第4話
いよいよ除目の日が近づいてきた。
高澄は月白と京の中を歩きながら話しかけた。
「今日でよかったのか? 藤式部はまだ自宅にいるのだろう? 出仕してからでもよかったのでは……」
月白が行った祓いの代金を取りに行くという話だ。届けさせても悪くはない状況だと思うのだが、彼女の容態が心配だから直接見ておきたいということだろう。高澄がそう言うと睨まれたが。
「延び延びになるのはよくないし、ちょっと行けば済むのだから今日行っておくわ。あなたまでついてこなくてよかったのに」
「いや、一人で行かせるのはちょっとな」
今まではそうしてきたのだろうが、月白と連れ立って歩くことに慣れてしまったので、一人で歩かせるのはなんとなく落ち着かない。しかも行先は、問題の多いあの式部大輔の邸だ。やはり彼女は式部大輔の娘だった。
同行を申し出ると「用心棒兼荷物持ちにしてあげるわ」と返ってきたので、それでもいいかと頷き、こうして歩いている。
そうこうしているうちに目的の邸につき、彼女のいる局へと通された。
まだ全快とはいかないのだろう、藤式部は起き上がっていたが、脇息にもたれかかって気だるげにしていた。その様子を見た月白が開口一番に言う。
「お代を頂きに来たわ」
高澄は思わず苦笑した。月白が籐式部の全身に素早く視線を走らせ、問題なく回復していると確かめたことに気づいたからだ。相変わらず素直ではない。高澄の様子に気づいた月白が軽く睨んでくる。
「そのお話ですが」
藤式部が言った。
「あなたの祓いは失敗だったのではありませんか?」
「は!? それは……」
高澄は思わず声を上げた。月白がそれを制する。冷静な口調で聞き返した。
「どうしてそう思ったのか、聞かせてもらえるかしら」
「私の体調は良くなりましたが、一日だけのことでした。翌日にはまた悪くなって……他の方にまた祓いを頼む羽目になりました」
陰陽寮の陰陽師に依頼したあの時のことだろう。それを悪びれずに言うところに、はたで聞いていた高澄は腹を立てた。しかも、あの陰陽師の尻ぬぐいは月白が行ったのだ。籐式部はそのとき気絶していたし、あの現場を見て何が起こったか正しく分かった人もいなかったのだろう。彼女には何も伝えられず、何も知らないようだった。
最初の祓いのときも、見鬼ではない彼女には何も見えず、何が起こっていたか分からなかっただろう。月白がどんなことを行ったのか正しく把握していないのだ。
体調が戻った藤式部からは、後宮で見たときのおどおどした様子が消えていた。あの時は体調が悪かったせいか、内裏で猫を被っていたせいか、こちらが彼女の素らしい。
藤式部はなおも言い募った。
「適当なことをしたのではありませんか? それに、ほんの寸刻のことであの金額は高すぎます!」
月白は彼女に言わせるままにしている。聞いているだけの高澄でさえ腹が立つのだが。同時に、あることを思い出す。彼女の父親である式部大輔、彼の悪事を調べていくなかで、彼の守銭奴っぷりがやけに目についたのだ。よりよい地位を貪欲に求める姿勢もだが、彼のお金に対する汚さが目立った。性質なのか教育なのか、そうした姿勢は娘に受け継がれたらしい。
月白は静かに言い返した。
「十六年と寸刻よ」
「え?」
「十六年と寸刻。あなたに施した祓いにかけた時間よ」
「十六って……それってあなたの年齢くらいでしょう!? いったい何を言っているの!?」
「だから、私があなたに施した祓いにかけた時間。私が育てられて、学んで、技術を身に着けて、そうして寸刻の祓いを施した。そういう意味よ。実際に術にかけた時間がほんのわずかだから蔑ろにしていいと思ったの? それを成り立たせる膨大な積み重ねを無視されては困るのよ。ちょっとのことだから無料でやって、なんて言うのはすごく失礼な行為なのだけど?」
「…………!」
籐式部は言い返せない。高澄は胸がすっとするような感覚を覚えた。頭のどこかにあったひっかかりも解消する。
月白が藤式部を祓ったとき、彼女は頑なにさえ見える態度で対価を求めた。それが守銭奴にさえ見えてしまい、そのくらいの額なら肩代わりしていいと言ってしまった。それがどれだけ失礼なことだったか、今になって思い知る。行ったことに対しては正当な対価を。本当に当たり前のことで、本当に大切なことだ。
月白は言った。
「物怪が見えないあなたには、何が起きたか分からなかったでしょう。でも、そこでは何かが起きていたの。私は私の矜持を以ってその解決に当たったの。金額が不満なら最初から言って。それなら引き受けなかったわ。私は自分の技術を安売りするつもりはないんだもの」
「…………」
気圧されたように藤式部は沈黙した。ややあって、袋に入った金子を渡す。月白はそれを受け取って中身を確かめ、頷いた。
「確かに受け取ったわ」
用は済んだとばかり、くるりと踵を返す。置いて行かれそうになった高澄は慌てて彼女を追いかけようとしたが、挨拶を忘れていたことを思い出して藤式部を振り返った。
「失礼する。お大事に」
籐式部は浅く頷いた。逡巡したのちに問う。
「陰陽寮の陰陽師からは、あなたにお礼を言うようにと言われたのだけど……もしかして、二回目のお祓いでも、あなたが……?」
月白は振り向かず、答えない。言おうかどうしようか高澄は迷ったが、月白の意思を尊重することに決めて口をつぐんだ。
そして、月白の背を追った。
月白の住まいに戻ると、太白は外出中だった。高澄はそのまま上がらせてもらい、円座に座った。道具の整理をしている月白の背中に声をかける。
「しかし、よかったのか?」
「何が?」
「藤式部のことだ。彼女を助けたのはあなたなのに、それを伝えなくてよかったのか?」
月白は振り返らずに答える。
「私が勝手にしたことだもの。請求できないわ」
「請求してもよかったと思うが。仕事には正当な対価を。そうだろう?」
藤式部は月白の術を信じず、宮廷陰陽師にさらなる祓いを頼んだ。その陰陽師は物怪の障りが恨みであることなど知ろうともせず強引に祓い、籐式部は――尊継も――身を損なうことになった。月白はもっと彼女を非難してもよかったはずだ。だが、彼女はそっけなく言うだけだ。
「押し売りをするつもりはないわ」
「あとで上乗せして請求するつもりだとか言っていたようだが?」
ぴくりと月白の肩が跳ねた。
「……言った覚えはないわね」
これは絶対に覚えている。しかし絶対に認める気がなさそうだ。高澄は思わず吹き出した。月白が顔を赤くして振り返る。
「何よ! 何か言いたいことでもあるの!?」
「いや、可愛いなと思って」
「…………!?」
何気なく答えつつ、自分の答えに妙に納得した。確かにこれが自分の言いたかったことだ。
「あまり人をからかわないで!」
「からかってなんていないぞ。本心だ」
答えつつ、自分の答えに既視感を覚える。似たような言葉を太白が言っていたことを連想し、月白に聞きたかったことを思い出す。
「あなたも座らないか。ちょっと話をしたい」
「ここ、私の家なのだけど……」
局の主のような態度で席を勧めた高澄に微妙な表情をし、それでも月白はおとなしく座った。
高澄は切り出した。
「先日、太白どのと話をする機会があった。そこで色々と聞いた」
「聞いた、って……何を?」
「性別とか、生まれとか、陰陽道の陰の側面のこととかだな」
「それ、ほとんど全部じゃない……。お師匠様、よく話してくれたわね。いつもは相手を押し倒して有耶無耶にする人なのに」
「……話したい気分だったらしいな」
押し倒されかけた気もするが、気のせいということにしておく。月白の視線が冷たいのも気のせいだ。
そこで高澄はひとつ、恐ろしい可能性に気づいた。太白が腕のよい陰陽師であるということを高澄は複数の友人知人から聞いたのだが、腕がいいということ以外の情報を皆そろって伏せていたのだ。宮廷人である高澄に性別不詳の民間陰陽師という微妙な立場の者を紹介するのが不都合だったからではないかと思っていたのだが、もしかして、客として実際に太白の相手になったから言葉を濁していたのではないか。その可能性が頭に浮かぶ。
(……。……いや、まあ、そうだとしても問題はないわけだし……)
高澄はそこで思考を打ち切り、月白に思わず聞いてしまった。
「太白どのは否定していたが……もしかしてあなたも押し倒されたのか?」
「されてないわよ! お師匠様は、私には絶対に手を出さないわ。家族みたいなものなの」
「それは分かるが、血縁はないのだろう? 夫婦だって家族と言えば家族だ」
「夫婦間には情愛があるものでしょう。私はお師匠様を尊敬しているけれど、そういうのはないわ。逆に、お師匠様にとっての私は恩師の娘なの。そういうふうには見ないのよ」
「恩師……? 房中術のか?」
「一般的な陰陽道の! ……あなた、本当に全部聞いたのね……」
「だいたい聞いた。だが、あなたについてのことは聞いていない。聞きたいなら自分で聞けと言われた。だから聞きたい」
「興味本位で? お断りよ」
「興味本位……? 何か違うな。あなたの事情ではなく、あなた自身に興味がある」
「!?」
言ってしまった後で、月白の反応を見た後で、口説き文句のようなものを言ってしまったと気づく。しかし取り消せないし、取り消す気もない。本心だ。
月白は顔を赤くして口をぱくぱくさせた後、諦めたように溜息をついた。
「あなたのその真っ直ぐさ、厄介だわ……。なんだか受けて立たなきゃいけない気になるもの」
そう言い、彼女の事情の一端を明かした。
「お師匠様は知っていることだし、あなたはよそに他言しないだろうと信じて言うわ。私の父はね、宮廷陰陽師だったの。陰陽寮の次官、陰陽助にまで上った優秀な陰陽師よ」
「その話、どこかで……」
「あなたも聞いていたでしょう。陰陽頭が左大臣に泣きついて左遷させられたという話を。家族に危害を加えると脅された話を。事実よ」
「…………!」
高澄は息を呑んだ。
「それが十年前のこと。父は逃げるように京を出て、母の実家に身を寄せたの。でも、そちらもちょっと訳ありでね。女系で古神道の教えを受け継ぐ家で、家系的に陰の気が強い一族なの。母がそういう家系で、父は内裏で薫陶を受けた陰陽師。娘の私はどっちつかずの半端者。半人前の半端者、できそこないなのよ」
「そんなこと……!」
「少なくとも母の一族にとっての私はそう。生まれた時から許婚が決まっているような古い家に、半端に陽の気が入り混じった私の居場所はなかったわ。血筋だの何だのばかばかしいとひねくれていた私のところに、父が連れてきたのがお師匠様よ。父の教えを受けたという意味では兄弟子に当たるのでしょうけれど、お師匠様は大陸や和国の各地で陰陽道を学んでこられたから、私にとってはやっぱりお師匠様ね」
月白は月白で、陰と陽が混ざり合う特殊な立ち位置にいたのだ。もしかすると彼女の潔癖さも、生まれた時から許婚が決まっているような家に対する反発の現れなのかもしれない。
そして更に、納得することがある。彼女が妙に宮廷事情や陰陽寮に詳しかったり、それなのにそれらに対して悪印象があったりしたのは、彼女の父親の存在が理由だったのだ。血筋だという見鬼の才も、父親譲りなのだろう。
月白は言った。
「あなたからの依頼、厄介そうであまり関わらない方がよさそうだと最初は思ったのだけど、受けてよかったわ。あなたは鈍いけれど頭が柔らかくて私たちの立場にこだわらないし、式部卿宮は良い方だし、なにより……黒幕の左大臣と陣営を異にしているのだもの」
自分が褒められているのか貶されているのか分からない微妙な評価も、尊継を褒められたことの喜びも、今は措いておく。月白の話をひたすらに追う。
「陰陽寮を辞めさせられた父は今、和国の各地を巡りながら陰陽道の研究をして、陰陽師として活動しているわ。その暮らしを楽しんでいるみたいだけど、私は許せないの。不当な手段で父を追い落とした者のことが。京に戻ってきたのは、内裏に関わるため。黒幕を突き止めて制裁を加えるため」
「それは……あまりにも……」
「左大臣に狙いを定めるのは無茶だと思う? でも高澄様、あなたも、あなたの殿下も、彼の存在をよくは思っていないでしょう。共闘できると思わない?」
好戦的に、獰猛に、月白は瞳をきらめかせた。
その瞳に魅入られかけ、高澄は慌てて頭を振った。
(あまりにも無茶だ……)
しかし月白といい太白といい、どうしてこうも取扱注意の危険物のような話をしてくれるのだろうか。
「……そういえば、太白どのは? あの方も制裁が目的なのか?」
「目的……というほどでもないけれど、協力はしてくれるわ。父が今の生活を楽しんでいるからと、私ほどには怒っていないみたい。京について来てくれたのは私のお目付け役が半分、お仕事が半分よ」
「なるほどな」
「それでどうなの、高澄様? あなたも私に協力してくれない?」
月白が答えを求めて迫ってくる。高澄はたじろいだ。月白自身のことを知りたいと思って話を聞こうとしただけなのに、どうして自分が窮地に追いやられるような状況になっているのだろうか。
(……だが、本当に窮地だろうか?)
左大臣の専横を見過ごせないのは高澄も同じだ。その手下になっている式部大輔でさえ指せないのに親玉の左大臣をどうこうなどとはとても考えられないでいたが、いずれは向き合わなければならない存在だ。ここで彼女の手を取る選択肢もないではない……どころか、大ありだ。
それに、何より。
「助太刀しようと言ったからな。言ったことは守る」
「じゃあ、いいのね!?」
「ああ。だが、代わりと言ってはなんだが、私のことも助けてほしい。左大臣の手駒の式部大輔を失脚させたいんだ」
月白は一瞬目を瞠ったが、すぐに細めて笑った。獲物を狙う猫のような目で応じる。
「協力するわ」
そして除目が行われる夜が来た。今上天皇が清涼殿にお出ましになり、公卿をはじめとする主だった貴族たちが集う。左大臣の姿も目立つところにあった。
もちろん、尊継の姿もある。苦しそうな様子もなくすっくと立ち、儀式を見守っている。高澄は安堵で力が抜けそうになった。
当初の目的は、尊継がただ儀式をやり過ごせるようにと、それだけだった。式部卿として威儀を正し、儀式に臨む姿を周囲に印象付けられればそれでよかった。
だが、もう、それだけでは足りない。この機をもって式部大輔を追い落とすことを高澄たちは決めたのだ。
除目は粛々と進んでいく。太政官が新たに任官される者を官名つきで呼び、呼ばれた者はおうと答える、その過程が繰り返される。秋の除目は京官を任じるもで春の除目よりも短いが、それでも大勢の名前が読み上げられていく。
滞りなく儀式が進み、終わりに差し掛かり、首尾よく官位を得た者も得られなかった者も心の内をひとまず呑み込んで天皇の退出を見送る、その場でのことだった。
急に、後涼殿の方からざわめきが起こった。清涼殿の西側に隣接する殿舎で、女性たちが詰めているところだ。任官を願って待つ者の家族などがそちらにおり、儀式が終わるのを待っている。いち早く結果を知りたい、喜びや悲しみを分かち合いたい、と控えているのだ。
「申し上げます!」
何事かと足を止めた天皇に、一人の官人が駆け寄ってきて奏上した。天皇の傍付きに止められるほどの近さではなく、さりとて声が届かないほどの遠さでもない、絶妙な位置だ。
誰かが止めるよりも早く、その官人は言葉を続けた。
「後涼殿で怪異が起きております! 怪しい光が飛び回り、女房が一人、倒れました! その場にいた陰陽師に対応を急がせているところで……」
官人がそこまで言ったときのことだった。蛍のような、しかし明らかに生き物のそれではない光が、後涼殿からいくつもいくつも彷徨い出て清涼殿の方へと漂ってくる。
夜に彷徨い出る怪しげな光と来れば、想像するものは人魂と決まっている。たちまち辺りは大混乱に陥った。貴族たちが押し合いへし合い、我先にと逃げ出そうとする。
そこへ、夜空を殷々と震わせる音が響いた。その音が鳴弦、人の手で弓の弦を弾いて魔を打ち払おうとするものだと気づいた人々は足を止め、そちらを見た。
夜の中でも輝くような美貌の陰陽師が、弓の弦を弾いて光を散らし、追い立てている。光は明滅し、弱々しく震え、夜空へ消えた。人々の間から安堵の息が零れる。
「そこの者。よくやった」
怪異が祓われて人々が落ち着きを取り戻したと見た天皇は、陰陽師に声をかけた。陰陽師は跪く。
「おそれながら陛下。申し上げたきことがございます」
「申してみよ」
「あの光が狙ったのは、皇后陛下にお仕えする女房の一人でした。今回の除目を準備するにあたってさまざまなことを取りまとめた式部省、その次官である式部大輔、彼の娘です」
ひっと息を呑む音がした。陰陽師の言葉に真っ青になって震えているのは、名指しされた式部大輔だ。
「急ぎ占った結果、天がその者の不正を咎めているようです。彼が関わった人事について、今一度ご確認を」
陰陽師は言い、式部大輔はその場にへたり込んだ。
「……それでどうして、お師匠様がおいしいところを全部持っていくの?」
「仕方ないでしょ。星精は私にしか操れないんだから。それに月白、あなたが陰陽師としてあの場に立つのは無理がありすぎたわよ。女性の陰陽師なんていたら怪しすぎるもの」
除目の夜が明け、その後のごたごたもあらかた片付いた後。陛下に怪異を知らせた官人もとい高澄は、鳴弦をした陰陽師もとい太白と、準備を手伝った月白と作戦の成功を祝うべく、二人の家を訪れていた。
月白が呆れたように言う。
「しかし、よく思いつくわよね。星精をあんなふうに使うなんて」
罰当たりだとでも言いたげな月白に、高澄は弁明した。
「あれなら見鬼ではない者にも見えると思ったんだ。私がこの家を見つけたときにも見えていたし、あの光が太白どのの周りを飛び交っていたのも見たことがある。そこから思いついた」
「確かに、あれは星の光を集めたものだから見鬼ではない人にも見えるわ。頭が柔らかいのね」
「厄介な馬鹿よね。でも実際、上手くいったのだからよかったわ」
月白の言う通り、上手くいった。式部大輔の不正について正当な手順で上に報告を上げていっては途中で握りつぶされるが、あれなら握りつぶされようがない。天皇の御前で、大勢の貴族たちの真ん前で疑いの声を上げたのだから。人々を落ち着かせるためにも妙な光の障りを避けるためにも、天皇は相応の調査を命じなければならない。あの怪異を恐れた者が多いなら、なおさら調査は徹底される。いくら左大臣が睨みを利かせても、左大臣よりも恐い怪異があるとなると自分たちの身に関わってきてしまう。上からの邪魔があろうと調査は順調に進んだ。
「でも本当、いろいろと以外だったわ。あの藤式部が協力してくれたこととかね」
月白が言う。
しかし、高澄はそのことを意外だとは思わない。彼女は自分を助けたのが月白であることに薄々気づいていたし、人にあまり借りを作りたがらないたちだ。本当のことを話せば協力してくれると思っていた。
尊継と高澄が式部大輔を調べて突き止めたのは彼の不正についてだったが、彼を指すための最後の鍵は太白が持っていた。太白が関係を持った相手が、式部大輔が不正を重ねる理由を知っていた。寝物語に、ぽろりと太白に零したのだ。
太白が物憂く溜息をつく。
「まったく、やりきれないわ。一人娘のために不正を重ねるだなんて……」
式部大輔が貪欲に金銭と地位を求めたのは、彼の一人娘である藤式部の将来を憂いてのことだったのだ。藤式部の母は早くに他界し、父親たる式部大輔は自分が愛娘を守らなければと思うあまり手段を選ばず突き進み、左大臣の庇護を求めて彼の元に下ったというのだ。
藤式部が吝嗇だったのは父親の背を見て育ったからで、父親の吝嗇は娘を守るためで、なんともやるせない。太白が高澄に色々なことを話してくれた日、物思いに沈んで投げやりだったのは、このあたりのやりきれない事情を聞いてしまったからということだった。こういう仕事で知ってしまった他人の秘密を話すことは本来御法度なのだけど、と前置きして高澄に教えてくれた。
「式部卿宮が絡んだところもそう。式部大輔は娘のために不正をし、それが式部卿宮の恨みを買い、その恨みが娘に向かったんだもの。本当に皮肉だわ。私、こういうの駄目なの。人の業というのかしら、見ていられないくらいにやりきれなくて……。陰陽師としては駄目なのだけどね」
太白は自嘲した。
「月白、駄目な師匠でごめんね。ちゃんと教えておかなければいけなかったのに。恨みが式部大輔に直接ではなくてその娘に向かった理由なのだけど、体質や、守りの有無や、呪詛されているかどうかだけではなくて……他にも考えられるの。それはね、恨まれた者が他の者のために手を汚した場合。その場合も考えうるのよ。今回がちょうどこれだったわね」
それをもっと早く言ってくれれば、真相にもう少し早く辿り着けたかもしれない。だがもう終わったことだ。解決したのだから高澄からは何も言うまい。
後で明らかになったことだが、清涼殿での騒ぎの際、式部大輔がへたり込んだのは、自分の悪事が明らかになることを恐れたからではなかった。怪異が自分の娘を襲ったと聞き、それに衝撃を受けたからだった。彼は娘を本当に大切にしていたのだ。
そして娘の方も、父を大切に思っていた。籐式部が月白の祓いを受けた際、恨まれる強い心当たりはないか、金銭や色恋が絡むのではないか、そういった話になった時に、藤式部は葛藤して何かを言いかけた様子だった。父親がどんなことをしているか、それが誰のためなのか、薄々気づいていたのだろう。
「やるせないが……救いがないわけでもない。流罪になった父親に娘もついていくのだろう?」
「そう聞いているわ」
式部大輔の不正が暴かれ、彼は遠国への流刑を言い渡された。藤式部も女房を辞め、父に同行するということだ。彼らが互いの関係を見直し、穏やかに暮らすことを願ってやまない。
「でもまあ、してしまったことは償わないといけないし、落ち着くところに落ち着いたんじゃない? 左大臣以外はね!」
月白の言い方に高澄は苦笑する。
今回、式部大輔は指すことができた。不正を暴き、相応の刑を科すことができた。彼が難癖をつけて恣意的に左遷させた者たちの復権も進んでいる。高澄に情報をくれた陰陽師の友人も遠からず戻ってくることができるだろう。
だが、親玉であるところの左大臣は相変わらずその地位に居座り、権力をふるっている。
「まだ京に来て日が浅いのに、一足飛びにそこまで行こうとするのは無理よ。あなたがあまり無茶をするようなら連れ帰れって私が言われているの、忘れないでね」
太白が呆れたように窘めた。月白はそっぽを向いた。ややあって高澄に言う。
「そういうわけだから。あなたにはまだまだ、協力してもらうわよ」
(そう……だよな。まだ、終わらない……んだよな……)
護符のおかげとはいえ尊継は一時的になら儀式の時でも参内できるようになり、式部大輔がらみのことは片がつき、太白や月白との依頼関係もいったん終わりと思ったのだが、月白との共闘関係はまだ残っていた。高澄は思わず顔を明るくした。
太白がくすりと笑う。
「嬉しそうな顔しちゃって。高澄様、ほんと分かりやすいわあ。いいわあ」
「ちょっ、お師匠様!? 手を出そうなんてしないでね!?」
「月白がいらないって言うなら、もらっちゃうわよ?」
「~~~~!」
太白が月白をからかい、月白が顔を赤くしている。
鈍いことは自覚があり、他者からもよくそのように評される高澄だが、これは自分のことを言われているのもあって分かった。太白は本気ではない。
太白が自身のことを高澄に話してくれた日、高澄を閨に誘いたいようなことを仄めかされた。それに応じるなら応じるでよかったのだろうが、応じないなら。実際に高澄は応じなかったのだが、太白にはそれを期待しているふしがあった。何かを試されているような感覚があったのだ。太白は明言しなかったが、どうも月白の相手として見定められていたのではないかと思う。……願望交じりかも知れないが。
「でもほんと、高澄様っていいわよね。男は女よりも頭が良くなければならないとかいう固定観念がないし。男だ女だってあれこれ言われ続けて疲れた身にとって、高澄様の存在が染みるわあ。貴族なのに、官人として上位なのに、偉ぶらないし」
「馬鹿で鈍いだけよ!」
どうしてこうも褒めてくれるのだろう、とだんだん困惑してきた高澄だが、太白の楽しそうな笑顔を見て理解した。月白をからかって遊んでいる。
(……それはいいのだが、なぜ私が貶される羽目になっているのだろう……。それに、私を引き合いに出したところで月白へのからかいになるのだろうか……?)
高澄はもやもやと思ったが、これを実際に聞くと鈍いだの馬鹿だのと言われるだろうことは分かり切っていたので沈黙を保った。
「さて。私はこれからちょっと用があるから、そろそろ失礼するわね」
「私はお邪魔していていいのか?」
「好きなだけゆっくりしていって」
言葉に含みを持たせ、太白は局を出ていった。
(あんの、お師匠様め……)
太白が去り際に月白に向かって片目を瞑っていたことを、高澄は気づかなかっただろう。高澄の座っている位置からでは見えないし、そもそもあの男は戦いの場を除いてだいたいにおいて鈍い。
「なあ、月白」
「はい!?」
二人きりになって声をかけられ、動揺して声がつつぬける。だが、そんな月白を気にする様子もなく高澄は言った。
「今もだが、あなたたちは手を使わずに戸を開けたり閉めたりできるのだな。初めて見たときは驚いた」
なにかと思えば、そんなことを呑気に聞いてくる。八つ当たりのような腹立たしさを抑えて月白は答えた。
「ちょっとした式を使っているのよ。師匠は星精を、私は月精を」
「ふうん、何だか分からんがすごいな。だが、体を使わないと鈍ったりしないのか?」
頭より先に体が動きそうなあなたと一緒にしないで、とは思ったが、雑言は出さずにとどめる。気が強い、可愛げがないなどと言われる自分だが、これでも言いたいことを抑えることができるように成長したのだ。ある程度は、だが。
「体を使わないと鈍るように、陰陽の術も使わないと錆びつくものなの。だからこれも一種の訓練」
「なるほどな」
素直に感心するその様子は、いかにも貴族のお坊ちゃんと言いたいような呑気さだ。
最初、月白は彼のことが苦手だった。ひねくれた自分とは違い、太陽のようにどこまでいっても明るい面しかない青年。怒りですらからりとしていて、陰湿さがどこにもなかった。彼の忠誠心の高さは呆れるばかりだったし、主君にかわいがられているのもよく伝わってきた。侍従が侍従なら主君も主君で、偉ぶるのが仕事のような皇子らしくはなく、たしかに高澄の主君だと言いたいくらい物事への姿勢が似通っていた。
何もかも恵まれて、真っ直ぐでいられて、それなのに月白に対しても屈託なく笑ったりお礼を言ったりわざとかと思うような思わせぶりな言葉を言ったり……感情が振り回されて、いつしか視線が彼を追っていた。嫌味なほどの陽の気が、眩しいものに見えてきた。
当の高澄は、まだ何も気づいていない。鈍いにもほどがあるが、あの太白の色気さえ通じないのは一周回ってすごいと思う。だが太白にはお見通しのようで、からかわれて閉口してしまう。
(気づくまでは何も、言ってやらないわ)
そう思うのだが、高澄と月白の協力関係がまだ続くと分かった時の、あの素直な喜びの表情を目にしてしまうとなんだか自分の心が狭いように思ってしまう。負けたように感じてしまう。
(……まあ、いいわ。協力関係はまだ続くんだし、ね)
先のことは分からない方がいいだろう。らしくなく恋占いでもしてみようかと血迷いかけた月白だが、寸でのところで思いとどまった。
陰陽師としての名前ではない、月白の真名も。この気持ちも。
まだ、教えてあげない。
陰陽奇譚 さざれ @sazare220509
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