9. 邂逅
血は溢れ出す一方だった。
呼吸もままならず、井戸の縁にもたれながら腹の傷を抑えたが、一向に止まる気配がない。
太い血管が傷ついているのかも知れない。
血液と共にマナも流れ出しているのだろうか、治癒がうまく発動できなかった。
心臓の拍動が異常に早く、鼓動する音が聞こえるほどだ。
鞄に回復薬が残っていたのを思い出した。
手探りで探し出して、蓋を開けて飲み干した。
しかし上半身を支える力もなく、地に崩れた。
今年は昨年以上に穀物の収穫が悪かった。
収穫量は年々下がる一方で、穀物価格の高騰は深刻だった。
それだけでなく、野菜も肉も高騰した。
肉の高騰は異常で、これは家畜の餌になる穀物が高騰しているのと、飼育できる数が減って供給量が下がったためだろう。
十二の月になると店頭から食品が消えた。
卸売業者が在庫を出さなくなったのだ。
そしてついに暴動が起こった。業者の倉庫に暴徒となった市民が押しかけたのだ。
倉庫は何軒も荒らされ、業者は石で頭を割られて道端に捨てられた。
倉庫から夥しい数の人が穀物を奪って出てきた。
またある者はたった今持ち出してきた者から奪った。
街はまるで戦場のようで、収集が付かない有様だった。
外出は控えていたのだが、井戸に水を汲みに行った時、暴徒に巻き込まれて突き飛ばされ、その拍子に腹に何かが刺さった。
冷たい歪な形の金属だった。
井戸の縁に倒れ込んで、何とか意識を保とうとした。
井戸の周りはやけに冷えた。
寒い。
僅かにマナを感じた。
なんだろうか、これは。
マナを溜め込んでいるようだ。
血濡れた指をそれに這わせた。
道に敷かれた石だ。
同じようなものが幾つも並んで、みなマナを保持していた。
どれもみな青白く光っていた。
草が白い砂になって、消えて行くときの光に似ていた。
周りにある石畳全てが光って見えた。
石畳の先に土が、草が、木があった。
それらはそこからマナを吸い上げているようで、葉の先からまたモヤモヤと青白い光が拡散していた。
葉だけではない、周りの土からもだ。
地が輝いて見えた。
この光は何処からやってくるのだろう。
ずっと遠くまで続いているようだった。
何故こんなものが見えるんだろうか。
人が死ぬ時に見るものなのか。
それならもっと見たい。
ここからでは一部しか見えない。
もっと高いところから。
視点をもっと高く上げたい。
体が空へと浮いて行くようだった。
あぁ、凄い、本当に何処までも続いている。
大地は光で満ちていた。
大地だけではない。
大気にもマナが満ちていた。
世界はマナで溢れていた。
何処から湧いてくるのだろうか。
もっと遠くへ行けば見えるのだろうか。
どんどんと景色が遠ざかっていった。
この光景はいつか何処かで見た気がした。
あの時とは少し違った風景だ。
あれは何だろうか。
巨大な光る玉の中心に、一際明るく輝くものがあった。
あれが光の元なのかも知れない。
あそこから光が外に拡散しているのだ。
あの大きな玉はなんだろう。
『君たちが言うところの大地だよ』
誰かの声が聞こえた。
「君は誰だ?」
『私はそこの丸い球体だよ』
「球体が喋るのか? いよいよここは死後の世界なのか?」
『まさか、君はまだあそこにいる。もう随分遠くに来たから見えないだろうけどね』
「あの玉が大地なのか? 大地は丸いのか?」
『そう。丸いんだ。そして常に動いてる。ほらどんどん小さくなって行く』
「何故動いてるんだ?」
『さぁ、何故だろうね。君たち人間がいつか解明するんじゃないかな。そうだ、あっちを見てみなよ』
「あっち?」
『そう後ろ側だよ。ここじゃ前も後ろもないけど』
「火の玉じゃないか!」
『あれが太陽だよ』
「もっとよく見せて」
『おや、もう一人お客さんかな』
「君は誰?」
「私はイリア」
『彼女が目覚めたようだね。それにしても君たちはまるで連星のようだね』
「連星?」
イリアが尋ねた。
『双子の太陽みたいなものかな』
「双子の太陽。そんなものがあるの?」
『そう。君は星に興味があるんだね』
「はい。天文学者ですから」
『そうか。君には迷惑をかけてしまったし、お詫びにもう少し見せてあげよう』
視点がさらに遠くなって、太陽が人の頭くらいの大きさに見えた。
その頭部大の太陽の周りを、微かに光る粒があった。
その太陽すら移動しており、小さな光の粒は螺旋を描きながら太陽に引かれていた。
『あの小さな光が見えるかい? 三つ目の光が君たちが生まれた大地、君たちがゲーとかテラと呼ぶ球体だ。それ以外に四つあるね。天文学者なら分かるかな。君たちがよく分からない星って呼んでいるのがあの星たちだよ。私の姉妹みたいなもので、太陽の周りを回ってる』
「私の仮説は正しかったんだ…」
『本当はもっとあるのだけど、小さすぎて見えない。私たちの光は太陽に比べたら本当に小さなものだから』
太陽はさらに小さくなっていった。
すると太陽のような星が幾つも現れて、やがて光の渦が見えた。
中央は眩い光を放っていた。
『太陽も、この景色の中では砂つぶみたいなものだね』
「これは何なの?」
『光り輝いているのは全て太陽と同じような星だよ。星が集まって渦を巻いている。そしてこの宇宙には、こんな渦の塊が数えきれないほどあるんだ』
「宇宙。想像できないわ。大きすぎる」
『そうだね』
目の前の光景に圧倒されているようだった。
「あなたは何なの?」
『私は君たちの生きる大地そのものだよ。今ではもう少し大きいかな。私の星で生まれた全ての命、アニマの総体とでも言えばいいのか』
「大地が生命と言うこと?」
「分からなくもない話だ。大地から湧き出てくるマナはいったい何処から出てきたものなのか。中心にある巨大な光の玉。それがあなたなんでしょう?」
『そう。肉体が死を迎えると、魂は私と一体になる。マナは私である中心の核から生じている。そのマナを、私の子供達は受け取っている』
途方もない話だ。
大地と会話をしているのだ。
「質問していいかな?」
『どうぞ』
「俺は何故過去にいるのだろう」
『私のことを知ってもらった上で、願いを聞いて欲しい』
「願いとは何です?」
『ある人を救って欲しい』
鳥の囀りが聞こえた。
街の混乱の音は聞こえなかった。
腹の傷が閉じている。
触れてみたが、傷が見つけられなかった。
あれは夢だったのだろうか。
イリア本人らしき人とも会った気がした。
マナが視える。
部屋の壁の向こうに何があるのかも視える。
周りを視ると、奇妙なものを見つけた。
人の形をしたマナの塊だ。
血を流して倒れていた時、周りにいた人々の姿も同じように視えていた。
その時は体の真ん中に様々な色の光が揺らいでいた。
人の形をしたマナの塊にはそれがない。
それがこちらに近寄ってきた。
「目が覚めたみたいね」
「ここは君の部屋?」
「そう。私の家。あの場所からここまで連れてくるのは大変だったんだよね」
「どうもありがとう。手当も君がしてくれたのか?」
「そう。ロキが助けろって煩くてね」
「ロキ?」
「ああ、君が助けたんだろう? ロキの子供。小さな狼だよ。あの子はマルス。男の子でね、世話の焼ける子だよ」
「狼を飼ってるのか?」
「いいや、傷ついたロキを救ったら、居着いちゃったんだよ。それ以来何故か一緒にいる」
「君は人なのか?」
「そう見えないか? 今までそんなこと言ったのは、君で二人目だね」
声の主はベッドの端に腰掛けた。
「もう会ったんだよね? なんて言うか、テラと」
「あれは夢じゃなかったのか」
「突拍子もない話だけど、夢じゃない。私はテラの目だ」
「目? 何を見てるんだ?」
「今は人間。テラに世界のあり様を伝えて、提言を行うのが仕事だよ。君を呼ぶようにテラに進言したのは私」
「何で俺だったんだ?」
「マナを見る素養があって、あの場所に辿り着く者、それが条件だった。マナは太陽光よりずっと弱い光だからね。見える人はごく稀なんだ」
「俺じゃなかったかもしれないのか。それからなぜ女の体だったんだ?」
「あの場所で偶然亡くなったのが彼女だったからだよ。あの場所の環状列石はマナを大量に噴出する穴みたいなものなんだ。遥か昔の人間が造ったものなんだけど、テラと繋がってるんだよ。もとは天体観測場だったみたいだけど、マナを吸い上げる機能があるって、知らなかったのかも知れないね。だけどあれほどマナを噴き出して拡散してるから、昔から人が多く集まるんだ。人は無意識にマナを求めるからね」
「彼女は意識が戻ったと言っていたが」
「そう。君が起きてる間は出てこられないだろうけど。ところで君はマナが見えるなら、この辺りのマナの流れも見えるんじゃないか?」
この辺りは異常にマナが多かった。
多いと言うより濃いのだ。
「とても濃く見える」
「今から五十年前頃に急拡大した森だよ。この家はその森の中にある」
「生き物が大型化して暴れてる場所だ。そんな所にいて大丈夫なのか?」
「手出ししなければね。それにロキもいるから。ねぇ君、私と旅をしよう。この森を抜けて西に向かうんだ。会って欲しい人もいる」
「構わないけど、二人だけで大丈夫なのか?」
「私がどれだけこの世界に住んでいるか分かるかい? それなりには人の社会のことは知ってるつもりだよ」
「会わせたい人とは?」
「君がここにいる間、どう生きるかの指標になる人だ。古い言い方をすれば、預言者だね」
預言者を戴く国、エランドルだろう。
魔導具はこの国から生まれた。
この混乱が始まった国だ。
テラの願いに繋がるのだろうか。
二人は荷造りを始めた。
表に馬が用意されていた。
ロキもついて来るようだ。
「君は今後どんな名を名乗るんだい?」
マルスが尾を振りながらまとわりついてきた。
もう一匹いるようだが、警戒しているようだ。
マルスを鞍に乗せてやって、馬に跨った。
しつこくまとわりついていると馬に蹴られそうだったのだ。
「エイノルではまずいのか?」
「まぁ、良いんじゃないかな。彼女はイリスと名乗るだろうしね。目印に、これで髪でも纏めておくと良い」
煩わしかったので丁度良かった。
マルスを膝に抱いて髪を括った。
白と藍で作った組紐だった。
「この子の名は?」
「警戒してる子ならベルネスだよ。女の子だ。道中のマナの様子をよく見ておくと良いよ。この森がどうして生じたか、分かるはずだ」
「わかった。ところで君はなんて呼べば良い?」
「そうだね、アルテミスとでも呼ぶと良い」
アルテミスは3頭目の馬に大きな鞄を背負わせると、空の鞍に跨った。
ベルネスはロキの背から鞄の上に飛び乗った。
アルテミスは箙に矢を満たして、弓に弦を張って、左の手に握った。
そして三頭の馬と狼は、西へと進んで行った。
深い森だ。
樹木は真っ直ぐに伸びて樹冠を成し、光を遮るため、下草は苔ばかりだ。
絶えず水が沸くらしく、足元は良さそうに見えなかった。
馬で出かけたのは正解だった。
この辺りはマナが異常に濃い。
樹木の異常な成長はこれが原因だろう。
問題は何故こう密度が高いのか、である。
一目して分かるほどに、この森の地下深くに、マナを吸い寄せる何かが見えた。
大量に引き寄せて貪り食うモノがある。
その余剰分だけでこの森を形作っているらしい。
そう遠くない場所に巨大な何かが聳え立っているように見えた。
エイノルは馬をそちらに向けた。
アルテミスはエイノルに従った。
巨大な何かに近づくにつれて、妙な匂いがした。
妙に甘く酸っぱい匂いだ。
近づくにつれて匂いは強くなってゆき、絶え難い腐臭となった。
「何だこの匂い」
「これ以上はやめておこう。この先はもう湖だよ」
「湖? あの巨大な光は何?」
「林檎の木だよ」
林檎の木がここまで大きくなるものなのか、常軌を逸していた。
幹は恐らく大人十数人が手を広げて囲んでもまだ足らないほどだろう。
葉ははるか上にあって、大きな傘のようにこの辺り一帯を覆っていた。
時折何かが水を叩く音が聞こえた。
泥水に石を投げ入れたような嫌な音だった。
「熟れ過ぎた林檎が落ちてるんだよ。誰も食べやしない」
この木の真下だった。
マナを貪り食うモノがいた。
巨木の根に絡まれ、地下深くにいた。
妙なことに、その木の周りは土が抉られたようになくなっていて、異臭を放つ汚泥に覆われていた。
恐らく、この木が栄養を吸い続けたため、土が痩せていって、水が溜まったのだろう。
この木が恐ろしく広範囲に根を張ったせいか、この辺りは他の樹木が全く育っていなかった。
「余りここにはいない方がいい」
彼女の言うとおりだろう。
この木には数匹の巨大な蛇が居るらしい。
ロキがずっと唸り声をあげていた。
「あれを取り除いたら戻るかも知れない」
「恐らく戻るだろう。でもね、取り除いても処分する術がないんだよ」
「この下にあるモノを知っているのか?」
「大体の想像はつくよ。それも含めて、解決策を探しているんだ」
アルテミスは先へ進もうと言って、湖を離れた。
ロキが警戒しながら後を追ってきた。
大地の女神と魔導士エイノルの冒険 東風ふかば @KochiFukaba
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