度も打ってくる。

 くそ! やっぱりダメだったか。僕がyoutubeで観て必死に練習したのは格闘術でも喧嘩術でもない、護身術だった。相手に勝つための方法ではなく相手から身を守り、逃げるための技だ。両腕を伸ばすことで相手は攻撃しにくくなる。さらにあごを引いて顔を守り、向かって来る相手の顔や肩などを押してバランスを崩し、隙を作ってその場からエスケープする、というものなのだ。相手を制圧する為のすべではないのだ。筋トレもしたがそんな付け焼き刃のトレーニングでとても5分も耐えられる相手ではなかった。最初は舐められていたからなんとか対処できたのかもしれない。でもちょっと本気を出されたらこの有様だ。

 リューイチは

「ぶっ殺してやる!」

 と、怒鳴りながら僕を蹴り続ける。キョーイチが

「おい、やり過ぎだ」

 と言うが「うるせえ!」と怒鳴ってまったく取り合わない。

「教えてやる! お前らはいじめられる為に俺たちのクラスにいるんだよ! なのにしばらくお前らのどちらもいじめられなかったから、みんなストレス溜まりまくっていたんだよ! お前らは俺たちのストレスの捌け口なんだ! わかったか! これからも一生いじめられて生きろ!」

「リューイチ、お前はもう17歳なんだ。16歳以上が人殺ししたらどうなるか知っているよな?」

 キョーイチがそう止めるが、リューイチはやはり「うるせえよ!」とまったく意に介さない。

「まったく……」

 とキョーイチが立ち上がったその時だった、

「おい! キョーリュー!」

 という怒鳴り声が道路の下の方から聞こえた。見ると、そこにいたのは重雄だった。そしてあれは……重雄は小刀を両手で強く握っていた。アカの時の様なへっぴり腰ではなく、がっしりと小刀を掴み、どっしりと構えている。そして、あれは頭に血が上っていて冷静な状態じゃない、ということがはっきりとわかる顔だった。さらにあれは単なる怒りの顔じゃあない。積もり積もった恨みの顔だ。

 キョーリューに対する恨みの感情というのは僕だってよくわかる。それ故にこれはマズいと思った。脅しではなく本当にやりかねない。まさか重雄がこういう間違いを犯そうとするとは思いもしなかった。

「お前ら、ぶっ殺してやる!」

 重雄はそう怒鳴った。重雄のあんな恐ろしい顔を見るのは初めてだ。やはり本気だ。

「おい、リューイチ。あれはマジだぞ」

「ああ」

 2人は後退してそれぞれ自分の鞄を左手に持ち、更にポケットからターボライターを取り出して右手に持った。喧嘩の道具として常に携行していると聞いたことがある。やはり2人ともかなり喧嘩慣れしている。2人は冷静にいまの重雄の状態を分析して距離を取ってから鞄とライターを構えた。色々な格闘動画を見て知ったのだが、相手が例え素人でも頭に血を上らせて刃物を振り回す人間を素手だけで制圧するということはプロの格闘家や武術の達人、厳しい訓練を受けた特殊部隊や軍人でもかなり難しいことなのだ。いまの重雄はまさに頭に血を上らせて刃物を振り回す、という寸前の状態だ。それを見て2人は素手で対応しようなどとはせず身を守る為の盾である鞄と、矛であるターボライターで”武装”したのだ。

(おい、女神! 重雄がいま2人を刺したり、ましてや殺したりしたら、これは正当防衛なんかにはならないよな?)

「うん。傷害・殺人で減点……」

(もういい!)

「止めろ重雄」

 僕は全身の激痛に耐えながらなんとか立ち上がった。

「どけ、信矢!」

 重雄が怒鳴る。

「ダメだって……」

 重雄が2人を刺したとしても、逆に2人に返り討ちにあったとしても、重雄にとっては最悪な結果になる。が、重雄はわけのわからない奇声を上げながら小刀を振り回して2人に突っ込んで行った。

 重雄が僕の脇を抜けようとしたそのとき、僕はボールに飛びつくサッカーのゴールキーパーのように重雄に飛びついた。と同時に右手に激痛が走った。小刀の刃が僕の右手親指の下の少し膨らんでいるところから手首のあたりまでをスッパリと切った。血が大量に出てくる。痛みで僕は顔を歪め、その場にしゃがみ込んだ。

「え!」

 それを見た重雄がそう叫んで動きを止めた。

「そんな……おい、大丈夫か?」

 重雄は先ほどまでと打って変わって青い顔になって小刀を投げ捨て、僕に寄り添ってきた。僕は傷口を押さえるが血が止まる気配はまったくない。

「おい重雄……」

「てめえ、ふざけてんじゃねえぞ……」

 キョーリューの2人が怒りの顔でこちらに来る。まずい、と僕は咄嗟に重雄に覆い被さるようにして庇った。なぜそんなことをしたのかもわからない。が、そのせいでリューイチの蹴りがまた僕の体に突き刺さる。さらにキョーイチも加わる。さすがにもうこれは限界だ、と思ったその時、「おい、お前ら! 何をやっている!」という大声がした。作業着を着た50代くらいの男性がいた。この造成地の関係者だろうか?「喧嘩か? いじめか?」険しい声でそう言いながらポケットからスマホを取り出した。

「くそ、行くぞ!」

 リューイチがそう叫ぶとキョーリューは、「おい! お前ら!」という男性の声を無視して走って行った。男性は慌てたようにこちらに来た。「君たち、大丈夫か?」と言ってからはっと息を飲んだ。「血が出てるじゃないか。救急と警察を呼ぶから」そう気遣ってくれたが、僕は

「大丈夫です!」

 と大声で言うとその場から逃げ出した。「あ、おい」男性の声がするが全身の痛みに耐えて、右手の傷口を押さえながらなんとか走る。しばらくして公園が目に入った。そちらに向かって走り、公園に着くとそのまま真新しいトイレに駆け込み、手洗い場の蛇口を捻った。既に水が通っていて、勢いよく出てきた水で傷を洗い流す。でもただただ痛いだけだった。これはすぐに止血しないとだめだ。

「信矢!」

 重雄が僕の跡を追ってきたらしく、ぜえぜえ言いながらトイレの中に入ってきた。僕の鞄とバッグも持ってきてくれている。その顔は真っ青だ。

「俺のバッグからタオルを出してくれ」

「ああ……」と重雄がタオルを渡してくれる。体育の授業後に、最近のこの暑さで汗まみれになった体を拭いた衛生的とは言えないタオルだが仕方がない。それで傷口を強く押さえた。でも血が止まる気配はまったくない。

「信矢、右手を高く挙げて!」

 ああ、そうだ。傷口は心臓より高くしないと。僕は言われた通り右手を挙げた。左手で右手をタオルで押さえているのでバンザイするようなポーズになる。重雄は自分のバッグの中からスポーツタオルを取り出し、僕の右腕の根元をそれで固く縛った。その止血方法は難しいやり方なのだが……

「すまない。こんなつもりはなかったんだ」

 涙目で必死に僕に謝る。

「わかってるよ」

 僕はうなずくが重雄はかなり取り乱している。そんな重雄を見ているとなんだかこっちが落ち着いてきた。それにこの傷ならおそらく女神に治してもらえるはずだ。

(女神。俺のいまの傷、いや全身のダメージを治療できるよな?)

 女神は僕を見て、

「うん。まあそれくらいなら」

 とあっさり言う。僕は重雄に

「重雄、お前はもういいから帰れ」

 と強く言った。

「え? でも……」

 重雄が青い顔のまま驚く。

「キョーリューがまだ俺たちを探しているかもしれない。今度見つかったらもうただじゃすまないぞ」

 そう言うと重雄の顔がさらに青くなった。しかし、どうするか迷っている。

「いいから、とにかく逃げろ」

 重雄はしばらくの間歯を食いしばっていたが、

「すまない!」

 と叫んで走って行った。それを確認してから女神に大声で願った。

「おい! 今日の願いだ。いまの俺の体のすべてのダメージを回復、治療してくれ!」 

「その願いを叶えましょう」

 体の痛みが消え去り、右手の傷もなくなった。いや、ほんの少し、1cmに満たない程度の傷跡が残ってはいるが。

「すげえな……」

「お! やっと僕の凄さがわかった?」

 女神の嬉しそうな声が聞こえた。

「わからねえよ!」

 僕は怒鳴った。なんて空気の読めないやつだ。

 しかし、頭部を守れたのはラッキーだった。あの蹴りが頭や顔面に当たっていたら致命傷になっていたかもしれない。それとあのおじさんが来てくれたのもラッキーだった。あの造成地のどこかにいて、激しい騒ぎ声が聞こえたのだろうか?

 とにかく落ち着こう。僕はゆっくりと何度か深呼吸した。それからそっとトイレの外を覗いた。そこではっとした。公園内に点々と血が落ちているのだ。ここに来るまでの道中にも道しるべのように血が落ちているかもしれない。キョーリューはそういうことには目ざとい。僕も早く帰らなければ。

 僕は周囲を確認しながらなんとか人の多い場所まで来た。そこで少し安心し、それでもやはり周囲を警戒しながら駅に着き、電車に乗り、なんとか無事帰宅した。母もまだ寝ている。

 しかし、自分の部屋に入ったところで白い制服のシャツが血だらけになっていると気がついた。いや、ズボンもだ。紺色だからシャツほどには目立たないが……真夏が近い暑さのせいで血がもう乾いてきている。これは普通に洗濯しても取れないか。僕は制服を脱ぐと押入れの中に放り投げた。母に見付ったら面倒だ。明日女神に制服の血を取ってもらうように願おう。

 全身汗まみれであることにも気がついて、シャワーを浴びた。新しいシャツとトランクスに着替えるとどっと疲れが出てきた。ベッドの上に倒れるように横になると、そのまま深い眠りについた。


 目が覚めた時は20時を過ぎていた。僕はゆっくり上半身だけ起こしてしばらくすると、ようやく今日やらかしてしまったことをはっきりと自覚した。

 最悪の結果だ……キョーリューに喧嘩を売るなんて、ハンデがあったとはいえ、その程度で本当に自分の思い通りになると思ったのか? 図に乗っていたんだ。ここ最近、重雄の友達料を代わりに払ったり、林さんの傷跡を消したり、カバ子さんを助けたりして、どこか良い気になって自分という人間を勘違いしていたんだ。

 あれだけのことをしでかして、これからどうすればいい? そう考えるともう深いため息しか出なかった。

 僕は鞄からスマホを取り出した。そういえばまだ電源を入れてなかったな、と電源を入れて画面が表示されると、「うわ!」と思わず大声を出してしまった。キョーリューから大量の着信とラインが届いていたのだ。確認したくもない。

 でもラインの中には重雄からのものもあった。それだけを開いてみる。

『本当に申し訳なかった』

 小さくため息をついた。

 女神に訊く。

「なあ? 重雄に罪はないよな? 減点にならないよな?」

「うん。君に被害を受けたという意識がまったくなければ罪にはならない。だから減点にはならないね」

 唯一ほっとできることだった。

 しかし、これからどうすればいい……

 

 月曜日、僕はいつものトンネルで恐ろしい顔をしたキョーリューに会った。

「てめえ、着信もラインも無視しやがって」

 リューイチは会うなりそう言って僕の腹を殴った。僕は「うっ」とうなって腹を押さえた。さらに髪を掴んできてうつむいていた僕の顔を無理やり持ち上げた。

「もう友達料なんか関係ねえ。ただ単に俺たちに金払え。お前はずっと俺たちに金を払って、いじめられる高校生活を送れ。遺書に俺たちの名前を書いて自殺するなんて卑怯なことするなよコラ」

 やっぱりこうなるよな……

「土下座して謝れ。『うじ虫以下の僕があなたに喧嘩を売ってすみませんでした。二度と逆らいません』ってな。本当なら教室で皆が見ている前でやらせているところだ。でも俺に挑戦した度胸に免じてここで許してやる」

 嘘だ。僕と喧嘩したことが皆に知られたら詳細を訊かれる。そうしたら2分以上僕を倒せなかったということを知られることになるかもしれない。それが嫌なんだ。キョーイチがリューイチほど怒っていないことを見ても、リューイチは屈辱に感じているんだ。

 でも僕には選択肢なんかなかった。素直に土下座すると

「うじ虫以下の僕があなたに喧嘩を売ってすみませんでした。二度と逆らいません」

 と言われた通り謝った。リューイチが僕の頭を踏みつけた。

「重雄の分もしっかり払らってもらうぞ。それと、いま持っている金も払え。とにかく金や金になるものを持っているなら全部よこせ。これから毎日な」

「おそらく重雄はもう学校に来ないぞ。ストレス解消の人間が1人いなくなった。お前が2人分を受け持つことになるぞ。覚悟しておけよ」

 キョーイチがそう言った。しかし、僕が起き上がると

「あれ? お前……あの手の傷はどうしたんだよ?」

 と僕の右手を見て訊いてきた。あ、と自分でも思った。

「かなり出血していたはずだぞ。あれ、相当ザックリやってたはずだ。まだ包帯巻いてるような状態のはずだぞ?」

 しまった。確かにそうだ。ごまかしの為の包帯なんかを巻いておくんだった。林さんの傷痕を自己犠牲で負った時の教訓を生かせなかった。やっぱり僕は馬鹿だ。怖い顔をしていたリューイチまで不可解な顔をしていた。でも僕が黙っていると、リューイチは僕の頭を叩いて

「多目に血が出ただけで大した傷じゃなかったんだろ。こっちとしても大きな傷がないのは都合が良い。俺たちがやったこともバレないからな」

 と言って「さっさと行け!」と僕を蹴飛ばした。

 いじめははっきりと行われるようになった。キョーイチの言った通り重雄は学校に来なくなり、いじめも重雄の分まで受け負うようになった。僕のやったことは完全にただのやぶへびになってしまったのだ。的当てゲームも再開された。久しぶりに窓ガラスが割れた。「あちゃあ……最近やってなかったから腕がなまったか」エイジが悪びれる様子もなくそんなことを言った。図書カードはもちろん取られ、有り金も毎日全部取られたのでまた昼食を食べることができなくなってしまった。

 そして、重雄とはまったく連絡が取れなくなった。スマホは着信拒否、ラインはブロックされた。メールも同じくだ。

 木曜日に担任の先生のところへ行った。重雄は来ないんですか、と訊いた。先生も困ったような顔で「お母さんとは話したんだが、本人とは話せない」とため息を吐いた。「お前、重雄と仲が良かったよな? ひょっとして何か知っているのか?」もちろん知っている。でも他言できるわけがない。

「いえ、知りません。だから学校に来ないことも気になっているんです」

 そんな嘘を言った。嘘はどれくらいの罪でどれくらいの減点になるんだ? いや、そもそも嘘は罪になるのだろうか? どんな嘘かによって違うかな。そんなことを漠然と考えながら僕は土曜の授業が終わると重雄の家に向かった。先生は住所は個人情報ということで教えてくれなかった。だから女神に重雄の住所を教えてくれと願った。

 家に着いて少し驚いた。まだ築5年程度かと思うくらいの真新しい家だった。

 カメラ付きのインターホンを鳴らす。

「はい」

 と、幼い声がした。

「重雄君と同じ高校の同級生で藤崎信矢と言います。重雄君はいますか?」

 インターホンの向こうで少し迷っているような気配がした。

「少しお待ちください」

 幼い声はそう言った。しばらくしてドアが開き、驚いた重雄の顔が出てきた。そして訝しげに僕の周囲をキョロキョロと見渡した。

「大丈夫だよ。俺だけだ」

 僕は苦笑いしながら言った。

「ああ、インターホンのカメラで確認はしたけど……」

 と言いながらしばらく警戒するように重雄は周囲を見回す。ようやく安心したのか「どうぞ。入ってくれ」と招いてくれた。

 お邪魔します、と家の中に入った。

「いま、弟以外はいないから」

 そう言うと、重雄は自分の部屋に入れてくれた。

「さっきインターホンに出たのは弟か」

 僕は重雄の部屋を眺めながら訊いた。やはり真新しい感じだ。

「ああ。まだ10歳だ。俺と違って頭が良い」

 重雄は真顔でそう言った。

「ひょっとして『父親がいないのにどうしてこんなに立派な家に住めているんだ?』とか思っているのか?」

 重雄のその言葉に「ああ」と僕は素直にうなずいた。

「親父は2年前、この家を買ってから3年後に病気で死んだ。でも生命保険金がそれなりに入ってきたんだ」

 なるほど。

「だからと言って余裕があるわけじゃない。だから母さんが必死に働いてくれている……」

 と、そこで重雄は突然僕に向かって土下座をした。

「本当に申し訳なかった」

「止めてくれよ」

 僕は困惑した。

「いや、お前の手を……」

 と言いかけたが、あれ? と僕の右手を見て首を傾げた。やっと気がついたか。そしてやっぱりそういう反応になるか。最初は包帯を巻いて来ようかと思ったのだが、止めた。

「血は出たけど、結局大したことなかったんだよ」

 僕は右手をしっかり見せてそう言った。この方が彼に罪悪感を与えないと思ったのだ。

「ええ? そうか?」

 重雄はますます首を傾げた。

「いまの医学は進んでるしな」

 と言ってなんとかごまかす。重雄は「でもたった1週間で……」と右に左に首を傾げる。

「まあいいじゃないか。とにかく大したことなかったんだから。だからそう気にするな」

 そう言うとまだ納得できないようではあったが、「それならいいけど……」とつぶやいた。

 ここの住所はどうやって知った、と訊かれ、

「先生が教えてくれたんだ。お前と俺は仲が良かったから特別にな」

 とまた嘘を言ってしまった。

「『俺の傷は大丈夫だ』と伝えたかったから来たんだ」

「そうか。わざわざすまない。ラインも着信も全部拒否しててすまなかった」

「だから気にするなって」

 そう僕が笑うと、しばらくの間静かになった。

「キョーリューと、お前の跡をつけていたんだ」

 重雄がいきなり口を開いたので、僕はその意味が少しの間わからなかった。

「そうだったのか。全然気づかなかったな」

 意味を噛み砕いて、飲み込んでから僕はうなずいてそう言った。

「お前がどうなるか不安でな。こっそり跡をついていったんだよ。そして陰からこっそり見ていたんだ」

 僕がカバ子さんとアカの跡をつけた時と同じか。その時は僕も気づかれなかったな。

「あの小刀、実はいつも鞄に忍ばせていたんだ」

「そうなのか?」

「ああ」

 重雄が強くうなずく。

「いつかあいつらをやってやろうと物騒なことを思いながら。でも使えなかった」

 ずっとそんなことを……

「それが、お前がリューイチにボコボコにされているのを陰から見てて、さらにリューイチが、俺たちはクラスのストレスの捌け口だ、とか言った時にもうさすがにぶち切れて、自分でもわけがわからない状態になったんだ。そしてあんなことになった」

 重雄は鼻から深い息を吐いた。

「そうか。まあ気持ちはわかるよ……」

 またしばらく静まり返った。

「あのな、信矢」

「うん?」

「俺、他の学校への転入試験受けようと思っているんだ。それでいま必死に勉強中なんだ。もうあの学校には行けない。行けるわけがない。でも高校中退なんてしたくない。いまの高校よりもっとマシなところへ行こうと思っている。母さんにはもう話したけど、学校にはまだ言ってない」

 そう力強く言ってから、

「転入先の高校でいじめられないという保障はないけどな……」

 と力なく言った。

「でもいまよりはマシになるかな、と」

 僕は何も言えずただうなずいただけだった。

「お前は大丈夫なのか? いじめられているんじゃないのか? あんなことをしたから以前より酷くやられているんじゃないのか?」

 重雄は僕の心配をしてきた。重雄の言う通りだったが、僕は

「心配するな」

 と作り笑いを浮かべてそう言った。勉強に集中してほしかった。だから変な心配をしてほしくない。

「でも凄いじゃないか、そうやって勉強して他の高校へ行こうと挑戦しているんだから。俺は勉強はどうにも苦手でな」

 話題を逸らす為に重雄を褒めた。いや、凄いと思っているのは本当だけど。でも重雄は首を振った。

「何言っているんだ。お前の挑戦の方がよっぽど凄いよ。キョーリューに堂々と喧嘩売るなんて。本当に驚いた。俺にはとてもできたことじゃない」

 と、そこで重雄は僕の身体からだを見て

「なんかお前、筋肉がついたか?」

 と言った。そう言えばそうかもしれないな。

「あいつらに挑戦するために筋トレしたんだけど、なんとなく習慣になってまだ毎日続けているんだ」

 と言うと重雄は感心したように息を吐いた。

「やっぱり俺には真似できないな」

 そこでまたしばらく沈黙になったが、重雄は何やら考え込んでいるようだ。そしてスマホをいじり始めると、

「あのな、信矢。俺が転入試験を受けようと思ったのはもうひとつ理由があるんだ」

 と言ってスマホを僕に見せた。そこには7年前の記事で『小学4年生の10歳の少年が実父を殺人未遂』『日常的に虐待を受けていたか』という見出しがあった。

「その10歳の子供ってのはどうもリューイチのことらしいんだ」

「なに?」

 僕は驚いて顔を上げた。

「少し前にアカが学校を休んだ日があっただろ? あの時、モモミとシオリがこそこそ話しているのをたまたま耳にしたんだけど、アカとリューイチはガキのころ虐待されていたらしいんだ」

「……え?」僕は顔を歪めた。

「しかもな、リューイチは父親を殺そうとしたって。最初はただのくだらないうわさ話だと思っていたんだけど、この休んでいる間にどうにも気になってしまって、検索してみたんだ。そうしたらいくつかそれらしい記事にヒットしたんだ」

「虐待されてた……? リューイチは親を殺そうとした……?」

 僕がそう顔を曇らせていると、重雄はさらにスマホを触って、『10歳の殺人未遂、虐待していた父親に懲役4年の判決』という記事を見せた。

「俺はその頃ニュースなんか観ていなかったけど、当時は大きく扱われたらしいんだ。どうも本当っぽいだろ? それが本当だったらと思うとあいつにいじめられていることがなんかもう色々と怖くなってな……」

 僕はなんと言ったらいいかわからず、ただただ眉間に皺を寄せていた。でもそんなことを言う重雄は転校することにとにかくもう本気なんだ。だったらやっぱり寂しいな……

 女神のことを話してみるか?『その女神を上手く利用すればいじめを無くせるかもしれない。だから一緒に何か良い方法がないか考えてみよう』と。

 女神はこの部屋が珍しいのか、それともただ単に暇なのか、部屋の中をゆっくり飛び回りながらあちこちを見ている。必死に話せばわかってもらえるか?――いや、止めておこう。唯一の友達なんだ。頭がおかしいと思われて距離を置かれたりしたくない。代わりに

「転校しても友達でいてくれ」

 と言った。重雄は

「もちろん」

 と笑顔になった。ただ、それは作り笑顔だとはっきりわかる引きつった笑みだった。


 自室で深夜アニメを観ていたが重雄が言ったことが気になって全く集中できなかった。アカとリューイチが虐待されていた? しかもリューイチは親を殺そうとした? 本当なのか? 僕は腕組みをした。僕も小学生の頃はニュースなんて観ていなかった。でもネットで調べてみたところ、7年前のその記事がぞろぞろ出てきた。当時かなり世間が騒いだんだな。これは本当にリューイチが起こした事件なのか? そこでふとアカが話していたことを思い出した。大昔、戦後や戦前は殺人なんか珍しくもなくて、大したニュースにはならなかった。子供による殺人などもいまよりずっと多かったが珍しいことでもなかった為に大きく報道されなかった。そういうことから考えてみたらリューイチが親を殺そうとしたということがあったとしても特に珍しいことではないのではないか? アカが虐待されていたというのも本当か? そうだ、これらが本当だとすると以前女神が言っていた『酌量の余地』というのは……

 僕はテレビを消した。時間は23時を過ぎたところだ。

「なあ、女神。人の過去を見るとか、そんなことはできないか?」

「そんな特殊能力は身につけられない」

 女神はあっさりと言う。やっぱりそうか。僕はまたない知恵を必死に絞った。

 しばらくして――

「お前のあの検索能力で、お前が見ている人の過去ををそのまま俺に見せてくれる、ということはできるか?」

 と訊ねた。

「ん? 僕が見ているものを君に見せる?」

「そうだ。お前は検索能力で『一瞬にして全てを見られる』と言ったよな。俺が願う人の過去をお前が見てそれをそのまま俺に見せてくれればいいだけだ。これなら俺自身が特殊能力を身につけるわけじゃない。それから以前お前は『酌量等については具体的に教えられない』とか言っていたが、これならお前が教える必要がない。俺がただ見るだけなんだからな。どうだ?」

 女神は「へー」と感心するように腕組みをした。

「だいぶ頭が使えるようになったね。屁理屈が上手くなった。制限にはないし確かに可能だよ。あ、でも『性的に満足させる』ことはできないからね。アニメみたいに女の子の着替えるところとか入浴シーンなんかは見られないよ」

 女神はニヤニヤと笑う。

「はいはい……」

 そんなこと望んでいるもんか。

「それからひとつ言っておくけど、君たち人間が、僕らが見ているものを見ている間は”時間”というものをよ。でもこの世界ではほとんど時間がかからず、一瞬で終わっているけどね。僕たち神には時間という概念がない。というよりは本来はそれが普通なんだけど。時間というのは君たち人間が自分たちの都合で勝手に作り出したものだからね。この世に時間というものはないんだ」

 なるほど、だから時間にルーズになって何十年、何百年とこの世界に現れないなんてことになるわけだな。

 僕はまたしばらく考えた。そうなると、アカやリューイチの過去をそのまま全部見るというのはさすがにキツいな。何か良い方法は――

「見たいところだけをダイジェストみたいな感じで見る、ってことはできるか?」

 女神は少し考えてから

「可能だね」

 とうなずいた。

「ただし、あくまでも君は見るだけ、あと聞こえるだけだよ。僕らはそれ以外のいろんな情報が同時に伝わってくるけどそれは神だからできることだ。そんなことは君たち人間にはできない」

 それなら注意深く集中して見ていないといけないな。

「わかった」

 どう願ったらいいかな? とこれまたしばらく考えた。そして、これならいいかと思う文言が浮かんだ。さらに僕は少し迷ってから、まずアカの過去を見ることにした。いまの時間を確認する。23時31分だ。

「今日の願いだ。アカ、俺のクラスの赤石朱里のをダイジェストでお前が見て、それを俺に見せてくれ」

「その願いを叶えましょう」

 その瞬間、僕の目の前の風景が大きく変わった。



                  2


 自分がどこかの古い木造アパートの一室にいるとわかった。その部屋の真ん中の布団の中で女の子が寝ている。部屋は暗い。襖一枚隔てた隣の部屋からは明りが漏れていて、さらには激しい言い合い、いや怒鳴り合いが聞こえてくる。女の子は布団から四つん這いになって出てきた。アカだ。しっかりと面影がある。何歳くらいだ? 小学1、2年生くらいだろうか?

 ここで気がついたが、いまの僕はどうやらアカが視界で捕らえることができる範囲以上の場所までには行くことができないようだ。そして女神の言った通り、見る、聞く以外の感覚はない。暑さ寒さもわからない。だから怒鳴り合いが聞こえる隣の部屋は見えないし、いまの季節もわからない。アカの布団から見て夏ではないようだ。

 アカは隣の部屋の襖をそっと細く開けた。僕にも隣の部屋の様子が見えた。2人の大人がテーブルを挟んで怒鳴ったり、テーブルを叩いたりしている。1人は女、1人は男だった。女の方は30代半ばくらいでアカの母親だとすぐにわかった。アカによく似ている。男の方は誰だろうか? こちらは20代半ばくらいに見える。その時アカの母親がアカが見ていることに気がついた。「見ているんじゃねえ! 寝てろクソガキ!」恐ろしい顔でアカに向かってそんな乱暴な言葉を発した。あれで実の母親なのか?

 アカはびくりとして襖を閉め、布団を頭からかぶって丸くなった。その気持ちはよくわかる。僕も両親が喧嘩している時は布団を頭からかぶって耳を両手で塞いでいた。

 そんな喧嘩の場面ばかりを何度も見聞きした。しかしある時、アカの母が帰ってくるなり「お父さんとは離婚した」とだけアカに告げた。それに対してアカは特に何の反応も示さなかった。

 その後、アカがアパートのすぐ近くの幼稚園に通っているとわかった。まだ園児だったのか。実年齢より大きく見える。そしてしばらくアカの日常風景ばかりが流れる。特に何事もないようだと最初は思ったが、そこであることに気がついた。アカが家にいる時はほとんどひとりでいるということだ。ご飯はパンやインスタント、レトルトやレンジで暖めて食べるような冷凍食品ばかりだ。母親が食事を作って、さらにアカと一緒に食事をしているということは皆無だった。また、部屋の片付けをしたり、台所の流しにたまった食器類を洗っているのもアカだった。幼稚園にもひとりで行き来していた。いくらすぐ近くに幼稚園があるとはいえ、親がまったく付き添わないとは……

 アカは夜遅くに帰って来る母親に時々気がついたが、いつも酔っ払っていて隣の部屋ですぐに寝た。アカが朝起きて登園する時もまだしっかり寝ていた。

 これはいわゆるネグレクトというやつだ。それは夫婦喧嘩や離婚などに比べれば落ち着いたものだが、アカにとってはきっと『寂しい』という人生に大きな影響を与えている状況なのだと思う。

 幼稚園で親が参加する行事でも「仕事でどうしても行けません」とアカの母が電話で嘘を言っているのをアカはしっかりと見ていた。卒園式や入学式にも母は付き添わなかった。この時も幼稚園や小学校には同じ言い訳をしていた。そしてこの頃になると母親は男を家に連れ込むようになっていた。朝、アカが起きた時にそっと隣の部屋を覗くと母が同じ布団で男と一緒に寝ているという光景を何度も見た。男は常に同じ人ではなく、定期的に変わっていた。しかしそのうち男が来ることはなくなった。

 と、その時場面が変わった。アカが大きくなっている。何年か過ぎたようだ。アカは中学1、2年生くらいに見える。

 ある日アカの母親がある男と一緒にアパートにやってきた。人を外見で判断してはいけないとは言うが、この人は外見で判断してもいい。明らかに”その筋”の人間だ。年齢は50代半ばくらいだろうか? 重量級のプロレスラーのような大男でスキンヘッド、薄茶色のサングラスをしていてそこから見える目つきは鋭い。首や手首には高そうな貴金属がぶら下がっていて、Tシャツから出ている腕や首筋には和彫りの刺青がびっしりと入っている。決定的なのは左手の小指がないということだ。男が木造アパートに入ると部屋が揺れたように思えた。アカは部屋で正座してその人を出迎えた。「今日からこの人がお父さんになるからね」とアカの母は言った。アカは正座のままで呆然と大男を見ている。「返事はどうした!」とアカの母が怒鳴った。アカはびくっとして「よろしくお願いします」と頭を下げた。「この人はヤクザで、殺人で刑務所にも入ったことがあるのよ。逆らうんじゃないよ」それが本当なのか、単にアカを従順にさせる為の嘘の脅しなのかはわからないが、どちらにせよアカを脅すには十分だっただろう。男は挨拶するアカに興味なさそうに立ったまま部屋中を睨み付けるように見回していた。そして、「狭くて古くて汚ねえな。よくこんなところに住んでるな」と首の後ろ辺りを掻きながらアカの母に言った。「うるさいよ」とアカの母は肘で男を突いた。男はようやくアカに目をやると立ったままアカに顔を近づけ「さっきお母さんが言った通り、19歳の時にで人を殺して10年刑務所にいたんだよ」とニタリと下品な笑みを浮かべた。「もっといいところに住ませてやるぜ」ニヤニヤ、だ。アカが怯えているのがわかる。「あかり! 返事は!」とまたアカの母は怒鳴る。アカは「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。「話には聞いていたが10歳にしては大きいな」男はアカを眺めながら言った。10歳なのか。確かに10歳には見えない。「もう生理もしっかりあるよ」アカの母は薄ら笑いを浮かべながらそんなデリカシーのないことを言った。アカは顔を伏せる。この頃のアカは顔にいまの面影はあっても性格はとても大人しく、いまとは別人のようだ。

 その男の言ったことは本当だった。アカが引っ越したのは高級マンションで、以前住んでいたアパートの全室より広いエントランスを見てアカは唖然としていた。マンションの部屋の中に恐る恐る入って、全室を確認した。4LDKの立派な住処だった。アカにはその中の一室を与えられたようだが、そこでもネグレクトと夫婦喧嘩は健在だった。アカは広い家の中でほとんど1人で行動していた。学校でも1人だった。夜中になるとリビングの方から頻繁に怒鳴り合いの夫婦喧嘩の声が聞こえてくる。そしてそれと同じくらい頻繁に義父は女たちを連れ込んでリビングで大騒ぎしていた。さらにいずれもその筋に見える人たちを頻繁に連れて来て騒いでいた。母親は母親で若い男たちを連れ込んで騒ぐ。アカはそんな義父と母親の様子をチラリとではあるが、たびたび見ていた。その顔は何を考えているのかわからない、まったく表情というものがない顔だった。

 場面が変わった。アカがまた大きく成長している。いまとほとんど変わらない。でも髪の毛の色はまだ黒かった。僕が初めてアカを見たとき、つまり高校に入学した時にはアカはもう髪を赤く染めていた。ということはまだ高校生じゃない。

 そしてその日、いつもはアカの部屋に入ってこない義父が無言で部屋に入ってきた。目が据わっている。「なんですか?」アカは義父のそのただならぬ気配を感じ取ったのか、怯えるように訊く。義父は無言でアカの手を掴んで部屋から出すと、やはり無言で廊下を歩いていく。「あの……なんでしょうか?」とアカは訊くがやはり無言だ。そして義父と母の寝室である広い部屋のドアを開けると、アカを担ぎ上げた。「え?」と驚くアカを無視してダブルベッドの上に放り投げるように寝かした。アカの母親もいてビデオカメラを構えてその様子を撮影している。義父はシャツもパンツも脱ぎ、全裸になった。全身に刺青がある。アカは悲鳴を上げた。そんなことはお構いなしに義父はベッドに上がってくる。

「やめて!」

 アカは上半身だけを起こして両手でベッドの上を後ずさったが、義父にしっかりと身体を掴まれる。

「お母さん! 助けて!」

 母の方を向いて叫ぶが母は無言でビデオを撮影している。義父がアカの体の上に跨がる。

「いや! 止めて! お願いします! 止めてください! いやあ!」

 アカは必死に叫んで手で義父を抑えようとするが、大男にとってそれはまったく抵抗になっていなかった。アカのシャツを義父が掴んだところでまた画面が変わった。義父は満足したようにベッドから降りて部屋にある趣味の悪い虎皮のソファに全裸のままどっかりと座り、ガラスのテーブルの上にあるウィスキーをラッパ飲みした。アカの母はそこで撮影を止めてテーブルの上にカメラを置くと義父の隣に座ってタバコに火をつけた。アカは……乱れた服でなんとか自分の体を隠し、放心状態でベッドの上で横たわっている。完全にレイプされた後だ。『性的に満足させる』ような場面はカットされたようだ。カットされて良かったと思った。「あんたがロリコンだったとはね」タバコを吹かしながらアカの母親は笑った。義父は「ロリコン? 馬鹿ヤロ。あれが中2の身体からだに見えるか? 実際、よく女子大生に間違われるだろ。胸なんかお前よりデカいぞ」と怖い顔を向ける。母親は、「それより、これ、本当に高値で売れるんでしょうね?」と、ビデオカメラを指差しながら訊く。「ああ、こういうのが大好きなマニアがいるからな。演技じゃなくて正真正銘のレイプだからな。さっきの『お母さん! 助けて!』なんか良いぞ。マニアは喜ぶ。それより重々言っておくがこれは組を通さず俺が直売するからな。くれぐれも他言するなよ」義父はそう言ってまたウィスキーをラッパ飲みした。母は「わかってるわよ。私はとにかく金になればいいんだから」と不機嫌そうに言う。義父はゆっくりと立ち上がるとテーブルの上にあった錠剤らしきものを持って放心状態のアカの目の前に置いた。「アフターピルだ。妊娠したくなかったら飲め」アカの母親も「あかり、ちゃんと飲めよ!」と怒鳴った。義父は「まあ妊娠しても知り合いの産婦人科医に堕ろしてもらうけどな」と笑った。

 僕は首を激しく振った。こんなことがアカに起こっていたのか? 百歩譲って義父はまだしも、母親は実の親だろ? なんで平気な顔してこんなことができるんだ?

 しかし、その日だけでは終わらなかった。また義父がアカの部屋に入ってきた。アカはその時点で察して「止めて!」と激しく抵抗したが腕を引っ張られて廊下を引きずられるように連れて行かれる。アカの母はその時の様子から既に撮影をしていた。その後は前回と同じだ。そんな場面が何回も続いた……

 場面が変わり、今度は激しい夫婦喧嘩の声が聞こえてくる。夫婦喧嘩自体は珍しくないのだがその日はいつもよりはるかに激しかった。そして「なんだてめえ!」という義父の怒鳴り声と「二度と女と遊べない体にしてやる!」というアカの母の怒鳴り声が聞こえた、と思ったらアカの母の強烈な悲鳴が聞こえてきた。そしてリビングから玄関の方に向けてドカドカと歩いていく音がして玄関のドアが開閉する音がした。アカが恐る恐る部屋から顔を出した。リビングの入り口から玄関に向かって赤い液体がところどころに落ちていた。

「血!」

 アカは叫んだ。そのままリビングの方に走って行くとリビングの真ん中に血まみれの母の姿があった。

「お母さん!」

 アカは慌てて近寄った。母は腹部を押さえてうめき声を上げているが腹部だけでなく全身に傷があり、血が流れている。いわゆる”メッタ刺し”状態だ。母親は苦しそうにうめきながらもアカに向かって何かを言っている。

「え? なに?」

 アカは母の口元に耳を近づけた。すると絶え絶えの息で「あいつの股間を思いきり刺してやったからあいつは遠くには逃げられない。追いかけて殺して来い……」と言っていた。

 もちろんアカにそんなことができるわけがない。アカは慌てて電話の受話器を取って、119を押すと、

「お母さんが! 血まみれになってる! 早く来て!」

 と泣きながら叫んだ。落ち着くように言われたのか、アカはなんとか住所と状況を伝えた。アカの母は救急車の中でいわゆる酸素吸入器なのか、とにかく物々しく感じるマスクを着けられた。だがそんな状態でも付き添いのアカに向かって「あいつを殺せ」と苦しそうにうめいていた。救急隊の人からしゃべらないでと注意される。驚いた。こんな状態でも恨み節を吐けるのか。

 病院の待合室で母が死んだことを知らされるとアカは泣き崩れた。なぜだ? あんなにロクでもない母親だったのに号泣するほど悲しいのか? アカの感情を理解できなかった。

 義父の方はすぐに捕まった。重傷を負っていたので、警察は病院で事情を訊いたらしい。そして警察は当時家にいたアカにも事情を訊いた。その際まず警察の方から義父の供述を話した。殺し合いにまでなった喧嘩の原因は実にどっちもどっちな理由だった。義父は毎日複数の愛人と遊び、その愛人達に金をばら撒いていた。母親はというとこちらも義父とほとんど同じで若い男の愛人が複数いて金を貢いでいた。そのことでまず義父が「俺の金を勝手に使うな!」と怒り、激しい喧嘩になったのだという。そして母親が「二度と女と遊べない体にしてやる!」と包丁を持ち出して義父の股間を刺した。義父は激痛に耐えながらその包丁をすぐに奪い返し、母親をメッタ刺しにした。義父の方はペニスと片方の睾丸をざっくりと切り落とされていたという。切り落とされたモノは元に戻すことは不可能な状態だということだ。気を失いそうになる程の激痛になんとか耐えて病院に行った。義父はそんな経緯を話して「最初に切りつけてきたのは向こうだ。だから正当防衛だ」と入院している病院で警察に対して主張しているという。しかし殺人で服役の過去があり、それ以外にもいろいろな犯罪歴があるような、しかも暴力団の人間の言うことを簡単には信用できない。「いま家を現場検証をしているけど、事件の時に家にいた君は何か知らないかな?」と警察はアカに訊いた。あの男が殺人で服役の過去があるというのは本当だったのか。アカは何も知らないと必死に頭を振った。おそらく関わり合いになりたくないと思ったのだろう。警察もそれに感づいているようで丁寧にではあるが、執拗にアカに事情を訊こうとした。でもアカの反応は同じで警察も諦めたようだ。

 しかし、その後、

「現場検証? もしまだあれが家にあって、警察に見つかって観られたりしたら……絶対にいや!」

 と叫んでいた。”あれ”がなんのことなのか僕にはしばらくわからなかったが、あの動画のことだと気がついた。

「でも……」

 アカはそこで何か困惑したような顔になった。

「見つかった方があいつが重い罪になる? だったらあいつにされたことを警察に言った方がいいの?」

 そんなことをうつろな目で呟いている。

 例の動画はなかったようでアカが警察から新たに何か訊かれるという場面はもうなかった。そして、アカの方も結局警察には何も言わなかったようだ。

 場面が変わる。その後、アカを引き取ったのはアカの母方の祖母のようだった。祖母の家は良く言うと古民家、悪く言うと木造のボロ屋だった。周囲は田畑で家々は離れている。

 この時「ここは……」と僕は思った。おそらく高校の近くだ。似たような景色を見たことがある。アカの家は学校の近くだったのか。

 そしてアカの祖母だが……これまた問題のある人間だった。70代半ばくらいと思われるのだが、アカに最初に言い放ったその言葉はアカに大きな影響を与えるような暴言だった。「まったくなんであんたの面倒を私が見ないといけないの? 全部あの馬鹿娘のせいよ。ガキの頃もっと殴ったり蹴ったりしておけばよかった。あの程度じゃまだまだ甘かったわ」この母にしてこの子あり、とは言うが、この祖母にしてあの母ありだ。場面が変わってもその都度祖母はアカを罵倒し、ネチネチと嫌味を言っている。アカを殴る蹴るなどの暴力行為も多かった。祖母に体力的な余裕があればもっと酷い暴力になっていたのではないかと思う。アカは祖母からは直接的な虐待を受けていたのか……

 場面が変わった。アカの親戚らしい人たちがどこかの座敷のある小料理屋に集まって酒を飲んでいた。どうやらアカの母親の一周忌のようだ。親戚の数はあまり多くない。一周忌と言うより宴会のような状況だった。親戚があんな死に方をしたというのに……

 その場に祖母はいなかった。その代わりなのか、アカが席の隅っこの方でこぢんまりと座っている。「しかし、我が子の一周忌に親が来ないとはな」そんなデリカシーのないことをアカの祖母とほぼ同じくらいの歳に見える男が大声で言って笑っている。それを聞いたやはり同じくらいの歳の男も大声で笑った。アカはただうつむいているだけだった。アカの周囲にはまともな人はいないのだろうか?

 しかしその時、「シズコのやつ、いまで言うところの児童虐待をされていたんだよなあ。で、自分の娘にも虐待していた」「ああ。でも当時は児童虐待なんて考えがなかったからなあ」というやりとりにアカが反応した。

 アカはしばらく迷っているようにオドオドしていたが、意を決したようにその男に

「あの……」

 と話しかけた。「なんだ?」と赤ら顔の男は言った。

「シズコって私のお婆ちゃんですよね? お婆ちゃん、虐待されていたんですか?」

 小さな声でだがアカは真正面から男の顔を見てしっかりとそう訊いた。

 男は「ああ、そりゃあ酷かったぞ」と言い、もう一人の男も「ありゃあ、いまなら大問題になるな。よく殺されなかったもんだ」とうなずいた。

「虐待ってどんな?」

 アカはおずおずと訊く。

「まあ、殴られたり蹴られたり、木に縛り付けられたり、飯を食わせてもらえなかったり。でもそれくらいなら俺たちでも経験はある。ただ、そういうことをされるのは何か悪さをしでかした時だけだ。なのに、シズコは何も悪いことをしてないのに頻繁にそういうことをされていたみたいだな」男は酔っているからか饒舌に話す。「他にもそれ以上の酷い事を頻繁にやられていたみたいだ」「ガキの頃、俺がいたずらで『おいこらシズガキ!』って言ったら『ひい!』って叫んでその場にしゃがみこんで震えていた。親にそう言われて虐待されていたんだ。いわゆるトラウマというやつか?」と笑うが何がそんなにおかしいんだ?

「それからな、”お灸をすえる”って言葉を聞いたことがないか? 俺たちがガキの頃は悪い事をしたら文字通り背中にお灸をすえられていたんだ」「あれ熱いんだよな」「ああ。ガキの頃、背中がお灸の痕だらけってやつも多くてな、皆でお灸の痕の数を数えたりしていたよな」「ああ。でもな、シズコの背中にはお灸の痕じゃなくて……」 

 それを聞いてアカは眉間に皺を寄せていた。しかし、祖母を哀れんでいるという感じには見えなかった。

 場面が変わった。アカがテレビを観ている。そのテレビはアカのあの義父が一審の裁判員裁判で無期懲役になったと伝えていた。

「無期懲役?」

 アカは顔をしかめた。そして自室に入ると無期懲役についてパソコンで検索して調べ始めた。僕もアカと一緒にパソコン画面を見た。アカはいくつかのサイトを見たが、無期懲役についてどのサイトでも共通して書かれていることをまとめてみるとだいたい以下のようなことになる。

『現在の日本の無期懲役は事実上は仮釈放のない絶対的終身刑化している。法律上では無期懲役は犯行当時に20歳以上の犯罪者は10年、20歳未満の犯罪者では7年で仮出所できるとあるが、実際は20歳以上・未満に関わらず、模範囚であっても刑務所に収容されてから30年以上が経過しなければ仮釈放審理が行われることはなく、仮釈放の許可率も非常に低い。この審理で仮釈放の許可が得られなかった場合、次の仮釈放審理を行うことができるのは10年近くが経過してからである。その為、無期懲役受刑者は刑務所内で死亡することが多い。また、仮出所できたとしても一生涯保護観察下に置かれて自由を制限されることになる』

 そんな情報を得てもアカは納得できていないようだった。アカの義父だった男の弁護側は即刻控訴すると先ほどのテレビでは伝えていた。検察側も控訴する方向だという。

 さらにアカは『裁判員判決の控訴審での”破棄率”は1割超程度である』という情報も得た。9割近くは一審の裁判員判決が確定しているということか。義父の無期懲役判決もそのまま確定する可能性が高いということだ。

 何かブツブツというアカの声が聞こえる。

「なんで? 裁判員の人たちはどうしてあいつを死刑にしてくれなかったの? 検察は死刑を求刑してたし、過去に殺人で服役したこともあるヤクザなのに。何をどうやったらあいつの死刑を回避しようと思えるの? あいつは正当防衛を主張した……裁判員の人たちはあいつの言うこと認めたの?」

 アカの不満はどうやら裁判員に向けられているようだ。

「私があいつにやられていたことを私がちゃんと話していれば死刑になってた?」

 自分を責めているのか?

 そしてアカはさらに刑罰についての検索を続けた。それは日本だけではなく、海外にまで広がった。

『欧州では終身刑と名乗る刑はあるものの、これは日本の無期懲役と同じものである。終身刑と無期懲役は呼び方が異なるだけであり、その呼び名から異なる刑罰であると誤解されていることが多い。欧州人権裁判所は2013年に「仮釈放のない終身刑は非人道的な刑である」として仮釈放のない絶対的終身刑は欧州人権条約違反と認定。欧州評議会加盟国で絶対的終身刑が最後まで残っていた英国も絶対的終身刑を廃止することになった。現在、先進国では絶対的終身刑のある国は少なく、あったとしても恩赦か減刑の可能性がある。特に北欧の刑期は短く、また刑務所内も自由で環境もホテル並み。2011年にノルウェーで爆破・銃乱射事件を起こし、77人を殺害した犯人の刑期は禁錮最低10年、最長21年でこれはノルウェーの最高刑である。この犯人は刑務所内で3部屋も与えられ、テレビやゲーム機もあるという環境であるにも関わらず「待遇改善」を裁判で訴え、その訴えの一部は認められた。比較的治安の悪い国であっても意外に最高刑が軽い国もあり、エクアドルの最高刑は16年、ブラジルなど非常に治安が悪い国でも禁固30年が最高刑である。日本の刑務所は他の先進国の刑務所と比較して厳しすぎるとの批判が人権団体から絶えない。また、先進国で死刑制度があって、実際に執行されているのは日本と中国とアメリカの一部の州だけであり、これも人権団体から長年批判にさらされている」

 そんな類の情報が次々とパソコン画面からアカの目に飛び込んで行く。

「なんなのこれ……」

 アカがやはり呆然と呟く。

「何? 仮釈放のない終身刑や死刑が非人道的な刑って? どうして死刑や仮釈放のない終身刑のある国が少ないの? なんでそんな連中に恩赦や減刑が与えられるの? 世界にはホテルみたいな刑務所があるの? どうして70人以上殺した凶悪犯のわがままを聞くの? どうしてそんなに治安が悪い国でこの程度で出所できるの? なんなの人権団体って? 凶悪犯の人権のことしか考えていないの? 被害者とかその遺族の気持ちとか考えていないの? アホなのこいつら?」

 そんな抑揚のない呟きが続く。そして突然、机に突っ伏して後頭部を抱えると髪を両手で激しくかき回し始めた。が、その手が止まり、体の全体の動きも止まり、しばらくそのまま微動だにしなかったが、やがてゆっくりと顔を起こした。

「そっか。そういうことか」

 突然、アカの独り言が大きく、そして淡白になった。

「世の中助けてくれる人なんていないんだ」

 据わった目で、棒読み口調できっぱりとそう言った。

「悪くなった人間の勝ちなんだ。悪者の方が幸せになれるんだ。正しく生きることなんて意味がないんだ」

 そう言うアカの目元口元は不気味に笑んでいた。さらにアカは世の中の様々な犯罪について調べ始めた。薄暗い部屋でパソコンの光を顔に浴びてニタニタと笑んでいるアカは本当に不気味だった。彼女が調べているサイトの内容がどんなものなのか、僕はもうそんなことはどうでもよくなってアカの不気味な顔だけをじっと眺めていた。しかし、過去の犯罪の知識はこの時に学んだんだな。

 また場面が変わった。アカは美容院で髪を赤く染めた。その後ホームセンターのアウトドアグッズ売り場でスチール製のBBQ用の串と、やはりBBQ用のターボライターを購入した。家に帰ると鍋つかみふたつを二重に重ねて右手に着けて串を持ち、左手にターボライターを持った。しばらくして祖母が帰ってきた。アカは背中に串とライターを隠す。祖母はアカを見て、「なんだその髪は」と顔を曇らせた。「そんなみっともない……」と言いながらアカに近づき、アカの顔を叩こうと手を振り上げた。が、その時アカが

「おい、こらシズガキ!」

 と叫ぶような大声で怒鳴り、どん、と床を蹴飛ばすように強く踏んだ。祖母の顔がこわばった。「なによ……」と言う声も明らかに動揺している。

「うるせえよ! おい、こらシズガキ!」

 そう言ってアカはニタリと笑うと背中に隠していた串とライターを見せた。祖母は「ひい!」とその場に尻餅をついた。さらにアカが串をライターで炙り始めると大きな悲鳴を上げ、ガタガタと震え始めた。そのまま震えながら床に這いつくばって逃げようとするが、

「おっと」

 と言ってアカは祖母の腰の上にまたがった。「止めて! あんた、こんなことしてどうなるかわかってるの?」という叫び声に

「わかってるわよ。でも私がどうなろうとあんたをいたぶるほうが楽しいわ」

 と笑いを含みながら言う。

「もし私が捕まったりしても、戻って来たらもっとあんたをいたぶってやるからね!」

 そう言って祖母の上着をずり上げ、背中を丸出しにした。

「あんたの子供の頃は、お灸をすえられることが多かったんだって? お灸の痕が沢山ある子も多かったとか。でも、あんたの背中にあった痕はお灸の痕じゃなくて……」

 とたっぷり熱した串を背中に押し付けた。「ぎゃあ!」という祖母の悲鳴が響く。

「”焼き鉄串”の痕だったんだってね! いや、それだけじゃなくて」

 とアカは串を背中に突き刺した。祖母が声にならない悲鳴を上げる。

「串で突き刺された痕も沢山あったんだってね!」

 アカはまた串を炙り始めた。

「おい、こらシズガキ!」

 アカがそう叫ぶと、突然祖母が「お願いしますお父様! お許しを! シズコはもう口答えなんかしません!」と両手を合わせて涙を流しながら大きく震え始めた。アカはまたニタリと笑んだ。

「うるせえ!」

 アカはそう怒鳴ってまた熱した串を背中に当てた。「ひい!」祖母が背中を反らして悲鳴を上げる。さらに串で刺すと「どうか許して下さい! ご慈悲を!」とわめく。

「いいトラウマだな」

 アカは小声でそう言って笑い、しばらく同じことを繰り返した。が、

「あ、お前失禁しやがったな。きたねえな!」

 そう言ってアカは腰を上げてその場から離れた。確かに祖母の下半身から液体が広がっている。アカは祖母の顔の前にしゃがみ込むと、これ見よがしに串を見せ付けた。祖母はそれを見て震えながら手を合わせ、「お願いします。お願いします」と必死に唱えてる。

「これからは私の言う事を聞け。じゃないとまた同じことの繰り返しだ。誰かに言ったりしたら、どうなるかわかってるわね! おい、こらシズガキ!」

 祖母は「わかった。わかったよ……お願いだからそれだけはやめてくれ……」と泣きながら手を合わせて懇願した。アカは”いかにもおかしい”という顔をして笑う。

「やっぱりそうだ! 被害者になるより加害者になった方が得よね!」

 主従が逆転したその時、場面が変わった。高校の中でうちのクラスだ。僕の姿も見える。キョーリューの2人から「この学校の主導権を握ってみないか?」と提案され、その計画の詳細を聞いた。

 アカは

「そんなに簡単に上手くいく?」

 と懐疑的だったが、キョーリューの2人に「ものは試しだ」と言われて、

「まあ、それならやるだけやってみようか」

 と、僕ら以外のクラスメイト全てに協力を呼びかけた。後のことは僕も知っている。場面が変わる。山木先生をいじめ、挑発する。そしてまた場面が変わり、

「こんなに思い通りになるとは思わなかったわ!」

 とアカはビールかけをした。

 そしてまた場面が変わり、どこで知り合ったのかはわからないがタチの悪い仲間に頼んでカバ子をやろうとした。が、僕のせいでその計画が潰れ、カバ子を恐れて学校をサボった。ついこの間の出来事だ。彼女にとっては特別に嫌な出来事だったんだな。


 そこで僕は目が覚めた。はあはあと肩で息をしていた。全身汗まみれになっている。時間を確認するとまだ23時31分だった。ずいぶん長い時間に感じたが、こちらでは本当に一瞬のことだったんだ。

「どうだった? アカっていろいろあったんだねえ」

 女神はいつものようにのんきな様子でそう言っている。

 僕は落ち着くために風呂に入った。

 なんだ、あれは? あんな残酷で悲惨な過去がアカにはあったのか。そしてあの”虐待の連鎖”はなんだ? アカの祖母は親から虐待されていて、アカの祖母はアカの母親を虐待して、アカの母親はアカを虐待した。そして、アカは祖母を虐待していた。なんなんだこれは? いや、虐待は連鎖するとか聞いたことがある。どうしてそうなる? 自分が虐待されたのならその辛さ、苦しさを知っているはず。なのになぜわが子に虐待をするんだ? 考えがまとまらないまま僕は風呂を出た。何も考えられず、しばらくの間、部屋でアニメも観ずにベッドに横たわっていた。

 時間は0時を過ぎた。もう新しい願い事ができる。リューイチの過去を見るつもりだったが、虐待されていたというのが本当ならアカと同等かそれ以上の残酷な過去かもしれない。そんなものを見るのか?

 いや、アニメばかりではなく、厳しい現実を見るべきか? もちろん、アニメや漫画にもシビアな現実を描いた作品は沢山あるが、それらはほとんどはフィクションだ。それに僕はリアルにシビアな現実を描いた漫画は読まないし、そういう漫画はあまりアニメ化されない。仮にアニメ化されたとしても僕は観ないだろう。ほとんどのアニメを観る僕でも観ないものもある。人間ならどうしても選り好みというものがあるのは仕方のないことだろう。しかし……

 相変わらずのんきにふわふわ浮いている女神を見ながら僕はしばらく悩んだ。が、

「ええい!」

 と首を振った。

「女神、今日の願いだ。俺のクラスの行田竜一の人生に大きな影響を与えた特別な出来事をダイジェストでお前が見て、それを俺に見せてくれ」

 こうなったらもう勢いで見てやる。

「その願いを叶えましょう」

 

 場所はちょうど僕が住んでいるような公営アパートのようだった。部屋の真ん中に正座している男の子がいる。リューイチだ。5、6歳くらいだろうか? うなだれて正座した膝の上に両手を乗せている。その目の前には30歳くらいの男がいた。あぐらをかいて酒を飲んでいる。リューイチの父親だと一目でわかった。そっくりだ。身体からだも大きい。

 その父親が突然、平手でリューイチの頭を叩いた。リューイチは無言でうなだれたままだ。父親はテレビを見ながら酒を飲み、時々リューイチの頭を叩いた。リューイチが何かをやらかしたという雰囲気ではない。まるで酒の肴という感じでリューイチの頭を叩いている。どうやらいきなり虐待の場面のようだ……

 虐待は次第にエスカレートしていき、同時に狡猾になっていった。隣近所に聞こえるような叫び声を出せないようにリューイチの口にがっちりとダクトテープを貼り付け、殴ったり蹴ったりするのはほとんどが背中や腹部、二の腕のTシャツの袖口あたりくらいまでだ。傷が服で隠れて見た目では虐待の痕が見えないようにしているわけだ。

 場面が変わった。幼稚園の制服を着ている。どうやらこの日が初めての登園らしい。ということはいま3歳ということか。あの虐待は3歳未満から行われていたのか。アカと同じでリューイチも実年齢よりもかなり大きく見える。そしてこの時リューイチの母親が「念の為にもう一度言っておきます。プールなどは入れないです。うちの子、生まれつき耳に持病があって耳の中に水が入ると大変なことになるんです。家でもお風呂に入るときは十分に気をつけているくらいですから……」と、もっともらしく言っていたがこれは嘘だとすぐにわかった。リューイチが3歳児とは思えないような、憎悪に満ちた恐ろしい顔で母親を睨んでいたからだ。プール以外にも上半身裸になるようなイベントがあるときは幼稚園を休ませた。虐待の痕跡を見せないためだろう。母親がリューイチを虐待しているというところは見てない。父親がリューイチを虐待している時には母親はその場にいないか、リューイチに背を向けていた。しかし、リューイチを助けず、こんな嘘を言っているということは間接的にだが虐待に関与しているということだ。

 虐待はさらにエスカレートした。何も悪いことをしていないリューイチを殴る蹴るはもう当たり前、服を脱がせ、寝かせて馬乗りになるとカミソリで胸や腹部、背中などに傷をつける。その際、「どこまでならバレないかな?」などと笑いながら二の腕の、シャツからギリギリ腕が出るかという辺りや、首元などに傷を付けた。さらには……僕は思わず目を瞑った。リューイチの体に火のついたターボライターを押し付けたのだ。

「ぐう!」

 とリューイチが悲鳴を上げるが、口にダクトテープを貼られている為、大きな声にはならない。他にも両手を後ろ手に縛られて逆さまにされて何度も繰り返し頭から風呂に入れられる。雪がチラつく夜に全裸にされて両手足を縛られて、やはり口にダクトテープを貼られた状態でベランダに何時間も放置される。オレンジ色のスプレーを吹きかけられて悶絶している時は何をされているのか最初はわからなかったがしばらくして催涙スプレーをかけられているのだとわかった。そんな虐待が頻繁に行われていた。それらの虐待でリューイチが気を失うこともあった。そんな時はヤカンに入れた水を顔にかけられて、ゲホゲホとむせ返りながらリューイチは意識を回復した。

 暴言も酷かった。「誰が生まれて来いって言った? 俺の精子なら卵子くらいひらりと避けてみろ!」とパンパンとリューイチの頭を叩いて言う。リューイチは正座して

「すみません。すみまんせん」

 と幼い声でしきりに謝っていたが、この頃のリューイチにはおそらく父親の暴言の意味はわからなかっただろう。しかしこうやってダイジェストに出てくるということは意味はわからずともショッキングな記憶として残っているということだ。

 小学生になっても当たり前のように虐待は続いた。プールの授業は幼稚園の時と同じ言い訳でやらなかった。体育の授業でも周囲に気を使いながら素早く着替えた。時には「なんだこれ?」と同級生に傷痕や火傷の痕を指摘されたが、その都度

「うるせー!」

 とリューイチは怒鳴った。父親の「誰にも言うんじゃないぞ。バレるんじゃないぞ。お前を殺しでもしない限り、刑務所に入ってもすぐ出てこられる。出てきて戻って来たら、お前、どうなるかわかるな?」という脅しが効いているのだろう。本当にすぐに出てこられて、リューイチの元に戻って来られるのかはわからないが、幼いリューイチには十分な脅しになったのだろう、リューイチは

「はい、わかっています」

 と深くうなずいていた。そんなリューイチに友達はいなかった。

 場面が変わった。リューイチはずいぶん大きくなっていて中学生くらいに見えるが、アカと同じように見た目より幼いのが彼の特徴だ。まだ小学生だろう。そんな彼が何やら台所の隅にしゃがみこんでいた。台所は玄関から入って廊下のすぐ左側にある。廊下から見て陰となるところにリューイチは潜むかのようにしゃがんでいた。そしてその手には包丁が握られている。「あっ!」と思った。『小学4年生の10歳の少年が実父を殺人未遂』。だ。このことだ。リューイチの様子を見てもただならぬ緊張感を感じる。ふうふうと息を吐き、両手で包丁を強く握っている。そして両親はいまいない。いたらこんなことをやろうなどとは思わないはずだ。玄関のドアが開く音がして両親が帰ってきた。先に母親が入るということはない。何度か見たのだがいつも母親がドアを開けて父親が一番先に入る。間違ってリューイチが先に中に入ろうとした時、髪の毛を掴まれて腹を何回も殴られていた。

 父親の体が現れたその時、リューイチは体から父親に激突した。「ぐあ!」という父親の大声が響く。包丁は父親の左足の太もも横に突き刺さった。リューイチは包丁をドアノブでも回すかのようにぐるりと回して太ももをえぐった。父親がさらに悲鳴を上げて包丁が太ももに刺さったままその場に崩れ落ちる。それを見た母親もかん高い悲鳴を上げ、開いているドアに背中からもたれ掛かり、そのまま外に尻もちをついて倒れた。リューイチは足に刺さっている包丁を抜き取り、右手で大きく包丁を振りかぶる。倒れている父親を刺そうとしたのだろう。しかし、振りかぶったその時、右手から包丁がすっぽ抜けて台所の奥へ飛んでいった。リューイチが手を見ると血まみれだった。血で滑ったのだ。父親の太ももからは大量の血が流れ出ている。「てめえ! このガキ!」父親は左足を押さえながら声をあげる。リューイチは父親が押さえている箇所を蹴飛ばした。父親が悲鳴を上げる。リューイチは父親を踏んで玄関へと向かい、へたれ込んでいる母親の脇を抜けてはだしのまま外へ走り出た。

 セミが大量に鳴いていて太陽がギラついている。真夏だ。リューイチはひたすらに走る。どこに向かっているのか? おそらく本人もわかってないのだろう。ずい分走ってから人気のない古い公園に辿りつくとベンチに座った。ぜえぜえと肩で息をしている。リューイチはそのままベンチに横になった。目はぼんやりと開いていたがそのうち静かに瞼が閉じるとしばらくして寝息を立て始めた。

 日が傾き始めた頃、2人の警察官が寝ているリューイチに近寄り1人がリューイチの肩を叩いた。リューイチが目を覚ます。「瀬多せた竜一くんか?」と警察官は訊いた。リューイチはぼんやりとした目でうなずく。1人の警察官が無線機に「男児を保護」と抑揚のない声で言った。場面が変わり、どうやら警察署の中のようだ。2人の男性警察官がぼんやりとしているリューイチに付き、1人の警察官が「どうしてお父さんにあんなことをしたのかな?」と険しい顔で穏やかに訊いてきた。リューイチは無言で無表情のままでTシャツをめくって胸と腹を見せた。2人の警察官は大きく息を呑んだ。「虐待か……」1人の警察官はどこかに慌てた様子で走って行った。もう1人の警察官は顔をしかめ、口を固く結んで鼻から深い息を吐いた。

 場面が変わる。「児童総合相談センター」と掲げられた建物の中にリューイチが無表情な顔で入っていく。いわゆる児相か。

 さらに場面が変わった。どこだろうか? ベッドの上でリューイチは横になっている。トイレ、食事、風呂以外で動くことはほとんどなかった。どうやら児童養護施設のようだ。自立支援施設ではなく養護施設に入ったのか。施設の人がリューイチに頻繁に話しかけるのだが、リューイチはほとんど無言だった。養護施設ではいろいろなイベントや活動、役割などがあるみたいなのだが、リューイチはそれらにまったく参加していない。学校だけは行ったが行くだけで特に勉強をしているということもなく、ぼんやりと席に座っているだけだった。しかし、問題を起こすこともまったくなかった。こうした場面が出てくるのはネグレクトの時のアカと同じ心境だからかもしれない。何度かカウンセラーのような人がリューイチに接したがリューイチが口を開くことはほとんどなかった。

 場面が変わった。リューイチは大きく成長していた。見た目には中学3年生くらいに見えるが……

 施設の責任者の人と客間のようなところで話している。「竜一君のお母さんが君を引き取りたいと言ってきた」リューイチの顔が一瞬にして険しくなった。「お母さんは直接的には虐待していなかった。だから裁判判決では執行猶予がつけられた。このことは知っているね? その執行猶予が明けてさらに1年が経過した。私たちが色々と調べたが、あのお母さんが竜一君を虐待するということはないと判断した。と言っても本当に虐待をしていないか定期的に調べるし、竜一君も何かあればすぐ連絡してくれればいいし、警察なんかに行ってもいい。そのような条件で竜一君を引き渡すことを良しとした。もちろん、竜一君がいいならだ。君が嫌なら断ってもいい。もう中学生になったんだ。それくらいの判断はできるよね?」リューイチの顔つきは変わらない。

 場面が変わる。同じ場所だが、そこに女性が入ってきた。リューイチの母親だ。リューイチを見るなり「ごめんね!」と叫んで泣きながら抱きついてきた。「お母さん、あなたが虐待されていたのに何もしてやれなくてごめんね! もう絶対あなたを傷つけたりしないから償いをさせて!」そう強くリューイチを抱きしめたまま泣き叫んだ。この母親は確かに虐待をしてなかったな。少なくとも積極的にはしてなかった。でも、間接的には関わっていた。その為、感動的な親子の再会、ということにはならなかった。抱きしめられているリューイチの顔は泣きつく母を許しているそれではない。その逆で母親が嘘を言っていたあの園児の時と同じような憎悪に満ち溢れている顔だった。しかし場面が変わるとリューイチは母親と一緒に暮らしていた。

 さらに場面が変わる。学校の教室だった。窓から桜が見える。「また同じクラスになれたね」「来年も一緒のクラスになれたらいいのに」そんな会話が聞こえる。中学2年生か。リューイチは1人でぼんやりと席に座っていた。体はさらに大きくなっていて、本来なら目立つはずなのに存在感がなかった。

 先生が教室に入ってくると転校生を紹介したのだが、はっとした。キョーイチだった。リューイチと同じくらい大きい。リューイチはちらりとキョーイチを見たが、特に興味なさそうに目線を逸らした。

 また場面が変わった。体育館裏のようだ。リューイチはしゃがみ込んでタバコを吹かしていた。まだ加熱式タバコではなく直接吸っている。日はまだ高い。放課後ではない。授業をサボって来ているのか、昼休みなのか。

 そこにキョーイチがやってきた。

「よう」

 と、小さな笑顔でリューイチに挨拶したが、リューイチは横目で睨んでいるだけだ。

「やっぱりタバコ吸うんだな」

 キョーイチが小さな笑顔のまま言う。

「俺と違うタバコの臭いがお前からしたからな。俺、鼻はいいんだ」

 そう言いながらリューイチに近づく。

「隣で吸っていいか?」

 ポケットからタバコを取り出してキョーイチは言う。

「勝手にしろ」

 リューイチは吐き捨てるようにそう言った。キョーイチはリューイチの隣にしゃがみ込んでタバコを口にくわえた。そしてターボライターを取り出した。それを見たリューイチの顔が激しくこわばる。

「なんだよ?」

 その顔に気が付き、キョーイチが訊く。

「なんでもねえよ!」

 リューイチは大声で顔を逸らす。

「ターボライターはいいぞ。火力が強くて、風に邪魔されなくて、いざというときは強力な武器になる。違法物でもないしな」

「そんなことはわかっている!」

 リューイチは怒鳴った。

「なんだよ。どうした?」

 キョーイチは特に動じることもなく不思議そうな顔で訊く。

 リューイチはしばらく黙っていたが、ぽつぽつと自分が虐待されていたことを語り始めた。僕が見た限りではいままで誰かに虐待の話をしたことはなかったはずだ。なぜキョーイチには話すのだろうか? 一度話し始めたら止まらなくなったのか、詳細に語り始めた。

 キョーイチは特に驚くこともなく聞いている。ただ、父親を包丁で刺したというくだりでは目を丸くしていた。リューイチがすべて話し終わったあと、

「同類がいたのか……」

 とキョーイチはつぶやいた。

「あ?」

 とリューイチが眉間に皺を寄せる。

 キョーイチは制服の上着を脱いでシャツをめくりあげた。リューイチは唖然とした。僕も驚いた。キョーイチの胸や腹に、リューイチと同じような傷痕や火傷の痕があったのだ。

「俺も親父から虐待されていたんだ。お前と同じような虐待のされ方で驚いたぞ。違うのは俺の親父は義父だったということだけど」

 僕はここでようやく気が付いた。2人のあの首元や袖口から見える”喧嘩傷”は虐待の痕だったのだ。喧嘩によるものもあるかもしれないが、喧嘩だけの傷なら顔や半袖から出ている腕などに傷痕がないのは不自然じゃないか。どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。

「しかしそんなガキの頃に親を殺そうとするなんてスゲエじゃねえか」

 そう言うキョーイチの顔は本気で感心している。

「緊張していたせいで手元が狂って足を刺してしまった。腹を刺すつもりだったのに」

 そう言うリューイチの目は遠くを見ている。

「俺の親父は自分で死んでくれたから助かった。2年前に自殺してくれたんだ。よく知らないがヤバい連中と関係があったみたいで、かなり追い詰められていたらしい。その腹いせに俺やおふくろを虐待していたのかもな」

「母親もか?」

「ああ、いわゆるDVだよ」

 リューイチは「ちっ」と舌打ちをした。

「俺の母親ババアはDVはほとんどされてなかったけどな。俺を助けようとはしてくれなかった。どうして誰かに助けを求めようとしないんだろうな」

 憎々しくリューイチは言う。

「”バタードウーマン症候群”というのがある。DVする男に依存してしまうんだ。挙句の果てには『この人が暴力を振るうのは自分のせいだ』とか思ったりもするとか。要するに、洗脳状態なんだよ。お前のおふくろがお前を引き取ろうと思ったのはその洗脳が解けたからだろうな」

 キョーイチがそう説明するが、リューイチは納得のできないような顔で正面を見ている。

 しばらく沈黙となったが、

「なあ? 俺と喧嘩売りにいかないか?」

 とキョーイチが藪から棒なことを言った。

「喧嘩?」

 リューイチが小ばかにしたような笑みを浮かべてキョーイチを見る。

「ああ。俺はよく喧嘩しているけど、ひとりじゃキツい時がある。だから2人がいい。夜の街を歩いていれば喧嘩を買ってくれそうな連中は必ずいる。勝つとスカッとするぞ。もやもやした気持ちが吹き飛ぶ」

 リューイチは無言でキョーイチを見ている。

「俺もお前も体がデカい。それだけで十分武器になるが、筋トレで体を鍛えてパワーをつけろ。握力もしっかり鍛えろ。喧嘩に必要な力なのに意外に見過ごされがちだ。首ブリッジで首もしっかり鍛えるんだ。体がデカくてパワーがあればそれだけでたいていのやつらには勝てる。喧嘩のやり方や、逆にやられそうになった時の逃げ方も俺が教えてやるよ」

 リューイチは無言だが考えているように見える。

「そしてターボライターを持て。さっき言ったようにこいつは有効な武器になる。ナイフだとかバットだとかだとやりすぎることにもなる。そうなったら逆にこちらがいろいろな意味で痛い目に合う。でもターボライターは強力だがやりすぎになることはまずない。いまはトラウマかもしれないが、役立つとわかれば逆に愛おしくなるぜ」

 リューイチはぼんやりと聞いていた。

 散った桜の花びらが風で舞っていた。

 その日からリューイチは筋トレを始めた。驚いたのはその回数だ。いきなり腕立て、背筋、スクワットを100回。腹筋は150回だ。「腹筋は徹底的に鍛えろ。これは基本だ」というキョーイチの教えを忠実に守っている。首ブリッジもしっかりやっているし、ハンドグリップを購入して暇があれば握っている。その結果あっという間に筋肉が盛り上がっていった。筋トレ回数もあっという間に増えて腕立て、背筋、スクワットを500回。腹筋は700回。これを毎日2セット。僕もいま毎日筋トレをやっているがこんな短期間でこんなに回数が増やせるとはとても思えない。そして2人でスパーリングのようなことも頻繁にやっていた。2人とも熱が入って本当の喧嘩に発展することも多かったが、逆にそれが2人を鍛えることになっているのではと思う。

「そろそろいいだろ。実戦デビューだ」

 そうキョーイチが言ったのはセミの鳴く8月の終わり頃だった。2人で夜の街をうろつく。しばらく歩いていたが、

「あいつらがいいかな」

 とコンビニの前で座ってたむろしていたタチの悪そうな3人を見てキョーイチが言った。

「おいそこのブサイクたち。邪魔だ。どけ」

 実に軽い口調でキョーイチはそう言った。これにはリューイチも呆気に取られている。3人は「なんだとてめえ!」と立ち上がってキョーリューに向かって行ったが、3人ともあっけないほど簡単にやられた。全員地面に転がってうめいている。

「こんなにあっけないとは……」

 リューイチも気が抜けたようだ。

「こいつらが弱いってのもあるけど、体がデカくてパワーがあればこんなもんだよ。それより誰かに通報される前に逃げるぞ」

 その日からは筋トレ、スパーリング、そして喧嘩の毎日だった。喧嘩はほとんど勝った。やられそうになることもあったがその時は逃げた。逃げ足も速かった。そのうちリューイチもターボライターを持ち歩くようになった。そして筋トレもスパーリングも喧嘩もリューイチにとっては特別なことではなくなったのか、僕が見ているものに出てこなくなった。

 場面が変わったが、やはり多くのセミが鳴いている。2人ともとんでもなく大きくなっていた。いまとほとんど変わらない。身体からだ中の筋肉が盛り上がっていて2人並んで歩いていると人が避けていく。2人とも茶髪になっていたがまだ金髪ピアス姿ではないしスキンヘッドでもない。高校に入学した時はリューイチは金髪のピアスで、キョーイチはスキンヘッドの眉なしで、僕は「絶対に関わらないようにしよう」と思ったのを覚えているのでまだ高校生じゃない。どうやら1年程が経過したようだ。

 2人は私服でやる気なさそうにだらだらと歩いている。「暑いな」とキョーイチが顔をしかめたときだった。突然、リューイチの動きが止まってある方向を凝視して鬼の形相になった。

「どうした?」

 キョーイチが訊く。

「あの野郎……」

 とリューイチが睨みつけているのはキョーリューのいる歩道の片側一車線道路を挟んだ反対側の歩道を杖をつきながら歩いている男だ。

「あれがどうした?」

 キョーイチが訊くと、

「俺のオヤジだ。いや、クソ野郎だ」

「え? マジか? 人違いじゃないのか?」

 キョーイチは驚く。

「俺が刺した左足を引きずっているし、顔も少しが間違いない。もう出所していたのか」

 そう言って、リューイチは跡を追い始めた。キョーイチは

「おいおい……」

 と言いながらもリューイチの後ろに続く。しかし跡をつけられている男はまったく気がつかない。僕がカバ子さんとアカの後をつけた時も気づかれなかったし重雄が僕とキョーリューの跡をつけたときも気がつかなかった。人は尾行されていても気がつかないものなのだろうか?

 男は裏側に線路が通っている木造のボロアパートに入っていった。2階建てで6部屋あるが、男が入ったのは1階の道路側の部屋だ。リューイチがそっとその部屋に近づき、白いプレートの表札にカタカナで「セタ」と書かれているのを見て

「もう間違いない」

 と、小さく呟いた次の瞬間、リューイチの顔が恐ろしい怒気に満ちた顔に変わり、拳を固めて大きく振りかぶった。ドアを叩こうとしている。キョーイチはそれに目を見開き、咄嗟にその拳を左手で掴むと「待て」と小声で言ってそれとほとんど同時にリューイチの口を右手で塞いだ。さらに右手を下に素早くずらしてリューイチの喉を掴む。リューイチが苦しそうな顔でもがいて抵抗するが喉を掴まれているせいで力が入っていない。キョーイチはなんとかリューイチをアパートから離れた人気のない公園に連れて行って強引にベンチに座らせた。そこでやっと喉から手を離す。

「何しやがる!」

「落ち着け!」

 2人ともそう怒鳴り声を上げる。

「いまのお前の勢いだと、あいつを殺しかねない。そうだろ?」

「ああその通りだ! 殺すんだよ! ぶっ殺してやる! もうガキのころの俺とは違うんだ!」

「落ち着け! とにかく俺の話を聞け!」

 しかし、しばらく2人で揉み合いになった。なんとかキョーイチがリューイチを抑えた。

「いいから聞け! お前もう15歳だろ? 14歳以上は刑事罰の対象になるんだぞ!」

「だからなんだ!」

「だから落ち着けと言っているんだ!」 

 キョーイチはそう怒鳴るとなんとかリューイチを説得し始めた。

「殺人みたいな重大犯罪だったら、大人と同じ刑事裁判を受ける可能性がある。それで有罪なら少年刑務所行きだ。もっとも、16歳になるまでは少年院で過ごして16歳になったら少年刑務所に移るということもあるみたいだが、どちらにせよ長い間自由を失うことには変わりない。殺人のような重罪は模範囚でも刑期の9割は勤めなきゃならないらしいからな。ちなみに16歳になって故意に人殺しをしたら原則逆送といって……まあ要するに基本的には刑事裁判になって刑務所行きになる。覚えておけ」

 リューイチはまだ『だからなんだ』という顔をしている。

「いいか、お前には犯罪歴がある。しかも殺人未遂という重罪の犯罪歴だ。そんなお前が殺人なんてやったら刑事裁判になる可能性は高い。そうなれば裁判員裁判になるだろうが、虐待されていたという酌量の余地があったとしても、そんな犯罪歴がある殺人犯のお前を裁判員が実刑にしないとは思えない」

 リューイチは少し落ち着いたようだがまだ鼻息は荒い。キョーイチの説得は続く。

「そしてだ、そういう凶悪な事件はネット上にいつまでも残る。犯人の名前や顔もな。実際、まだネットもなかった時代に起きた凶悪事件でもその犯人の名前や顔なんかちょっと検索すればいくらでも出てくる。当時未成年だった少年犯罪者でもバンバン情報が出てくるぜ。偽情報もあるが、事実の情報もしっかりとある。昔の事件でもそんななんだからいまならなお更だ。さらに言うと、改名してもその名前もバレて晒されるし、昔の写真だけじゃなくていま現在の写真まで晒される。どうやってそんな情報を入手しているのかはわからないが、ネット民ってのはそれほど執拗なんだよ。そうなったらもうまともに暮らせなくなるかもしれないぞ? お前はあんなやつの為にそうなりたくはないだろう?」

 そこでキョーイチは、はっとしたようにスマホをいじり始めた。

 しばらくして

「よかったな。親父を殺人未遂したという事件でお前の名前や顔はない。運が良かったと思え。その当時の記事はあるけどな」

 とほっとしたようにキョーイチはスマホを見せた。リューイチは不満そうな顔で、

「じゃあどうしろって言うんだ。この怒りをよ!」

 と怒鳴って地面を蹴飛ばす。

「復讐したいんだろ? それには手を貸してやるよ」

 意外な言葉だ。リューイチも「え?」という顔でキョーイチを見る。

「しかし、やるならまず近隣にバレないようにやらないとだめだ」

 リューイチは腕組みをして話を聞く。

「こっちには都合の良い条件が揃っている。まず、あのアパートの正面側は大きな駐車場だった。裏側は線路だ。あの男の部屋はけっこう大きな道路側だ。つまり近隣には物音が聞こえない条件が揃っているんだよ。ただあのボロアパートの壁は薄い。騒ぎを同じアパートの隣人に聞かれたら警察に通報されかねない。そうなったら現行犯でもう逃れようがないし、何より、復讐ができずに終わってしまう。だから他の住人がいないということを確かめてからやるんだ。他にもいろいろあるぞ。用意しておいた方がいいものがある。あのボロアパート、ドアスコープはなかったがドアチェーンはあるかもしれない。俺たちの力ならそれくらいぶっ壊して入れるだろうが、それでも時間はかかるかもしれない。中に入るのに時間をかけてはいけない。そして、だ。俺達がやったという証拠はなるべく残さないようにするべきだ。もちろん捕まらない為にだ。正直、どこまでごまかせるか疑問だがそれでもできるだけのことはした方がいいだろう。指紋は残さないように軍手をする。靴も大量生産されていてなおかつ動きやすいものを買ってそれを履いて終わったら捨てる。靴だけじゃないな。服も繊維が残るだろうから靴と同じように日本中どこにでも売っているようなシャツとズボンを買うぞ。それと防犯カメラのない道を選んであのアパートまで行こう。いまどき防犯カメラのない道を通っていくのはちょっと難儀だが、裏道なんかを選んで通って行けばおそらく大丈夫だ。あのアパートの周辺には防犯カメラはなかったみたいだ。アパート前の駐車場にもなかったはずだ。駐車場には防犯カメラが設置されていることが多いが管理者が杜撰なのかとにかくなかったと思う。別に駐車場に防犯カメラを設置する義務なんてないからな。近隣の人がプライバシーのことを考えてカメラ設置に反対するということもあるし」

 リューイチはもう落ち着いてキョーイチの説明に聞き入っている。確かに淡々と説明するキョーイチからは落ち着けるだけの頼もしさが感じられる。

「よくドアスコープや防犯カメラのことまで見ていたな」

 リューイチはまだ不満気な顔を少し残しながらも感心したように言った。

「冷静だったんだよ。お前よりはな。誰かが言っていたぞ、『復讐は冷静にやるほど効果がある』てな。冷静にやるんだ。そして殺すな。それにな、ヘタに殺すより”死んだ方がマシだ”って状態にしてやる方がいいと思わないか?」

 リューイチはとりあえず溜飲を下げたかのように鼻から深く息を吐いた。

 場面が何度か変わったがその都度2人は計画を練っていた。キョーイチはアパートの部屋の中に入ってから覆面することを提案した。

「フケや唾や汗や皮脂や爪や毛根のない髪の毛からでもやろうと思えばDNA検査ができるらしいからな。それらをできるだけ現場に残さないようにしたい。とりあえず爪は綺麗に切る。体毛を残さないようにスキンヘッドにする。全身の毛も剃るぞ。それでも復讐の為にバタバタ暴れていれば身体の組織はどうしても残る。でも覆面していればそれらを現場に残す可能性を少しでも小さくできる」

 と。しかしこれにはリューイチが激しく反対した。

「あいつに俺が復讐に来たということを真っ先に思い知らせてやりたい。覆面していたら、これだけゴツくなった身体を見ただけじゃあすぐにはわからない。あいつに俺が誰か訊けばさすがにわかるだろうがそんな生ぬるいやり方はできない」

 キョーイチの言うことにはそれなりの論理があったがリューイチのその発言はただの感情論だった。

「それに汗や皮脂は顔や頭以外からも出るだろ。だったら覆面の意味もない」

 リューイチは今度は少しは論理的なことを言った。

「いや、それはそうだが、俺が言っているのは可能性を少しでも小さく――」

「うるせえよ!」

 リューイチは怒鳴った。

「なんだったらこんな面倒な計画なんか止めていますぐあいつのところに行って殺してもいいんだぞ。お前の協力なんか必要ない。ひとりでやる」

 また感情論だ。しかも今度は脅していた。キョーイチはやれやれという感じでうつむきながら首を小さく横に振ったが「わかったよ……」と受け入れた。

 キョーイチは友人思いなやつだなとこのとき僕は半ば感心して半ば呆れた。そこまでしてこんな身勝手な人間の行動を止めてやりたいのだろうか? でも考えてみればキョーイチにとってリューイチは唯一の腹を割って話せるほどの親友なんだよな。

 さらに場面が変わった。まだセミの鳴き声が激しい。リューイチはスキンヘッドで眉毛も剃っている姿になっていた。大型のバッグを手にしていて刑事が張り込みをしているかのように物陰に潜んで復讐対象者がいるボロアパートを眺めている。少ししてアパートの方からやはりスキンヘッドで眉毛を剃っているキョーイチがやってきた。

「今日、決行だ。アパートにはお前の親父しかいない」と親指を立てる。

「よし! 待ちに待ったぜ!」

「最後にもう一度段取りを確認しておくぞ」

 と言うがリューイチは

「わかっている!」

 とイラついたように怒鳴った。

「わかっているからと言って冷静に行動できるわけじゃないんだぞ」

 諭すように冷静にキョーイチは言う。

「部屋の間取りは1Kで台所側に玄関があって……もしドアチェーンがあったら……」

 2人でひそひそと話し合う。そして「行くぞ」と、キョーイチが言うと「おうよ!」と、リューイチが恐ろしい顔になって、2人でアパートに向かって行く。周囲に誰もいないことをしっかり確認しながらキョーイチが部屋のドアに耳を近づけて、

「やっぱりいるな。テレビの音もする」

 と声を潜めて言った。そこでキョーイチはバッグの中から軍手を2組取り出した。2人とも手に着ける。さらに大きなハサミのようなものを取り出した。ワイヤーカッターだ。

「ドアチェーンをしてなければこいつの出費は無駄になるな」

 リューイチの方はバッグから細く短い木の棒のような物を取り出して手に持って構えた。

 キョーイチがドアを二度ノックした。しばらく待つが誰も出てこない。もう一度、先ほどより強めにノックする。するとゴソゴソと動く音が聞こえた。

「どちら様?」

 という声がする。キョーイチが

「自治会の者です」

 と言うと、ゆっくりとこちらに向かってくる音がした。

「来たぞ」

 キョーイチが声を潜める。

「何か?」

 ドアが細く開いたところでキョーイチがドアチェーンが突っ張るまでドアを開けた、と同時にリューイチがドアの隙間から手にしていた棒で男の腹を力強く突いた。棒の先端が男の腹にめり込み、

「ぐう!」

 と男が呻いてその場にうずくまった。

「ドアチェーン、あったな……」

 キョーイチはワイヤーカッターで素早くドアチェーンを切る。リューイチがすかさずドアを大きく開けて棒を捨てると玄関で顔を歪めてうずくまっている男を担ぎ上げ、台所を突っ切って奥の部屋まで運ぶと万年床と思われる汚い布団の上に押し倒す。布団の周りは透明なゴミ袋とゴミだらけだ。リューイチはマウントを取ると、ポケットからナイフを出し

「大声を出すな」

 と男の喉に刃を突きつける。

 キョーイチは捨てられていた木の棒を拾い、ドアを閉めて鍵をかけた。さらに奥の部屋に来ると線路が見える窓のカーテンを閉める。

「俺が誰かわかるな?」

 怒りのこもった声でリューイチが訊く。

「俺の……息子……」

 かすれた弱々しい声で元父親が答える。

「昔、お前が俺に毎日のように何をしていたか言ってみろ」

「……虐待していた」

「そうだな。どれくらい虐待したかな?」

「覚えていない……」

「だろうな」

 リューイチはそこで一息つくと口の端で不適に笑んだ。

「俺が今日お前に何をしに来たか、それはわかるな?」

 リューイチの口の端の笑みが強くなる。元父親の顔が大きく怯えたものになる。

「悪かった……許してくれ……」

 その言葉にリューイチの口の端の笑みは消え、逆に殺意に満ち溢れたような恐ろしい顔になった。

「都合の良いこと言ってんじゃねえよ……俺は何度も謝ったがお前は許してくれなかったぞ? そもそも俺は何も悪いことをしてないから謝る必要もなかった!」

 そこでバッグから小さなタオルを出して小さく固めると元父親の口をこじ開けて中に詰め込み、さらにダクトテープで口を塞いだ。そして何か手袋のようなものを取り出し、軍手の上から手に着けた。総合格闘技などでよく見るオープンフィンガーグローブだ。

「何度も何度も、本当に何度も俺を死ぬ直前まで虐待してくれたよな。いや、違うな。あれは虐待じゃなくて拷問だな。何度も拷問された。俺が何度『いっそ死にたい』と思ったかわかるか?」

 そう言い終えると同時にリューイチは元父親の顔を大振りの腰の入ったパンチでボコボコに殴り始めた。どれくらいの間殴っていただろうか? キョーイチが

「ストップ」

 と言って後ろからリューイチの両腕をつかんで止めた。リューイチはまだ殴り足りない様子だったが、なんとか動きを止める。

「死んでないだろうな?」

 元父親の顔は原型がなくなっている。顔全体が元の何倍にも腫れ上がって両目の上は青紫に腫れ、鼻は潰れて真っ赤な血が溢れ出ていた。リューイチはダクトテープを引き剥がし、口に詰め込んでいたタオルを引き抜いた。その時、何か白いものがタオルと一緒に口からバラバラと飛び散った。それが折れた歯だと気がつくのに少し時間がかかった。元父親の腫れ上がった目の薄い隙間から黒目が動いているのがわかった。口も動いている。何か言っているようだがほとんど声になってない。

「死んでないぞ。言っただろ、こいつ、丈夫なだけが取り柄なんだよ」

 と言いながらリューイチは元父親の口元に耳を寄せたが、次の瞬間なぜか「ぷっ」と吹き出した。「なんだ?」とキョーイチが訊くと、リューイチは

「『許してくれ』だってよ」

 と笑う。キョーイチも笑う。

 2人で元父親をうつ伏せにひっくり返し、首の上にリューイチが、腰の上にキョーイチが馬乗りになる。口にはまたタオルを詰め込んでダクトテープを貼った。

「懐かしい遊びやろうぜ」

 リューイチがそう言うとポケットからターボライターを取り出した。キョーイチも取り出す。元父親のシャツを破って背中を丸出しの状態にしてズボンも脱がした。そしてターボライターの火を背中、腰、足、首元、顔、頭にまで押し付け、さらにはナイフで切り刻んだ。元父親は「ぐうう!」という篭った呻き声を上げる。2人でしばらくの間そんな報復を続けていたがリューイチが「お前はそのまま続けていろ」と言ってバッグから大きなペンチを取り出した。そして元父親の右手首をつかむと後ろ手にするように自分の手元に持ってきた。ペンチで小指の第二関節まで挟むと「むん!」と、気合を入れて指の関節を逆向きに折った。嫌な音がすると同時にいままでで一番大きな悲鳴が上がる。

「くそ。こいつ、失禁しやがった」

 キョーイチが顔をしかめる。リューイチが

「俺もよく失禁したぜ」

 と笑った。

「そんな思い出で笑えるとは思わなかったな。ありがとよ。さすが元父親だな」

 そんなことを言いながらそのまま右手のすべての指を逆向きに折ると

「じゃ、今度は左手」

 と同じように左手の小指をへし折って、薬指も折った。しかしそこで「待て」とキョーイチが止めた。

「なんだよ」

 リューイチが顔をしかめる。

「呻き声がしなくなった。ショック死とかしてないだろうな? いったん確認だ」

 キョーイチがそう言うとリューイチは面倒臭そうに元父親を仰向けにひっくり返した。確かにピクリとも動いていない。キョーイチが口のテープを剥がしてタオルを取り出し、訝しげな顔でゆっくり確認してから頷いた。

「気を失ってるだけみたいだな」

 リューイチは

「俺もこいつに虐待されて気を失うことはよくあったぞ」

 と鼻で笑って

「そういうときはな……」

 と台所に行ってヤカンを手に取り、洗ってない食器のたまった流しでヤカンに大量の水を入れて戻ってきた。そして

「こうやって顔にゆっくり水をかけてあげるんだよ」

 と元父親の顔に水をかけ始めた。しばらくするとゲホゲホと激しくむせながら元父親が意識を取り戻した。

「よし、じゃあ続きを……」

 と、リューイチがまた元父親の手を取ってペンチで挟もうとするが、キョーイチが

「いや、もう止め時だ」

 とリューイチを止める。

「何言ってんだ? まだ手の指を全部折っていない。それに胸や腹をライターで炙っていないし、ナイフで切ってない」

「そうだがこれ以上やったら死ぬ可能性がある。もう止め時だよ」

「何を言ってんだよ。俺はこいつに毎日こんなことされても死ななかったぞ?」

「そうかもしれないが万が一死んでからじゃ遅い」

 しばらく2人で揉めるがリューイチがなんとか受け入れた。そして元父親の顔に自分の顔を近づけて言う。

「俺がお前にやったことは、お前が俺にやったことに比べれば大したことはない。そうだな?」

「はい……」

「じゃあこの程度ですんでありがたいと思え。そして俺達がやったと誰にも言うな。もちろん警察なんかにもな。もし捕まってもこの程度なら俺は、いや俺達はすぐ出られる。その時はもう許さねえ。一生刑務所の中に入ることも覚悟でお前を嬲り殺しにしてやる! わかったか!」

 元父親は震える声で

「わかりました……」

 と了承した。リューイチは元父親の腹を5回蹴ってから名残惜しそうに部屋から出た。

「スッキリは……しないか」

 アパートから離れてキョーイチが言った。

「ああ……殺さないように自分をセーブするのに本当に苦労したぞ」

 そう言うリューイチの鼻息は荒い。

「そうか、俺がいてよかったな」

 キョーイチはそう言ってから真剣な顔つきになった。

「ただ、さすがにあそこまでやったら警察沙汰にはなるだろうな。あんな状態の人間が病院に行けば、医者が大きな犯罪性があると警察に通報する可能性が高い。そうなったら警察もがっつり捜査するだろう」

 リューイチは無表情で無言だった。

「一応証拠は残さないように努めたつもりだけど、正直なところあまり意味ないだろうな……」

 とキョーイチは軍手をつけたままの手でツルツルの頭を撫でた。

「あれだけ暴れたんだからあの部屋には俺たちがいたというなんらかの証拠は残っているだろう。覆面をしておけばまだマシだったと思うけど……」

 キョーイチはリューイチの顔を見た。リューイチはやはり黙ったままでキョーイチを見ようともしない。

「ま、何をやっていたとしても俺たちがいたという痕跡は残るよ。何より警察沙汰になったらあいつが俺たちのことを喋らないわけがない」

 キョーイチのぼやきにリューイチが深いため息を吐く。キョーイチは続ける。

「でもまあ、殺しはしてない。仮に警察に捕まっても長年自由を奪われることはないだろう。問題はニュースになったら事情をよく知らないアホな連中がネット上で騒ぐかもってことだ。『なんでそんなに罪が軽いんだ』とか言ってな。その時はどうしてこんなことをしたのか俺たちの方からお前の過去をネットで晒してやろう。それでもそういうアホな連中は自分が間違っていたとは絶対認めないだろうけど。それにネットの誤情報はいつまでも消えないからな。しっかり覚悟をしておけ」

「おい、さっきからうるせえぞ」

 リューイチがキョーイチを睨んだ。

「ごちゃごちゃごちゃごちゃ。終わってからびびってんじゃねえよ。お前の言う通り殺してないんだからもし刑事罰になっても俺たちの年齢ならせいぜい数年の罰だろ? だったらびくびくするな。なのにお前は計画の段階からそんなことばかり言いやがって」

 キョーイチは鼻から強く息を吐いた。

「でも、本番は上手くやっただろ? お前のためらいのなさを見て俺も覚悟が出来たんだよ」

 リューイチはへっと鼻で笑った。

「終わった後になってその覚悟が揺らいでびびってるじゃねえか」

 確かにキョーイチは臆しているように見える。そんなキョーイチにリューイチは「腰抜け」と吐き捨てた。どうやらやり足りなかった不完全燃焼のストレスをキョーイチにぶつけているようだ。やはり元父親を殺しでもしなければリューイチの気持ちは収まらないのだろう。リューイチは強く続ける。

「それにな。ネットの誤情報だの世間の批判だのそんなことはもうどうでもいい。もし捕まったらどんなに罪が軽くても、俺のあいつへの怒りはもう抑えられないぞ。出てきたときには何が何でも探し出して今度こそ殺してやる。安心しろ。その時はお前を巻き込まない。1人でやるからよ」

 と、そこでリューイチは皮肉っぽい笑みをキョーイチに向けた。

「そうしたらよ、もう誤情報も何も関係ない。本当に凶悪犯になるんだからな……」

 キョーイチは硬い表情を変えず、ゆっくりとリューイチの顔を眺めた。

 場面が変わった。ここはリューイチの部屋だ。テーブルの上にある灰皿に火のついたタバコが一本だけ置かれて煙を昇らせていた。

 リューイチの部屋にやってきたキョーイチが、「これ見ろ」と焦ったような顔でスマホをリューイチに見せた。リューイチはスマホを観ると、キョーイチとは対照的に顔に薄ら笑いを浮かべた。

 スマホには線路の上で寝ていた男性が電車に轢かれて死んだ、という内容のローカルのネットニュースが映し出されている。いまのところ男性の身元は不明。『トンネルの出口にいて気がつくのに遅れて、ブレーキも間に合わなかった』という運転士の証言もあった。

「これ、あいつで間違いないのか?」

 薄ら笑いで言うリューイチに対して

「場所と時間から考えて間違いない。あのアパートのすぐ近くに線路のトンネルもあった。それに運転士の、『下着姿の男性のように見えた』という証言もある。俺たちにいたぶられた後、そのまま線路に向かったんだ」

 とキョーイチは緊張感に満ちた顔で言う。

「確かに近くにトンネルがあったな。電車に轢かれて死ぬには丁度いい環境にあったなあいつのアパートは。もう生きる気力を無くしてしまったのかな? しかしまともに歩けなくて、あれほど痛めつけていても、線路でお昼寝するだけの余力はあったんだな。やっぱりもっといたぶってやってもよかったじゃないか。それにしても運が良いのか悪いのか、線路に辿り着くまでよく誰にも見つからなかったな」

 リューイチがそう言って笑い、灰皿の上のタバコを手に取ってゆっくりと煙を吹かした。

「そんな悠長なこと言ってる場合か。いまは自殺扱いされているけど、遺体がどんな状態かわからないが仮にバラバラになっていたとしても、拷問の痕が見つかったら自殺に見せかけた殺人だと疑われるぞ。いや、疑われるんじゃなくて殺人だと断定される。そして警察の捜査で俺たちに辿り着いたりすれば、俺たちは暴行罪や傷害罪とかじゃなくて殺人罪で捕まることになるだろう。それがどういうことか――」

「おい、キョーイチ」

 リューイチが凄みのある顔をしてキョーイチの勢いのある喋りを怒りを押し殺すような声で制した。

「俺はいま最高に幸せな気分なんだ。こんなに気分が良いのはおそらく生まれて初めてだ。タバコがこんなに美味いのも初めてだ。それなのに、だ。そんな『たら、れば、だろう』なんて仮定の話で俺のいまのこの最高な気分を台無しにするのなら、お前でも容赦しないぞ」

 キョーイチはその言葉に一瞬怯んだように見えたがすぐにリューイチを睨んだ。

「それに、”証人”という一番の証拠がなくなったじゃないか。びびってたお前の大きな不安がなくなったんだ。もっと喜べよ」

 リューイチの皮肉っぽい言い方に、キョーイチは鼻から荒い息を吐き奥歯を強くかみ締めた。そんなキョーイチとは逆にリューイチの方は本当に幸せそうな顔でタバコを吹かしながら何度も繰り返しスマホのニュースを観ていた。元父親が死んでようやく満足したのだろう。

 そこで場面が変わった。キョーイチはスキンヘッドの眉なしのままだがリューイチは金髪ピアス姿なっていた。僕が高校に入学したときに見た姿になっていたのだ。

 そして、僕が顔を不可解に歪める出来事があった。アイラがリューイチに

「私のことを好きにしていいから、私が誰からもいじめられないようにして」

 と、自分をいたのだ。

 場面が変わり、ここは……? どうやらラブホテルというところだ。テレビやネットなどで何度か見たことがある。そこでリューイチはいやらしい笑みを浮かべながら裸になり、ベッドに寝ているアイラの服に手を伸ばした。と、そこで場面が変わった。『性的に満足させる』シーンがカットされたようだ。つまり事が終わった後ということだろう。

 その後はアカの過去と同じように山木先生をいじめ、学校の主導権を握り、大喜びしている……


 というところで目が覚めた。またほとんど時間は経っていなかった。そして僕はまた汗まみれになっていた。

「リューイチもけっこうな過去があったみたいだね」

 女神の声がする。

「なるほど。これは確かに、アカもリューイチも『酌量の余地あり』だな」

 僕は先ほど目が覚めたときと同じようにはあはあと肩で息をしながらそう言った。

「あーあ。酌量の余地てのがどの程度のものかわかっちゃったか」

 女神は残念そうに言う。

 彼のダイジェストに出てこなかったということは、結局キョーリューの2人は警察に捕まったりはしなかったということか。 

 しかし、最後のアイラとリューイチはどういうことだ? あの2人が付き合っているなんてことはないと思うのだが。確かアイラは『私が誰からもいじめられないようにして』とか言っていたよな……

 僕はまた風呂に入った。今度は湯船の中で何か考える余裕もなかった。とりあえず今日は寝よう、と、僕はベッドに入った。いや、寝るというよりは現実逃避をするという感じだ。

 日曜日、本来ならアニメ三昧なのだが僕は考え事しかしていなかった。と言っても、もはや何を考えているのかさえわからなかった。とにかくなにもかもが混乱していてまとまらない。とりあえず筋トレをした。体を動かしたい気分だった。試しに回数を増やしてやってみようと思い、腕立てと背筋、スクワットは50回、腹筋は100回やってみよう、無理だろうけど、と思ったらなんとかだがそれでもできた。自分でも驚いた。まだ半月ほどしか筋トレをしてないのにちゃんとやっていればやはり身についているのか。だったら頭だって同じじゃないか? もっとしっかりと考えてみよう……が、残念ながらこちらはまだまだのようで、やはり何もまとまらなかった。

 0時を過ぎて月曜日になったところで僕はアイラの過去を見てみようと思った。本来はキョーイチの過去を見ようと思っていたのだが、リューイチの過去を見てだいたい把握できた。それよりアイラのあの行動がどうにも気になって仕方ない。

「女神、今日の願いだ。俺のクラスの、渡辺愛良あいらの人生に大きな影響を与えた特別な出来事をダイジェストでお前が見て、それを俺に見せてくれ」

「その願いを叶えましょう」


 アイラだとすぐにわかる幼い女の子がいた。虐待はされていなかった。夫婦喧嘩もなかった。が、両親にいた。

「幼稚園も小学校も名門私立に入れなかったのは家族で、いや、親戚を含めてお前だけだ」

「中学は頼むわよ本当に」

 リビングでテーブルを挟んで両親らしき2人がアイラに向かってそう厳しい口調で言っている。アイラは泣きそうな顔で頷いた。

 そこで気がついたが、アイラの家は豪邸だ。いったい何坪あるんだ? 金持ちだったのか。

 場面が変わった。先ほどのデジャブかと思うような光景があった。しかし、アイラは大きく成長している。

「中学まで名門に入れないとはどいういことだ!」

 父親が怒鳴り声を上げていた。

「親戚に顔向けできないじゃない! 恥ずかしいと思わないの!」

 母も怒鳴る。なんだ? アイラの家は名家なのか? めちゃくちゃなことを言ってるぞこの両親……アイラはただただうなだれているだけだ。これも虐待かもしれない。

 場面が変わる。制服を着ている。中学生だ。アイラが教室に入る時に『3-2』というプレートがあったので3年生か。アイラが自分の席で何か困っている。机の中を見たり、カバンの中を見たり、必死で何かを探している。そんなアイラの様子を教室の隅でニヤニヤ笑いながら見ている3人の女子がいた。正直お世辞にも可愛いと言えない、いや、はっきり言って3人ともブスだ。僕は3人のその顔つきを見てピンときた。いじめだ。あれは人をいじめている人間の目だ。おそらく、教科書かノートか、アイラの何かを隠したのだ。僕も頻繁にそういう経験がある。

 そしていじめはどんどんエスカレートしていったのだが……なんだこのいじめは? と僕は驚愕した。僕の受けているいじめが生易しく感じる程の強烈で悪質ないじめだ。

 殴られる、蹴られるは当たり前。昼食の弁当をゴミ箱に捨てられる。ノートや教科書を破られる。顔に油性マジックで落書きされる。男子のいる前でアイラの持っていた生理ナプキンをバラ撒かれる。やはり男子のいる前でパンツをずり下ろされ、そのパンツを男子のいる方に投げられる。トイレでは上から水をかけられる。さらにトイレに行かせてもらえない。アイラが個室に入ろうとするのを3人が制してアイラはその場で漏らしてしまった。下痢便だ。さらにそれをスマホで撮影して拡大印刷して教室の黒板に貼り出した。夏になるとを何度も無理やり食べさせられた。2人が押さえつけてアイラの口を強引に開け、1人がセミの死骸、ミミズ、カマキリ、ゴキブリは割り箸でつまんでそれらの虫をアイラの口に入れてアゴを掴んで強引に咀嚼させた。その都度アイラが吐くが3人は笑いながらその様子をスマホで撮影した。

 一番最悪だったのは体育館の体育倉庫内で、3人にやはり押さえつけられて全裸にされて裸をスマホで撮影されたらしい、ということだ。”らしい”というのは押さえつけられて服を無理やり脱がされそうになった後はカットされ、その後、アイラが泣きながらなんとか服を着ている場面になったからだ。そして3人が撮影した動画を観て笑い、「この動画を高値で男子に売りつける」というとんでもないことを言った。

 アイラが絶望的な顔になって土下座をして

「お願いだからやめてください! お願いします! 後生だから!」

 と泣き叫んだ。

 だが3人は本当にその動画を数人の男子に売っていた。しかもアイラの目の前でだ。アイラをいじめていたのはこの3人だけだ。もちろん動画を買った男子も悪いし先生等に報告しない他の生徒も悪い。でもこの3人が動かなければ何も起きないのだ。

 酷いな……僕が受けているいじめは恵まれているとさえ思えた。というより、もはやこれはいじめなんてものでなく立派な悪質な”犯罪”だ。

 しかしどうにも理解できないことがある。アイラはこれほどいじめられていたのにどうして高校ではいじめる側になったんだ? この3人ほど酷くはないがそれでも林さんをいじめている。いじめられていたのならいじめられる者の気持ちがわかるはずだ。いや、待てよ。いじめられている者がいじめる側になるというのはよくあると聞いたことがあるな。なぜだ? 虐待にしてもそうだ。なぜ虐待された者が自分の子供を虐待するんだ? まったく理解できない。

 そしてさらに絶望的な出来事が起きた。アイラが両親にいじめられていることを告げて、助けてほしいと懇願した。しかし両親の口から出て来た言葉は信じられないものだった。

「公立の学校なんか行くからだ。だからそんな下劣な連中がいる」

「自業自得よ。私立に落ちて、公立のクズみたいな学校に行くからよ」

 アイラは唖然としていた。僕も唖然とした。アイラは泣き始めた。それはそうだろう。

「泣いたってダメ。あんたのせいなんだからあんたがなんとかしなさい」

「他の誰かに言うなよ。教師や警察や弁護士なんかにもな。いい恥さらしになる」

 両親は容赦なくそんな暴言を浴びせた。これはやはりれっきとした虐待だ。精神的虐待というやつだ。僕の母親の対応も自慢できたものではないが、これに比べたらはるかにマシだ。

 場面が変わる。アイラはうつろな目でどこかの高層アパートの最上階にいた。手すりを掴んではるか下を見ている。自殺を考えているんだ。しかし、その場で膝から崩れ落ちて大声で泣いた。また場面が変わる。家の脱衣所の洗面場だ。瀟洒な洗面場だが、そこに水を流し、片手にカミソリを持っているアイラの姿があった。また自殺を図っている。しかし、しばらくしてまた膝から崩れ落ちて号泣した。

 何度か場面が変わってアイラはなんとか卒業まで耐えた。変な言い方だが大した精神力だと感心した。それほど壮絶ないじめに耐えたのだ。

 だが、卒業前にまた両親との大喧嘩があった。アイラが髪の毛を金髪にしたのだがそれだけで両親は激怒した。でもそれ以上に、もう破壊的に激怒したのはいまの高校だけしか受験しないと打ち明けた時だった。

「何を考えてる! あんなクズの集まりの、掃き溜め場みたいな学校に行く気か!」

「恥ずかしすぎて親戚どころか、ご近所にまで顔向けできないじゃない!」

 ここまでくると呆れるのを通り越してもう何も考えられない……

 でも確かにどうしてアイラはうちの高校を選んだのだろう? 私立の受験には失敗したが、それなりに勉強ができるのだろう。

 その理由はしばらくしてわかった。

 場面が変わって、高校生活になっている。キョーリューの2人がもうクラスを締めている状況だった。アイラはキョーイチに接近した。艶っぽく、色気を振りまくようにキョーイチに近づいたのだ。

「ねえ。私のこと好きにしていいわ。その代わりに私がいじめられないようにして」

 実にわざとらしかったが、男は、特にこれくらいの年頃の男子はこういうのにとことん弱いものだ。場面が変わるとラブホテルだった。キョーイチがパンツとシャツだけ着た状態で、ベッドに座ってタバコを吸っている。アイラはベッドの中だ。どうやら”事”が終わった後のようだ。

「お前、初めてだったのか」

 とキョーイチは驚いている。それに対して

「うん。ダメ?」

 あっけらかんとした様子でアイラは言う。

「いや、そうじゃないけど、初めてがこんなことでいいのかなと」

 キョーイチはタバコを吹かす。ちなみに、この時には加熱式タバコになっていた。

「と言っても、俺も初めてだったけどな」

 とキョーイチは笑う。

「え? そうだったの?」

 今度はアイラが驚いた。キョーイチは苦笑いする。

「いじめられたくないならリューイチにも頼んでみろよ。あいつもだし、喜んで受け入れるぜ。正直俺1人だけでお前の全てを見守ってやれるかもわからないしな。リューイチもいれば完璧に近くなるだろう」

 アイラはリューイチにも体を売った。昨日見た場面だ。そして、キョーリューの2人は本当にアイラを好きにしていた。頻繁に”事前”と”事後”の場面が出てくる。しかしそのうちその場面も少なくなった。やっていないわけではなくて、もう特別なことではなくなってしまったのだろう。リューイチなんか、アイラを抱いた場面は最初の1回だけだった。リューイチにとっては最初の1回以降は特別な事ではないのだ。それほど日常的にキョーリューはアイラを抱いていたのだろう。

 そしてキョーリューの2人はその代わりにアイラの頼み通り、彼女を少しでもいじめようとする連中には容赦のない制裁を課した。驚いたのはアカがアイラをいじめようとしていたということだ。アイラはいまはアカの取り巻きになっているはずだが、アカは最初、アイラをいじめの対象にしようとしていたのだ。アカを懲らしめようとしたキョーリューだったが、それをなぜかアイラは止めた。そして、

「ねえ、赤石さん。私を仲間にしてよ。それで許してあげる」

 とアイラはいやらしく笑んだ。アカはもちろん受け入れた。アイラの方が立場的には上なのか? 普段はそうは見えない。実際クラスの皆はアカが女子のトップだと認識している。でも考えてみたらトップであるよりも、その腰巾着になった方が楽かもしれない。それにしても、アカはアイラとキョーリューの3人のこの関係を知っているのだろうか?

 場面が変わる。アイラの制服が夏服になっていた。セミの声もよく聞こえる。学校の中だから7月くらか? アイラがいつにない深刻な表情でキョーリューの2人に話している。中3の時にいじめられていたことを克明に詳細に話していた。キョーリューの2人もいつにない真剣な顔で聞いている。そしてアイラは

「その3人に復讐したいの。一生のトラウマになるくらいのことをしてやりたいの。お願い、2人の力を貸して」

 キョーリューは顔を見合わせる。

「ま、復讐したいって気持ちはよくわかる」

 リューイチが言うと、キョーイチも頷いた。

「お前の目的は最初からだったんだな」

 とキョーイチは笑んだ。アイラは

「そうよ」

 とはっきりと強く答えた。キョーリューの2人は笑う。

「そいつらに何か恨まれるようなことはしてないのか? お前の逆恨みとかじゃないだろうな?」 

 リューイチが訊く。

「誓って逆恨みなんかじゃないわ。考えてみて。私は自分の身を、それもバージンを捧げてまであなた達に頼んでいるのよ。逆恨みでそこまでできると思う?」

「バージンもらったのは俺だけだけどな」

 キョーイチは笑った。アイラはそれを無視して話を続ける。

「そもそも喋ったこともない連中だったのに、ある日いきなりいじめられ始めたのよ。いまでもなぜなのかわけがわからないわ」

 と言うアイラに

「俺はなんとなくわかった気がするぞ」

 と加熱式タバコの煙を吹かしながらリューイチは言った。

「え?」

 アイラは眉を寄せる。

「そいつらの写真がないか? 卒業アルバムでもなんでもいい。明日持ってきてくれ」

 アイラは首を傾げながらも言われた通り、場面が変わった翌日に卒業アルバムを持ってきた。アイラが示した3人を見て、リューイチは

「やっぱりな」

 と笑い、キョーイチも

「なるほど」

 とやはり笑いながら納得した。

「3人ともひでえブスでデブじゃねえか。お前、可愛いくてスタイルも良いから妬まれていたんだよ。それがいじめの原因だ」

 リューイチがそう言うとアイラは

「え?」

 と、呆気に取られたような顔になった。

「アカが、最初にお前に手を出そうとしただろ? それもお前が可愛いからその妬みだよ。いまはそれが亜由美に移ったけどな」

 アイラはまだポカンとしている。

「お前は自分の可愛さに気がついてないみたいだけどな。それがこのブス共にはかえって嫌味になっていたんだろう」

「そうなの……?」

 呆気にとられているアイラに、

「俺はてっきり自分の可愛さに気がついていると思っていたぞ。だから体を売ってきたんだと思った」

 とキョーイチが言う。

「そりゃあまあ、自分がブスだとは思ってなかったけど――」

 そう言いかけるアイラをリューイチが

「ほらほら、そういうところだよ」

 と止めて笑いながら指摘する。

「その中途半端な自覚がかえってこういうブスたちを苛立たせるんだ。女なら女の妬み嫉みってものをちゃんとわかっておけよ。おまけに金持ちってのがまた妬みを買ったんだろうな」

 そこでキョーイチが

「やるのはいい。でもそこまでリスクの高いことをするからには見返りもほしいぞ。いましている以上の何かがほしい。何かできるのか?」

 と要求してきた。

「いままでゴム付きでやっていたけど、生でやって中出ししていいわ。だっていま以上にやってあげる」

 アイラは実に素早くしっかりとそう言った。キョーリューは顔を見合わせる。

「マジか?」

「大丈夫なのか? ガキができても俺たちは何もしねえぞ?」

 嬉しさよりも驚きという感じで二人は訊く。

「大丈夫。ちゃんとピル飲むから。それでいいでしょ?」

 二人はまた顔を見合わせて、今度ははっきりと嬉しそうにニヤリと笑んだ。

「いいぜ。というか、最初からそういう段取りだったんだろ? 策略家だな」

 キョーイチは笑った。

「ええ。だって、あなた達みたいな人を探す為にこの高校に入ったんだから」

 アイラがそう言うと、キョーリューは

「なるほど。こりゃあ逆恨みじゃないな」

 と手を叩いて笑った。

 場面が変わる。どこかの駅前だった。そこにキョーリューとアイラがいた。

「あいつ」

 とアイラが駅から出てきたある女の子を指差した。

 また場面が変わる。前回とは違うどこかの駅前だった。

「あいつ」

 とまたアイラは1人の女の子を指差した。

 また場面が変わって今度はどこかの塾の前だった。塾から出てきた女の子に

「あいつ」

 とやはりアイラ指差した。

 わかった。いずれもアイラをいじめていた女の子だ。実物を見て確認しているのだ。

 その実物を見て、

「本物は写真よりもブスだな」

 とキョーイチが笑う。

「いかんなあ。いくら日本の治安が良いとはいえ、こんな時間に女の子を1人で帰すとは。親も塾側もいかんな」

 リューイチは軽く首を振りながら皮肉っぽくつぶやいた。

「ブスだから襲われることはないと思っているんだろう」

 キョーイチはそう言ってまた笑った。

「あのブスたちをもっとブスにしてやるか」

 リューイチが言うと「ああ」とキョーイチがうなずき、「お願い」とアイラが手を合わせた。

 場面が変わる。どこかのファミレスのようだ。キョーリューとアイラの3人は真顔で、そして小声で計画を練っていた。

「3人共塾の日が月水金なのは都合が良い」

「最後の女は家が近いから歩いて帰ってる」

「ああ。最初に拉致するのはそいつかな? 一番早く帰るからな」

「拉致する場所はそれぞれ……」

 とタブレットで地図を出してその場所を指差す。

「拉致するってことは、車を使うの?」

 アイラが訊いた。

「ああ。が必要だ。それを用意するのが一番難しいかな」

?」

 アイラは首を傾げる。

「そうだよ。車は盗むけど、普通に盗んだんじゃ足がつく可能性がある。そしたら全てがバレる可能性がある。足がつかないような、さらにはワンボックスみたいな車が必要だ」

 アイラは、よくわからない、という顔をしている。

「夏休みは月水金はしばらく車探しだ。その日のうちに車を盗んでその日のうちに実行する。でも長い間保有はできない」

「それとな、アイラ。お前は復讐のその場にはいたらだめだ」

 そう言うキョーイチに

「それはわかってるわよ。この3人がやられたら、真っ先に疑われるのは私だから。アリバイの為にちゃんと家にいるわ」

 とアイラは少し残念そうにうなずくが、

「でも、その様子をしっかり動画に撮って見せて。お願いよ」

 と2人に悔しそうな顔を向けて強く言った。

「もちろんそうするつもりだ。ちゃんと仕事をしたっていう証が必要だし。そこはまかせておけ」

 リューイチは太くて筋肉質な右腕でガッツポーズした。

「ただな、こいつらを全員拉致するまではお前がいてほしい」

 キョーイチが言う。

「え? どうして?」

「最後の確認だよ。写真も実物も見たけど、万が一にも別人を拉致したらまずい。だからおまえの確認が必要なんだ」

「なるほど」

 アイラはうなずいた。

「ブス3人が揃った時点でお前はすぐに家に帰ってもらう」

 場面が変わった。3人がギラつく太陽の下を歩いている。

「暑いな」

 リューイチが顔をしかめるがキョーイチが

「生出しの為だ。がんばろう」

 とリューイチの肩をポンと叩いた。アイラも暑さに顔を歪めている。

 キョーイチが言う。

「本当はアイラがこうやって俺たちと一緒に行動しているところを見られない方がいいんだけどな。俺たち2人はあのブス3人に顔を知られるなんてことはしないようにするけど、もうあちこちの防犯カメラなんかには俺たち3人がこうやってうろうろしている姿が映っているだろうしな。それも月水金だけ。これだけでも怪しまれてしまう」

「時間的に仕方がないわよ。その日のうちに車を見つけて、その日のうちに実行しないといけないんでしょ?」

 アイラはTシャツの胸元を掴んでパタパタと扇ぐ。背の高いキョーリューにはおそらくアイラの胸が見えたのだろう、

「ああ! やりてえ!」

「なあ、ゴムありでいいからとりあえずやらせてくれよ」

 とアイラに求めた。

「だからダメだって。ちゃんと依頼を果たすまではお預け。すっきりしたらやる気なくなるでしょ?」

「そんなことはないけどよお……」

「お預けの方がやる気なくなるぞ……」

 2人は悲しそうな顔をする。でもアイラは楽しそうだ。楽しいからこんななんでもないような場面が特別な出来事として出てくるのだろう。何度か場面が変わるが同じように車探しをしている。どうやらなかなかが見つからないようだ。

 しかしある日、もう薄暗くなっている時に

「おい。、良くないか?」

 と、リューイチがある車を指して言った。キョーイチもリューイチが指差した車を見て

「うん、だな。だろう。場所的にもちょうどいいな。防犯カメラとかもないし人気もないし薄暗いし。ようやく見つかったな」

 と周囲を見渡して確認しながら言う。そこは月極駐車場だ。いくつかの車が停められているが、1台の黒いワンボックスカーの前でタチの悪そうな4人の男が地面に座り込んでタバコを吸いながら酒を飲み、大声で騒いでいた。近くの街灯がなんとかその場を照らしている。

「お前はそこにいろ」

 リューイチはアイラに駐車場の外を指差してそう言った。アイラはうなずく。

 そしてバッグから軍手を取り出して3人とも手につけた。元父親を襲撃したときと同じように指紋を残さないようにする為だ。

 さらにキョーリューの2人は覆面プロレスラーのようなマスクを取り出して頭から被った。これは顔を覚えられない為だがリューイチの元父親の時とは違う行動だ。今回は顔を見てもらう必要性がまったくないからだろう。

 騒いでいる4人に覆面姿のキョーリューは近づいて行く。本来なら緊張感が漂うはずなのだが2人は先ほどまでと変わらない軽い足取りで簡単に4人に近づく。4人が2人に気が付き「はあ?」という感じで覆面姿の2人を見上げる。キョーイチが車を指差しながら

「この車、お前らのだよな? 黙ってよこせ。そうすれば痛い目に遭わないから」

 と自己紹介でもするかのように軽く言った。4人は一瞬ぽかんとした顔を見合せたが、次の瞬間笑い出した。

「悪いな。他当たってくれや、覆面レスラーくん」

 ひとりの男が笑いながら言う。

「ああ、これじゃなくても他に良い車がいくらでもあるだろ?」

 別の男も笑いながらそう言って、キョーイチの足元に火のついたタバコを投げつけた。しかしキョーリューの2人はそれに動じる様子はまったくない。

「いや、この車がいいんだよ」

 リューイチは淡々と言う。キョーイチも

「ああ、この車が『良い車』なんだ。で手に入れた車じゃないんだろ? にもかかわらず、お前らみたいな連中がこうやって車の側で余裕ぶっこいて宴会して騒いでいる。つまり警察の目を上手くごまかすようにいろいろ工夫している車だろ?」

 とさきほどより強く車を指差した。

「それにこの辺に停まっている車にはドラレコの駐車監視機能とかがないんだろ? そもそもドラレコ自体が付いてないとか。防犯カメラさえ設置されていないような駐車場だもんな。ドラレコが付いている車があるとは思えない」

「そうそう。お前らみたいなやからが堂々と大騒ぎできるんだからここはお前らにとっては安全な場所なんだろ? てことは俺たちにとっても好都合な場所なんだ。さらに好都合な車があるんだからこの車を選ばざるを得ない」

 キョーリューがそう言うと4人はまた一瞬だけ呆けたような顔になったが、次の瞬間怒りに満ちた顔に豹変した。

「なんだとコラァ!」

 と4人は同時に立ち上がり、キョーリューに向かって行ったが、もちろんすぐにやられた。4人とも股間や顔を押さえてうずくまっている。リューイチは股間を押さえている男の首を踏みつけながら

「車の鍵持っているの誰?」

 と相変わらず軽く言う。首を踏みつけられた男は顔を押さえてうずくまっているひとりの男を指差した。

「あ、そう」

 キョーイチが指差された男の横っ腹を蹴飛ばして「鍵出せ」と言うと男は無言でポケットから鍵を取り出した。

「どうも」

 車の鍵を開けると後部座席にリューイチが座って運転席にキョーイチが座り、ドアを開けたままキョーイチがエンジンをかけると同時に大音量で音楽が流れ始めた。

「ご近所迷惑だっての」

 とキョーイチは音楽を叩き消した。慣れたように車を運転して駐車場の外に出ると、助手席のドアを開けて「乗れ」と呆気に取られているアイラに言った。

 アイラは車に乗り込むと興奮して騒いだ。

「すごい! すごい! すごい! 2人とも本当に強いんだね! 私、鳥肌立ったよ!」

 そんなアイラとは対称的にキョーリューは「あいつらが弱いんだ」「ああ、思ったより弱かった」と極めて冷静だった。しかしアイラの興奮は止まらず、

「そんなことないよ、凄いよ!」

 と騒ぐ。そんなアイラが2人を見る目は尊敬に変わっていた。

「やっぱりあの学校に入って2人に頼んだのは大正解だったわ。それに、2人に抱かれたのも大正解だった」

 そう言うと2人は笑った。

「嬉しいけど、とりあえず落ち着け」

 後部座席のリューイチはバッグからジャージを取り出して、上下とも着替えながらそう言った。キョーイチの方は覆面を取ると、なんと長髪のカツラを被って後ろ髪を紐で縛り、さらに眼鏡をかけた。

「アイラ、外から顔が見えないように伏せておけ。後ろの窓はスモークしてあるけど前は外から丸見えだ。俺は一応ヅラとダテ眼鏡で変装したがお前と一緒に車に乗っているところを万が一にも知り合いに見られたり、偶然動画なんかで撮られていたりしたらまずい」

 キョーイチがそう言うと

「わかった」

 とアイラは慌てたように伏せた。

「キョーイチ、どうして覆面じゃなくてそんな変装するの? リューイチみたいに覆面のままでいいのに」

 アイラは伏せたままキョーイチに訊いた。

「アホか。あんなマスク被って運転してたら怪し過ぎるだろ。警察はもちろん、一般人からも気味悪がられて目立って仕方ないだろ」

 キョーイチが呆れた声を出す。

「あ、そう言えばそうか」

「ヅラと眼鏡の変装は今だけだ。あのブス共をいたぶる時はまたちゃんとさっきのマスクを被るから心配するな」

 車はしばらく走行し、ある地点で止まった。アイラの顔が緊張感で満ちているのがわかる。さらにしばらくしてから

「来たな。あれで間違いないよな?」

 とキョーイチは人気のない歩道を歩いている女の子をアゴで指した。アイラはそっと窓から顔を出すと、

「間違いないよ」

 とうなずいた。

 ワンボックスは女の子の側面にゆっくり着くとリューイチは素早くドアを開け、女を担ぎ上げて座席を倒して確保しておいたスペースにその怪力で放り投げると素早くドアを閉めた。車が動き出すと同時にリューイチは女の腹部に拳をめりこませた。女がうめいて声を出せなくなっている間にこれまた素早く両目と口にダクトテープをしっかりと貼り、両手足を結束バンドで固く縛った。

「初めてとは思えない手際の良さだな」

 キョーイチは感心したように小声で呟いて車を走らせる。リューイチがもがいている女に近づき、耳元で「動くな」と凄みのある声で言うと女の動きは止まった。

 残りの2人も要領は同じだった。実に手際が良かった。

 そしてアイラはそこで退散となった。誰もいない場所で車を降りて後を見送った。しばらくその場にいたが、なんとも言えない表情で帰途に着いた。

 アイラが家で落ち着かない様子でいると、午前1時半を過ぎた頃にキョーイチから着信が来た。

「全部終わった。動画は会ってから見せる」

「いま見たい。ラインかメールで送って」

 アイラは急かす。

「ダメだ。ネット上にそういう痕跡は少しでも残したくない。だいたい、容量が大きすぎて送れねえよ」

 アイラはもどかしそうに口を結んだが、

「わかった」と受け入れた。

 場面が変わっておそらく翌日、客の少ないファミレスの片隅でアイラはタブレットでその動画を見た。僕も横から覗いて見たが……こりゃあ酷い。どこかの廃工場のような場所で拉致した女3人が目と口をダクトテープでしっかりと塞がれ手足を拘束されたまま下着姿にされて小刻みに震えている。”女の下着姿”をということに気がついた。それはこの様子が『性欲を満たすような』代物じゃないからだろう。何をどうやっても無理だ。少なくとも僕は。

 キョーリューは2人とも覆面レスラーのようなマスクを被って、上下にジャージをしっかりと着ていた。そしてまずは原型が無くなるほど3人の顔を殴った。3人とも顔が倍以上に腫れ、鼻は潰れ、歯も折れているようだ。リューイチの元父親の時のことを思い出した。そして全身を殴る蹴る。3人とも篭った呻き声や悲鳴を上げる。それでも殺さない程度に加減はしているのだろう。この2人が本気で身体からだを蹴ったり殴ったりすれば、女の身体からだつわけがない。そしてここでもターボライターの登場だ。それでまた全身に、特に顔面に何度も火を押し付けた。さらに途中で片目だけダクトテープを剥がすと、巨大な生きたゴキブリを片目の前で見せつけてからまた片目のダクトテープを貼り直し、今度は口のテープを剥がして口の中に無理やり入れると顎を掴んでボロボロに折れた歯で強引に咀嚼させた。3人とも吐き出しそうになったがそれを許さず、咀嚼させたゴキブリが口に入ったままの状態で再びダクトテープで口を塞いだ。そしてペンチで3人の両手の人差し指を逆向きにへし折った。この時の悲鳴が一番大きかった。元父親の時と違って折る指を2本だけにしたのは『やり過ぎて死ぬ』と思ったからだろう。3人とも僕が確認できただけで2度失禁していたくらいだ。最後にキョーイチが3人に向かって「悪い子はおしおきされますよ」と声色を大きく変えて言ったところで動画は終わっていた。3人をいたぶっていたのは常にどちらかひとりだったので、もうひとりはこの動画を撮影していたのだろう。

 アイラはその動画を見てうっすらと泣いていた。

 そして

「ありがとう。これで本当にスッキリしたわ。私のトラウマが解消されそう」

 と2人に頭を下げた。

「この後は、拘束は解いてからこのままの姿で3人ともそれぞれ別々の場所に解放してやった。車は車内をしっかり清掃してから適当なところに捨てておいた」

「とりあえず、ネットを見てもテレビを見ても、いまのところはそれらしい事件を伝えるニュースはない。でもいずれは報道される。殺しじゃないからそこまで大きくでもないだろうがそれなりに騒ぐとは思う。そして警察沙汰になる。言いたくないが警察は優秀だ。いつ俺たちがやったとバレるかわからない。だからしっかり覚悟はしておけよ。お前のところに警察が来ると覚悟しておけ。そして本当にそうなったら常に堂々としておけ。あの家柄にうるさい両親のことだ、必死にお前を、というか家柄と世間体を守ろうとするだろう。だから今回の件だけについては徹底的に親と協力しろ。それと、お前から俺たちの繋がりも悟られないようにしろよ。俺たちの顔はあの3人には見せてないがそれでもお前が疑われて、お前の繋がりを調べられたら俺たちにたどりついてしまう。警察はそれくらいのことは簡単に調べる。だからとにかくお前は堂々としているんだ」

 アイラはしっかりうなずいた。

「これ、USBメモリに移してもいい? それならいいでしょ?」

 キョーリューは顔を見合わせる。

「まあ、それならいいか。でも絶対に見つからないようなところに隠せよ」

「フォルダに入れてしっかりしたパスワードをしておけ。間違ってもネットに上げたりするな。警察が来た時は破壊して捨てろよ。警察がいなくなってからだぞ。くれぐれも慌ててその場で壊して捨てようとするなよ」

 と怖い顔でアイラを睨む。

「そんなことわかってるよ。そんな怖い顔しなくても。でもあいつらは私のことを思い当たっても警察には言わないと思う。言えばあいつらが私にやっていたことだってバレるからね。あいつら進学校に行ってて、将来は医者とか、弁護士とかになろうとしているのよ。冗談みたいでしょ? 私にあんなことしてたやつらが。でもそんな過去が知られたらいろいろな意味でかなりの痛手になるからね。あくまでも私の希望的観測だけど」

 とアイラは皮肉っぽい笑みを浮かべながらUSBに動画を移し始めた。

「それは確かにお前の『希望』だな。希望を頼りにするな」

「お前、ちょこちょこ抜けているところや能天気なところがあるんだよな。本当に大丈夫か?」

 キョーリューにそんなことを言われながらも「大丈夫だって」とアイラはうなずく。

 そんなやりとりが終わるとリューイチが、

「さ、じゃあ生出しお願いします」

 とわざとらしく手をすり合わせた。

「わかってるよ。行こ」

「悪いなキョーイチ」

 リューイチはキョーイチにちょっと皮肉な笑みを見せる。今回はリューイチがと言っていたな。

「わかってる。早く行け。明日は俺だぞ」

 キョーイチが苦笑いしながら言うとアイラとリューイチは腕を組んで店を出て行った。

 場面が変わると学校が始まっていた。避妊具なしで性交したことなどもはや特別なことではないのか? そしてキョーイチが何か企んでいるような笑みでアイラに話しかけた。

「お前の家は防犯カメラとかがあったり、警備会社と契約したりしているか?」

 アイラは首を振った。

「そんなことしてないけど。どうして?」

「そうか。いかんなあ、金持ちなのにそういう無防備なことしてちゃ。それとも、逆に金持ちたる故の余裕かな?」

 リューイチもそう言ってやはり何か企んでいるような笑みを浮かべる。

「お前の出来の悪い親にも復讐しちゃおう」

「え?」アイラが驚く。

「出来の悪い親への怒りってのはよくわかるんだ。それとも嫌なのか?」

「そんなことないよ。やってほしいよ。でもどうするの? またボコボコにするの?」

 キョーイチは首を振った。

「いや、ついこの間暴れたばかりだからそういうのはマズい。代わりにをやってやる」

 とまたいやらしく笑む。

「お前の両親が大切にしている宝物みたいなものはないか?」

 リューイチが訊く。アイラは少し考えて

「お父さんはクラシックのレコード集で、お母さんはリビングに飾ってある絵画だね。よく知らないけどふたりともずいぶん気に入ってて、どちらもかなり希少価値があるものなんだとか」

 と答えた。

「なるほど、じゃあそれをやっちゃおう」

 キョーイチは手をひとつ叩いてそう言った。リューイチもうなずく。

「アイラ。嫌かもしれないが、お前の確実なアリバイ作りの為だ。休みの日に両親と出かけろ。一番に疑われるのはやはりお前だろうからな。そしてなるべく帰宅が遅くなるよう時間稼ぎにしろ。家の鍵は持っているな? 出かける前日に俺に預けろ。そしてお前ら家族がいない間に俺たちが家に入って……」

 アイラは言われた通り家族で出かける前日にキョーイチに家の鍵を預けた。翌日、両親と出かけるのは本当に嫌そうだったが、指示通り時間稼ぎをして帰宅を遅らせた。そして家に帰ると両親の悲鳴が響き渡った。父親の宝物のレコードは全て粉々に割られ、母親の宝物の絵画は切り刻まれていた。「誰だ! どうしてこんなことを!」と父親は泣き叫びながら髪の毛を掻きむしり、母親は半分気を失ったかのようにその場に倒れこんだ。アイラは両親のそんな様子を見て笑いを堪えるのに必死のようだった。

 アイラが疑われるんじゃないかと思ったが、そこはやはり親だからなのか、それともアイラを深く傷つけたということを自覚していないからか、アイラが疑われることはなかった。

 アイラはキョーリューの2人に

「ありがとう。またしっかりやらせてあげるから」と笑顔で言った。

 場面が変わった。アイラがアカからキョーリュー達の計画を聞いている。「うるさい教師共を黙らせる為に俺たちが主導権を握ろう、だって」アカがそう説明するとアイラは「面白そうね」と受け入れた。後はまた同じだった。山木先生のいじめに加担し、マスコミの取材にしおらしく答え、教室内でビールかけをした。


 そこで目が覚め、僕はやはり汗だくだった。

「アイラもなかなかだね」

 女神はすまし顔で言っている。

 僕は風呂に入った。今回は風呂に入る前に過去を見た。アイラも汗だくになるような過去があったわけだ。

 しかしリューイチの過去のダイジェストにはアイラをいじめていた3人を痛めつけるという場面はまったくなかったよな……元父親にもっと酷いことをしたことのある彼にとってはもはやその程度のことは特別なことではないのだろう。その神経が恐ろしい。そしてキョーイチもおそらく同じ神経を有しているのだ。リューイチの元父親を痛めつけた後の時のようにおどおどしていなかったのがその証左だ。アイラに気をつけろといろいろな忠告はしていたが、臆しているような様子はなかった。そしてアイラの過去に出てこなかったということはリューイチの時と同じようにアイラのところに警察は来なかったということか。そして意外と言えばいいのか、いかにもと言えばいいのか、アイラとキョーリューの3人はいわゆるセックスフレンドという関係だったのか。

 それにしても、アカにしろキョーリューにしろアイラにしろ、彼らの出来事を五感すべてでは感じないということは幸いだった、と湯船の中で思った。あの凄惨な空気感をもし全身で感じていたらと思うとゾッとする。

 風呂から出た後、僕はしばらく腕組みをしていたが、女神に

「なあ。俺の学校の生徒で家庭環境に重大な問題がある、もしくはあった生徒はどれくらいいる? それから……簡単に悪行を行えるような人間になるほど人生に悪影響を与えるような経験をした生徒もどれくらいいる?」

 と訊いた。女神は少し考えてから答えた。

「8割以上いるね」

 8割以上……

 今度は僕が少し考えてから訊いた。

「俺のクラスだけではどうだ?」

「9割いるね」

 地獄行きの割合と同じだ。

 どうして学校をサボったりするやつがいないのか、どうして早く登校して来るのかがいまわかった。みんな家庭に居場所がないのだ。だから学校に早く来て気の会う連中に早く会いたいのだ。

「うちのクラスのやつらは9割は地獄行きだと言ったよな? どれくらいのレベルの地獄か……は言えないんだよな」

 僕はしばらく考えてからこう訊いた。

「うちのクラスで一番の”ワル”は誰だ?」

「いまのところはリューイチだね」

 女神は即答した。

 おそらくキョーリューのどちらかだろうとは予想していた。リューイチだったか。それならリューイチがどれくらいのレベルの地獄であるのかがある程度でもわかればリューイチを基準にして僕のクラスの他の連中がどれくらいの罪を犯しているかもある程度わかる。

 僕はまた考えてから言った。

「リューイチは”凶悪犯”か?」

 これなら答えられるか? 女神は少し考えてから

「酌量等から考えて、いまのところは違うね。でもほとんど毎日何らかの悪行を犯している。それらひとつひとつは大きな減点ってわけでもないけれど、それをこれからも積み重ねていったら……どうなるかわかるよね?」

 と答えた。僕はうなずいた。

 クラスで一番の悪者であるというリューイチはいまのところは凶悪犯ではない。ということは他のクラスメイトも少なくとも重罪は犯していないということだ。

 いろいろなことが釈然としなかった。僕が見たあの”現実”は一体なんだ? しばらくテレビでぼんやりとアニメを観ていたがノートパソコンで昔のことをあくまでも自分で調べられる範囲でだけど調べてみた。するとアカの言っていた通り、昔は殺人事件がいまより何倍も多かったということがわかった。動機もよくわからない不可解な殺人や猟奇的殺人も多いし少年犯罪も多い。警察などの捜査もいまに比べてはるかに杜撰だった。そして「昔は良い時代ではなかった。いまより危険な時代だった」「昔はいまに比べて道徳心や順法意識の低い時代だった」という類の書籍やトピックや情報源ソースのしっかりしたブログもけっこうある。むしろ現在いまはもっとも安全な時代と言っても過言ではない。少なくとも、現在いまがもっとも危険で最悪な時代というわけではない。いつの時代も理不尽で不可解な犯罪が横行していた。そしていつの時代もなぜか昔を美化して羨み、現在いまを嘆き、未来を憂えているということもわかった。つまり普遍的な問題なんだ。犯罪だけではなく、戦争や紛争やテロ、差別や迫害、不正や汚職、貧富の格差や貧困、そして虐待やいじめなども。

「なあ、女神」

 僕は女神に強く呼びかけて言った。

「どうして神を信じない人間が多いかわかるか?『揉め事や争いごとを止めてこの世に安寧をもたらすのは人間に与えられた課題』だかなんだか知らないが多くの悲劇や不幸が真面目に生きている人たちに降りかかっているのにお前らが何もしてくれないからだ。神様がいるのならこうした不幸になった真面目な人達、誠実な人達を救ってくれるはずだ。なのに神様が何もしてくれないからだ」

「そうやって僕らのせいにしていればいいさ。でもそんなんじゃあいつまでたっても何も解決しないけどね」

 そんな淡白な回答が返ってくると予想していた。予想通りだった。不満そうな言い方ではあったが。

「でも子供の頃にこんな酷い環境で、こんな残酷な仕打ちを受けていて、まともに生きろという方が無理があるだろ?」

「だから酌量の余地というものを考慮したうえで減点の点数を決めているんだよ。それに彼らのように残酷な環境で育ったとしても真面目に生きている人間も沢山いるんだ。だから特別扱いなんかできない。そして何より、どんな過去や事情があろうがまったく無関係の罪のない人を傷つけることや不幸にすることが許されるわけないだろ? 君はいじめられているけど『あんな残酷な過去があるなら仕方がない』といじめられていることを受け入れるのか?」

 正論だ。確かに無関係な僕や重雄や林さんをいじめて良い理由になんかならない。

 プライドのちっさい女神はムキになって部屋中を飛び回りながら続ける。

「君はもう、酌量の余地というものがわかってしまったからはっきり話すけどね、アカもキョーリューもアイラも”報復行為による減点点数”はとても低かった。酌量の余地が大きくてね。報復した相手が無関係な罪のない人ではなくて報復されても仕方がないような人間だったからね。でもその後は無関係の人を傷付け、不幸にしている。この行為の酌量は小さい。ただ君の言う通りあまりに残酷な過去があるから減点に少しだけ手心を加えている。カバ子や重雄もにもし報復していても酌量が大きくて減点点数は低かっただろう。これらは不当な判断だと思うかい?」

 僕は唇を固く結んで強い鼻息をゆっくりと吐いた。

「……いや、妥当な判断だな」


 月曜日の朝、いつものトンネルで

「図書カードはないし金も500円しかない」

 とキョーリューに告げた。今日の願いは既に叶えた。図書カードを願うことはできない。

「あっそ。じゃあしっかりいじめられろ」

 とキョーリューに言われてしっかりいじめられた。もっとも、もう友達料は無意味なわけで、いつもと変わらないのだけれど。

 キョーリューの2人はいままでの計略が全て上手く行き過ぎている。警察に捕まることもなく、世間を上手く騙すこともできて、完全に図に乗っているんだ。何もかも自分たちの思い通りになると勘違いしている。そして生徒が学校を支配している。キョーリューだけじゃなくクラス全員、いや、学校の生徒全員が増長しているのだ。このままじゃあいじめがなくなることなど決してない。もちろんいじめ以外の悪行も続くだろう。

 いつものようにいじめられながら思った。お前らはなんだ? 何があったんだ? 僕をストレス解消の道具にしなければならない何かがあるのか? いじめられていたのか? 親に虐待されていたのか? 逆に過保護に育てられたのか? それとも他の何かがあるのか? なぜそんなに楽しそうに悪行ができるんだ? 女神が言った通りだ。お前たちに何があってどんな理由でこんなことをするのかわからないが、僕にはそんなことはまったく関係ないんだぞ。例えばだ、僕は勉強が苦手だから歴史というものをよく知らないけれど、もし仮にあのヒトラーに残酷で不幸な過去があったとする。だったら彼の所業が許されるのか? いや、そんなことはない。まったく無関係の多くの人達を不幸にした。許されるわけがない。最高レベルの地獄行きで当然だ。

 そう考えると僕の胃の裏側あたりがフツフツと沸きあがってきた。お前らが僕にやっていることは絶対に許せない! そう思った瞬間、体が勝手に動いた。僕にコブラツイストをかけていたエイジを振りほどいた。それと同時にエイジが「うお!」とよろめいて、2メートル程後退してから仰向けにぶっ倒れたのだ。

「え?」

 僕は思わずそう声が出た。周りで見ている他の連中も「え?」「あれ?」という声を出した。なんだいまのは? バランスを崩してよろめいた、という感じじゃあなかったぞ?

明らかに僕の力に押されて倒れたという感じだった。「てめえ……」と、エイジは起き上がって僕の胸倉を掴み腹部を殴ってきた。苦しかったがそうでもない気もする。キョーリューの2人に比べれば大したことはないぞ。半袖シャツ姿のエイジをよく見てみると細い。姿格好こそ不良だがその体はか細い。なぜいままでこんなことに気がつかなかったんだ?  

 ひょっとして、いままで『何をやっても自分なんかがこんな連中に敵うわけがない』と、勝手に思い込んでいただけなのか? それとも筋トレの成果なのか? キョーリューに比べれば大したことないからか? とにかくいままでになかったことが起こった。

 家に帰ってから相変わらず浮遊している女神を見ながら考えた。アニメを点け流しながら必死に考えた。アニメの内容は入ってこなかった。筋トレしながら必死に考えた。昨日と同じメニューの筋トレができた。風呂に入りながら必死に考えた。長風呂でのぼせてしまった。

 考えろ。この女神を利用して、出来ることがあるのにそれに気がついていないことがまだあるはずだ。できないと勝手に思い込んでいることがあるはずだ。自分のできることがあるはずだ。もう一度、女神の願い事の制限と女神の言ったことをよく精査してみるんだ。

 すると、ふっとあることに気がついた。

「そう言えばお前――」



                  3


 水曜日の朝、僕はいつものトンネルに行く。いつものような重い足取りではなく、しっかりした足取りでだ。昨日は学校をサボった。学校を休むことを母に告げた時、「学校なんて行きたくないなら行かなくていい。中退して働くか?」といかにも元ヤンキーらしいことを言っていた。

 僕を見るなりリューイチは

「どうして昨日休んだ? お前まで不登校になったかと思ったぞ。それにまた着信もラインも無視しやがって」

 と凄んで来たが、それを無視して僕は力強く言った。

「言いたいことがある」

「あ?」

 リューイチの顔が険しくなるが無視して続ける。

「俺にはいま”願い事を叶えてくれる女神”がついている。神がいるということは天国や地獄という死後の世界も存在するということだ。そして、残念ながらお前たち2人は地獄行きだそうだ」

 リューイチは呆気に取られたようにぽかんとしていたが、そのぽかんとしていた口の両口角がゆっくりと上がっていき、

「ははははは!」

 と大声でわざとらしく笑い始めた。

「おいおい、どうするキョーイチ? こいつ、ついにおかしくなったぞ! やり過ぎたか? それとも、変な宗教にがっつりハマったか?」

 そう言ってひとしきりわざとらしく笑った次の瞬間、

「ふざけるな!」

 と恐ろしい顔になって僕の胸倉を両手で掴み、背中を欄干に押し付けた。もの凄い力だ。いままでで一番強い力かもしれない。

「だったらその願いを叶えてくれる女神とやらにいまこの状況を助けてくれるように頼んでみろ!」

 まあ、こういう反応になるよな。僕が口を開きかけたその時、

「いや、リューイチ。ちょっと待て」

 とキョーイチが真顔で口を挟んできた。

「なんだよ?」

 僕を睨みつけながらリューイチは訊く。

「最近、確かにこいつからおかしな感じがすることがあるんだよ」

 霊感があるキョーイチは真顔で言った。

「なんだ? お前こんな話を信じるのか?」

 リューイチがキョーイチの方を向いて言う。

「いや、そういうわけじゃないけど……でもここ最近のこいつは変だ。左手に傷痕ができたかと思ったらそれと同時に亜由美の左手の傷痕が消えていたり、右手を深く切ったはずなのにすぐ治ったり、他にも上手く言えないけど……とにかくなんだか変な感じがすることがあるんだ」

 キョーイチが僕の前でこんなに真剣な顔で話をするのは初めてだ。

「それらは全て俺が女神に願ったことだ! 図書カードだって女神に願っている。考えてみろ、いくらなんでもあんなに頻繁に貰えると思うか?」

 キョーイチが、まだ恐ろしい顔で僕の胸倉を掴んで離さないリューイチの肩を無言で、それでいてしっかりと叩いた。リューイチはまったく納得できていないようだったが、とりあえず手を離した。キョーイチに助けられるとは思わなかったな。

 僕は一呼吸置いてから

「クラスのみんなの前で話したいことがある。学校へ行こう」

 と学校へ向かって歩き始めた。「おい!」というリューイチの声がするが僕は有無を言わせない足取りで学校に向かった。考えてみたら僕が2人を学校へ急かすのは初めてのことだな。

 2年生の昇降口に着くとカバ子さんが壁にもたれかかって渋い顔で腕組みをしていた。ちゃんと約束通り待ってくれていたようだ。

「おはようございます。お願いします」

 と僕は頭を下げた。カバ子さんは渋い顔のまま、「ああ……」とうなずいた。「なんだお前?」とリューイチがカバ子さんに訊いたが、カバ子さんは無言でついてくる。キョーリューは不可解な顔をしながらもそれ以上カバ子さんを追及することはしなかった。今日のカバ子さんからはいつもとはまた違った異様な緊張感が漂っている。そしてそのまま4人で教室に入った。

 林さんの姿はない。ほっとした。こちらもちゃんと約束を守ってくれたか。

 クラスの皆はカバ子さんもいることに「なんだ?」という顔をしている。アカの顔つきが少し青くなった。が、そんなことはどうでもいい。僕は教壇に立った。僕が口を開けるその前にキョーイチが大声で言った。

「おい! 全員、静かにしろ! 信矢くんからお話があるそうだ! 何を言うのか、しっかり聞いてやれ!」

 クラス全員の「なんだ?」という視線が僕に集まる。リューイチはふてくされた顔でだが、黙って僕を見ていた。僕は隣にいるカバ子さんをチラリと見た。カバ子さんは軽く頷く。

 僕は大きく息を吸って、しっかりとした声で言った。

「俺にはいま願い事を叶えてくれる女神がいる。神がいるということは天国や地獄という死後の世界も存在するということだ。そして残念ながらみんなは地獄行きだそうだ」

 先程のリューイチと同じように、みんな呆気に取られてぽかんと口を開けている。そしてやはり先程のリューイチと同じように両口角がゆっくりと上がってきた。いまだな、と、僕は口を大きく開けて、はっきりとした声で言った。

「女神、今日の願い事だ。姿!」

 次の瞬間、皆の視線が僕の右上辺りにいっせいに移動した。

 女神は言った。

「おめでとうございます。あなたは幸運な人です。私は願い事を叶える女神です。まずは私の存在を信じて下さい。全てはそれからです。私の存在を信じてくれた者の願いをひとつだけ叶えるのです」

 皆が唖然と口を開けている。さきほど僕の言ったことに対して呆気に取られている口の開け方とはまったく違う。

 まったく、どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう? やっぱり頭が悪いんだな僕は。


 一昨日の夜。

「そう言えばお前、『自分の姿が俺以外の他の人に見えるようにはできない』とかそういう制限はなかったよな?」

 僕がそう訊くと、女神は片手で顔を覆って天を見上げた。

「あちゃあ……そこに気がついたか。いちばん気づかれたくないことに気づかれてしまった……」

 いや、というか、どうしてこんな簡単なことにいままで気がつかなかったんだ? 考え付かなかったんだ? こいつの存在を皆に知らしめてやればいいんだ。そして地獄というものが実際にあって、このままでは地獄行きだと信じさせれば彼らの悪行も、もちろんいじめもなくなるんじゃないのか。

 そして、だ。

「お前は最初『』と言ったはずだ。それは相手が誰であっても、お前が現れて、お前を信じた者の願いは叶えるということじゃないのか? そして多人数からの願い事であってもお前に願い事ができる、違うか?」

「頭の悪い君ならそのあたりのことは気がつかないと思ったのになあ……いちばん気がつかれたくないことだったのに……」

 女神は嘆いている。僕は続ける。

「お前は、『僕は人を選んでその人の前にだけ現れる。真面目な人の前にだけしか現れない』とは言った。でもそれはあくまでもお前のであって別に真面目じゃない人間の前にも、いや、どんな人の前にも現れることは可能なんじゃないのか? 実際、『真面目ではない人間の前には現れることはできないし願い事も叶えることはできない』なんて類たぐいの制限はない」

「あーあ……全部気づかれた……」

 女神はそうため息を吐く。

 僕が自分で勝手に、女神は自分以外にはどうあっても見えない、現れない、願いも叶えない、と思い込んでた。アニメや漫画なんかではそういうパターンが多い。女神の『君の前にだけ現れた』とかいう言葉にすっかり誘導されてしまっていた。こいつは、『他の人の前に現れることができない』なんて一言も言っていないのだ。

 そうか。だんだんはっきりわかってきたぞ。

「お前を、願い事を叶える女神を他人の前に現すということは『他人を救うこと、助けることはできない』という制限に引っかかるか? いや、ならないだろう。俺はただお前を皆の前に現してやるだけなんだ。何より願い事の制限が多くて救いや助けになるとは限らないからな。実際、俺だっていじめから救ってほしいといういちばんの願いを叶えてもらっていないんだ」

 女神は渋い顔で「そうだね」とうなずく。

 そして、だ。

「ちっさいお前のことだ。ショボい神だとか願い事のスケールが小さいとか思われるのはプライドが許さない。それで『どうせ制限があって大した願いは叶えられないんだし、不誠実な人間の願いを叶えることや多人数の願いを叶えることくらいはまあいいか』とか考えたんじゃないのか?『何回でも願い事が叶う』ということを復活させた時と似たような経緯だったんじゃないのか? そして、おそらくだけど、多人数の前に現れて、多人数の願いを叶えるということは面倒臭いことなんじゃないのか? だから俺に気がつかれないようにしていた」

「まあね」

 女神はこれまた渋い顔でだが素直にうなずく。

「それでも、いくら制限が多くあるとはいえ真面目な人間の方が”リスク”が少ないから真面目な人を選んでいるんだよ、僕は」

 さらに女神は

「何人もの願いを叶えることはできるけど、君の言う通りそれってけっこう面倒臭いことになるかもしれないんだよね。だから気付かれないよう気をつけていたのにな」

 とため息混じり言う。もう『こいつ本当に神か?』と思うことさえ飽きた。

「それにね、多くの人間がいると何がなんでも僕を信じないという人間も必ずと言っていいほどいる。それは僕のプライドが許せないから嫌だった」

 もう『ちっさいやつだ』と思うことさえ飽きた。

 しかし、ひとつ気になる疑問があった。

「もし、何人もの人が『何回でも願い事を叶えられるようにしてくれ』という願い事をしたらどうするんだ?」

「そうだよ。それが面倒なところなんだよ」

 女神が声高になる。

「分身してその人達に一生ついていないといけないからね」

「分身? そんなことができるのか?」

「できないなんて言ってないだろ? 僕は神なんだよ? それくらいのことがどうしてできないと思ったの?」

 こういうところも相変わらずだ。

「そんなに面倒なことなのか?」

「面倒なことに決まっているだろ。人間で言えばそうだな……何台も電話があるオフィスで1人で電話番をする、ってところかな」

 わかるようなわからないような……

 しかしとにかくできるんだ。それなら―― 


 と、僕はみんなの前にこの小ちっさい女神を現したのだ。

「さあ、私を信じてください。そしてあなた達の願い事を言ってください」

 と女神は神々こうごうしく両手を広げてそんなことを言っている。考えてみたらこいつの大きさをいまのサイズに変えておいてよかった。最初のあの小さな姿だったら僕の部屋よりずっと広いこの教室では目立たなかっただろう。しかし、いまその教室は静まり返っている。

 しばらくして

「こんなの嘘よ……」

 という声がした。

 そしてその声に誘発されたように

「そうだ。お前、何をやった!」

「どんな手品だ?」

「集団催眠?」

「プロジェクターだ! いまは小さくても、はっきりと映るプロジェクターがある!」

 と、次々とそんな声が飛んでくる。やっぱりこうなるよな。しかし、だ。そういう態度だとこのちっさい女神は……

「嘘じゃない! 僕は神だ! どうして信じないんだ!」

 と、キンキンする大声でそう叫ぶと教室中をかき回すかのようにめちゃくちゃに飛び回り始めた。みんなその動きをあんぐりと口と目を開けて見ている。この女神の小ちっささが役に立つときが来るとは思わなかった。

「こんなことできる人間がいるか? これがプロジェクターの映像や手品や催眠や夢や幻に思えるか? 僕は神だ! 信じないと願い事は叶えてやらない!」

 キンキン叫びながら教室中を暴れるように飛び回る。いいぞ、そうやってムキになってお前のちっさいプライドを皆に振り撒いてやれ。お前がそうやって教室中を飛び回るほどお前が幻だの手品だのじゃなくて本物だと信じるやつは多くなる。こいつがこんなふうにちっさいやつじゃなかったら、いかにも神らしい真摯で慎ましく、そして神々こうごうしい神だったら、逆に信用するやつは少ないだろう。

 さらにはこういう行動をするやつならみんな混乱する。思考もまともじゃなくなるだろう。僕がそうだったように。そうなることも計略のうちだ。

「スマホに写らない!」

 アイラがスマホのカメラを女神の方に向けてそう叫んだ。

「そんなものに僕が写るもんか!」

 女神はムキになって叫ぶ。

「まさか本当だったのか……」

 キョーイチが唖然としながらつぶやいた。そして、

「俺は信じるぞ!」

 と叫んだ。意外にもキョーイチが最初に信じた。霊感があるからだろうか? すると、それに同調されたように

「俺も信じる。願い事を叶えてくれ!」

「私も信じるわ。願いを叶えて!」

「信じるよ!」

「信じるわ!」

 と言う声が次々に起こった。クラスを締めているキョーイチが最初に信じたことが功を奏することになったようだ。リューイチまでもが、

「信じるよ……」

 と呆然としながらつぶやくように言った。

「おや? 全員が信じてくれましたね。当然です。私は神なんですから。それではあなた達の願い事をひとつずつ叶えましょう」

 全員が信じた? それは意外だった。全員が信じることはないだろうと思っていた。そうなったら女神は全員が信じるまで鬱陶しく飛び回っていただろう。そうなった時のことも想定していたのだが……

 でもまあ全員が信じたのならそれに越したことはない。

「しかし、願い事に責任を持ってもらう為、叶えた願いは撤回できません。それをよく心得ておいて下さい」

 女神は例の制限を言い始めた。

「そして叶えられる願い事には以下の制限があります」

 制限をひとつひとつ言う度に皆の顔が「はあ?」という感じで白けていくのがわかる。そしていろいろと混乱している。よし、叶えられる願い事のスケールの小ささも有益に働いている。この間に、と僕はカバンからチスタガネを取り出した。母に手渡されたあれだ。それをカバ子さんに手渡す。

「本当にいいんだな?」

 カバ子さんは神妙な顔で訊いてくる。

「はい。昨日話した手はず通りにお願いします」

 僕はカバ子さんを見ながら強くそう言った。

 早く次に移ろう。僕は黒板に、手早くあることを書いた。皆がまだ混乱しているうちに早く進めなければ。勘のいい人がいて『何回でも願いを叶うようにしてくれ』と言われたら女神の言う通りやっかいなことになるだろう。とにかく考える隙を与えてはいけない。

 女神が制限を言い終えた。皆、やはりぽかんとしている。

「それで何を願えと?」

 という声が聞こえた。

「しっかり考えるんだね」

 女神が偉そうにそう言ったとき、

「お前ら! これを見ろ!」

 そうカバ子さんが怒鳴った。白け顔の皆がこっちを向く。カバ子さんは僕の左手首を掴むと僕の手を教壇の上に置いた。僕は左の手の平を広げる。そして覚悟を決めて広げた左手をぐっと直視した。

「うらあ!」

 カバ子さんは大きく手を振りかぶって満身の力でチスタガネで僕の手の平を突き刺した。

「ぐあ!」

 僕は叫び声を上げた。激痛だ。当たり前だが激痛だ。こんな痛みは初めてだ。血があっという間に教壇の上に広がっていく。チスタガネが手の平を貫通した。意識が朦朧とする……が、しっかりしろ! と自分に言い聞かせ、歯を食いしばった。

 教室中に

「うわ!」

 とか

「キャー!」

 とかいう悲鳴が響き渡る。これは山木先生を貶めた時の悲鳴とはまったく違う、本物の悲鳴だ。

 カバ子さんはさらに、なんとか激痛に耐えている僕の血まみれの手を持ち上げ、突き刺さっているチスタガネを手から引き抜いた。僕はまた激痛に顔を歪める。手からは大量の血が溢れ出る。教室中からまた本物の悲鳴が起こった。カバ子さんは昨日僕が頼んだ通りにやってくれた。


 僕はセミが激しく鳴く中、呼び出し場所まで自転車で汗だくになって急いで向かっていた。学校が終わった時間を見計らってライン電話でカバ子さんに連絡した。場所は普段は人気のない公園を選んだが、小さな子供とその親らしき人がいた。これはもう仕方がないことだ。

「おう。どうしたよ」

 僕が着くと、僕が挨拶する前にカバ子さんは少し驚いた顔で訊いてきた。

「すみません、わざわざ」

 僕がぜえぜえ言いながらそう言うのを見て

「落ち着けよ」

 とカバ子さんは苦笑いした。

「今日は学校をサボったんです」

 少し落ち着いてからそう言うと

「お前が学校をサボった?」

 とカバ子さんは驚き、

「真面目なお前が? まさか不登校になるつもりか?」

 と訊いていくる。僕は首を振った。そして、息が完全に落ち着くと大きく息を吸ってからゆっくりと言った。

「僕にはいま、願い事を叶えてくれる女神がいるんです」

「……は?」

 カバ子さんは当然の反応をした。

「おい、女神。今日の願いだ。木村奈々さんの前に姿を現してくれ」

 その瞬間、カバ子さんのただでさえ大きな口が

「え!」

 と大きく開き、小さな目はいつもの倍以上に広がった。女神は僕の前に現れた時と同じ口上を言ったが、やはりカバ子さんも

「何これ! 嘘でしょ!」

 と、大きな声で言う。もちろん女神は「嘘じゃない!」とキンキン声でカバ子さんの周囲を飛びまわった。「え? え?」カバ子さんは大声でそうパニックになる。公園の親子が「なんだあれ?」という感じでこちらを見ている。

 しばらくしてカバ子さんは女神のことを信じて、制限に白けた。僕はいままでの経緯をすべて事細かく語った。カバ子さんはまだ混乱しているようだが、僕が”計略”の詳細を説明して、それに協力してほしいと頼むとさらに混乱した。

できるわけないだろ……」

 珍しく弱々しい声でそう言った。でもまあそれが当然の反応だろう。

「どうして私に頼むんだよ?」

 困惑した顔を僕に向ける。

「カバ子さんが一番適任だからです。心配しなくても、カバ子さんが罪になることは一切ありません」

 昨日、前もって女神に確かめておいた。僕に被害者意識がまったくなければ罪にはならない。重雄が僕の手を切ってしまった時と同じだ。

 さらにこういうことも訊いた。

「カバ子さんに頼んでやってもらう。自分で自分を傷つけるわけじゃない。たとえこちからか頼んだとしても最終的な判断をしてやるかどうか決めるのはカバ子さんの意思だ。そして実際にやるのもカバ子さん自身だ。つまり結果的には自分の意思で自分を傷つけるわけじゃない。これは自傷行為にはギリギリならない。違うか?」

「君、屁理屈が上手くなったね。将来政治家にでもなってみる?」

「ちゃかすなよ。自傷行為になるのか? ならないのか?」

「まあ確かにそういう理屈ならならないよ」

 とそんなやりとりをした。

 カバ子さんは

「そりゃ罪になったら困るよ」

 ともう笑うしかない、という感じで笑った。

 困惑しているカバ子さんに僕は力強く言った。

「カバ子さん、恩着せがましいこと言いたくないですが、僕に恩を感じると言ってましたよね。これを恩返しにしてくれませんか?」

「それが恩返しか?」

 カバ子さんは大声で言って苦笑いする。

 でも僕は真顔で続ける。

「もうひとつ、頼みがあるんです。皆が女神のことを信じてくれるとは思えません。そうしたらこの女神は、全員が信じてくれるまでさっきみたいに暴れまわるでしょう」

 と、女神を見ると「ふん!」とふてくされたようにソッポを向いた。

「その時は『信じた人だけの願い事を叶えてやってくれ』と女神に願って下さい。僕はもう願いを言っている状況だから、願い事はできないので」

 しかし、全員が信じたのでその願いを叶えてもらう必要はなくなった。

「ただ、カバ子さんの願い事ができなくなってしまいますが……」

「いや、それより、までする必要があるのか?」

「あります」

 僕はきっぱりと言った。

「僕だってずい分迷いましたよ。でもやるしかないという結論になりました。何人が女神を信じて、何人がカバ子さんの言うことに素直に従うかはわかりません。でも全員でなくていいんです。5、6人でも2、3人でもいいんです。たとえそれくらいの人数でも、が起これば信じなかったやつらもさすがに信じるでしょう」

「そりゃ、たとえ少人数でも、そんな気持ちの悪いことが起こればなあ……」

「そうです。それがになるんです。24時間以内に女神を信じなかったり、願い事を言わなかったりしたらこいつは消えます。ただ単にこの女神が現れて、暴れまわって、白けるような制限を言っただけでは女神が見えなくなって冷静になってからいろいろと難癖をつけてくるでしょう。だからそんなが必要なんです」

 そう力説するが、カバ子さんはまだ迷っている。僕は少し考えてから言った。

「カバ子さん、女子プロレスラーになる為には、これはきっと良い経験になりますよ?」

 カバ子さんは一瞬、『は?』という感じの顔でキョトンとしたが、次の瞬間大声で笑った。

「よし、わかった。その役を請け負う。段取りをしっかり確認しよう」


 悲鳴が響く中、カバ子さんが黒板をぶっ叩いて恐ろしい顔で

「オラァ! いいか! 全員をいっせいに言うんだ! わかったか! 言わないやつは私が痛い目に遭わせてやるからな!」

 と地鳴りのように怒鳴った。すると全員静まった。さすが女子プロレスラー志望。とんでもない迫力だった。僕でも手の痛みを一瞬忘れて驚いたくらいだ。混乱しているいまのみんながビビらないわけがない。そして何より、いま僕の手を突き刺すなんて恐ろしいことをした人がそんな物騒なことを怒鳴っているのだ。これ以上恐怖感を与える人もいないだろう。キョーリューでさえびくりと肩を躍らせていたくらいだ。やはりこの人に頼んで正解だった。

「いいかあ! せーのでいっせいに言え! 言ってないやつはここから見ていればすぐにわかるからな!」

 皆、戸惑いと怯えの混ざった顔でカバ子さんを見る。

「いくぞ! せーの……」

 しかし、みんな呆然自失で固まってしまっている。

「オラァ! どうした!」

 カバ子さんが先ほど以上の怒声を発してまた黒板をぶっ叩いた。

「そうか……」

 とカバ子さんは僕の血が付いたチスタガネを振り上げた。

「どうやら全員、痛い目に遭いたいらしいな……」

 そう恐ろしい顔で言って脅迫的な凄みを効かせると「ひっ!」という悲鳴が聞こえた。

「もう一度だけチャンスをやる! を言うんだ! 次はないぞ! 私は本気だ! 痛い目に遭いたくなかったら言え!」

 ガタガタ震える男子や、涙目になっている女子もいる。

「いくぞ! せーの!」

『藤崎信矢の傷を代わりに受けます』

 よし、今度は小さな声ではあったがそう言う声が確実にクラス中から聞こえた。いまこれだけ混乱しているこの場で、さらにカバ子さんに脅されているこの状況で、を冷静に判断できるやつがこの中にいるとは思えない。そして言わないやつが多いとも思えない。それでも実際には何人が言うのかわからない。僕が林さんの傷を代わりに負った時と同じように”自己犠牲”というはっきりとした言葉や文言を言わせようとするとこんな状況でもさすがに警戒されると思った。そこで結果的に自己犠牲と同じ意味合いになる文言を考えた。女神にもちゃんと確認しておいた。『それなら大丈夫だ』と女神は言った。しかし実際には何人が言ってくれたか……

「その願いを叶えましょう」

 女神がそう言った瞬間、僕の左手の傷と痛みが消え、クラスの全員が大きな悲鳴を上げて左手を押さえた。え? 全員が言った? 誰か言ってないやつもいるのでは? いや、全員左手を押さえて悲鳴を上げている。それに激しく血が出ている。これも意外だった。

「願い事を叶えたので私はこれで……」

 女神はそう言った。どうやら皆の前から消えたようだ。

 僕ははっとして次の行動に移った。

「みんな聞いてくれ!」

 大声でそう言うとみんな顔を大きく歪めながらもなんとか僕の方に顔を向けてくれた。 

には以下の意味がある。

 ひとつ、みんなどれくらいの地獄レベルかはわからないが、いまのところは地獄行きだ。でもおそらくそこまで高レベルの地獄に行くわけではないと思う。あの女神を見て、そんな怪我をして、こんな痛みを感じたら、さすがに神だとか天国や地獄という存在も信じただろう。その事をしっかりと心得てもらっていま以上にレベルの高い地獄に行かないようにこれからはもう悪行をしないでもらうこと。

 ひとつ、これは自己犠牲というものだ。この自己犠牲という善行によって少しでも加点してもらうこと。これで地獄レベルが下がる人もいるかもしれない。人殺しやレイプなどの凶悪犯罪者はどれだけの善行を積んでも高レベルの地獄行きは避けられないそうだが、幸いこの中にはいないみたいだ。それならこれから必死に善行を積めば天国に行ける人もいるかもしれない。

 ひとつ、これは俺自身からみんなへの”復讐”だ。いままでみんなから直接的、間接的にいじめられた。そのいじめに対する復讐だ。これでいままでのことは許す。

 以上だ」

 言い終わるとみんな、キョーリューの二人でさえ怯えたような顔で僕を見ていた。

 そして次々と

「地獄行き?」

「地獄レベルって何?」

「善行を積む?」

「自己犠牲?」

 などという疑問が皆の口から出始めた。さらに混乱しているようだ。

「早く病院へ行ってくれ」

 僕はそれだけ言うとカバ子さんに「行きましょう」と言って教室を出た。さらにそのまま学校も出る。どうせ今日は学校は大混乱だ。授業になんかならない。 

「大丈夫か?」

 カバ子さんが青い顔で訊いてきた。

「大丈夫です」

 僕はそう左手を振ってみせた。

「もうなんともないでしょ? 心配するなら他の連中ですよ」

 カバ子さんはうなずいて

「まあそうだな。しかし、本当に凄いな」

 と女神を見た。この女神を凄いと言うとは。まあ、この女神の正体をよく知らないからな。カバ子さんの言葉に女神は気分良さそうに胸を張っている。

「お前も大したものだぞ。感心した」

 僕を見ながらそう言ってくれた。

「しかし、全員が私の言うことに従うとは思わなかったな。1回目は誰も言わなかったのに。あの時は内心焦ったぞ」

 確かに。ただ、1回目の時はみんなパニック状態で固まっていたのだ。それでも2回目で全員が言うとは思ってもなかった。

「僕も驚きました。カバ子さんの脅しの迫力お陰ですよ」

 カバ子さんは「それ褒めているのか?」と苦笑いする。そして「しっかり段取りをやっておいて良かった」とほっとしたように息を吐いた。

「しかし、約束を破ったことになるな。『私の言うことを聞かないと痛い目に遭わせてやる』と言っておいて、全員が言うことを聞いたのに全員が痛い目に遭ってしまった……」

 カバ子さんはそう顔を曇らせた。怒らせたら怖いけれど、心根は本当は優しい人なんだよな。

 僕は鼻でひとつ息を吐いてから言った。

「カバ子さん、女神に願い事があるなら言ってください。さきほど言う必要がなかったので、まだカバ子さんは願い事を叶えられます。24時間以内に言わないとこの女神は消えてしまいますから」

 カバ子さんは口を曲げて女神を見たが、

「いや、別にいいよ。あれだけの制限があったら頭の悪い私には何も思いつかない」

 と、すぐに首を振った。が、その顔の眉間に皺が寄った。

「なあ? 頭の悪い私がいまふっと気がついたんだけど、皆がこの女神を信じなかったときは、『信じた人だけの願い事を叶えてやってくれ』と私が女神に願うんだったよな? それって叶えられない願いじゃないのか?『人の願い事を叶えてやってくれ』てのは、他人を救うこと助けることはできない、という制限に引っかかるんじゃないのか?」

 あ! と思った。確かにそうだ。女神を皆の前に現すだけなのとは違って、ということは他人を救うことや助けることに繋がりそうだ。女神に確かめる。

「そうだね。確かに叶えられないね」

 と女神は平然と言う。

「じゃあ全員が信じてくれなかったら……」

 僕が愕然とそう言うとカバ子さんは

「都合良くいったな」

 と大きな安堵の息を吐いた。

「でも、例え信じなかったとしてもこの女神があれだけ暴れ回ればそれなりに効果はあったと思うぞ私は。あの場では強がって女神を頑なに信じようとはしないが、内心は天国やら地獄やらの存在を少なくともいままでよりは信じるようになっていたんじゃないか?」

 そうだろうか? だったらなんて不要だっただろうか? と、僕は自分の左手を見た。が、すぐ首を振った。いやいや、必要だった。いじめていた連中への復讐として必要だった。そう僕は必死に自分を納得させた。

「それと亜由美にはまた私から連絡しておく。それでいいよな?」

 とぼんやりとしていた僕にカバ子さんはそう言ってくれた。はっとして、確かにカバ子さんに頼む方がいいなと思い、うなずいてから僕は言った。

「はい、お願いします。今日は本当にありがとうございました」

 と頭を下げると「じゃあな」と手を振って帰って行った。カバ子さんも今日はサボりだ。


 昨日、カバ子さんから林さんに連絡してもらって今日学校に来ないようにと説得してもらった。無関係な林さんを巻き込むわけにはいかなかった。でも真面目な林さんはなかなか納得しなかった。するとカバ子さんは女神のことを話し始めた。これには本当に驚いた。

「信じられないか?」

 というカバ子さんのその言葉に林さんはしばらく無言だったみたいだが

「いえ。信じます。私の左手首の傷痕がいきなり無くなったのも、そういうことなら納得できます」

 と言ったそうだ。


 僕はそのまま家に帰ったが、それでめでたしめでたしではなかった。家に帰るとまだ寝ているはずの母がいつになく慌てた様子で玄関までやってきたのだ。さっき先生から連絡があったけど、あんた何をしたの? と慌てている。「なんにもしてないよ」と僕は嘘を言ってごまかしたが、もちろんそれで終わるわけがない。母はいろいろとうるさく訊いてくる。それを僕はのらりくらりとかわすが、学校の先生が事情を説明してほしいと言っていた、と聞いて面倒臭いなと思いながらもまた学校に戻った。

 学校に行くとやはり大混乱だった。担任の先生が母と同じように慌てて僕に駆け寄り、お前何かしたのか? と眉間に深い皺を作って訊いてきた。「何もしてませんよ」僕はまた嘘を言った。でも、みんな左手に大怪我を負って『信矢が』とか『3年の木村が』とか挙句の果てには『女神が』とかわけのわからないことを言って、病院に運ばれて行ったんだぞ?

「確かに大変なことが起きたみたいですけど、僕にはわかりません。だいたい、僕にそんなことができると思いますか?」

 確かにそうだな、と先生も腕組みをした。嘘とごまかし。これはけっこうな”減点”になるのかな? でも僕に必要なものはこういう良い意味での不真面目さだったのかもしれないな。なにより、本当のことを話しても信用してくれるわけがないのだから。


 翌日、学校は一応いつも通りに授業を行うことになった。僕はその連絡を聞いて重雄に連絡した。

「もう大丈夫だ。学校に来てもいじめられないだろう」

 僕はそう言ったが重雄は懐疑的だった。まあそりゃそうだろう。

「もしいじめられたらすぐ帰ればいい。あ、お前がもう他の学校に転校すると固く決めているのなら、別にそのままでもいいんだぞ」

 でも重雄は駅前で僕を待っていた。「本当に大丈夫なのか?」一緒に登校しながら僕におどおどした様子で訊いてくる。

「多分。あれで駄目ならもう救いようがないよ」

 と言うと「”あれ”ってなんだ?」と重雄は訊いてきたが、僕は無言で橋の下のトンネルにも行かずにまっすぐに学校に向かう。

 教室に入るとまたまた意外なことがあって驚いた。全員が登校していたのだ。あんなことがあったその翌日に全員が来るとは思っていなかった。そして全員、左手に痛々しく包帯を巻いていた。騒いでいるやつも誰もいない。みんな大人しく席に座って静まり返っている。まるでお通夜だ。重雄はなにがなんだかわからない、という困惑した顔で自分の席に座った。

「あんなの……きっと何かの間違いよ」

 僕が自分の席に座ろうとすると、そう言う女子の声が聞こえた。

「そうだ。あんなの現実じゃない」

 と言う男子の声も聞こえた。

 やっぱりそうなるか。でも口でそう言ってもその目は怯えている。信じているけど信じたくないのだ。女神を見ると顔を真っ赤にしてふくれっ面になっていた。僕が『だったらその手の傷はなんだ?』と言おうとした時、

「バカやろう!」

 とキョーイチが立ち上がって怒鳴った。

「昨日のあの女神とかいうやつの、あの動きを見ただろ? あんなものが映像だとか手品だとかなわけがないだろ! あんなにはっきりしたものが集団催眠や幻覚なわけがないだろ! どう考えてもあれは現実だった! そして何より――」

 キョーイチは包帯の巻かれた左手を挙げて指を差した。

「全員がになっているんだぞ! こんなに痛い! こんなことができるのは、神か悪魔か、とにかく人間をはるかに超越した何かじゃないと不可能だろう!」

 キョーイチは痛みのせいか、大きく顔を歪める。教室がまた静まり返る。女神が「悪魔はないだろ……」と口を尖らせていた。

「私たち、地獄行きって本当?」

 ひとりの女子が小声で怯えた様子で訊いてきた。するといっせいに、

「そうだよ。地獄に行くのか?」

「地獄レベルってなんだよ?」

 とみんな必死の形相と声で僕に訊いてくる。なるほど。そういうことが訊きたくてみんな学校に来たわけか。でも困った。何をどう答えたらいいものか。が、そんな中、アイラが

「私は、中学時代に酷いいじめを受けていて――」

 などと言い始めたのでさすがに僕はカチンと来て怒鳴った。

「だからなんだと言うんだ! それで林さんをいじめて良い理由になるのか? お前はもうやることはやってスッキリしたはずだ! だったらもうそれでいいだろ!」

 アイラが「え!」と青い顔になって畏怖の目で僕を見た。まあそういう目で見られても仕方がない。キョーリューの2人まで青い顔で僕を見ていた。

「お前には、まだ、女神がついているんだよな? どうしてだ?」

 しばらくしてから、リューイチが顔色をなんとかいつもの顔に戻して大きな声で訊いてきた。

「俺は最初に『何回でも願い事が叶うようにしてくれ』と願ったんだ」

 リューイチは「チッ」と舌打ちをした。

「くそ……混乱しててそういうことに気がつかなかった」

 そりゃあの状況でまともな思考なんてできるわけがない。

「善行を積むって、何をすればいいの?」

 またひとりの女子が、消え入るような声で言った。いままで悪行ばかりしていてそれもわからなくなってしまったのだろうか?

「やるべき善行があるでしょう」

 と林さんが強い声を出した。

「山木先生の名誉を回復してあげるのよ。このクラスみんながやった悪行よ」

 確かにそうだ。

「そうだな」

 僕はうなずいた。でもみんな静まり返っている。ところどころから女子の泣き声も聞こえた。


 その後、僕はアカを教室の外に連れ出した。

「何よ……」

 恐る恐るという感じでアカが僕にそう訊いてくる。

「もうおばあさんをいじめるのはやめておけ。もう十分だろ? それから……は現世ではどうなるかわからないが、死んだらもう高レベルの地獄行きは絶対確実だ。そこで筆舌に尽くしがたい責め苦を永遠に受ける。それで溜飲を下げてくれ」

 アカは目を見開いて、「はっ」と息を呑んで両手で口を覆った。そりゃ驚くだろう。

「そして、お前を見捨てたあの母親も、かなり高いレベルの地獄へ……」

「止めて!」 

 アカはヒステリックに叫んで両耳を塞いだ。そして両手で顔を覆い、しゃがみ込んで号泣し始めた。しまった……アカはあんな母親でも好きなんだった。アカの溜飲を下げさせようと良かれと思って言ったのに、余計なことをしてしまった。やっぱり馬鹿だな僕は。人に喜ばれることをするというのは難しい。

 号泣するアカに僕は「申し訳ない」と頭を下げることしかできなかった。


 昼休み。避難地区へと来た。どうにもここが落ち着くのだ。

「君はお人好しだね。あんな連中に助言して、さらに許してやるなんて。理解できないよ」

 女神がそう言ってきた。お人好し?

「そんなことはない。あの中に凶悪犯がいるならこんなことはしなかった。でもそこまでの悪者はいなくて、しかもみんな酌量や同情の余地が十分にある。だったら少しくらい救いがあってもいいだろ? それにあいつらにあれだけの痛みを与えてやった。あれでいままでのことは水に流してやったんだ」

「『あいつらにあれだけの痛みを与えてやった』って、全員が僕のことを信じて全員があの自己犠牲の願いを言うという確証はなかっただろ? それは誰よりも君が一番わかっていたはずだ」

 僕は口をへの字にして開けられなかった。女神は『ほら見ろ』という顔で僕を見下ろしている。

「まあ俺もいろいろなことを知って考えたんだよ。お前は言ったよな? 『そんなんじゃあいつまでたっても何も解決しない』って。確かにそうだ。でも、社会全体を改善することは困難だ。だったらせめて自分のできる範囲で出来ることをやってみようと思ったんだ。それで、自分のクラスくらいは改善してみよう、って考えたんだよ。その結果考え付いたのがだったんだ」

 女神は

「ふんふん」

 とわかってくれているのか、それとも皮肉なのか、大きくうなずいている。

 でもとにかくこいつの”すべての小ささ”が役に立ったんだ。結果的にはこの女神に感謝するべきだろう。

「それにしても本当に驚くくらい君の目論見通りになったね」

 確かに。自分でも驚いている。

「でも上手くいった一番の理由は君自身が変わったからじゃないかな? それもこの短期間で」

「ん?」

「自分が変われば周囲が変わる。もし人間ひとりひとりが自分の欠点を直そうと努めれば世の中が変わるんだろうけどね……」

 やっぱり酷なことを言うやつだなこいつは。それに――

「俺は別に何も変わってなんかいないぞ?」

「それ、女神と話しているの?」

「え?」

 驚いた。いつの間にか林さんが僕の傍に来ていて僕にそう訊いてきた。さらに重雄も、カバ子さんもいた。

「さっきカバ子さんから女神のことを聞いたんだ」

 重雄のその口ぶりは女神を信じているという感じだ。まあでなけりゃ説明がつかないよな、いまのこの状況は。

「私達もその女神が見たいんだけど」

 林さんがおずおずとそう頼んできた。

「うん。俺も見たい」

 重雄も言う。まあそうなるよな。今日はまだ願い事をしていない。

「女神。今日の願いだ。重雄と林さんの前に現れてくれ」

 2人の視線が僕の上の方に向いた。女神がいつものあの台詞を言う。

「信じるよ」

 重雄が言った。

「もちろん信じるわ。というか可愛いわね」

 林さんもそう言った。

 可愛いと思えるのはいまだけだ。女神が制限を言い始め、言い終えた。これでどっと白けるだろう、と思ったのだが、女神が制限を言い終えると2人とも笑い始めた。

「制限を全部詳しく聞いたか?」

 カバ子さんがそう2人に訊くと林さんも重雄も笑いながら頷いた。

「言った通りだろ? 世の中そんなに上手い話はないんだよ」

 とカバ子さんが笑う。

 そうか、カバ子さんが前もってある程度女神のことを教えていたのか。

「本当に厳しいな」

 重雄が笑う。

「本当!」

 と林さんも笑う。

 あれ? 2人のこんな笑顔を見たのは初めてかな?

 期末テストも近い、セミのうるさいこの暑さの中、カバ子さんと重雄と林さんは長い間笑っていた。


                                了



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小さい女神に何を願うか @y-n76

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