第3話

 月白に内裏を案内した翌日、高澄は月白と太白を連れて尊継の住まいを訪れた。彼個人の持ち物である邸宅に住んでいるわけではなく、里内裏にいわば間借りしているような形なので、使用人たちも彼個人にではなく邸宅について働く者が大半だ。尊継の立場であればいくらでも専属の使用人を召し抱えられるのだが、彼は大仰なことも鬱陶しく出入りされるのも嫌って最低限しか置いていない。

 牛車――そんなに距離もないし歩くと太白は言ったのだが、お師匠様をほっつき歩かせると余計な面倒ごとが起きかねないと主張した月白の意を受けて高澄が用意した――に三人で乗って移動し、邸宅内で降り、宮が住まいとしている対の屋へ向かう。

 中に通され、尊継の顔を見た高澄は思わず明るい声を上げた。

「殿下! 具合がよくないと聞いていましたが、お顔色がよさそうですね!」

「ああ。心配をかけたな。昨日から調子が良くなってきた」

「良かったです!」

 重要な儀式の前には体調を崩すことが多い尊継だが、今回は儀式の終了を待たずして体調が回復したようだ。もしかすると太白らの助けは必要ないのかもしれないが、儀式を乗り切るための用意はいくらあってもいい。依頼を取り下げる気はない。

「殿下、ご紹介いたします。ご助力を約してくださった陰陽師の太白どのと、弟子の月白どのです」

 一通りのことは文で伝えておいたが、直に顔を合わせるのは初めてなので高澄は紹介した。

 第二皇子尊継――式部卿を務める皇子なので式部卿宮とも呼ばれる――は、高澄の贔屓目を抜きにしても美しい青年だ。白い肌に怜悧な美貌、線が細く中性的な印象を与える。太白が女性性を兼ね備えるのに対し、尊継は女性に近いのではなく男性の猛々しさが薄いという意味での中性的な容貌だ。背もさほど高くはなく、高澄や太白よりも頭の半分くらいは低い。月白よりははっきりと高いが、彼女が小柄なのであまり比較対象になっていない。

「拝謁の機会を賜り光栄に存じます」

 太白が礼をとり、月白もそれに続く。きちんと振舞えば優雅な二人だ。二人の型破りな性格を知っている高澄も思わず見とれそうになってしまう。

「よく来てくれた。助力もありがたく思う。楽にしてくれ」

「そう? じゃあ遠慮なく」

 だが、優雅さは長続きしなかった。尊継の決まり文句のような言葉を文字通りに受け取り、太白は口調を普段のものに戻した。男性的で硬質な印象が、女性的で柔らかいものへと一気に変わる。それを知っている高澄でも驚くくらいの変貌だ。尊継も内心をあまり表情に出していなかったが驚いているようだ。付き合いの長い高澄には分かる。

「お師匠様」

 月白が窘めるが、太白はどこ吹く風だ。

「後からぼろが出るより、最初から知っておいてもらった方がいいじゃない? お互いのためよ」

「そもそもぼろを出さないようにという話よ!」

 思わずといったように突っ込み、月白ははっとして頭を下げた。

「お見苦しいところを……失礼いたしました」

「……いや、構わない。そちも楽にするといい」

「……恐れ入ります」

 月白は顔を赤くし、なぜだか高澄を軽く睨むように見た。八つ当たりのような気がしなくもないが、そのくらいの視線は気にならない。

(どうだ。私のお仕えする殿下は良い方だろう)

 そんな気持ちを込めて月白に視線を返すと、なぜだか彼女は半眼になった。解せない。

「まずはご依頼の内容を確認したいのだけど、よろしいかしら」

「ああ」

「ご依頼は高澄様を介してだけど、依頼主は殿下ご自身。依頼内容は今回の除目をつつがなく終えるための陰陽道の助力。それで間違いないかしら」

「間違いない。働き次第では、今後も同様の依頼をするかもしれない。それと、私の体調についての相談も」

「承知したわ」

 確認をとり、太白は無造作に尊継との距離を詰めた。尊継がぎょっとして対応できずにいるのに構わず、間近で彼の手をしげしげと見つめる。

「月白、あなた何かやった?」

「……やった、みたいね……」

 二人が何のことを話しているのか分からない。尊継が助けを求めるような視線を送ってくるが、高澄にもさっぱりだ。

「太白どの、いったい何の話なのだ?」

「端折って言うと、月白が殿下の体調不良を一時的に治したようなの」

「……。端折りすぎて分からないが、月白どのは殿下と面識があったのか?」

「もちろん無いわ。お目にかかるのは今日が初めてよ」

「それなら一体どこで……」

 言いながら、高澄は太白の言葉を思い返して引っ掛かりをつかんだ。一時的、という言葉に聞き覚えがある。

「……もしかして、藤式部か? 彼女と関係があるのか?」

 月白が目を瞠った。太白は手を叩いて賞賛の声を上げた。

「高澄様、すごい。勘がいいのね。多分それよ。月白、殿下にご説明申し上げて」

「分かったわ」

 月白は太白に向かって頷き、口調を改めて尊継に確認を取った。

「恐れながら殿下、人払いを。余人の耳に入っては不都合なお話になるやもしれませんので、使用人も遠ざけていただきたく。私どもの方でも遮音の術を施します」

「あい分かった。この者は同席させてよいな?」

「殿下がよろしいのでしたら」

「構わぬ。誰か!」

 尊継は控えていた使用人を呼び、局に誰も立ち入らせないようにと命じた。高澄はそれを見ながら、同席を許されたことに安堵する。自分は尊継の信頼を得られている方だと思うのだが、なにかとぞんざいな扱いをされるのでいまいち自信がなかったのだ。

 月白が局の四隅に護符を置いた。簡易な結界を張って音を遮るようだ。

 準備が整うと、月白は口を開いた。

「先日、私はこの方にご案内いただいて内裏に参りました。後宮にも立ち寄ったのですが、そこで物怪の障りに悩まされている方がいたので、依頼を受けて祓いました。本来なら依頼主の名前などは伏せるべきなのですが、今回は殿下に関わりがあることなので明かします。他言はなさらないでくださいね。藤式部という女房です」

 ぴくり、と尊継の眉が動いた。心当たりがある名前らしい。

 高澄も知っていることなので構えずに聞いていたのだが、話がだんだん不穏になってきた。

「籐式部が物怪に憑かれていたのは、本人の体質や呪詛が原因ではありませんでした。彼女に向かった恨みが物怪を引き寄せていたのです。……お心当たりはございませんか?」

 高澄は思わず立ち上がり、月白に詰め寄った。

「まさかとは思うが……殿下が原因と言っているのではないだろうな!? 違うと言ってくれ!」


 詰め寄られた月白は、まったく怯まず真っ直ぐに高澄を見据えた。

 その様子に、少し頭が冷える。

(……ああ、この子は……いつもそうだ)

 体格差も年齢差もある高澄が怒っていても、まったく怖じ気づく様子がない。いつも真っ直ぐに、対等な視線を返してくる。

(……陰陽師をしていると胆力がつくものなのだろうか?)

 素朴な疑問が出るくらいに、高澄は落ち着きを取り戻した。そこへ尊継の声がかけられる。

「やめよ。……私のことを思ってくれたことには礼を言う」

「殿下……!」

「…………」

 高澄は感激で声を上ずらせた。そんな高澄に月白が目を眇めている。太白は三人の様子を面白そうに眺めていた。

 尊継は溜息をつき、口を開いた。

「……どうやらその者の物怪は、私に原因があるようだな」

「殿下!?」

 高澄が声を上げるのを手で制し、尊継は続けた。

「私はその者の顔も知らないのだが……名前には心当たりがある。式部大輔の娘だろう?」

「ええと……どうだろう?」

 高澄は月白と顔を見合わせた。月白は首を傾げているが、高澄も知らない。彼女とは昨日が初対面だ。

「分からないけれど、多分そう。呼び名が藤式部ということは藤原家の者なのでしょうし、近しい人、おそらく父親が式部省に所属しているのでしょう。通称に使われるくらいだからある程度の地位もあるのでしょうし、それが式部大輔である可能性は高いと思うわ」

「間違いなかろうよ。その者の祓いは昨日の未の刻であったのだろう? 私の体調がよくなったのはその時間帯だ」

 思い返すと、祓いは確かにその頃だったと思う。午後の早いうちだ。

「では、どういうことになるんだ? 祓いで式部大輔の娘の体調がよくなるのと同時刻に殿下の体調も改善されたということは……」

 月白は尊継に対して説明していたはずだったが、今や分かっていないのは高澄だけだ。尊継はすでに話を飲み込んだらしい。いつもそうだ。尊継は高澄より三つも年下だが、高澄よりもずっと頭の回転が速い。

 尊継は高澄に言った。

「お前も本当はもう気付いているはずだ。私が藤式部を恨んだせいで物怪が彼女に取り憑いていたのだろう。恨んだ者と恨まれた者が双方とも体調を崩していたが、恨まれた者の物怪が祓われたことによって双方の体調が改善した、そういうことなのだろう」

「殿下……!?」

「……これは確かに、皇子に向いていないわね。それに……」

「月白……!?」

 血相を変えた高澄に顔を向けられた月白は、宥めるように手を上げてみせた。

「言っておくけれど、これは本当に誉め言葉よ。上に立つ者は自らの非を認めたがらないことが多いから。隙を見せてはいけないという事情もあるでしょうけれど。殿下の率直な潔さには感銘を受けたし、お助けしたいと思ったわ」

「そうだろう、良い方だろう!」

「……単純ね」

 月白が呆れ、尊継も何とも言えない表情をしている。太白は笑いをこらえて肩を震わせている。

「だから、早まらないで聞いてね。殿下を糾弾するつもりなんてないんだから」

「すまなかった。つい、かっとなってしまって……」

「とりあえず、お飲み物をいただきましょうか」

 太白が場をとりなし、立ち上がっていた高澄と月白は座り直した。

 三人を迎えるにあたり、尊継は局に畳を何枚も寄せ集めて場を整えていた。冷めてしまったとはいえ飲み物も用意されている。穀類や豆を煮出した飲み物は尊継が愛飲しているもので、体調が悪い時でも飲み物から栄養を取ることができる。お茶請けの搗栗子(かちぐり)も添えられており、太白も月白も遠慮なく手を伸ばしていた。

 特に月白が嬉しそうに食べるので、高澄は聞いてみた。

「月白は甘いものが好きなのか?」

「嫌いじゃないわ」

「大好きよ」

 月白が澄まして答えるのに被せて太白が代わりに答える。月白は顔を赤くして師匠を睨んだ。

「そうなのか。じゃあ何か貰ったら持って来よう」

 そう言った高澄に月白が感謝と困惑の入り混じった視線を向け、太白は面白そうに瞳を躍らせた。

「高澄様のそういうところ、すごくいいと思うわ」

「? まだ何もしていないが」

「深く突っ込まないところよ。距離感をわきまえていると言ったら僭越に当たるかしら」

「要するに馬鹿なんだ、こいつは」

 尊継が言う。高澄は自覚しているので腹も立たないし、言い返さない。言葉に反して口調が冷たくないので傷ついたりもしない。

「頭を使うことは殿下にお任せします」

「お前も文官だろう。頭を使う立場だろうが」

 尊継と高澄の気安いやり取りに月白は瞬いているし、太白は面白そうにしている。ふと自分たちを振り返った高澄は、自分と尊継との関係は月白と太白のそれと少し似ているのかもしれないと思った。

 一緒に話をしながらものを食べたり飲んだりすると場が和む。それは陰陽師と官吏と皇子というちぐはぐな取り合わせの四人でも同じだった。尊継はどこか力が抜けた様子だし、月白も構えを解いたような雰囲気だ。太白はあまり変わらないが、彼または彼女が自分のペースを崩すところはあまり想像できない。

 いつまでもこうしていたいが、そういうわけにもいかない。高澄は改めて口を開いた。

「さて。休憩も済んだことだし、本題に戻ろうと思うのだが……」

 言いつつ思い出してみると、わりと話しにくい話をしていたところだった。ぎこちなく尊継を見ると、馬鹿め、とでも言いたそうな表情の彼と目が合った。

 尊継は溜息をつき、話の続きを引き受けた。

「藤式部を恨んだ者が私だろうという話なのだが、先ほども述べたが私はその者と面識がない。私が恨みに思ったのはその者の父である式部大輔だ。だが、恨まれた者と近しい者にも恨みは向くのではないか?」

「そういえば……そんな話を聞いたような」

 高澄は思い出した。藤式部の祓いをする前に月白がそのようなことを言っていた。家族など近しい人のとばっちりで一緒くたに恨まれることがあるとか。

(それと、式部大輔……?)

 その人物にも聞き覚えがある。陰陽師たちが話していた、左大臣と癒着して権力を乱用している人物のことではなかったか。

 月白もその人物のことを思い出していたらしい。重い口調で言った。

「式部大輔の噂は私も内裏で聞きました。左大臣と強く結びついて権力を濫用している人物だそうですね。恨みが近しい人へ向かうことがあるのも、殿下の仰る通りです」

「やはりか。そして式部大輔のことは、そんなに噂になっているのか」

「難癖で左遷させられた者の友人が陰陽寮にいたようで、そこで聞きました」

「そうか……」

 高澄は口を挟み、その者の所属と名前を出した。

「……という者なのですが、殿下、お心当たりはありますか?」

「ある。その者の無実も知っている。なんとか彼の名誉と地位を取り戻してやりたいのだが、式部大輔が左大臣の手先として邪魔をしてくる。数か月経つのだが、まだ果たせない。左大臣はよほどその地位を手のもので押さえておきたいらしい」

「数か月……それはもしかして、殿下が式部卿になられた頃のことですか?」

 高澄は問うた。尊継は頷いた。

「ちょうど引き継ぎの時だった。そのごたごたを突かれて勝手に動かれてしまった。こうなる前に阻止できればよかったのだが、いちど決まってあちこちに根回しされてしまうと変えるのが難しい」

「……でも、変えようとしておられたのですね」

 尊継は尊継だった。公正な式部卿だ。それが嬉しくて、高澄は思わず表情を緩めた。


 だが、尊継の表情は硬い。自らの恨みの念が藤式部を害していたと知ってしまったのだから当然だろう。

「彼女自身に恨みはない。そもそも面識すら無いしな。だが、彼女の父親には……」

 煮え湯を飲まされ、立場を蔑ろにされている。不正を止めることができず、しかもその責任は長官として彼が負うことになるのだ。それは恨みも深いだろう。

 尊継は深く溜息をついた。

「恨むべきはむしろ、彼よりも私自身の無能さだろうがな……」

「無能だなんて……」

「他に言い方もなかろうよ」

「殿下……」

 そんなことはないと打ち消そうとした高澄の言葉を遮り、尊継は自嘲するように断じた。何と言っていいか分からず、高澄は表情を歪めた。

 そこへ太白が言葉をかけた。

「殿下はご自身に厳しくていらっしゃるのね」

「……特にそんなつもりは無いが」

「自分を律することは素晴らしいことだけれど、危険もあるわ。理想が高すぎると現実との乖離に苦しむの。苦しみが心を損なってしまったり、外に向かってしまったり……」

「……藤式部のことか?」

「そうね」

 高澄は素朴な疑問を覚えて口を挟んだ。

「それなら、矛先は式部大輔に向かいそうなものだが。なぜ娘の方に向かうんだ?」

「二人を実際に見てみないと分からないけれど、可能性としてはいくつかあるわね。体質とか、守りの有無とか、すでに呪詛されているとか。他にもあるけれど……」

 太白は言い淀んだ。言いたくなさそうな雰囲気を察してか、尊継は被せるように言った。

「見れば分かることなら、ここで推測を並べていても仕方あるまい。だが、そちらの娘は藤式部に会ったのだろう?」

「……未熟者ゆえ、私では見て取れませんでした。恨みが原因であろうことも、推測したまでです」

「そうか」

「精進なさい」

「申し訳ありません」

 尊継は特に咎めるでもなく頷いたが、短く窘めた太白の態度が高澄には意外だった。女性的な態度の太白のことだから弟子にはもっと甘いのかと思ったのだが、こと陰陽道の修行に関しては毅然としているようだ。月白も口調を改めて神妙にしている。

「藤式部のことはあなたのお仕事だけど、殿下が関わってきちゃうとね。こちらは私がお受けしたご依頼だし、そちらのことにも必要があれば関わらせてもらうわよ」

「分かったわ」

 月白は頷いた。妙なところで繋がるものだ、と高澄は思った。後宮で月白が藤式部に会っていなかったらもっと難航したのかもしれない。だが、同じ物怪がらみということで情報が集めやすそうではあるし、遅かれ早かれという感じはする。

「お師匠様、殿下にはここで術をお掛けしておくの? 護符をお渡しになる?」

「んー、そうねえ……」

 太白は細い指を顎に当てて思案した。

「そのつもりだったのだけど、藤式部のことがあるでしょう? 先にそちらを解決した方がよさそう。状況が絡んだままだと厄介だものね」

 そう言い、さらに付け加えた。

「殿下の体質についてだけど、直に拝見して確認させていただいた感じ、やはり陰の気に偏るようね。陽の気を強める宮廷の儀式とは相性がよくなくて、儀式前の体調の悪化はそのせいよ。これは文でお伝えした通りね」

 尊継が頷くのを見て、太白はさらに続けた。

「藤式部のことがあったから今回は特殊で、月白の祓いによって一時的に良くなったけれど、殿下の体質が変わったわけではないわ。日が経てばすぐにいつも通りになってしまうでしょう。なので、それを和らげるための方法を後でいくつか提案するわ」

 課題として月白に用意させていた方策のことだろう。それを自身でも吟味し、他の案も付け加えて持ってきたのだろう。日数もない中だが、さすが評判の陰陽師だ。

「お師匠様、私はすぐに藤式部のところに行った方がいい?」

「できれば、そうね。先方の都合もあるでしょうけれど、文をやり取りするのも時間がかかるし。後宮にいるのは確かでしょうから、駄目元で会いに行っては失礼かしら。時間が取れないようなら都合だけ聞いてきたらどう?」

「そうするわ」

 月白は頷いた。高澄は申し出た。

「私も同行する。案内は必要ないかもしれないが、約束もなく一人で内裏に行っても藤式部のところまで辿り着けないかもしれないからな」

「そうしてくれると助かるわ。月白をよろしくね」

 太白は頷き、尊継に確認を取った。

「それでかまわないかしら? この二人を離席させても、あとは術や護符のご提案だけだから余人に聞かれてもそこまで支障はないと思うわ。信頼のおける傍付きの方がいれば同席していただいて……」

「その必要はない。このまま聞こう」

「殿下がそれでよろしいのなら……」

 太白は困惑と好感の混ざった微笑で頷いた。戸惑うのも無理はない。第二皇子が、初対面の民間陰陽師と二人きりで話しても構わないと言ったのだ。高澄は尊継の気取らなさを知っているから驚かないが、普通なら考えられないことだろう。

 太白の内心を察したように尊継は言った。

「私は体が丈夫ではないので、幼い頃からずっと医師や薬師、陰陽師や僧侶たちに頼ってきた。それらの学問体系を知らないのにだ。術の良し悪しも悪意の有無も分からないままにだ。私にできることは、施術者を見ることだけ。人を見る目が外れたら、その時は仕方あるまいよ」

 施される術が妥当かどうかを知るすべもないのに、自身の身をかけなければならない。尊継はずっとそういった状況に置かれてきたのだ。肝が据わっているし、ある種の諦念もあるのだろう。

(どうだ、殿下はすごい方だろう)

 得意な気持ちで太白に視線を送ると、太白からは子供をあやすような微笑が返ってきた。ついでに尊継から冷たい視線をもらった。解せない。

「では、一時的に結界を解くわ。二人ともよろしくね。私はしばらく殿下とお話しさせていただくから」

「分かったわ、お師匠様」

「行ってくる」

 月白と高澄は言い、太白が局の隅の呪符を動かすのを待って局を出た。

 並んで歩きながら、月白が少し後ろを振り返る。

「大丈夫かしら……」

「何を案じているんだ? 太白どのの腕は確かだと思うのだが……」

 遮音の結界は外の音を通さなかったし、高澄と藤式部の間のことを見抜いた眼力も流石と言うほかない。尊継も太白を信用することに決めたようだし、高澄から案じることは何もない。月白は違うのだろうか。

「お師匠様の腕を疑っているわけではないのよ。あの人の力は確かだし、あの人にしか出来ないことも多いわ。そうじゃなくて、技術や知識ではなくて……不安なのは節操のなさよ」

「…………いや、まさか」

「私だって考えたくないわよ。一介の民間陰陽師が、第二皇子に手を出すなんて。でも……お師匠様ならありえなくもないのよね……」

「…………」

 高澄は沈黙した。ありえない、と言い切れない。尊継の方から誘いをかけることはないだろうが、誘われたら……どうなるのだろうか。まったく分からない。

「…………行くか」

「……ええ」

 あまり考えない方がよさそうだ。暗黙のまま二人は意見を一致させ、足早に邸を出た。


 先日に引き続き、二人はまた内裏に足を運んだ。

「こうもしげしげと来ていては感覚が狂いそうだけど、本来なら内裏ってそんな開放的な場所ではないわよね。民間の、しかも女性の陰陽師が後宮の女性の依頼を受けたことが問題にならなければいいのだけど……」

 今更ながらに月白が心配するので、高澄は安心させるように言った。

「陰陽寮の者は帝室や国家のことを主に扱うものだから、あなたが私的に藤式部の依頼を受けたとて咎められるようなことはない。藤式部は宮廷人だから陰陽寮の者が対応することもあるかもしれないが、彼らも忙しいし、べつに仕事を横から取ったことにはなるまい。それにそもそも、私が仲介した依頼は第二皇子が性別不明の陰陽師に頼むというものだぞ? 今更だ」

「確かに、それはそうね」

「それに、あなたは陰陽寮の者とも会っただろう。彼らはあなたに悪印象を抱いていないようだったが」

「……それは正直、意外だったわ。もっと冷たい目で見られるものだと思っていたから。だからあなたに連れて行ってもらったのよ。私ひとりでは、もしかすると難癖をつけられて投獄とかいう展開もありえるのではと思ったから」

「それはさすがに……」

「ないと思う? 官吏でさえ、上の者の都合でありもしない咎を責められて左遷されたりするのに」

「……」

 それを言われると弱い。だが、それを差し引いても月白の懸念は度を越しているように思えた。まるで、実際に陰陽寮で嫌なことがあったかのような反応だ。それとも、これは男女の感覚の差なのだろうか。男性たる高澄には分からないが、女性だと男性よりも社会的に不自由する場面が多いと聞いている。

「……だが、陰陽寮における女性の排除は、私も感じたな」

 思い出しながら高澄は言う。

 陰陽寮の者と連れ立って内裏へ向かった時、彼らと月白は陰陽道についてさまざまな話をしていた。だが、月白はほぼ聞き役に回っていたのだ。男性たちは自説を開陳したりアドバイスを送ったりはするものの、月白から何も学ぼうとはしていなかった。学べることがあるかもなどとは露ほども考えていなさそうだった。尋ねるとすれば月白自身のことだけで、彼女を陰陽師としてではなく女性として見ていることがありありと伝わってきた。

「その……不愉快ではなかったのか?」

 問われた月白は意外そうに高澄を見上げた。

「どうかしたか?」

「いえ……あなたもそんなふうに気を回せるんだと思って」

「私を何だと思っているんだ?」

「馬鹿な朴念仁よ」

 言下に答えられた高澄は情けない顔をした。そんな高澄に月白はくすりと笑った。

「女性に対する理不尽は、きっとあなたが思っている以上に多いわよ。でも、理不尽があること自体は誰もがそうだものね。尊いお立場でいらっしゃるあなたの殿下でさえ困難を抱えておられるし」

 月白は高澄に微笑みかけた。

「それでも、そうやって慮ってくれることがありがたいわ。朴念仁の評価は取り消してあげる」

「……馬鹿の方は取り消してくれないのか?」

 そんなふうに答えつつ、高澄は自分の鼓動が高鳴るのを感じていた。高澄に向けられた彼女の笑顔が瞼に焼き付いて離れない。裏も何もなく向けられた笑顔は、少々暴力的なくらい可愛らしかった。

「考えておくわ」


 今回は凝華舎に寄らず、二人は直接弘徽殿に向かった。第一皇子の母である弘徽殿女御と、第二皇子に近い高澄は微妙な間柄だ。だが別に顔を見るなり追い出されるなどというものでもないので、必要があるのだからと高澄は開き直った。弘徽殿に着くと、近くを通りかかった女房をつかまえて藤式部について尋ねる。

「藤式部ですか? ええ、出仕していますよ。でも今は女御のお傍からは下がっていて……何か用事があるとか言っていたような……」

 どこにいるか確認してみますね、と女房は場を離れた。

「やはり急だったか。でも出仕はしているようだし、時間が取れたらいいな。その後の考えはあるのか?」

「ある程度は何とかなると思うのだけど、正直自信はないわ。両者の間に挟まる式部大輔がいれば確実なのだけど、呼んでもらうわけにもいかないしね。どう説明したらいいか分からないわ」

「まあ、それはそうだな」

 第二皇子の恨みが式部大輔に向かい、そのとばっちりを藤式部が受けている、などと説明できるわけがない。第二皇子の部分を誤魔化せば何とでもなりそうだが、まずは藤式部に会ってから必要性を判断するということなのだろう。

 女房はすぐに戻ってきた。休憩時間に会うことはできないだろうかと高澄が尋ねると、女房は少し困ったように言った。

「実は彼女、ここのところ体調を崩していて……。昨日は元気そうだったのですが、また具合がよくないと言っていて。陰陽寮の人にお祓いを頼んだらしく、その時間がもうすぐなんだそうです」

 高澄は月白と顔を見合わせた。


 できればその様子を見たい、藤式部に断られたら大人しく引き下がるから、と頼み、二人は女房について藤式部のいるところへ案内をしてもらった。

 移動しながら高澄はおそるおそる聞いた。

「怒っているか?」

 月白は苦笑した。

「べつに怒ってはいないわ。あまり気分がいいとも言えないけれど。いつ誰にどのように依頼するかは自由だしね。一度で解決しきれなかったのに不信感を持たれたのかしら。あの場ではあれが精一杯だったのだけど、お師匠様ならもっと上手くできたかもしれないし」

 月白はそう言うが、籐式部の選択はちょっとどうかと高澄は思う。まだ月白への報酬も半分は払っていないのに、もう次の術者を頼るのかと節操なく思ってしまうのだ。だが、自身の体調のことだ、籐式部も不安だろうし、行儀よく礼儀を守ってなどいられないのだろう。

「太白どのならもっと上手くできたとあなたは言うが、そうなのだろうか。あなたは充分うまくやったと思っているが」

 彼女の祓いには力があった。高澄はそれを自分の身で実感した。

(そういえば、あの時のことを色々と聞いてみたいと思っていたのだが……)

 あちこち動き回ったりして取り紛れていたことを今更思い出す。だが、今も今でのんびり話している時間は無い。案内の女房は弘徽殿の端の局で足を止めた。高澄は彼女に礼を言った。

「案内をありがとう。私たちも同席できないか聞いてみる。無理そうなら都合を聞いて……っ!?」

 どうっと、室内から風が起こった。御簾が巻き上げられ、局の中にあったと思しき紙が舞う。それを視界の端に捉えた高澄は、吹き飛んだそれが呪符であることを見て取った。

 局の中には陰陽師たちの姿が見える。祓いはもう始まっていたのだ。それはいいのだが、女性のものと聞こえる悲鳴は何だ。高澄の目には見えない、何かが暴れている気配だけがする。

「何があった!?」

 二人は局の中へと踏み込んだ。


 局の中は荒れ放題だった。几帳や屏風はひしゃげて倒れているし、墨壺でもあったのか墨液が血痕のように飛び散っている。一緒に中へ入った女房がひっと息を呑むような惨状だ。

 陰陽師が一人、腰を抜かしてへたり込んでいる。その近くに女性が倒れており、高澄は慌てて駆け寄った。乱れた髪をかき分けてみると、女性はやはり籐式部だった。苦しそうにはしているが息は通っており、高澄はほっと胸を撫で下ろした。

「命に別状は……」

 なさそうだ、と安堵して月白を振り返ったのだが、彼女の表情は険しい。呆然としている陰陽師につかつかと歩み寄り、胸倉を掴み上げんばかりにして詰め寄った。

「一体、何をしたの!?」

「か、彼女に……悪いものが憑いていたので、祓って……」

「鍋にくっついてる汚れを落とそうとでもしたの!? 柔らかい人の心に束子みたいなものを使ったらどうなるか分からないの!? あなたがしたのはそういうことよ!」

 月白が怒っている。譬えが聞くからに痛そうで、高澄は思わず顔をしかめた。束子でこするように強引に物怪を落とそうとしたのだろう。

「だが……陽の気でもって、祓っただけで……」

「陽の気が万能薬だとでも言うつもり!? 世界は陰陽の両方で成り立っているのよ!? 強すぎる陽光は日陰の生き物を殺すわ!」

「だが……悪いものは、陰では……」

「話にならないわ」

 言い捨てて月白は立ち上がった。

「あなたがしたことで、彼女は苦しんでいる。その結果がすべてよ」

 突き放すように言い、月白は高澄に言った。

「このまま放っておくわけにはいかないから、何とかしてみるわ。お師匠様には助けてもらえないから私が何とかしないと」

「そうだな、ここへ来てもらうには時間がかかるな」

「そういう意味じゃないわ。気づかない? 籐式部が苦しんでいるということは、もう一人がどういう状況にあるということか」

「――――!」

 高澄は戦慄した。他の人の耳を憚って月白は具体的な名前を出さなかったが、彼女が何を言わんとしているかは明白だ。

 尊継の身にも、危険が及んでいる。

 なぜ気づかなかったのだろう。籐式部の体調が改善したときは尊継の体調も同じように改善したのだから、逆もまた然りだ。

(殿下はお体が弱くていらっしゃるのに……!)

 いても立ってもいられず、思わず駆け出そうとする。そこへ月白の冷静な静止がかかった。

「あなたが行っても何もできないわ。お師匠様を信じて」

「……っ!」

 太白の腕が良いだろうことは信じているが、そんな状態の尊継を任せることができるかと言われれば……

(……いや、今更だな)

 すでに高澄は太白に依頼したのだ。今回のことがなくても、術が失敗するなどして尊継の身に危険が及ぶ可能性は元からあった。それを飲み込んだうえで太白に依頼したのだから、今更じたばたするのは道理に合わない。

 尊継の割り切りを見習おう。そして高澄は今この場でできることをするのだ。彼の主君に恥じないように。

「申し訳ない。取り乱した」

「いえ、無理もないと思うわ。素早く立ち直ってくれてありがたいわ。当てにさせてもらうから」

「そう言ってくれるのは嬉しいが……当てに? 私に何かできるのか?」

 陰陽道はさっぱりだし、人の手当てをする心得もない。困惑する高澄の腰の刀を月白は指さした。

「それを使って。儀礼刀ではなく実用のものでしょう?」

「そうだが」

 いったい何を斬るというのか。心得はあるし、尊継を狙う不届き者を切り捨てた経験もある。振るえと言われれば振るえるが、何に対してなのか。

 月白は言った。

「あなたには力がある。鬼を見ることはできなくても、気配を感じることはできる。だから斬ることもできるはず」

「……は!? 斬るって、鬼をか!? 見えないのに斬れなんて……」

「見えなくてもあなたは気配を感じている。存在を認識しているのよ。そうであれば、あなたの刃は鬼に届くわ。事がこうなってしまった以上、ちょっと荒っぽい手段を取ることになってしまうから」

「荒っぽい、って……っ!?」

「来るわよ!」

 月白がいつの間にか印を組んで身構えている。狩衣姿だと動きやすそうだが、まさかこういった事態に備えてのことだろうか、などと余計な思考が頭をかすめるが、そんな場合ではなかった。高澄の頬をかすめて何かが高速で飛び回っている。

「臨兵闘者皆陳列在前!」

 月白が九字を切り、呪を唱えた。彼女の前に網目状の光が走り、ぎゃあっと何かが苦しむ気配が伝わってくる。

(何だ!? 鬼……物怪か……!?)

 鬼の種類はいろいろあるが、この場合は物怪だろう。しかし、そんなことを呑気に考えている場合ではない。高澄の周りでも得体の知れない嫌な気配がうごめいている。

 それでもまだ状況を理解しきれずにいたが、気配が月白の方へ、彼女の背後から回り込むように動こうとしているのを察知し、高澄はとっさに動いていた。刀を抜き、一閃させる。迸るような悲鳴が上がって何かが掻き消えた。

(何だ、これは……!? 見えないはずなのに、何かがいるのが分かる……!)

 頭がおかしくなりそうだ。情報が視覚からではなく、叩き込まれるように伝わってくる。突き詰めて考えない方がいいと直感し、高澄は思考を切り捨てた。感覚の導くままに刀を振るい、物怪を切り捨てる。

 そんな高澄の様子を見た月白が、笑った。高揚に濡れたその瞳が不思議な光を放っている。その光に射られたような心地がして、すとんと高澄は納得した。

(ああ、これは……月だ。月に似ている……)

 月、それも満月だ。清浄で、神聖で、しかし揺らぐように虚ろに陰っていく……それと同じ光が彼女の瞳にあった。纏う気配もあいまって神々しくさえ映る。

 陰陽の術を使う彼女の気配が、何かに似ていると思っていた。月だったのだ。

 彼女が高澄のことを夏の太陽のようだと評したとき、頭の片隅で連想したのだ。彼女は逆に、月のようだと。その考えはすぐに立ち消えてしまったが、ようやく思い出した。

 夜の中心に浮かぶ月のように、月白の存在が不可視の光を放つ。それに照らし出されるようにして、蠢く影の気配がする。高澄はその気配を頼りに、物怪を切り裂いていった。

 刀を振るい続け、どのくらい斬っただろう。斬られたものが積み上がって見えるわけでもないので分からない。一太刀で一体斬ったとも限らないし、集中と緊張もあって感覚が曖昧だ。ふと我に返ったように感覚が戻ってきて、高澄はふらりとよろめいた。なんとか踏みとどまると、体を支えるように袖へ手が添えられた。月白だ。

「お疲れ様。おかげで収まったわ」

「終わった……のか?」

 あたりを見回す。局は嵐が通り過ぎた後のようなありさまで、最初に見たときよりもずっと傷んでいる。柱には大きな傷が走っているし、調度は壊れていないものがない。だが、籐式部は無事だった。ずっと意識を失ったままだが、呼吸が穏やかになってきている。高澄はひとまず安堵した。

「終わったのなら、人を呼んでも大丈夫だろうか。籐式部の手当てをしないと」

「そうね。人を呼んで、それは任せてしまいましょうか。いちど式部卿宮のところへ戻りたいわ」

「そうだった! ご無事を確かめないことには他のことが手につかない!」

「それもどうかと思うけれど、気持ちは分かるわ」

 何気なく話し、二人ははっとした、式部卿宮の名前を出してしまった。

 だが、心配はいらなかった。籐式部はもちろん、陰陽師も気絶して床に伸びており、二人の会話を聞く者がいなかったのだ。これだけの大ごとになってしまったから何事かと様子を見に来た人はいたのだろうが、逃げ戻ったのだろう。

「籐式部と、この陰陽師の介抱も頼みましょうか」

「そうだな。まずは人を呼ばなければ」

 高澄は頭を振って気を取り直した。こうやって実際的な行動をしていると、先ほどまでのことがすべて夢幻であったのかと思いそうになってしまう。

(……いや、違う。本当にあったことだ)

 後で月白に全部を聞こう、彼女には元々聞きたいことがいくつもあったのだ。

 高澄はそう決め、人が来るのを待って後を託し、月白とともに弘徽殿を出た。


「さて、何が起こったのか、だが」

 再び尊継のいる里内裏へ戻り、腰を落ち着けた高澄は切り出した。

 月白と二人でここへ向かいながら話を聞く時間はあったのだが、尊継の状態が心配でとてもそれどころではなかった。口数少なく急ぎ戻り、尊継の無事を確認し、ようやく心の余裕が出てきた。

 弘徽殿で籐式部が苦しんでいたのと同時刻、月白が言ったように、やはり尊継も苦難に見舞われていた。体の内側で暴れ回るものがいる感覚に苦しんだらしい。だがここには太白がおり、事態にすぐ対処することができた。尊継は無事に――とはいっても体に負荷がかかったことには変わりなく、今は床について休んでいる――災難を乗り越え、心配ないと高澄に声をかけることさえできた。

 その様子を確認した高澄は、彼の負担にならないように局を出、太白と月白との三人で集まって腰を落ち着けたところだ。

「そうね……。私も、最初から見ていたわけではないから推測交じりだけど。籐式部は陰陽寮の陰陽師にあらためて祓いを頼んだのよね」

「そうらしいな」

 案内してくれた女房がそう言っていた。

「おそらく、その陰陽師が無茶な祓い方をしたのだと思うわ。陽をもって陰を祓うのが彼らの常道だけど、人間は陽だけで出来ている存在ではないのだもの。物怪がくっついていた彼女の身や心までをも一緒くだに祓おうとしたら、それはああなるわよ。彼女自身の抵抗もあるし、物怪はその緩みから外界に影響を及ぼそうとするし、彼女とつながっていた殿下にも反動があるし、未熟な術者が半端に祓おうとするのって危ないのよね」

「……なるほど」

 高澄は一応納得したが、納得しきれずに尋ねた。

「……しかし、ああも大事になるものなのか?」

「場合によるわね。今回は運がよかったわ」

「運がよかった!?」

 聞き違いかと思ったが、月白は肯定した。

「そうよ。運が悪ければああした力がすべて彼女の中で暴れていたのだもの。そうなれば簡単に死んでいたわ。今回のことでは周りに被害が出たけれど彼女は無事だった。運がよかったとしか言えないわ」

「…………」

 死んでいた、とあっさりと言った月白に高澄は口をつぐんだ。

 死は身近なものだ。怪我や疫病で人はあっけなく命を落とすし、道端に死体があっても驚くことはない。だが、慣れとは別のところで、本能的に受け入れがたいものなのだ。

「運がよかったのは確かだけど、月白、あなたの術のおかげもあったのじゃない? その子に身固めをしたのでしょう。それで体が守られたのよ」

 太白が口をはさんだ。月白は視線を逸らすようにした。

「……だといいけれど」

 その様子を微笑ましく眺め、しかし高澄はまだ納得しきれない。

「しかし、恨みを向けられたくらいで生死に関わるようなことになるのか? 殿下も害意があったわけではないし、彼女に向いたのも父親を介して間接的にということなのに……」

「恨みを向けられたくらいで、と言ったわね?」

 太白が面白そうに高澄に目を向けた。獲物を狙う猫のような眼差しに少し身を引く。

「少し転んだくらいで、少し風邪をひいたくらいで、人は簡単に命を落とすのよ。少しの恨みが物怪を呼んで、少しの物怪が増殖して、事態は簡単に悪化していくの」

 ごくり、と高澄は喉を鳴らした。太白は猫のように目を細めた。

「それに、恨みって怖いのよ。普通の人の目には見えないけれど、見えないからといって存在しないことにはならない。明確な力なのよ」

「……力、か……」

 二人と関わるようになってから、目に見えない力を感じる機会が多い高澄には、納得せざるを得ない。高澄の目には見えない何かがあるのだ。

「それで思い出したんだが、月白。あれはいったい何だったんだ? 君は、いったい何者なんだ……?」

「……見習いの陰陽師よ」

「それだけか? 本当に? 私の知っている陰陽師たちとはあまりに違うんだが」

 高澄の知っている宮廷陰陽師たちは、もっと何というか、晒された布のような存在だ。明らかで、平らかで、この国やこの日々を連綿と続けていくために働く、良くも悪くも官吏だ。

「……あなたの知っている官人の陰陽師たちとは違うでしょうね。彼らは国の害になるようなことを知ろうとはしないし、そうあるべき物事しか見ないのだもの。でもね、人の表も裏も、明らかな部分も暗がりの部分も、陽も陰もすべてを扱う陰陽道が、本当にそんな無害な、型に嵌められたようなものだと思う?」

「……それは……」

「其れ清陽(すみあきらか)なるものは、薄靡(たなび)きて天と為り、重濁(おもくにご)れるものは、淹滞(つつ)ゐて地と爲る……あめつちの間に生まれた人間の営みが、その理としての陰陽道が、人にとって都合のいいばかりだと思う?」

 月白はすらりと日本紀を引用した。陰陽寮の者は月白が陰陽書を読んでいないだろうと言ったが、とんでもない。歴史書でさえ読みこなしている。

「一つの学問体系を成そうとする中で、都合の悪い部分は忘れられたり秘匿されたりして、一般の陰陽師には触れられないようになっているのよ。お上の都合ってことでしょうね」

 目を伏せてそう言う月白を、高澄はまじまじと見た。言っていることは分かる。間違ってはいなさそうだとも思う。だが……

「……本当に、君はいったい何者なんだ……?」

 単なる市井の陰陽師が、そこまで詳しく知っているものだろうか。語れるものだろうか。

「……単なる見習い陰陽師。それだけよ」

「だが……!」

「しつこい男は嫌われるわよ?」

 食い下がろうとする高澄に、太白が口を挟んだ。嫌われるという言葉に思いがけず動揺し、高澄は勢いを収めた。

「……すまなかった。無理に聞き出そうとするつもりはなかった」

「いえ、不審は分かるわ。でも、二心があるわけではないのよ」

「それは疑っていないが……」

「月白、あなたも。言いたくないことを言えとは言わないけれど、言っても構わないことはきちんと説明してあげたら? 藤式部のところでも手伝ってもらったりしたのでしょう?」

「お師匠様……そうね」

 月白は息をつき、高澄と視線を合わせた。

「さっきはありがとう。助かったわ。あなたの剣の腕は確かね。戦いの勘も」

「助けになったのならよかったが……本当に、勘でしか動いていないぞ。何が見えたわけでもなかったし。……いや、見えたものはあったな」

 とうとう高澄は聞いた。

「あなたの瞳だ。それにあなたの気配。月に似ていると思った。

 月白は息を呑んだ。

「何が見えたわけでもないなんて言うけれど……あなたの眼力は確かね。目で見るのではなくても、感じ取っているのね」

 そう言い、月白は目を伏せた。そして再び瞼を上げる。現れた瞳に、高澄も息を呑んだ。あの瞳だ。月のように不思議な光を帯びる瞳。

「これは血筋なのだけど、私は見鬼と呼ばれるものなの。物怪のような鬼を見る瞳。普通では見ることのできない、しかし存在するものを見通す瞳。陰陽師だけでなく、神祇官とか、巫女とか、そういう人たちにも受け継がれていることがあるわ」

 月白は言い、彼女の秘密の一端を明かした。


「見鬼……」

 その言葉自体は聞いたことがある。もちろん身近にはいないのだが。

「そう。籐式部のところでも、あなたの目には物怪が見えなかったでしょう? でも私には見えていたの。彼女に害をなそうとする異形の姿がね」

「それは……」

 高澄は言葉を探した。そんな高澄を、月白はどこか観念したような様子で見ている。

「……恐ろしいだろう?」

「…………え?」

 何を言われたか分からない、というような表情で月白は瞬いた。高澄は重ねて言った。

「普通の人には見えないものが見えたら、それは恐ろしいだろう? しかも、見鬼というのは血筋なのだろう? 家族は理解してくれるかもしれないが、周りの人からはまず理解されないだろう。そんな中で常ならぬものを見るのは……恐ろしいことではないのか?」

 ごく当たり前のことを言ったつもりだったが、月白は目を白黒させている。あの異様な雰囲気もいつの間にか霧散して、そこにいるのはごく普通の可愛らしい少女だ。

 太白が笑いを堪えるようにして口を挟んだ。

「あなたは恐ろしいと思わないの?」

「……え? いや、私には見えないからな」

 そう答えると、太白はとうとう吹き出した。

「っく、ふふっ。違うわよ。鬼を、ではなくて、見鬼を。恐ろしいと思ったりしないの?」

「……? 見鬼とは、月白のことだろう? 恐ろしいとはまったく思わないが。他の見鬼の人を知っているわけでもないし」

「あはは! 聞いた、月白!? 恐くないんだって! そもそも何を問題にしているかも分かっていないわ! これは傑作ね!」

 太白が腹を抱えて笑い出した。居心地の悪い思いで高澄は言い訳をするように言った。

「……馬鹿だとか鈍いだとか、自覚はしている。殿下にさんざん言われたからな。……的を外したことを言って気に障ったらすまない」

「あははっ、これ以上笑わせないで! 的を外したどころか大外れなのだけど、この上なく明確に答えているわよね! 見鬼の存在が恐くないんでしょう?」

「ああ、一般論で答えればよかったのか。それ自体はそういうものだからな。個性というか、個人差のうちだろう」

「それで片付けちゃうの、いいわあ!」

「うわっ!?」

「お師匠様!」

 いきなり太白に抱き着かれ、高澄は思わず声を上げた。不快なわけではない……どころか、いい香りがするし、しなやかな体は男とも女ともつかないもので、自分との差を意識して妙にうろたえてしまう。体重をかけられて畳に後ろ手をついてようやく、この状況がまずいのではないかと思い至る。

 恐る恐る月白の方を見ると、顔を赤くして太白を睨んで怒った様子だった。高澄と視線が合うと、その目が急に冷たくなる。高澄はわけもなく慌てた。

「いや、これは違って……」

 浮気現場を見とがめられた間男のような気分になったが、絶対にいろいろと間違っている。

(月白のことは恐くないが、今の月白のことは恐い……)

 そう思ったが、それを言うとさらにまずい状況になるのは鈍い高澄にもさすがに分かったので口をつぐんでおいた。

 ようやく笑い止んだ太白が、目じりに滲んだ涙を拭いながら身を起こす。なんだか大きな猫にじゃれつかれたような気分になりながら高澄も姿勢を整えた。

 月白がそんな二人を冷たく見やり、深く溜息をついた。

「もう察していると思うし、お師匠様は隠していないから言ってしまうけど、お師匠様も見鬼なの」

「……そうだったのか」

 まったく察してなどいなかった。だが、考えてみればその可能性は高かった。見鬼である月白の師匠なのだし、腕のいい陰陽師なのだし。かの晴明公も見鬼だったというから、陰陽師としての素質の一つと言ってもいいかもしれない。

 高澄が察してなどおらず、言われてようやく思い至ったことを月白は察したらしい。視線がさらに冷たくなる。高澄は思わず身を竦めた。

「……では、太白どのと月白は縁者なのか」

 見鬼が血縁で受け継がれるということなら、そういうことなのだろう。察しが悪かったことを取り返そうと高澄は言ってみたが、二人は首を振った。

「まったく。血縁はないわ」

「そもそも私、この国に血縁者がいないしね」

「……そういえば、太白どのは大陸の出身だと仰っていたな」

 少し考えを巡らせれば思い出せたはずなのに、また考えずにものを言ってしまった。考えるよりも先に動いてしまうのが高澄だが、なんとか改めなければと思ってはいるのだ。……一応。

「高澄様は差別意識がないのね。出身がどこであろうと、見鬼であろうと、女性であろうと」

「人と人なんだ、異なって当たり前だろう」

 太白の言葉に、高澄はごく自然に答えた。太白はそれに笑みを深める。

「その姿勢はすごく好ましいわ。でもね、みんながみんな高澄様のような考え方をするわけじゃないのよ。本能的に自分と異なる者を恐れ、疎外しようとしてしまう人は多いの」

 高澄は真面目な顔になって姿勢を正した。

「私自身のこととしては分かっていると言えないが。これでも貴族だし、官人だし、男だからな。社会的に強い立場にいる自分には分からないが、姉などを見ていると私よりもずっと不自由を感じているだろうことは分かる」

 貴族女性として何不自由ない暮らしをしていると一般的には見られる姉たちだが、よその男性に顔を晒してはならないとか、女房勤めくらいしか仕事が許されないとか、漢籍を読むのは出過ぎた振る舞いだとか、そういった一般常識にとらわれて窮屈だと零すのを聞いたことがある。高澄に対しては遠慮も悪気もなく虐げてくるような姉たちだが、世間的に女性の立場は低いのだ。高澄の知る範囲だけでもこれなのだから、立場によるつらさというものは根深く広いのだと思う。

「ねえ、高澄様。宮廷って儀式の多いところよね。高澄様は追儺に参加なさったことはある?」

「ああ、あるぞ。大きい行事だしな。見学することが多いが、参加したこともある。矢を射る役をやったこともあるぞ」

 追儺は立春の前日に行われる行事で、悪いものの象徴として鬼を追い払う儀式だ。現代では陰陽寮の者が主導しており、独特なお面を被った方相氏と呼ばれる者が儺声を上げたり矛で楯を叩いたりした後に内裏を回るものだ。公卿たちがそれを追い、矢を射かけて追い払う。高澄は公卿ではないが、陛下の御前で射技を披露した時にお褒めを賜り、矢を射る役としてこの儀礼に参加させてもらったことがある。

「方相氏に矢を射るのよね。では、これは知っている? 前の時代、方相氏は射かけられる方ではなくて、射かける側だったのよ」

「そう……だったのか? あまり昔のことには詳しくないんだが、正反対じゃないか。ずいぶん変わったんだな。では、その者は誰を射ていたんだ?」

「鬼よ」

「……いちおう聞くが、その鬼というのは……」

「儀礼上のことよ。何もそこに本物の鬼を連れてきたわけじゃないわ。儀礼とは武道でいう型に近いものだからね。型も、実際に敵がそこにいるわけじゃないでしょう? それと同じで、鬼がそこにいるものとして組み立てられたのよ」

「ああ、そのたとえなら分かる」

 高澄は刀剣を扱う訓練を積んでいるし、弓矢や体術も少しは知っている。なるほどと納得し、新たな疑問に首をひねった。

「しかし……鬼を射ていた者が、射られる者になったのか? 鬼はどこへ行ったんだ? いくら仮定の存在であっても、なくしては意味がないのでは……」

 太白は意味深な笑みを浮かべた。

「方相氏が、鬼になったのよ」


「どういうことだ? 方相氏とは、鬼を追い払う側だろう? それが鬼になっては道理が通らない」

「そうね。でもね、道理とは一つではないのよ。人々の心の中ではね、異様なお面をつけて鬼を追い払う方相氏が、次第に鬼そのものと一体化していったのね。そして方相氏は、やがて追い払われる側になった。……不条理だと思う?」

 高澄は頷いた。

「不条理だし、不合理だ。どうしてそこを一体のものとして見ることができるんだ。正反対だろう」

「個人として見ればそうも思うわよね。陽の気が強い高澄様なら特に。でも、人の心には陰の側面もある。世の中のことを明晰に考えるばかりではなく、混然一体と、関連性を捉えて処理してしまう心の機能がある。意識には上らないそれが、追う者と追われる者を一体とみなしたの。そして方相氏は鬼となった。似たような話は大陸にもあるわよ」

「そういうものなのか……」

 理解しがたいが、儀式が実際にそのように変化しているとなると、そこには高澄には理解できない道理があるのだとしか考えられない。太白の語ることを理解できているとは言い切れないし、そもそも話を鵜呑みにしていいものでもないが、そこには確かに、ある種の道理があるように聞こえた。

「それで、太白どの。追儺を引き合いに出して、あなたは何を言いたいんだ?」

「月白のこと。私のこと。見鬼のことよ」

 太白は正面から答えた。

「見鬼であろうと人間だし、鬼ではないわ。でも、鬼を射る方相氏が鬼と同一化していったように、鬼を見る私たちも鬼と同一視されるものなの。恐れられ、遠ざけられ、厭われる。そういう存在なのよ」

「そんな……!」

「言ったでしょう。本能的に自分と異なる者を恐れ、疎外しようとしてしまう人は多いのだと。私たちは危うい存在なのよ」

 太白は言葉を結んだ。ずっと黙っていた月白は俯いている。

「それは……あんまりだ」

 高澄は唸った。言っていることは分かるし、そのようにしてしまう人の心理を責めるのも違うと思う。だが、あまりに理不尽だ。

「太白どのも月白も、見鬼の力で人を助けているのだろう? 陰陽の術を以って人を救っているのだろう? なのに……」

「助けてなんていないわ。救ってもいない」

 月白が言った。

「少なくとも私は、お代を頂いてその分の働きをすることにしているわ。助けるつもりも救うつもりもない。そんな余計な意味づけをしてはいない」

「月白、言い方……」

 太白がたしなめるが、月白は耳を貸さず、頑なな様子で言葉を続ける。

「だからこそ私は、相応のお代を求めるし、自分は民間の陰陽師であると誰に対しても名乗るのよ。それが私の矜持だから。誰からどう思われようが、鬼と変わらないものだと思われようが、自分で自分を規定するのよ」

「それは……」

 それは彼女の覚悟なのだろう。籐式部に仕事の対価を求めたときと、官人陰陽師を相手に立場を名乗ったときに、彼女が見せた姿勢だ。潔い、しかし寂しい立ち方だと高澄は思った。

 そしてもう一つ、思ったことがある。

「もしかして、月白は……月白こそ、人を鬼と変わらないものだと見ているのではないか? 理解を求めず、自分と立ち位置を異にする存在として。理解することも理解されることもない、自分とは隔たった存在として」

 月白は虚を突かれたように黙った。ややあってつっけんどんに言う。

「……だとしたら、何?」

「そうだったら……寂しい」

「余計なお世話よ」

「いや、私が寂しい」

「は……!?」

 月白は顔を赤くして口をぱくぱくさせた。太白は吹き出しそうになるのを堪えている。

「……っくく、やっぱりいいわあ、高澄様。手を出したくなっちゃうけど、我慢するわ。あなたの邪魔はしないでおいてあげる」

「お師匠様、何を言っているの!?」

 月白は叫ぶように言った。太白が何を言っているのか分からないというのは高澄も同意見だ。

「月白のこと、よろしく頼むわね」

「ああ、分かった」

「あなたも何を言っているの!?」

 月白の頬がますます赤い。高澄はそれを見るともなしに見ながら答えた。

「私に鬼は見えないが、斬ることはできているのだろう? それなら私も鬼のようなものではないか。私は追儺で方相氏に矢を射たことがあるが、時代が変われば私も矢を射かけられる側かもしれない。似たような立場だ」

 あっさりとこだわりなく高澄は言った。自分が特権的で安全な立場にいると思ったことはない。貴族だろうが男だろうが官吏だろうが、立場を追われる可能性はいつでもそこにある。月白たちのように身に迫ったものはないが、人の世の物事がどう変わるかなど分からない。この世は儚く移り変わる仮宿だ。

「もしもあなたが脅かされるなら、助太刀しよう。あなたは助けを求めないが、私が勝手に助ける分には構わないだろう? 現にあなたも藤式部を見返りなしに助けたのだし」

「あれは……! ……あとで上乗せして請求するつもりだったのよ! 助けたわけじゃないわ!」

「それなら、私もあなたを助けるときには見返りを請求することにしよう。代わりに私のことも助けてほしいと」

「…………!」

 月白は顔を赤くし、言葉を返せないでいる。太白はそんな弟子に笑いながら言葉をかけた。

「よかったじゃない、月白。理解者ができて」

「……っ、理解されているような気がしないのだけど!」

「彼はちゃんと分かっているわよ。言語化されていないし、自覚もしていなさそうだけど、根本的なところを」

「あー、ええと……」

 そう評してもらえるのは光栄なのだが、ちゃんと理解できているとは我ながら思えない。太白はそこまで織り込んで見ているようだから何も言わないが、自分のことながら分からない。

「……とにかく、鬼とか人とか見鬼とか関係なく、友人として助けられることは助けたいということだ」

「まずはお友達から、ってことね」

「お師匠様!」

「本当、よかったじゃない。ちょっと……いいえ、かなり鈍いけれど、誠実な方よ。お仕えなさる式部卿宮への態度を見ていても分かるでしょう。あの一途さがそういう意味で自分に向いたらどうなるか、想像してごらんなさいな」

「でも、お師匠様! この人、未亡人に手を出したりしているのよ!?」

「結婚前のお嬢さんに手を出さないのは見上げたものだと思うけれど。あなた、変なところで潔癖よねえ」

「お師匠様を見ていたらそうなるわよ!」

「失礼しちゃうわねえ。私、いつでも本気なのに」

「節操がなさすぎるのよ!」

 高澄は目を白黒させた。どうして自分が詰られるようなことになっているのか、二人が何を問題にしているのか、さっぱりついていけない。そんな高澄に太白が言った。

「まずは友人として。月白のこと、よろしくね」

「それは、もちろん。こちらこそ、よろしく頼む」

 月白に向き直って言うと、彼女はまだ顔を赤くしながらそっけなく頷いた。

「女性関係のことは認められないけれど。助けると言ってくれたんなら、こき使ってあげるわ」

「……お手柔らかにな」

 依頼人と、依頼を受けた陰陽師の弟子。それだけのはずだった関係が、一歩だけ進んだ。


 月白との関係が一歩進んだ翌々日。高澄は久しぶりに参内した尊継と内裏で顔を合わせていた。

「お体は大丈夫なのですか? 除目までもうすぐですし、大事をとってお休みになっても……」

「休んでばかりいても事態は改善せんだろう。むしろ悪化する。体調はよくなったから、動けるときに動いておきたい」

 そう言う尊継の様子はいつも通りだ。しんどそうな様子はない。

「でも、大きな儀式を控えて陽の気が高まっている宮廷においでになるのはお辛いのでは……」

「あの陰陽師から護符をもらった。効果が永続するものではないし常用することもできんが、数日くらいなら問題ないそうだ。体調が悪くなることもないし、あの陰陽師の腕は確かだな」

「それならよかったです!」

 本当に大丈夫そうな尊継に、高澄は胸を撫で下ろした。無茶をするなら止めなければならないと考えていたが、この様子なら問題ないのだろう。

「それに、休んでいるわけにはいかない。しないといけないことがあるからな。式部大輔の悪事の証拠を集めておかなければ。左大臣が裏についているから集めてもどうにもできんと思っていたが、彼の娘のこともあるしな。正攻法で詰めようと思っても無理な状況だが、もしかするとああいったところから綻びが生まれるかもしれん。そうした時に詰められるようにしておかなければな」

 悪事の証拠をつかんで辞めさせようとしても左大臣が握りつぶすだろうが、超常の現象が絡むと分からないかもしれない。陰陽師が助けになるかもしれないと、尊継はそこに可能性を見出したのだ。

「お手伝いいたします」

「当然。お前にも働いてもらうぞ」

 尊継が言うのに頷く。陰陽寮の者と話をしたときに、その陰陽師の友人がありもしない失敗を言い立てられて左遷させられたということを聞き、調べてみなければならないと思っていたのだ。その友人の名前と所属も確かめてあるから、まずはそこから手をつけるべきだろう。

 尊継にそれを伝え、高澄は調査を開始した。


 だが、うまくいかない。

(不正の証拠は、見つかる。説得的なものもある。彼が公の場でした発言と実際に左遷された者の勤務態度との齟齬も明らかだ。記録された発言と勤務評定を突き合わせれば式部大輔による事実歪曲は明らかなのだが……)

 それを公の場で糾弾した場合、彼らは間違いなく尊継をも道連れにしようとするだろう。かといって水面下で根回しを進めようとしたら揉み消されるだろう。もしかしたら尊継は止められなかった自分の責任だからと辞任を受け入れるかもしれないが、後任がさらに左大臣にとって都合のよい人物になり、事態がさらに悪化することも充分考えられる。それに何より、自分が納得いかない。

(どうしたものか……)

 各所で書き写した資料を抱え、考え込みながら廊下を歩いていた時のことだ。

「……望月の欠けたることもなしと思えば……」

 左大臣、藤原道興の声が聞こえてきた。自らの祖にあたる前の世の左大臣、のちには太政大臣まで上り詰めた者の歌を引用し、取り巻きに得々と語っている。

「わしの思い通りにならぬことはない。人の生き死にや、賽の目くらいであろうよ。それは人ではなく神仏のみさとしであるから仕方あるまい。しかし、この世の中のことは人も金もわしの思うままに動く。今度の除目は司召(京官)を任命するものであるからな、わしの意を受けた者が増えればさらにやりやすくなる」

 高澄は唇を噛んだ。こんなに堂々と権力の濫用を明言しているのに、彼はおろか、彼の意を受けて動く式部大輔でさえ辞めさせることができないのだ。左大臣の存在が大きすぎる。たとえるなら育てている草木と雑草の根が絡まり合っているようなものだ。力ずくで雑草を引き抜こうとすると育てている方の根も傷んでしまう。藤原家と天皇家は血筋が密に絡み合いすぎて、父方で藤原の血を引いていても母方が無関係な尊継の立場は弱い。左大臣が外戚になっていないせいだ。

(……。逆に考えるんだ。もしも殿下が左大臣と近しければ、あの方は左大臣の駒として動くことを余儀なくされてしまったはずだ。意に染まぬことや、悪事をも強要されてしまいかねなかったはずだ……)

 そう考え、高澄はなんとか自分の心を落ち着けた。尊継を取り巻く状況は厳しいが、左大臣と否応なしに同じ側に立たされて悪事に加担させられるよりはましだ。それとも尊継なら、やがて左大臣から実権を奪い取るような芸当ができたのだろうか。だとしても、そこまで辿り着く間に手がどこまで汚れてしまうか分かったものではない。

 結局のところ、状況をよい方向にもっていこうと足掻けていること自体に感謝しなければならない、と結論して高澄は気持ちを切り替えた。

 尊継と何度も顔を合わせて進捗を報告し、さらに調べを進める。大内裏にあるあちこちの省へ出入りし、情報を集める。それでも足りない情報は、すでに退官した役人の自宅を訪ねたりもして集めた。

 そうして京のあちこちを動き回っていた時のことだ。さる貴族の邸で、高澄はばったりと太白に出くわした。

「あら、奇遇ね」

 いきなりだったので驚いたが、別にその状況自体は驚くようなことではない。太白は身分を問わずさまざまな者からの依頼を受けているようだし、そうして太白の腕に感銘を受けた者から高澄も話を聞いている。太白の名前を知ったのも、依頼しようと決めたのも、貴族たちの間で太白が評判になっていたからだ。

「太白どのもお仕事だろうか?」

「ええ。いま終わったところ」

 依頼の内容には触れず、太白は軽く微笑んで答えた。

「そうか」

 お疲れ様、と挨拶をしてすれ違おうとした高澄は、聞こえてきた言葉に思わず足を止めた。

「ふん。どんな仕事を受けたんだか。半陰陽が」

 通りがかった男性が吐き捨てるようにして言った。半陰陽とは男とも女ともつかない者という意味だ。侮蔑的な口調に呆気にとられ、とっさの反応が遅れる。

 我に返って男性の物言いを咎めようとした高澄を制するように、太白が前へ出た。艶やかに微笑み、男性に話しかける。

「よかったらあなたも試してみない? 安売りはしないけれど」

(……そこは「安くしておく」ではないのか……)

 そんなどうでもいいことを突っ込んでしまいそうになるくらい、高澄は状況についていけていない。

 男性はぎょっとした顔で声を荒げた。

「いらねえよ! 奇形がうつる、あっちへ行け!」

「うつらないわよ」

 太白は笑って答えるが、見ていられない。高澄は割って入った。

「言葉が過ぎるぞ。口を慎め」

「ふん。お前もたぶらかされたか?」

「私は女性が好みだ。だが、太白どのの腕前には一目置いている。陰陽道と関係のないところで……それどころか本人の意思とも関係ないところで非難されるのは見ていていい気分ではない」

「はん。お優しいこったな」

 男性は捨て台詞を残して立ち去った。追いかけようかと少し迷ったが、太白が首を振るのを見てそれを止める。

「高澄様、ありがとう。庇ってもらっちゃったわね」

「いや、助け船を出すのが遅れて申し訳ない。しかし失礼な奴だったな」

「気にしてないわ。慣れっこだし……事実だものね」

 太白は苦く笑った。

「高澄様。少しお話を聞いてもらってもいいかしら」


 尊継と調査を進めている途中ではあるが、話をする時間くらいは取れる。高澄は頷いて、邸の者に許可を得て庭に降りた。

 太白は物憂げな表情をしている。顔立ちの端麗さも相まって誘うような色香が醸し出されており、その気のない高澄でさえ思わずどぎまぎした。

「ねえ」

 太白が唇を開く。

「高澄様は、私のことが女性には見えないのよね?」

「え……? ……えー、っと……」

 どっちともつかない印象ではある。だが、とくに女性扱いをしてはこなかった。

「……見えないというわけではないが……分からない。失礼をしてしまっただろうか……」

 その答えに太白は吹き出した。笑いながら言う。

「失礼なことなんてないわよ。失礼というのはさっきの人のような物言いのことよね」

「それは比較対象があれだと思うが……」

 あからさまな悪意、あそこまでいかないと失礼にならないのだとしたら太白は心が広い。

「それで、太白どのは女性なのか? 男性なのか?」

 正面から高澄は聞いてみた。この流れなら聞いても失礼には当たらないだろう。気になっていなかったと言えば嘘になるし、今なら答えてくれそうな気がした。話したがっているような気がしたのだ。普段は相手を煙に巻くような態度の太白だが、何かあったのだろうか。

 溜息をつき、太白は言った。

「男性とか女性とか、疲れちゃう。そう思って何もかも投げ出したくなる日ってあるじゃない? 高澄様はそういうの無い?」

 だが、やはり太白は太白だった。つかみどころのない雰囲気はいつものままだ。

 高澄は考えた。そして答えた。

「考えたことがないな」

 太白は吹き出した。高澄は弁解するように言った。

「私ももちろん、仕事のこととか、いろいろ気疲れすることはある。だが、男性がどうとか女性がどうとか、そういったことは正直、あまり考えたことがない」

「それはある種、すごく男性的な答えだわ」

「そうかもしれない」

 太白が笑いながら言い、高澄は認めた。確かに、性別がどうなどと考えなくていいのは男性だからなのかもしれない。女性はきっと、もっとずっと葛藤があるはずだ。

 太白はずいと距離を詰めた。いい香りがして、淡い色の瞳が高澄を捉える。花びらのような唇が弧を描く。しなやかな手が高澄の胸に添えられた。

「言葉でなく、もっと他の方法で聞いてみたい気もするけれど……」

「…………!?」

 太白は背が高い。高澄とあまり視線の高さが変わらない。それなのに顔を近づけるものだから、太白の際立った造作がいやでも目についてしまう。視線が勝手に瞳や唇へと吸い寄せられる。

 魔性。そんな言葉が浮かぶ。

「…………やはり、狐狸ではないのか……!?」

 太白はきょとんとし、一拍ののち、盛大に吹き出した。

「あはははは! その疑い、まだ晴れてなかったのね! 男とか女とかじゃなくて、狐や狸! 化かされているとでも思ったの!?」

「……太白どのは美しすぎるし、はっきり言うと得体が知れなさすぎるからな。狐狸が化けていると聞いても驚かん」

「いえ、それは驚きなさいな! 何かしら、物怪に関わったせいで感覚がおかしくなっちゃった? ……まあ、動物が化した物怪もいるのだけどね」

「やっぱりいるのか」

「何よ、その視線!? 私は違うわよ!?」

 言葉では憤慨してみせながらも、表情も声も笑っている。なぜだかその様子に、太白が人間であることを高澄は確信した。

「高澄様は見鬼ではないけれど、そうした超常の存在の気配は分かるでしょう? よほどぼんやりしたりしていなければ化かされる前に分かるわよ」

「……やっぱりそういうことがあるのか」

 ぼうっとしていれば気づけないとか、そんな話なのだろうか。恐ろしくなったが、気づけなくても気づけないまま問題がなければ別に構わないということに思い至り、高澄はそれ以上考えるのを止めた。

 そして言われた通り、太白の気配を感じるようにしてみる。どこも不自然なところはない、人間のものだ。目で見ていると男性か女性か分からなくて混乱するのだが、気配を感じてみればごく当たり前の人間だ。そのことに安心する。

「なるほど、たしかに太白どのは狐狸ではなさそうだな」

「違うわよ。それとも、化かされてみる?」

 細い指が高澄の顎を捉える。そのまま近づかれそうになり、高澄は慌てた。

「いや、人間であっても! それはちょっと……! あまりからかわないでほしいのだが……」

 美女だか美男だか分からないがともかくも魅力的な人物に迫られそうになっている、この状況を歓迎すべきなのかどうなのか分からない。

 太白は甘く目を細めた。

「からかってなんていないし、私、いつも本気よ? 高澄様のこと、好きよ。かわいいと思うわ」

「…………!?」

 太白は引く気配がない。嘘を言っている気配もない。蛇に睨まれた蛙とは違うが、心境としてはそんな感じだ。蛇の目が宝玉のように美しくて目が逸らせない。このままだと大変なことになると分かっているのに、体が動かない。

 太白の唇が、近づいてくる。甘く香しい吐息を感じる。鈍い高澄であっても心を鷲掴みにされるような気持ちがした。流されてみてはどうか、きっと素晴らしい快楽が待ち受けているに違いない、そんなふうに囁かれている錯覚を覚える。

 だが、最後の最後で、頭に浮かんだのは月白のことだった。強気で意地っ張りで、でもどこか脆い、なぜか気にかかって仕方ない少女のことだ。

 高澄は、無言で太白の胸を押し返した。太白が意外そうな顔をし、しかしすぐに誘うような笑みに戻った。

「任せてくれていいわよ? 気持ちよくしてあげるわ」

「いや……遠慮しておく」

「怖い? それとも私の言葉が信じられないかしら」

 いや、と高澄は頭を振った。

「怖いとは思わないし、太白どののお言葉を疑っているわけではない。すべて本当のことだろうし、すべて本心だろう?」

 本気だと言ったことも、高澄を好きだと言ったことも、嘘だとは思えなかった。誘いに応じれば気持ちよくしてあげるというのも本当なのだろう。……少し気になる気がしなくもないが、その心の動きには蓋をする。

「信じてくれるのね。そうよ」

「そのうえで、全てではない。そうだろう? 太白どの、あなたは何か、私を試していたのではないのか?」

 太白が笑みを深めた。


「そうね。そういうことになるのかも」

 言って、太白は高澄から体を離した。烏帽子を取り、少しほつれた髪をかきやるようにする。その仕草が色っぽくて、思わず目を釘付けにされる。

(こうも気軽に烏帽子を取るなんて……太白どのが女性なら納得できるのだが……)

 髪も細く艶やかだし、袿や単を着た上に流せばさぞかし優雅だろう。だが、太白はいつも狩衣姿だ。それが女性としての男装なのか、男性としての服装なのか、高澄には判別がつかない。

 太白は庭石に腰を下ろし、高澄にも目線で勧めた。男性の友人どうしのような距離感で、高澄も座る。

「高澄様、半陰陽という言葉をご存知なかったのね」

「そういえば、先ほどの男がそんなことを言っていたな。……半人前の陰陽師とか、そういう意味ではなかったのか?」

 侮蔑的な表現だとは思ったが、そういった言葉があることは知らなかった。あの者が勝手に作った表現かと思っていた。

 太白は少し笑った。

「その後に、奇形とも言っていたでしょう。半陰陽とはね、男女両方の特徴を持つ者のことを言うの」

「両方の……!?」

 さすがに驚き、思わず太白をまじまじと見る。そうしてしまってから、失礼ではないかと思い至ってうろたえる。そんな高澄を太白は面白そうに見た。

「驚いているみたいね。でも、逃げようとはしていない。恐ろしくはないの?」

「いや、それはもちろん驚くが……別に逃げるようなことではないのでは? 別に猛獣が現れたとかでもないのだし……」

「猛獣!」

 太白は吹き出した。笑い上戸のようだ。弟子の月白は冷めた表情をしていることが多いのだが、師匠の太白は正反対だ。

「高澄様のたとえ、いいわあ。好きだわ。いつも面白いもの」

「はあ……それはどうも……」

 考えなしに言ってしまってから、猛獣を引き合いに出すのはさすがに太白に対して失礼だろうと気づいたのだが、言ってしまってから気づいても取り消せない。少し焦ったのだが、本人が気にしていないようでよかった。

「でも、人によっては猛獣よりも恐ろしいものみたいよ。人間なのに得体の知れない存在というのは」

「それはその者が臆病なだけだろう」

 高澄は断じた。自分が猛獣を恐れるのは自分よりも力が強く獰猛な生き物だからだ。同じ人間なら恐れる道理がない。

(……そう思うのも、私が男だからかも知れないが……)

 女性にとっては男性が恐ろしくもあるものだろう。話が通じる相手ならいいが、同じ人間であっても話が通じない相手などごまんといる。双方が言葉を知っていても、意思疎通のできない相手というものは存在するものだ。仕方ない。

「素敵。手を出されたくなっちゃうかも。どう? 今からでも……」

「……太白どのが本当にお望みならちゃんと考えてみるのだが。違うのだろう? 話をしたいのではないのか? 体のつくりがどう違おうと、太白どのと私は言葉が通じる。そう思っているのだが、違うだろうか? ……私が馬鹿で鈍くても、太白どのは私の言葉の意味を汲んでくださると思っているのだが……」

 どこか寄る辺ないような表情で高澄の言葉を聞いていた太白は、高澄が最後に付け加えた部分に少し笑った。

「ん、そうね。むしろ馬鹿は私だと思うけれど、高澄様とはちゃんとお話をしたいわ。褥の中ではなくね」

 褥、などと口にする太白の様子が自然すぎて、高澄はその引っ掛かりを言葉にした。

「太白どのは陰陽師でいらっしゃるだけでなく……そういうお仕事もされているのか?」

「半分正解。半分と言ったのはね、私は陰陽師として夜のお仕事もしているからよ。神に仕える巫女たちの中にもそういった役割を持つ者もいるわ。まあ、陰陽師としては控えめに言っても変わり種だけどね」

「陰陽師として……?」

 説明が呑み込めず、高澄は繰り返した。夜の相手をすることと陰陽師であることの関連が分からない。

「陰陽道。陰陽の術。宮廷陰陽師たちは絶対に考えないでしょうし、知りもしないでしょうけれど……陰陽道には、陰の側面もあるの」

「陰の側面……」

 そういえば月白も、陰陽寮の陰陽師たちは陽を絶対視しているようなことを言っていた。彼らの祓いを見た高澄も確かにそういった印象を受けた。高澄は見鬼ではないし陽の気も陰の気も見えないが、彼らが陽をもって祓おうとしていたことは感覚で察していた。

 いつの間にか、あたりには薄闇が下りている。まだそんな時間ではなかったはずと慌てたが、なんだか雰囲気がおかしい。池があるのに魚が泳ぐ気配がしないし、近くの草木が靄の向こうにあるように遠い。近くの廊を歩いたり御簾の向こうで動いたりといった人の気配もしない。

 太白が何かしたのだろうとそちらを向くと、その体の周りを小さな淡い光が飛び交っていた。太白と最初に会った日にも見た光だ。太白はこれらのことを星精と呼んでいたのだったか。

 太白は申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさいね。このお話を誰かに聞かれるわけにはいかないし、術をかけさせてもらったわ。高澄様にではなく周りの空間に働きかけて、位相を少しずらしたの。出ようと思えばいつでも出られるわ。立ち上がって少し歩くだけで破れるようになっているから」

「……そうなのか。いや、それはいいんだが……」

 話を止めて立ち上がり、この場を去った場合。その時はもう、太白とこのように話をする機会は二度と与えられないのだろうと高澄は悟った。星の巡りは千載一遇、この機を逃したら次の機会は巡ってこないだろう。

(それは、勿体なさすぎる)

 恋愛的な意味ではないが、高澄は太白に好感を抱いている。興味深い人物だと思っている。尊継の体調を維持してもらっている恩もある。このまま機会をみすみすと捨ててしまうのは、あまりに惜しい。

 高澄は身じろぎして、しかし立ち上がりはせずに腰を落ち着けた。太白に向かって言う。

「聞かせてくれ、太白どの。あなたのお話を」

 太白の周りを飛び交う星精が、ちかちかと瞬いた。


「いろいろとお話をしたい気分なのだけど、本当にいい? 宮廷人に言ってはまずいことも多いから……今更だけど」

「別に民間陰陽師を弾圧しようとか、そんなことにはならないから安心してくれ。そんなつもりも力もない」

「そういことじゃないわよ」

 吹き出しながら太白は言った。

「高澄様ご自身が大丈夫かということ。知ってしまうだけで身を危うくすることってあるのよ」

「そう言われると怖いが……知らない方が怖いからな。せっかくだから聞かせてくれ。まずそうな話だったら酒でも飲んで忘れることにする」

「っふ、あはは! いいわあ、そうこなくっちゃ! 本当、鈍いのに頭は柔らかいって、面白すぎるでしょう」

「……それはどうも」

「褒めてるのよ。胸襟を開きたくなっちゃうわ」

「……慣用的な意味だけで頼むな」

 太白はひとしきり笑い、先ほど中断した話を再開した。

「それで、陰陽道の陰の側面についてだけど。宮廷陰陽師が生死や病気にあまり関わりたがらないことは知っている?」

「言われてみれば……そうした場面では僧侶が呼ばれていることが多いな。病人の加持祈祷とか、葬送とか」

「死や穢れを忌む神道の影響が強いのよ。彼らは陽の権化たる天皇家に仕える者だから。家の誰かが亡くなったら参内を見合わせるものだし、赤子が生まれても血の穢れということで参内できなくなるでしょう。おめでたいことなのに。内裏は徹底して不浄を避けているの。でも、市井ではそんなことを言ってはいられないわ」

「それはそうだな。市井の者が物忌みだの方違えだのとやっていたら生活が立ち行かないだろう」

「陰陽道的には意味がないわけでもないことだけど、そうしていられるのは貴族だけよね。そのあたりは宮廷陰陽師の領分。私たち民間陰陽師はそういうものを求められることが少ないわ。せいぜい吉日を占うくらいね。その代わり、生死や病気に関わることは彼らよりもずっと多いの。そちらの方が切実な問題だから」

 なるほど、と高澄は頷いた。宮廷では僧侶たちと棲み分けをされているものが、民間では一緒くたに求められているのだ。便利な何でも屋さんといったところだろう。僧侶たちも参拝者に対してはともかく、市井の家ひとつひとつにまで対応しきれるはずもない。寄進の多い貴族を優先したりもするだろう。

「それでね、高澄様。生死とくれば、分けては語れないものがあるわ。何か分かる?」

 太白は声を潜めるようにした。高澄は首を捻った。分からない。生と死とで完結しているのではないのか。

「それはね、性よ。色事のこと。陰陽和合……民間の陰陽師たちの一部は、房中術を扱うの」

「……それは……」

「宮廷陰陽師には絶対に言えないわ。絶対に認められないし、下手したら処刑ものでしょう。知っている? 大陸ではね、同じ教えを奉じる者であっても、あまりに考え方が異なると異端狩りを行うところもあるのよ。いくら呑気な和国であろうと、私がもしもこんな教えを広めたら絶対放っておかないと思うわ」

「…………」

 高澄の背を冷や汗が伝った。たしかにこれは下手な者には聞かせられない。知ってしまうだけで身を危うくすることの存在というものを、高澄は初めて理解した。

 聞くのを止めるか、太白が視線で問うた。高澄は軽く首を横に振る。ここまで知ってしまったのだから話の続きを聞きたい。ここで止められたら続きが気になって困る。高澄が促す視線を受け、太白は再び口を開いた。

「房中術は大陸で生まれた知の体系よ。それが段階的に和国に流入し、陰陽道と融合し、神道の影響を受け、受け継がれていったのね。私は大陸にいた時に本場の房中術を知る機会もあったし、和国に来てからはこちらで独自に発達した房中術も知ったわ」

「……ええと、それは……」

 では、太白は何歳なのだろうか。男性か女性かという疑問はその両方ということで片がついたが、また新たな疑問が生まれてしまった。

 太白は高澄の胸中を読んだように軽く凄んだ。

「女性に年齢を聞くことは御法度。分かるわね?」

「……はい」

「これについてはもっと言っておきたいわ。女性に年齢を聞くことが失礼なのは、それがあからさまな品定めだからよ。物の値段を尋ねるのと同じよ。人の価値を年齢で測っているからよ。何様なのかと言いたいわ。その人がどんな価値観を持とうと勝手だけど、それを恥ずかしげもなく外に出したら眉を顰められて当然ね」

 色々と嫌な記憶があるらしい。太白は少々憤慨しながら語った。

「私にとっては、性別を聞かれるよりも年齢を聞かれる方がずっと気分が悪いわ。でも、そこらの若い子よりはずっと美容に気を付けているのよ?」

 確かに太白は美人だ。髪も肌も、そこから年齢を読み取れない。……だからこそ気になってしまったりもするのだが。

「まあ、高澄様に怒っているわけではないし、八つ当たりするのも違うしね。この話はこのくらいにしておくわ。年齢の話はおしまい」

 高澄は一も二もなく頷いた。今後もこのことには触れないでおこう、と心にしっかり留めておく。太白が何歳だろうが自分には関係がないのに、興味本位で尋ねて傷つけるのは最悪だろう。太白に対してだけではなく、他の女性に対しても。

「ついでにもう一つ、気分の悪い話をしておくわ。高澄様、刀子匠という言葉を聞いたことは……ないわよね」

 首を横に振る高澄を見て、太白は自分で言葉を引き取った。

「和国の言葉ではないし、外聞のいいものでもないから当然よね。大陸の東を占める帝国、和国にとって長らく隣国だったその国が瓦解してからもう随分経つけれど、たくさんの小国に分裂した後、その国々のいくつかは元の帝国の帝室の血を継いでいるの。本当かどうか怪しい血筋もあるけれど、それはともかくとしてね。そして、血と一緒に過去の帝室のあり方も踏襲しているの」

 高澄は大陸の事情に興味深く聞き入った。和国として正式な国交を結んでいる国は無いが、民間では人や物の行き来がある。大きな帝国が一帯を統治していた頃に比べれば格段に不安定で混乱が続いているとはいえ、もたらされる文物は貴重だ。

「この国にも後宮はあるけれど、あちらの後宮はもっとずっと閉鎖的で厳格でね。皇帝……今はもっと違う名称になっている国が多いけれど、ともかくもその主君だけしか入れないの。男性はね」

「ああ、それは聞いたことがある。使用人は女性か、あるいは男性であることを手放した者だけだとか」

「そう。その施術をする者を刀子匠と呼ぶのよ」

「そう……なのか」

 それは確かに、あまり気分のいい話題ではない。太白がどうしてその言葉を出したのか、彼の話はどこへ続くのか、先が読めずにいる高澄に、太白は言った。

「私の父は、その刀子匠だったの」


「……それは……何と言うか……まったく想像がつかないな……」

 文化の違いだから一概に否定してはいけないのだろうが、嫌悪感がある。表情を歪めた高澄に、太白は苦笑した。

「そうだろうと思うわ。実際、向こうの人にとっても印象のいい仕事ではないしね。他人の血筋を断っておいて、自分の血筋を継いで……生まれた私がこんなんだったものだから、それはもういろいろ言われたみたいよ。神罰を受けたのだ、ってね」

「…………」

「生まれながらに私は陰も陽もこの身のうちに抱えていたの。陰陽思想を辿って、その中で星辰を読む力を磨いて、星精を使役するようになって。陰陽思想が独自に花開いた和国に渡ることになったのは必然のなりゆきだったわ。そうして月白と出会って、彼女の師匠になったの」

 太白の数奇な半生を驚きながら聞いていた高澄は、あることに思い至っておそるおそる口を開いた。

「月白の師匠になったということは……もしかして……」

 太白は吹き出した。

「やだ、違うわよ! 想像しているようなことはないわ。私と月白は師弟、それだけよ。家族みたいなものではあるけどね。体の関係はないし、房中術を伝授しているわけでもないわ。残念だったわね?」

「い、いや……残念などとは……」

 ……ちょっとだけ、思わなかったこともない。

「あの子の潔癖さ、知っているでしょう? 私がこんなだから反面教師になってしまっているのよ。それに、彼女は彼女で色々抱えているからね……」

「色々、とは?」

 そう聞いた高澄を太白は見上げた。

「私の性や過去のこと、あの子から聞いた?」

「いや。聞いていない」

「そうでしょう。だから私も言わないわ。聞くならあの子自身から聞きなさい」

「そうか。それもそうだな」

「さて。いろいろ話してすっきりしたし、術を解くわ。お耳汚しだったわね」

「いや。興味深い話だった」

 高澄は首を振り、少し首を傾けた。

「しかし太白どの、何かあったのか? 話をしてすっきりしてくれたのなら嬉しいが……」

「……そうね。……実はね……」

 太白が続けた話に、高澄は目を見開いた。

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