【SF短編小説】密閉された脳 ―選ばれし記憶の移譲―(約8,900字)
藍埜佑(あいのたすく)
【SF短編小説】密閉された脳 ―選ばれし記憶の移譲―(約8,900字)
◆第1章「封鎖」
神代凜子は、朝のコーヒーを飲みながら、研究所の大きな窓から東京湾を眺めていた。海面に反射する朝日が、水面をダイヤモンドのように輝かせている。研究施設「シナプス」の最上階にある休憩室は、彼女のお気に入りの場所だった。
「おはよう、凜子さん。今日も早いですね」
声の主は、ウイルス学の権威である篠原真琴だった。温和な笑顔を浮かべながら、彼女もコーヒーメーカーの前に立つ。
「篠原先生、おはようございます。今日は新しい実験データの解析があるので……」
凜子は微笑みながら答えた。29歳になる彼女は、脳科学分野での新進気鋭の研究者として知られている。特に記憶のメカニズムについての研究では、すでにいくつかの重要な発見をしていた。
「あら、もしかして谷口君の件?」
真琴の問いかけに、凜子は少し表情を曇らせた。谷口透??二週間前に突然、奇妙な症状を見せ始めた研究員のことだ。
「はい。あの日の記録を、もう一度見直してみようと思って」
凜子は窓の外を見つめながら、その日のことを思い出していた。谷口は突然、自分の名前を忘れたと主張し始めた。そして翌日には、研究所での記憶が断片的になっていると訴えた。MRIでの検査では異常は見られず、血液検査の結果も正常だった。
「私も気になっているんです。ウイルス性の症状かもしれないと思って、いくつか検査を……」
真琴の言葉が途中で途切れた。施設内に警報が鳴り響き始めたのだ。
『緊急事態発生。全研究員は直ちに各セクションの安全室へ避難してください。繰り返します……』
凜子と真琴は顔を見合わせた。施設内の警報は、定期的な避難訓練以外で鳴ることはなかった。
「これは訓練ではないわね」
真琴の声には緊張が滲んでいた。
二人が休憩室を出ると、すでに他の研究員たちも避難を始めていた。混乱の中で、凜子は普段は見かけない顔も何人か目にした。おそらく、下層階の研究室から避難してきた人たちだろう。
最上階の安全室に集められた研究員は、全部で12人。普段は別々のフロアで研究をしているため、互いの顔を知らない者同士も多かった。
「どなたか状況をご存知ですか?」
質問したのは、データ解析室の主任である高瀬蒼馬だった。端正な顔立ちの中年男性で、常に冷静な判断で知られている。
「わかりません。突然の警報で……」
返事をしたのは若手の研究員、月島日和だった。彼女の隣には、同じく若手の加藤陽一が不安そうな表情で立っている。
その時、安全室のモニターが点灯した。画面には施設長の鹿島紗代子の姿が映し出された。
「全研究員の皆様にお知らせします。施設内で未知の病原体が検出されました。現在、外部との接触を完全に遮断し、施設を封鎖状態としています」
部屋の中が静まり返る。
「感染の可能性がある者の特定を行うため、当面の間、この状態を維持します。各安全室には十分な食料と必要物資が備蓄されています。また、施設内の通信システムは使用可能です」
説明を終えると、画面は暗転した。
「これは……冗談ではないようですね」
声を発したのは量子計算研究室の室長、野呂瀬葵だった。彼女の横では、助手の佐伯雪絵が青ざめた顔をしている。
「篠原先生、この状況について何かご意見は?」
高瀬の問いかけに、真琴は慎重に言葉を選びながら答えた。
「まだ何とも……ですが、二週間前の谷口君の症状と関係があるかもしれません」
その言葉に、凜子は直感的な違和感を覚えた。確かに谷口の症状は奇妙だったが、それは感染症のような症状ではなかったはずだ。しかし、今はその違和感を口にするべきではないと判断した。
時間が経つにつれ、安全室内の緊張は徐々に和らいでいった。各々が自己紹介を済ませ、簡単な情報交換を始める。その中で、凜子は各研究員の様子を観察していた。
特に気になったのは、システム管理室の吉岡要と藤堂美咲のやり取りだ。二人は何やら小声で話し合い、時折、不安そうな視線を周囲に投げかけている。
「神代さん」
声をかけてきたのは、医療部門の江口陽子だった。物静かな性格の彼女は、普段はめったに人と話さない。
「はい?」
「谷口さんのことですが……実は私も、少し気になることがあって」
江口は周囲を警戒するように見回してから、声を潜めて続けた。
「二週間前、深夜に医務室で谷口さんを見かけたんです。でも、翌朝、そのことを全く覚えていないと……」
凜子は眉をひそめた。これは初めて聞く情報だった。
時計の針が正午を指す頃、安全室のモニターが再び点灯した。今度は別の映像だった。施設内の様々な場所を映すカメラの映像が次々と切り替わる。
「これは……」
高瀬が声を上げた。映像の中で、何人かの人影が倒れているのが見えた。おそらく、避難が間に合わなかった研究員たちだろう。
「あれは感染症の症状なのでしょうか?」
佐伯の問いかけに、真琴は首を傾げた。
「通常の感染症とは、少し様子が違うように見えます」
凜子は黙って映像を見つめていた。倒れている人々の中に、二週間前の谷口の姿と重なるものを感じていた。そして、この状況の背後に、まだ誰も気付いていない何かがあるのではないかという予感が、彼女の心を掠めていた。
窓の外では、変わらぬ陽光が東京湾の水面を照らしている。しかし、これから始まろうとしている事態が、決して穏やかなものではないことを、凜子は直感的に理解していた。
(何かが、私たちの記憶に関係している……)
その考えが、彼女の心に深く刻み込まれていった。
◆第2章「疑心」
封鎖から24時間が経過した。安全室の窓から見える夜の東京湾は、いつもと変わらない光景を見せていた。しかし、室内の空気は確実に変化していた。
「やはり、外部との通信は完全に遮断されているようですね」
高瀬蒼馬が、通信端末を諦めたように置いた。
「家族に連絡が取れなくて……」
月島日和の声が震えている。隣では加藤陽一が優しく彼女の肩に手を置いた。
「落ち着きましょう。これは必要な措置なのです」
篠原真琴は冷静に状況を説明しようとしたが、その声には僅かな疲れが混じっていた。
神代凜子は、黙って周囲の様子を観察していた。昨夜から、研究員たちの間で小さなグループが形成され始めていた。特に、システム管理室の吉岡要と藤堂美咲は、他の研究員との接触を明らかに避けているように見える。
「神代さん、ちょっといいですか?」
声をかけてきたのは野呂瀬葵だった。彼女の横には、いつもの助手の佐伯雪絵の姿はない。
「どうかしましたか?」
「佐伯の様子がおかしいんです……」
野呂瀬の声は不安に満ちていた。
「今朝から、自分の研究内容を全く思い出せないと言い始めて」
凜子の背筋が凍る。谷口透と同じ症状……。
「今、どちらに?」
「仮眠室で休ませています。江口先生に診ていただいて」
凜子は即座に仮眠室へ向かった。扉を開けると、佐伯が毛布にくるまって横たわっている姿が見えた。江口陽子が、その傍らで脈を測っていた。
「どうですか?」
「体温、脈拍ともに正常です。ただ……」
江口は言葉を選ぶように間を置いた。
「記憶の欠落以外に、性格が少し変わったように感じます」
凜子は佐伯の様子を観察した。確かに、普段の控えめな態度が消え、どこか投げやりな表情を浮かべている。
「佐伯さん、私の名前は分かりますか?」
「神代……凜子さん、ですよね。記憶が無くなったわけじゃないんです。ただ、研究のことだけが……」
その時、安全室のモニターが突然点灯した。施設長の鹿島紗代子の姿が映し出される。
「皆様にご報告があります。現在までに、施設内で5名の感染者を確認しました。症状は主に記憶の部分的喪失と、人格の変化です」
室内が静まり返る。
「感染経路の特定のため、各安全室での隔離を継続します。また、新たな感染者が確認された場合は、直ちに別室への移動を……」
突然、映像が乱れ始めた。
「これは……誰かが通信を妨害している?」
高瀬の言葉に、吉岡が反応した。
「そんなことは不可能です。このシステムは……」
言葉の途中で、モニターが完全に消えた。
その瞬間、安全室の電源も落ち、非常灯だけが赤い光を放つ。暗闇の中で、誰かが小さく悲鳴を上げた。
「慌てないでください!」
篠原の声が響く。しばらくして、予備電源が作動し、照明が復旧した。
「皆さん、大丈夫でしょうか?」
凜子が周囲を見回すと、藤堂が床に座り込んでいるのが目に入った。
「藤堂さん!」
駆け寄ると、彼女は混乱した様子で周囲を見回している。
「私……私は……何を……」
記憶の混乱――またしても同じ症状だ。
「篠原先生、こちらにも!」
真琴が急いで駆け寄ってくる。しかし、その直後、凜子は彼女の様子に違和感を覚えた。普段の温和な表情が消え、どこか計算高そうな目つきに変わっていた。
(まさか、篠原先生まで?)
状況は急速に悪化していた。残された時間はどれほどあるのか。そして、これは本当にウイルスなのか――。
凜子は、自分のノートにメモを書き留めた。
1. 感染(?)の特徴
- 研究に関する記憶の選択的な喪失
- 性格の変化
- 発症は突発的
2. 不自然な点
- システム障害のタイミング
- 吉岡と藤堂の行動
- 篠原先生の変化
そして最後に、最も気になる疑問を記した。
(なぜ、研究に関する記憶だけが失われるのか?)
窓の外では、東京の夜景が変わらぬ輝きを放っている。しかし、安全室の中では、誰もが誰かを疑い始めていた。信頼できる人間は、もう誰もいないのかもしれない。
凜子は自分の記憶を必死で確認する。今のところ、自分の中に異変は感じられない。しかし、それは単に自分が気付いていないだけなのかもしれない。
(私は、本当に私なの?)
その問いが、彼女の心を深く刻んでいった。
◆第3章「記憶」
封鎖から48時間が経過した頃、安全室の状況は一変していた。12人いた研究員のうち、すでに5人が「感染」の症状を示していた。佐伯、藤堂、そして篠原真琴。さらに加藤陽一と江口陽子も、突如として研究に関する記憶を失っていた。
神代凜子は、仮眠室の片隅で、自身の研究ノートを見つめていた。
(記憶の選択的消失……これは本当にウイルスによるものなのか?)
彼女の目に、一つの記述が飛び込んでくる。
『記憶の形成過程における神経細胞の可塑性――特に、シナプス結合の選択的強化に関する……』
「まさか……」
凜子は思わず声を上げそうになるのを抑えた。
「神代さん」
声をかけてきたのは高瀬蒼馬だった。彼の表情には、普段の冷静さが残されている。
「何か気づきましたか?」
「ええ。でも、ここではちょっと……」
凜子は周囲を見回した。野呂瀬葵が資料を読んでいる。月島日和は窓際で東京湾を見つめている。吉岡要は相変わらず、端末を操作し続けていた。
「屋上に行きませんか?」
高瀬の提案に、凜子は頷いた。
安全室から屋上に続く階段を上りながら、凜子は自分の仮説を整理していた。
「実は、私の研究に関係があるかもしれないんです」
屋上に出ると、冷たい風が二人を包んだ。東京湾の水面が、夕日に照らされて輝いている。
「私が取り組んでいたのは、記憶の選択的な制御に関する研究です。特に、特定の記憶だけを消去する技術の開発を……」
高瀬の表情が変わる。
「そうか。だから研究に関する記憶だけが……」
「はい。でも、これはまだ実験段階の技術のはずです。それに、記憶を消すだけでなく、性格まで変化させるなんて……」
その時、屋上のドアが開く音がした。振り返ると、そこには篠原真琴が立っていた。しかし、それは凜子の知る篠原ではなかった。
「気づいてしまわれたようですね」
その声音には、いつもの温かみが欠けていた。
「篠原先生……あなたは最初から?」
「ええ。このプロジェクトの真の目的は、人間の意識を再構築することです」
篠原は歩み寄りながら続けた。
「神代さんの研究は、その重要な一部だった。でも、倫理委員会が許可するはずがない。だから、この方法を選んだの」
「では、ウイルスなんて……」
「ええ、存在しません。これは全て、プログラムされた記憶操作です」
高瀬が凜子の前に立ちはだかる。
「狂気の沙汰です。これ以上は……」
その時、異変が起きた。高瀬の動きが突然止まる。そして、彼の表情が一瞬にして別人のものに変わった。
「申し訳ありません、神代さん。私も、プロジェクトの一員なんです」
凜子は絶望的な状況に追い込まれていた。信じていた人々が、次々と別人格に変貌していく。
「記憶を操作されても、意識は保たれているんです。ただ、制御されているだけ」
篠原の説明は続く。
「でも、なぜ……」
「人類の進化です。個人の記憶や性格に縛られない、新しい意識の在り方を探求する。そのための実験が、このシナプスなのです」
凜子は必死で考えを巡らせた。自分の研究が、このような形で悪用されているなんて。しかし、まだ希望はあるはずだ。
「システムには必ず弱点があります。そして、それを知っているのは……」
凜子は突然、走り出した。篠原と高瀬が追いかけてくる。
階段を駆け下りながら、凜子は思い出していた。吉岡要の不自然な行動、システム障害のタイミング、そして何より――。
(谷口さんは、最初の被験者だった)
安全室に戻ると、吉岡は依然として端末を操作していた。
「吉岡さん!」
彼は驚いて振り返る。その目には、知っているという色が浮かんでいた。
「お願いします。システムを止めるのを手伝ってください」
一瞬の躊躇いの後、吉岡は頷いた。
「実は私も、おかしいと思っていました。このプログラムには、必ずバックドアがあるはずです」
二人は急いで作業を始めた。しかし、時間は残されていない。篠原たちが追ってくる。
そして――システムの真実が、今まさに明らかになろうとしていた。
(私たちの記憶は、誰のものなのか?)
その問いへの答えは、もうすぐ見つかるはずだった。
◆第4章「真実」
安全室のモニターに次々とコードが流れていく。神代凜子は吉岡要の横で、緊張した面持ちで画面を見つめていた。
「これは……」
吉岡の指が止まる。画面に表示された文字列が、凜子の目を捉えた。
『Project SYNAPSE - Phase 3: Consciousness Integration Protocol』
「見つけました。これが制御プログラムの本体です」
吉岡の声には切迫感が混じっている。背後では、篠原真琴と高瀬蒼馬の足音が近づいていた。
「急いで!」
野呂瀬葵が入り口で見張りを続けている。彼女は今のところ「感染」していないようだった。
「これは……まさか」
凜子は画面の情報に目を凝らした。そこには信じがたい事実が記されていた。
『被験者の意識を量子もつれ状態で結合し、集合意識を形成。個々の記憶を選択的に統合することで、新たな次元の知性を……』
「人工知能の研究だったんですね」
吉岡が呟く。
「違います」
凜子は首を振った。
「これは人工知能を超えた何か。人間の意識そのものを、新しい形に進化させようとする試み」
その時、ドアが開く音が響いた。
「その通りです」
入ってきたのは、モニターでしか見たことのない施設長、鹿島紗代子だった。
「神代さん、あなたの研究は、この計画の重要な基盤でした」
鹿島の表情には、どこか悲しみのような感情が浮かんでいる。
「でも、これは間違っています!」
凜子は叫んだ。
「人間の意識を強制的に結合して、何になるというんです?」
「進化です」
篠原が答える。
「個人の限界を超えた、集合的な知性。それこそが、人類の次なる段階」
高瀬が続けた。
「すでに成功は目前です。感染……いいえ、統合された研究員たちは、新しい意識を共有し始めています」
凜子は、端末の操作を続けながら考えを巡らせた。そして、あることに気付く。
「でも、完全ではない。だから、谷口さんは記憶の一部だけを失った」
鹿島が僅かに表情を曇らせる。
「確かに。最初の試みは不完全でした。でも今は……」
「今も同じです!」
凜子は画面に表示されたデータを指さした。
「統合された意識は不安定。そして、元の人格が完全に消えているわけではない。これは進化どころか、意識の断片化です」
その時、月島日和が突然叫び声を上げた。
「私の中に……誰かが……入ってくる!」
彼女の表情が歪む。新たな「感染」の始まりだった。
「時間がない」
吉岡が囁く。
「あと30秒で制御プログラムのロックを解除できます」
鹿島が歩み寄ってくる。
「止めてください。これは人類の……」
「違います」
凜子は毅然とした声で言い返した。
「人間の意識は、個人の中で育まれ、他者との関係の中で成長する。強制的な統合など、進化ではありません」
その時、システムから警告音が鳴り響いた。
『Warning: Critical System Error Detected』
「まさか、自己防衛プログラムが!」
吉岡の声が焦りを帯びる。
「このままでは施設のシステム全体が……」
凜子は即座に決断を下した。
「野呂瀬さん、施設の非常電源を!」
野呂瀬が頷き、制御パネルに向かう。
「しかし、それでは実験データが全て……」
篠原の言葉を遮るように、凜子は最後のコマンドを入力した。
一瞬の閃光。そして、施設全体が闇に包まれる。
数秒後、非常灯だけが赤い光を放ち始めた。
「これで……終わりです」
凜子の言葉が、静寂の中に響く。
周囲を見回すと、「感染」していた研究員たちが、混乱した様子で立ち尽くしている。記憶が戻り始めているようだった。
「私は……何を……」
篠原の声が震えている。本来の人格が戻ってきたのだ。
しかし、これで全てが終わったわけではない。凜子は、自分たちが目撃した真実と、これから向き合わなければならないことを考えていた。
(人間の意識とは何か。記憶とは何か。そして、私たちはどこへ向かおうとしているのか)
窓の外では、夜明けの光が東京湾を照らし始めていた。新たな一日の始まりを告げるように。
◆第5章「解放」
夜が明けた時、シナプス研究所の封鎖は解除された。非常電源による最小限の機能だけが維持された施設内で、研究員たちは少しずつ本来の記憶を取り戻していった。
神代凜子は医務室で、篠原真琴の診察を手伝っていた。
「記憶の復帰は予想以上に早いわね」
篠原は申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「凜子さん、私は本当に……」
「気にしないでください。あれは、先生の本当の意思ではありませんから」
しかし、凜子の心の中では、まだ多くの疑問が渦巻いていた。
医務室を出ると、廊下で高瀬蒼馬と出会った。彼も既に記憶を取り戻していたが、その表情には深い懊悩の色が浮かんでいた。
「神代さん、少しお時間を」
二人は、窓際に設置された簡易ベンチに腰を下ろした。外では、救助のヘリコプターが近づいてくる音が聞こえ始めていた。
「私にも、全てを話す義務があります」
高瀬は静かに話し始めた。
「実は、このプロジェクトは10年前から準備されていました。人間の意識を集合化することで、個人の限界を超えようという構想……」
凜子は黙って聞いていた。
「当初は、あくまでも自発的な意識の共有を目指していたんです。しかし、途中から方向性が変わった。鹿島所長が、強制的な統合へと舵を切ったんです」
「それは、いつ頃から?」
「おそらく、あなたの記憶操作の研究が成功を収め始めた頃です」
凜子は深いため息をついた。自分の研究が、このような結果を招くことになるとは。
「でも、あなたの研究自体は間違っていなかった」
声をかけてきたのは、吉岡要だった。彼は端末を手に持っている。
「むしろ、記憶のメカニズムを解明したことで、人間の意識の本質に一歩近づいた。それを誤った方向に利用しようとしたのは、私たちの方です」
その時、施設内の放送が鳴り響いた。
『救助隊が到着しました。全研究員は、順次、一階のロビーへ移動してください』
凜子は立ち上がり、窓の外を見た。東京湾は相変わらず穏やかで、何事もなかったかのように光っている。
「鹿島所長は?」
「地下の研究室で、データの復旧を試みているようです」
高瀬の言葉に、凜子は決意を固めた。
「私が行きます」
地下研究室への階段を降りながら、凜子は考えていた。人間の意識とは何か。個人の記憶や人格は、どこまで本質的なものなのか。
研究室のドアを開けると、そこには疲れ切った様子の鹿島紗代子がいた。
「神代さん……」
「所長、もう十分です」
凜子は静かに、しかし確固とした口調で言った。
「私たちは、間違った道を選びませんでした。ただ、回り道をしただけです」
鹿島は困惑した表情を浮かべる。
「どういう意味ですか?」
「人間の意識を進化させること。それは正しい目標でした。でも、その方法が違った」
凜子は自分のノートを取り出し、開いた。
「私の研究は、記憶の選択的な制御を目指していました。それは、人間の意識をより良く理解するための第一歩なんです」
「しかし、それだけでは……」
「違います」
凜子は穏やかに微笑んだ。
「個人の意識を尊重しながら、自発的な共有と成長を促す。それこそが、本当の進化の姿ではないでしょうか」
鹿島は長い間、黙っていた。そして最後に深いため息をついた。
「そうですね。私たち研究者は、時として目の前の結果に囚われすぎる」
二人が研究室を出ると、すでに他の研究員たちが待っていた。篠原、高瀬、吉岡、そして野呂瀬。彼らの表情には、新たな決意が浮かんでいた。
「さあ、行きましょう」
凜子の言葉に、全員が頷いた。
一階のロビーに到着すると、救助隊員たちが待機していた。外の世界との再会の時だ。
出口に向かう前に、凜子は最後にもう一度、施設を見上げた。
(私たちの研究は、ここで終わりではない)
確かに、この3日間の出来事は、人類の意識の可能性と限界について、大きな教訓を残した。しかし、それは新たな始まりでもあった。
凜子は自分のノートに、最後の言葉を書き記した。
『意識の真の進化とは、強制的な統合ではなく、個々の存在が互いを理解し、高め合うことにある』
東京湾に降り注ぐ朝日が、新たな日の始まりを告げていた。そして、それは人類の意識の研究における、新たな章の幕開けでもあった。
(了)
【SF短編小説】密閉された脳 ―選ばれし記憶の移譲―(約8,900字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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