第2話

 式部卿宮が住まいとしている里内裏は、元は藤原家が所有していた邸宅だった。十数年前に内裏で火災があった際に天皇のお住まいにと提供され、しばらく使われていた場所だ。内裏の機能が戻り、天皇をはじめとする人々が戻っていった後も、遠方からの人を泊めたり方違えに使われたりなど今に至るまで何かと便利に利用されており、常駐の使用人もいて暮らしに不自由はない。

 高澄はそちらへ使いを出し、太白や月白を招く手はずを整えた。除目は十日後だからあまり日数に猶予はない。

 しかし、太白が頼りになりそうなことは期待以上だったし、その協力を取り付けられたのも大きかった。何とかなるのではないか、と高澄は楽観している。

 式部卿宮にお目にかかかる前に内裏を一度見ておきたい、と月白が言ったので、高澄は翌日の職務をあらかた終えた後、昼下がりに牛車を手配して月白を迎えに行き、ふたたび内裏へと戻った。内裏外郭の南西(ひつじさる)の方向にある修明門の前で牛車を止め、月白を連れて門を通る。除目が行われる清涼殿は内裏の中でも西の方にあるので、少し北へ歩いて内郭西側の陰明門へ向かう。

 隣を歩く月白が硬い表情なので、高澄は気遣って少し歩く速度を落とした。

「月白どの、大丈夫か? 内裏は陽の気が強いというお話だったが……」

 もしかして尊継のように陽の気にあてられているのだろうかと心配して声をかけたが、月白は首を横に振った。

「私は大丈夫。多少のことでは気を乱さないように修練を積んでいるから」

「そうか、すごいな。もしかして、その修練とやらをなされば宮も体調を崩さなくなるかも……」

「かもしれないけれど、おすすめはしないわ。時間がかかるし、できない人の方が圧倒的に多いから。殿下がお時間をかけられるほどの確かさは保証できない。それに、どちらにしろ十日弱ではどうにもならないわ」

「それもそうだな。まずは除目のことを考えないといけないしな……」

 少しだけ落胆したが、元々の予定通りになるだけだ。高澄は気持ちを切り替えた。

「月白どのも修練を積んでおられるのだな。太白どののことを師匠と呼んでおられたようだし、弟子でいらっしゃるのか?」

「そうよ。……私にまでそんな敬意を払うことないわよ。私は半人前の……なのだし」

 半人前の、の後に続いた言葉が聞き取れなかったが、あまり触れない方がよさそうだったので高澄はそのまま流した。

「では、もう少し気楽に話させてもらう。だが、技術のある者に敬意を払いたいとは思っているぞ。陰陽道のことはさっぱり分からないが、なんだかすごそうだというのは分かる」

「それは分かっていないと言うのよ」

「違いない」

 思わず笑ってしまった高澄に、月白は戸惑ったような呆れたような視線を向けた。その反応の意味がよく分からないが、怒っていないようなので気にならない。高澄はさらに聞いてみた。

「月白は太白どのから信頼されているのだな。一人で送り出したり、内裏の確認を任せたり。何があるか分からないからついて行こうとはならないのだな」

 月白は溜息をついた。

「一緒に来るのは私が止めたの。どうせ一度は来ることになるでしょうし、師匠ならそれで充分だわ。それよりも……あの人を何度も連れてくる方が不安よ。それこそ何があるか分からないのだもの。声をかけられたらほいほいついて行っちゃうんだから」

「声を、というのは……」

「誘いの声を。男性からも女性からもやたらめったら掛けられるのよ」

「ああ……なるほど……」

 高澄は納得して頷いた。太白は美しさもさることながら、無邪気さと達観が共存したような不思議な包容力を持っている。誘いをかけても手ひどく撥ねつけられはしないだろうと思えるのだ。それは声も掛けやすいだろう。月白は頷く高澄を横目で冷たく見やった。

「お願いだから、あなたまで師匠に手を出すのはやめてね。第二皇子の覚えめでたい高官をたぶらかしたなんて箔がつくのはごめんだわ。そういう評判がさらに人を呼ぶのよ」

 高澄は苦笑して首を横に振った。

「さすがにそれはしないから安心してほしい。殿下の大切な時期であるし、そもそも私は女性が好みだ」

 月白が妙な顔で高澄を見上げた。

「師匠のこと、女性に見えない?」

「そう言われれば……髪を解いたところは女性に見えたな」

 そう言うと、月白はますます妙な顔をした。

「鈍いのか何なのか分からないけれど……師匠の魔力がここまで通じない人を見たのは初めてかもしれないわ。師匠はね、男性にとっては女性に、女性にとっては男性に見えるのよ。それも、とびきり魅力的な異性にね。ついでに言うなら、同性を好む人には同性に見えるみたいだけど」

 それで言うなら高澄は男性が好きな男性ということになる。そうでないことは自分でよく分かっているのだが。

「それで……結局、太白どのは男性なのか? 女性なのか?」

 高澄の問いに、月白は黙って肩をすくめた。知らない、なのか、答えたくない、なのかは分からないが。

 もしかして太白と月白の二人が師弟のみならず恋愛関係にあるのかもしれないと思ったのだが、違うのだろうか。そういう関係であれば知っていそうなものだが。

 高澄の視線の意味を察したのか、月白は高澄に冷たい視線を寄越した。高澄は思ったことを口に出すのを控えた。

(しかし……この子はこの子で目立っているような……)

 内裏で立ち働く女性はもちろんいるのだが、それでも行き交う者は男性が多い。月白はそうした男性たちの視線を集めていた。今日も相変わらずの男装だが、むしろ少女の可憐さを引き立てる要素にしかなっていない。男性にはまったく見えなかった。

 こうした格好をする者は、巫女か、その流れを汲む白拍子などだ。潔癖な印象があるから後者には見えないだろうと思うのだが、それでも好色な視線がないとは言えない。もしかして月白の表情が硬いのはそのせいもあるのだろうか。高澄は提案してみた。

「清涼殿を見てみたら、少し後宮で休ませてもらおうか。内裏の中でも後宮は陰の気がどのくらい強いものなのか、君の見立ても聞いてみたい」

「ええ、じゃあ後でお願い」

「分かった」

 月白が頷いたので、高澄はまず清涼殿へと彼女を案内した。天皇が寝食をお取りになったり日常の政務をこなされたりする場なので高澄にとっては割と訪れることの多いところだが、市井の者にとっては気圧されるくらい立派で目新しい場所と映ることは承知している。

 月白は間取りや用途を高澄に尋ねたり、天皇にお目にかかろうとする貴人たちが待っている様子を眺めたりしながら思案を巡らせているようだった。

「……予想していたとはいえ、陽の気が強すぎるわね……」

「そういえばそんなことを言っていたな。私にはさっぱり分からないのだが」

「あなたは充分以上に適応しているもの。むしろ快適なくらいなんじゃない? そういえば源姓だったわね」

「ああ。高祖父が一条帝だ」

「……すごいお血筋ね……」

 源姓、つまりは天皇を祖とする男系子孫だ。だが祖先が臣籍降下して三代を経ているし、高澄は皇子と呼ばれる身分ではない。そのことに不満はまったく無いし、尊継という尊敬できる主君に仕えられていることを幸せに思う。もちろん帝への忠誠は揺るがないが、藤原氏に対して一歩引いたような形になっている天皇陛下のお力に――尊継殿下とともに――なれたらいいと思うのだ。

 清涼殿に少し上がったあとは建物の周りを一周し、高澄は後宮へと月白を案内した。


 外国(とつくに)の後宮は閉ざされているところもあると聞くが、和国の後宮は割と開放的だ。天皇の后たちが中心となった文化的な社交の場であり、子供たちの声が響く生活の場でもある。素性の怪しい者はさすがに出入りできないが、高澄は誰何されたことはない。今日も衣冠姿――光覧帝のときに始まった、位階がざっくりとしか分からない色合いのもの――だが、顔を覚えられているのか雰囲気で分かるかなのだろう。高澄が連れている月白も止められることなく後宮の殿舎へと上がった。

「今は凝華舎の主がいないから、公卿がたが待機場所として使っておられる。そこなら清涼殿からも遠くないし、少し座って飲み物を飲むくらいできるだろう」

「ええ、ありがとう」

 月白は端然と整えられた御殿に心を動かされた様子もなく頷いた。その眼差しが実際的で、芸術面を鑑賞するのではなく機能面を観察する者のそれだ。後宮の妃たちとは佇まいからして異なる。

(……太白どのも謎が多いが、この子も不思議だな。女性の身で陰陽師としてやっていくのは大変だろうに。太白どのとはまさか親子でもないだろうし、親御さんはどうしていらっしゃるのか……)

 気にはなったが、詮索するようなことではない。もしも困ったことがあれば力になりたいとは思うが、そうでなければ余計なお節介だろう。高澄は思考を打ち切った。

 そこへ女性の声がかけられた。

「あっ、高澄様!?」

「ん? ああ、菖蒲の君。久しいな」

「本当ですよ! もっと私どものところへもお越しくださいな。姫様も寂しがっておられますよ」

「悪いな、最近忙しくて。姫君もお元気でいらっしゃるか?」

「ええもう、元気すぎて……ところで、そちらの方は?」

 会話に置いていかれる形になっていた月白の方を向き、高澄に話しかけていた女性――菖蒲の君が尋ねた。華やかに重ねた袿と表着、長く引きずる裳という女房装束だ。

「こちらは陰陽師の月白どのだ。月白どの、こちらは女房の菖蒲の君。承香殿女御に仕えておいでだ」

「陰陽師……? 女性の身で……?」

 紹介されて礼をした月白に、菖蒲の君は胡乱な目を向けた。月白は黙って目を伏せている。

 高澄が代わりに答えた。

「そうだ。私が仕事を依頼した。よしなに頼む」

「……ええ、高澄様がそう仰るなら」

「ありがとう。ついでと言っては何だが、もう一つ頼まれてくれないか? 彼女に白湯をあげてほしいんだ」

 高澄の図々しい要求に、菖蒲の君は吹き出した。笑いながら言う。

「まったく、高澄様には敵いませんね。よござんす、お持ちしましょう。少しお待ちくださいね」

 言いおいて廊下を去っていく。その後姿を見送り、月白はようやく口を開いた。

「姫君、とは?」

「承香殿女御の生みまいらせた弟姫君だ。御年五歳におなりで、たいそう可愛らしくていらっしゃる」

「なるほど、懐かれているのね。……あなた、女子供に受けがよさそうだものね」

 月白はしげしげと高澄を眺め、納得したように頷いた。高澄は首を傾げた。

「特にそんなことはないと思うが。姉二人からは割とさんざんな扱いを受けているし、子供に懐かれるわけでもない。むしろおもちゃにされている気がする」

「それを懐かれていると言うのよ。姉君たちからも可愛がられているようね」

「そうだろうか……」

 自分では特にそう思えないのだが、第三者から見るとそういうことになるのかも知れない。高澄は確信なく首をひねったが、強いて反論するつもりは無い。

「それで、さっきの人はあなたの情人なの?」

 高澄は目を瞬かせた。月白がそういうことを聞いてくるとは思わなかった。だが、正直に答える。

「違う。彼女、結婚して夫も子供もいるぞ?」

「そのくらいのことは恋の妨げにならないんじゃない? そういうのが内裏だと思っていたのだけど」

「あー……」

 高澄は言葉を選ぼうとしたが、そもそも自分にあまり語彙力が無かった。

「……そういう価値観の人がいるのは確かだが、私は同意できないな。……もしかして、太白どのが来られるときのことを考えているのだろうか」

「……まあね。正直なところ、諦めてはいるけれど……」

 月白は溜息をついた。疲れたような様子に思わず同情してしまう。あの太白が人の多い内裏に来てそのまま大人しく帰るとは思えない。

「あなたも苦労するな……」

 陰陽師として動いて、師匠のフォローもして、年若い少女なのに偉いと思う。月白は十六歳と聞いているが、いくら結婚できる年であるとはいえ彼女は自分より五つも年下なのだ。まだほんの少女ではないかと思ってしまう。

 月白は安心したように息をついた。

「まあでも、少し安心したわ。あなたは不義密通とかしなさそうだものね」

「もちろんしない。お誘いがあっても丁重にお断りする。一人の女性のところに男が何人も通うのはよくないからな。結婚前の娘もよくない。私が誘いに応じるとしたら未亡人くらいだな」

「え!? 応じたりしているの!?」

「応じることもあるぞ」

 月白がなにをそんなに驚いているのか分からない。高澄は首を傾げながら肯定した。月白はしばし絶句し、思わずといったように叫んだ。

「不潔!」

「ええ!?」

 そんなことを言われても困る、というのが高澄の正直な思いだ。互いに割り切った関係だし、お天道様に恥じるようなこともしていない。見返りに行う援助も感謝されていると思う。

(むしろ私は大人しい方だと思うのだが……)

 悪友たちの所業を聞くと引くようなことも多々ある。そういうときの高澄はむしろ諫める側だ。だが、それを言っても月白の機嫌は直らないだろう。こういう時は黙っているに限る。高澄の経験則がそう言っている。

 二人の間に流れる空気がなんとなく重く感じられるようになり、会話が途切れた。そこへ菖蒲の君が戻ってきた。

「お待たせしました。……あれ、何かありました……?」

「いや、特には。菖蒲の君、ありがとう」

 高澄は心からお礼を言った。いいタイミングで戻ってきてくれた。

「畳を持ってくるには少しかかりますが、どうしましょう?」

「いえ、この場で頂きます。お飲み物をありがとうございます」

 月白が答えた。ここは簀子縁だが、休憩くらいなら充分だと考えたらしい。そうした気取らなさは高澄にとって好ましいものだが、これ以上余計なことを言って月白の機嫌を損ねたくはないので黙っておく。

「では、どうぞ。白湯と麦湯とお持ちしました。ちょうど用意があったものですから」

「ありがとう、菖蒲の君。月白どの、どちらがいい?」

 会話のきっかけをくれた菖蒲の君に心の中で感謝しつつ、高澄は盆に乗っている二つの椀を月白に示した。月白はまだ不機嫌そうではあったものの、険を少しおさめて高澄の言葉に答えた。

「麦湯を頂いてもいい? なかなか飲む機会がないの」

「では私は白湯を」

 それぞれの椀を取り、高澄は白湯を口に含んだ。それなりに鍛えているので歩き疲れるほどではないが、喉は乾いていたので暖かい水分が嬉しい。月白もほっとしたような表情で麦湯を飲んでいる。

 市井の女性であれば自らの足で動くことも多い――対して貴族女性はあまり動かず、移動は牛車でということも多い――が、少女の足には少し堪えたかもしれない。内裏に慣れていなければ気疲れすることもあるだろう。まして月白は気を張っていたし、気を尖らせていた。きっと高澄が想像する以上に疲れているだろう。休憩を提案してよかった。

 二人が飲み終えると、菖蒲の君は椀を回収して脇へ置いた。持っていかないのだろうかと不思議に思って視線で問うと、菖蒲の君は少し躊躇ってから切り出した。

「陰陽師どの。少しお力をお借りするわけにはいかないでしょうか?」


 その言葉に、月白はまず高澄に確認を取った。

「あなたの依頼の用意をしているところだけど……」

「私は構わない。菖蒲の君、どんなお話なんだ?」

「ありがとうございます。お話があるのは、実は私ではなくて……」

 菖蒲の君はそう言い、舎殿の方へ声をかけた。廊下に続く戸が開き、そこから女房装束の娘が出てくる。高澄には見覚えのない顔だ。

「皇后陛下にお仕えする藤式部(とうのしきぶ)と申します」

 娘は軽く頭を下げ、自己紹介をした。

(なるほど、皇后陛下に……)

 高澄は納得した。どうりで見覚えがないはずだ。皇后は藤原家の娘で格式の高い弘徽殿を賜っており、長子である第一皇子が東宮として立ってからは権勢が揺るぎないものになっている。

 高澄が仕える第二皇子尊継は梨壺女御の子であり、第一皇子にとってはあまり愉快な存在ではない。藤原の流れに属さないからだ。だが、第一皇子の陣営を脅かすほどの力がないことは誰の目にも明らかなので積極的に敵対しているわけでもない。微妙な間柄なのだ。

 そうした関係で高澄もあまり弘徽殿へは近づかない。皇后と面識がないわけではないし、傍仕えの女房たちの中にも見知った顔は何人かいるが、全員を知っているわけではない。藤式部と名乗ったこの娘のことも知らなかった。

 皇后と承香殿女御の仲は悪くないし、菖蒲の君は面倒見のいい性格だ。藤式部と女房どうしで付き合いがあったのだろう。

 藤式部は目を伏せ、口を開いた。

「……最近、なんだか体が重くて。夢見も悪くて、眠っても疲れが取れないんです。お祓いをしてもらっても、効いているのか効いていないのか分からなくて……物怪(もっけ)の障りではないかと思うのですが……」

 話すことも億劫そうで、化粧で隠しているが顔色も悪い。高澄は思わず同情した。

「それはかわいそうに。なんとか……」

 なんとかしてやってくれないか、と言おうと月白の方を向いた高澄は、思わず腰の太刀に手をやった。

 月白の瞳が、得体の知れない光を宿している。どこか見覚えがあるような、静かだが強い誘因力があるような……。奇妙に惹きつけられるのに、危険だと本能が囁いている。ちぐはぐな感覚に総毛立った。

 だが、そんな感覚を覚えたのは高澄だけのようだった。ひっと息をのむ音が聞こえて目をやると、菖蒲の君が高澄を見て怯えた表情をしている。そこで初めて高澄は我に返った。月白の様子は普段と変わりなく、高澄が急に血相を変えて太刀の柄に手をやったという状況なのだ。藤式部もこちらに怯えた目を向けている。

 高澄は太刀から手を離して謝った。

「すまない。何もするつもりはないんだ。ちょっと変なものが見えた気がして……」

「……ようございました。高澄様まで物怪に憑かれてしまったかと思いました」

 菖蒲の君が胸を撫で下ろした。籐式部も警戒を少し解いたようだ。月白はちらりと高澄に視線を向けたものの何も言わない。

「それで、どうなのだ? なんとかしてやってくれるか?」

 気を取り直して高澄が問うと、月白は曖昧に答えた。

「根本的な解決は、すぐには出来なさそう。でも、症状を軽くすることなら出来るわ」

「お願いします! 気が塞いでつらくて、本当にどうにかなってしまいそうなんです。どうか助けて……!」

 籐式部は哀願した。その様子に哀れを誘われ、任せろと喉元まで出かかったが、それを請け負うのは高澄ではない。なんとか言葉を飲み込んだ。

 助けを求められた月白は心を動かされた様子もなく、具体的な金額を答えた。

「この金額の半分を前金で。残りは成功報酬で。それでどうかしら」

 え、と籐式部は瞬いた。

「お金、取るんですか……?」

「当然。私は陰陽師として依頼を受けようと言っているのよ」

「それは……そんなに大がかりになるのか?」

 高澄は思わず口を挟みかけた。こんなに困っている人が目の前にいるのにお金の話をするのは無粋だと思ってしまう。準備によほど費用がいるとかなのだろうか。

 月白は冷めた目を高澄に向けた。

「なら、あなたが出す? いいわよ、それでも」

「あ、いえ! きちんと払いますから、お願いします!」

 籐式部は慌てたように口を挟んだ。初対面の男性にお金の借りを作るのは怖いということだろう。月白の提示した金額は決して安いものではなかったが、高澄にとってはどうということもない金額だ。そのくらいの額は肩代わりしてもいいと思ったのだが、本人が嫌がるなら無理強いはしない。

「では、どこか場所を用意してもらえる? あまり場所はとらないし時間もかからないけれど、廊下を占拠していては通行の邪魔だわ」

 月白の言葉に、近くの人にちょっと尋ねてきます、と菖蒲の君は場を辞した。それなら私も、と籐式部も彼女の後を追う。

 二人の姿が見えなくなってから、高澄は思わず月白に苦言を呈した。

「さっきの言い方だが……もっと何とかならなかったのだろうか」

「…………。先に言いたいのがそれなの?」

「あっ……そう言えば」

 月白の異様な様子のことも不思議だとは思っていた。だが女性二人が何とも思っていなかったようなので、高澄の勘違いかもしれないと思っていたのだ。月白の方から言及するとなると、やはりあれは勘違いなどではなかったのだろうか。

 だが、それは後だ。話が途中だ。

「彼女、顔色が悪かったし参っていそうだった。何もそこまでがちがちに仕事の話にしなくても……」

「無償で人助けをしろと? 彼女はあなたの恋人か何かなの?」

「恋人でも何でもないが、それが人の情けというものだろう」

 言い諭しながら、高澄はなぜだか居心地の悪い思いを味わっていた。間違ったことは言っていないと思うのだが、本当に自分は間違ったことを言ってはいないだろうか。

 そう思ってしまうのは、月白の視線が冷たいからかもしれない。

「私には人の情けが無いと、あなたはそう言いたいのね」

「……っ! いや、そうではないのだが……言葉の綾というか……」

 月白に情がないと言いたいのではなく、そう見えるかもしれないから改めてはどうかと言いたかったのだが、月白は高澄の言いたいことを理解しているようだった。そのうえで態度を決めているのだ。

「私は正当な報酬を要求するだけ。それを呑むかどうかは彼女が決めることだわ。あの様子だとあなたに払わせるつもりは無いようだし、あなたが口を挟むことではないわよ」

「……それは、そうなのだが……」

 そう言われてしまうとそれ以上食い下がる理由がない。話はすでに月白と籐式部の間のものになっているのだ。

「……だが、そうではなくて……」

 高澄が問題にしているのは、依頼の話そのものではなく、あまりにも頑なに見える月白の態度の方だ。守銭奴にさえ見えてしまうのは宮廷においてどうなのだろうと思うのだが、そういえば彼女は宮廷人ではなかった。市井の一般人だ。超然とした態度、気品のある物腰、端正な美貌といった要素からついつい失念してしまうのだが。

(お金に困っているようには見えないのだが……)

 色々ともやもやしてしまうが、これ以上話を続けてもいい方向に行かないだろうことは分かる。月白との関係をあまりこじらせたくないし、口を噤むべきだろう。

 そうしている間に菖蒲の君が戻ってきた。

「お待たせいたしました。時間がかからないならということで、しばらく使う予定のない場所を確保できました。どうぞこちらへ」

 菖蒲の君が案内に立つ。月白は高澄に目をやることもなく彼女の後へ続いた。

 なんとなく釈然としない思いを抱え、高澄も後を追った。


 人気のない局の中に案内された高澄は、几帳を動かして外からの人目を防ぐようにした。御簾は降りているが念のためだ。同じく案内された月白は何やら辺りを確かめたり懐から呪符を取り出して床に並べたりしている。

 月白が一通りの準備を整えた後に籐式部が戻ってきた。どうやらお金を用意していたらしく、布袋を月白に渡そうとする。月白はそれを受け取る前に念を押した。

「もう一度伝えておくけれど、これは根本的な解決ではないわ。体の不調を一時的に改善するだけのもの。それは分かっておいて」

「分かっています。でも、今はとにかく不調を治したいのです。その後のことなど考えられなくて……」

 藤式部は頷いた。一時的なものでもいいから不調から逃れたいと必死なようだ。

「請け負うわ。もしも希望するなら、根本的な解決についてのお話は後で。お体に触れても大丈夫?」

「……はい。お願いします」

「では、始めます」

 宣言すると、月白は籐式部を誘導して呪符を配置した中に立たせた。そして彼女を抱きしめるようにする。身固めだ。月白が彼女よりも小柄なうえ、女房装束は小袖に単に重袿に表着にとかなりの枚数を重ねるものなのであまり直に触れているという感じではなかったが、藤式部は驚いたようだった。だが、制止はせず月白に任せている。

 月白は彼女の背中に回した手で印を組み、呪を唱えた。

「ノウマク・サンマンダ……」

 唱える月白の髪が、風もないのにふわりと舞った。高澄が驚いて見守る中で、月白の気配が変わっていく。

 清浄で、目を奪われるような神聖さがあり、しかしどこか虚ろに陰るような……

(……この気配……何かに似ているような……)

 覚えがあるのだが、掴めない。目を奪われつつも高澄がもどかしい思いを抱える中、月白は呪を唱え切った。

「……ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン! 悪鬼退散! 急々如律令!」

 どん、と押されるような衝撃が走った。月白たちを中心に、なにか力の波のようなものが外へと波及していく。高澄は腹に力を入れて耐え切った。

 普段から鍛えている高澄だからこそ耐えられたが、結構な衝撃だった。耐えられはしたが他の人を庇う余裕などなく、高澄は慌てて菖蒲の君の方を見た。

 だが、彼女は倒れることもなく、それどころか衝撃を感じてすらいないようだった。急に視線を向けた高澄を訝しげに見返している。

(何だったんだ、今のは……?)

 何かが起こったと思うのだが、さっぱり分からない。後で月白に尋ねてみようと思いつつ、高澄は月白と藤式部の方を振り向いた。そして慌てて駆け寄った。

 藤式部が、体の力が入らない様子で月白にもたれかかってぐったりとしている。月白の小柄な体ではそれを支えきれずに一緒に倒れそうになっていた。

「大丈夫か!? どうしたんだ!?」

 高澄は二人をまとめて支え、床に座らせた。

「……大丈夫、です。体が急に楽になって……」

 藤式部がぼんやりと目を開けて言う。月白が説明を添えた。

「今まで体にかかっていた負荷がなくなったから、そのせいよ。菖蒲の君、藤式部にお水をあげてくれる?」

「あ、はい! すぐに持ってまいります!」

 菖蒲の君が急いで部屋の外へ出ていった。足取りが乱れるようなこともなく、彼女は本当に何も感じていなかったようだと高澄は思った。

 藤式部に向き直って問うてみる。

「その、つらかったら返事をしなくていいのだが。藤式部、何か衝撃を感じたりはしなかっただろうか?」

「……ええと、よく分からなかったのですが……何かが弾けた感じはしました」

 少し意識がはっきりしてきたようで、受け答えをする声にも力が戻ってきている。しかし話の内容には首を傾げた。

「月白どの、何が起こったんだ?」

「物怪を追い払ったのよ。彼女の言う通り、これは物怪の障りだったから。彼女の中から追い出したから、弾けた感覚がしたのでしょうね」

「なるほど……。では、追い出したからこれで終わりなのではないか? 根本的な解決になっていないと言っていたが」

「それは……」

 月白は藤式部に目を向けて聞いた。

「根本的な解決について話してもいい? 個人的な事情に踏み込むかもしれないから場所を改めた方がいいかしら」

「えっと、それは……二人で、ということでしょうか……?」

「そうなるわね。この人が聞いていてもいいならこの場で話すのだけど」

「構いません。ここで聞かせていただけますか?」

 人見知りするたちなのか、藤式部は月白に苦手意識がありそうな様子だ。もっとも、月白の美貌や超然とした態度が近寄りがたい雰囲気を出していることは高澄にも分かる。後宮には美人が多いが、月白はその中に混ざっても目立つだろうと思える。

「何を聞いても他言はしない。約束する」

 高澄は言った。本当だろうか、と言いたそうな視線を月白は寄越したが、何も言わなかった。

「あっ、籐式部、大丈夫そう? 気分が悪いとかは無い? これ、お水よ」

 菖蒲の君が戻ってきた。ありがとうございます、と藤式部は水を受け取りつつ、月白と高澄にちらりと視線を寄越した。いったん話をやめたいということだろう。菖蒲の君は面倒見がよく世話焼きなたちだが、いささか口が軽いところがある。それを高澄は知っているので納得したが、月白は知らないだろう。高澄は彼女の視線を捉えると、口を少し開けてから閉めてみせた。察したらしく月白も浅く頷く。

 菖蒲の君は嬉しそうな様子で藤式部に話しかけた。

「顔色がよくなってきているみたい。治ったのかしら?」

「治ってきています。さっきは体がびっくりしてしまったみたいで……。少し休めば大丈夫そうです。今までは、休もうにも気持ちが休まらなかったのでつらかったのですが……」

 眠ろうにも夢見が悪く、さりとて起きていても頭の疲れは取れない。さぞかし苦しかったことだろう。懸念が払拭されて、藤式部の声に力が戻ってきている。

 そのまま菖蒲の君が長々と話し込みそうだったので、高澄はやんわりと口を挟んだ。

「菖蒲の君、藤式部はもう大丈夫そうだが、少し休ませてやりたいんだ。今後の話もしたいし、この場所をもう少し借りていて大丈夫だろうか?」

「ええ、一時(にじかん)くらいは大丈夫なはずです。私は承香殿に戻りますが、何かあったらお呼びくださいましね」

「ありがとう。籐式部のことは任せてくれ」

 高澄が請け合うのに頷き、月白にも頭を下げて菖蒲の君は場を辞した。それを見送り、高澄は局の隅にあった畳を中ほどへと移動させた。

「とりあえず座ろうか。私は適当にするから」

「じゃあ、遠慮なく。ありがとう」

「恐れ入ります」

 二人に畳を譲って座らせ、高澄もその場に腰を下ろす。話の主導権を月白に譲り、高澄は口を閉ざした。月白が口を開く。

「先ほども話した通り、体の不調は物怪のせいだったわ。追い払ったから一時的には良くなったけれど、物怪はまた寄ってくるはず」

 月白が言うと、藤式部の表情が強張った。具合が良くなったことを喜んでいたら、また同じ状態に戻ると言われたのだから当然だろう。不安そうに尋ねる。

「どうしてですか? どうしてこれで終わらないんです? せっかく治ったのに……」

 先ほどまでは、いっときでも治ればいいという心境だったのだろう。いざ治ってみると、また以前の状況に戻ってしまうことが怖くなった様子だ。

「原因を断っていないからよ。物怪が寄ってくる理由はいくつかあるのだけど……」

 月白は指を折って数え上げる。

「元々そういうものが見える体質だとか、誰かに呪詛されているとか、そうでなければ……」


「……誰かに恨まれているか」

 びくりと藤式部が体を震わせた。月白は配慮する様子もなく尋ねる。

「心当たりは無い? たぶん理由はこれだと思うの。呪詛特有の歪んだ気配がしないし、前々からの問題というのでもなさそうだし。それとも、最近なにかおかしなものが見えるようになったりした?」

 横で聞いていた高澄は納得した。これは確かに、個人的な事情に踏み込むかもしれない話だ。口が軽い者には聞かせたくないだろう。

 月白も、別に彼女に配慮をしていないわけではない。そういう話をしてもいいかと確認をとった上で、それ以上の配慮は話を進める邪魔だと切り捨てたのだ。そのやり方が事務的で実際的なので反感を覚える者もいそうだが、月白は気にしなさそうだ。

「……いいえ、おかしなものが見えることはありません。……でも、その、恨まれるような心当たりは……」

「なくても、可能性としてはいくらでもあるでしょうね」

 籐式部は言い淀んで言葉を濁したが、月白はあっさりと言った。

「恨みを買っていない人間なんていないもの。私だって色々な人から恨まれていると思うわ。些細な行き違いから誤解が生まれることだってあるでしょうし、逆恨みされることだってあるでしょう。自分は全然関係ないのに、家族など近しい人のとばっちりで一緒くたに恨まれることだってある。だから早急な解決は難しいのよ。原因を特定しなければいけないから」

「なるほど……」

 納得し、高澄は思わず声に出してしまった。部外者なので聞き役に徹しようと思ったのだが。

 声を出してしまったついでとばかり、藤式部に声をかける。

「どうだろう、特に強い心当たりなどは……」

「そこまで。男性がいると話しにくいことも多いのよ。恨みの大半は金銭か色恋が絡むんだから」

 光覧帝の大改革の結果、和国ではそれ以前と比較にならないほど貨幣が浸透している。国の隅々まで浸透しきっているとは言えないものの、長足の進歩だ。それに伴って贋金などの問題も出てきているが、交換の際に価値を誤魔化すのは物々交換でも起こりうることだ。全体的に見れば利点の方がはるかに大きいだろう。

(金と色。確かにな……)

 納得した高澄は口を噤んだ。藤式部は何か言おうと葛藤していたようだったが、こちらも口を噤んだ。

 一通りのことを説明し終えた月白は、藤式部に言った。

「これで元々の依頼は完了ということでいい? 残りのお金を頂いてから話を進めたいのだけど」

「あ……えっと……」

 籐式部は先ほどよりもさらに言いにくそうにしていたが、月白の促す視線に重い口を開いた。

「……あの、ごめんなさい……今、手持ちが少し足りなくて……」

 残りのお金をすぐに出すことはできない、ということらしい。月白の纏う雰囲気が冷ややかになった。

「踏み倒そうとした? それとも、成功報酬だから払わなくていいと思った? 成功しないだろうと思われていたのかしら」

 藤式部は縮こまっている。高澄は思わず助け舟を出した。

「踏み倒すなんてことはしないだろう。それに彼女は病み上がりなんだ。そこまで厳しくしなくても……」

 それこそ厳しい月白の視線に、高澄は少し勢いを落とした。

「……お金がすぐに必要だったら、私が立て替えても……」

「……そういう問題じゃないのよ」

 月白は溜息をつき、小さく呟いた。ややあって顔を上げ、藤式部に言う。

「それなら、次に会うときまでに用意しておいて。お金だけではなく、原因究明の依頼をするかどうかの考えもね。除目の日までに受け取りに来るわ」

「分かりました。すみません……」

 譲歩したというより、これ以上ここにいても仕方ないと見切りをつけたのだろう。月白は高澄を促して席を立った。

「戻るわよ。後宮で見たいものは見られたから」

「分かった。……それでは籐式部、失礼する。どうかお大事に」

「ありがとうございました……!」

 頭を下げ、籐式部が二人を見送る。それに振り返らず、月白はそのまま後宮を出る方向へ進んだ。

(しかし……やっぱり、もう少しやりようも言いようもあると思うのだが……)

 月白の態度はがめつくさえ見えてしまう。もちろんどんな態度を取るかは本人の自由だし、曲がったことを言っているわけでもないのだが、なにか違うと思ってしまうのだ。高澄が裕福な貴族だからそのように思ってしまうのだろうか。

「……しかし、さすが後宮ね。一般的に女性は陰の気が強いものだけど、ここの女性たちは陽の気が強い人が多いわ。皇族の血が濃いのね。天照大御神を祖とする陽の家系の。陰陽どちらがいいというものではないけれど、ここが合わない人は本当に合わないでしょうね」

 月白は歩きながら言った。高澄も並んで歩きながら相槌を打つ。

「私には分からないが、そうなのか。しかし、皇族の血か……。それなら、どうして……」

 第二皇子たる尊継は陰の気が強いということになるのか。誰に聞かれるか分からないから具体的な言葉にはできなかったが、高澄が言いたかったことは月白に伝わったようだった。

「個人差があるもの。血筋がすべてではないし、血筋にしても先祖返りとかがあるでしょう。あくまで個人の体質の問題よ」

「そうか……。そうだな、自然の摂理だものな。人間では逆らえない。受け容れて、できる範囲でどうにかするしかないものな」

 ままならないものだが仕方ない。人間にできることは、人間の力の及ぶ範囲でどうにかならないかと足掻くことだけだ。

 月白はぽつりと呟いた。

「そうなのよね。人にはどうしようもない。……自分自身のことさえも」

 物思わしげな様子に言葉をかけたくなったが、何と言っていいか分からない。高澄は黙って月白の隣を歩いた。

 清涼殿のところまで戻り、高澄は月白に確認した。

「他に見ておきたいところとか、確認しなければならないことなどはあるだろうか。なければ帰り道を送っていくが」

「そうね……」

 月白は言い淀んだが、考え中というより、考えを話すかどうかを迷っているような感じだった。ややあって言った。

「……できるなら、陰陽寮を少し見てみたいのだけど……」

「なるほどな、陰陽寮か」

 陰陽師として、陰陽寮に興味を持つのは当然だろう。前の時代では蔵人所に所属する陰陽師がいたりもしたのだが、光覧帝の時代から陰陽寮に一本化されている。

 高澄も中務省の者として、陰陽寮に出向くことはよくある。宮廷はとにかく儀式が多いところなので、日の吉凶を占って日取りを決めるのは重要だ。何か変わったことが起これば占を求めるし、好ましくない出来事があれば祓いを求める。どれも日常茶飯事だ。

 高澄自身はもちろん陰陽道のことを知らないが、陰陽寮に出入りする身として知り合いは多いし、案内はできる。だが……

「……男ばかりだが、大丈夫だろうか?」

 女性が行くとなると物珍しげにじろじろ見られるだろうと予想できる。不愉快なことを言われるかもしれない。もちろんそんなことがあったら咎めるつもりでいるが、予防はできない。行かないという選択肢を取らない限り。

「構わないわ」

「分かった。それなら、こちらだ」

 本人がそう言うなら、これ以上言い立てることはしない。高澄は先に立って案内しようとしたが、月白は横に並んだ。

「一応、場所は分かっているの。でも、私ひとりだと外から見るしかできないから……」

「それは確かにそうだな。関係者でないと入れないものな。だが、月白がまだ修行中だとはいえ、太白どのが……」

 他に人がいないときなら敬称はいらないだろうと思って何気なく外した高澄に、月白は目に見えて動揺した。


「すまない、嫌だったか? 敬称をつけなくていいと言ってもらったように思ったんだが……」

「私にまでそんな敬意を払うことないわよ、って言ったの!」

「そういえばそういうふうに言われた気もする。だが同じことだろう?」

「…………」

 月白は顔を赤くして口をぱくぱくさせている。自分は別に間違ったことを言っていないと思うのだが、解釈の違いでもあっただろうか。他人に敬意を払うのは当然として、形ばかりの敬称を省こうという話だと思ったのだが。

(しかし、こうして見ると……普通の少女だな)

 悪い意味ではなく良い意味で、普通だ。女性ながらに陰陽師で、家族構成もよく分からなくて、人並み外れた美貌を持っていながら、その感性はごく普通の少女のものだ。高澄は思わず手を伸ばした。

「え……? ……ちょっと!?」

 わしわしと頭を撫でられた月白が動揺した声を上げる。驚いてはいても嫌がってはいなさそうだったので、高澄はそのまま月白の頭を撫で続けた。力を籠めれば壊れてしまいそうな小さな頭で、まっすぐな黒髪はさらさらと指通りがいい。

「犬猫はもっともふもふした手触りだったんだが……これはこれで触り心地のいいものだな」

「!? 人を犬猫と一緒にしないで!」

「小さくて可愛らしいものという意味だ」

「…………!」

 月白がさらに顔を赤くする。怒っているのか恥ずかしがっているのかふるふると震えているが、その様子も可愛らしい。……からかっていじめてみたくなってしまう。

 だが、やりすぎはよくないだろう。高澄は未練を抑えて手を引っ込めた。

「行くか、月白」

「あなたが立ち止まったんでしょう!?」

 まだ声を荒げつつ、月白は怒ったように足取りを速めて高澄を追い抜いた。

 しばらく月白に先を任せて歩いてみるが、彼女の足取りには迷いがない。陰陽寮の場所を知っているのは確からしい。

 天皇の住まいである内裏の中ではなく、内裏を含む大内裏、行政機関が集まるその中に陰陽寮もある。じつを言うと陰陽寮は、高澄の所属する中務省の下部組織なのだ。建物がいちおう別々になっているが、ほとんど一体化している。

 内裏はさすがに入りにくいだろうが、大内裏は一般の人もわりと立ち入ることがある。役人の家族が忘れ物を届けに来るようなことも日常茶飯事だ。月白も実際に来たことがあるのだろう。

「しかし、意外だな」

「何が?」

「陰陽師だから陰陽寮を見てみたいというのは当然だと思うのだが、月白は宮廷とか国の役人とかそういうものが嫌いなようだし、近づきたくないのかと思っていた」

「……!」

 月白が目を瞠る。図星らしい。だが、取り立てて隠してもいなかったし、普通に分かると思う。それか高澄のことをよほど鈍いと思っていたのか。

「……その通りよ。正直に言うと悪印象があるわ。……でも、見てみたいの」

「そうか。なら行くか」

 高澄は頷き、また前を向いた。だが月白からの視線を感じてまたそちらを向く。

「……理由を聞かないの?」

「聞いてほしいなら聞かせてくれ」

「……いえ、そういうわけではないけれど……」

 歯切れが悪い。高澄は首を傾げた。べつに悪い印象を持っているわけではなく、なにか複雑なんだな、というくらいの感想だ。

 月白は呆れのような諦めのようなそういうのとは違うような溜息をついた。

「おおらかというか何というか……あなたって大物よね」

「そんなふうに評されたのは初めてだな。呑気だとか馬鹿だとかはよく言われるんだが」

「それは全部おなじ意味よ」

「要するに貶しているのか? まあいいが」

「褒めてるのよ」

「そうは聞こえないんだが」

 とくに気を悪くしたりせず、高澄は軽く笑って流した。そんな高澄の様子を月白がどこか眩しげに見ている。その反応の意味がよく分からなかったが、高澄は例によってあまり気にせず流した。

「体質と気質は切っても切り離せないものだけど、あなたって根っから陽の存在なのね。まるで夏の太陽みたい」

 月白は高澄をそう評した。賞賛しているというより、事実を淡々と並べているような言い方だ。陽とか夏の太陽などと言われると好ましいもののように思えるが、そうではなく、もっと中立的な捉え方だ。陰と陽、どちらが良いというものでもないのだろう。

(なるほど……。月白は陰陽師だものな。そういえば……)

 高澄はふと何かを思い出しかけたが、月白の言葉で遮られた。

「あなたが陽の存在だからこそ、隠の気が強い第二皇子と相性がいいのかも知れないわね。あまりに似た者どうしだと些細なことで仲違いしてしまったりするものだけど、最初からかけ離れた者どうしならそういうこともないし。このあたりは別に陰陽師としての見解でも何でもなくて、ただ思っただけだけど」

「その考えは面白いな。それに、そうだったら嬉しい。私は殿下を尊敬しているから」

「あなたの殿下をお助けするために力を尽くすわ。前金も頂いたことだし」

 誰に対しても自分のペースを崩さない月白に苦笑し、頼む、と答えた高澄は、ふと顔を上げた。覚えのある香りが漂ってきたのに気づいたのだ。どこか異国的で、ぴりっと辛いような印象の香りは……

「……左大臣」

 供を連れた束帯姿の貴人が、悠々と道を歩いてくる。

 官人の服装規定に関しては光覧帝のときに規則が緩められ、儀式の時はともかく普段の服装は冠や衣の色がわりあい自由で、位が見て取れないこともある。

 だが、左大臣はきっちりと前時代の規範に則った黒色の袍に雲立涌文の袴で威儀を正し、位の高さを誇示していた。衣には香を強く焚き染めてあり、特徴的なこの香りを左大臣は余人に許していない。なんでも、帝から賜った特別な香木をはじめ貴重な材料を多数、特殊な製法で仕上げて香りを出しているらしい。

 どうやら朝堂院に向かうらしく、左大臣は二人の目の前で道を折れた。ぞろぞろと供を連れて歩き去っていく。

「今の方が左大臣なの?」

「そうだ。藤原(ふじわらの)道興(みちおき)どの。左大臣に上られて十年、揺るぎない権勢を誇っておられる。先ほど会った藤式部、彼女がお仕えする皇后陛下が左大臣の娘御だ」

「そうなの……」

「ついでに言えば、除目の責任者は彼だ」

「式部卿ではないの?」

「そうではない。もちろん任官者を決定するまでの過程には携わるし、当日も列席するが、任官者を大間書に記入するのは首席の大臣で、責任者も彼になる」

「ちょっと勘違いをしていたみたい。式部卿宮が主導されるものかと思っていたわ」

「まあ、外からでは分からないものな」

 そのことには納得しつつ、高澄は少し首を傾げた。

(こういった細かいことを知らなくても無理はないのだが、それにしても、月白は内裏の事情に詳しいよな……)

「……月白は京生まれなのか?」

「生まれは京だけど、ずっと地方にいたわ。京に戻って来たのは割と最近よ」

「そうなのか。……そう言えば、太白どのの名前を聞くようになったのは最近のことだな。弟子のあなたも行動を共にしているのだろうし」

 それにしては詳しいとは思ったが、深く突っ込む高澄ではない。疑問はさて措いて、納得した面に目を向ける。

「そうね。お師匠様とは長い付き合いだし、一緒に暮らしている時間も長いわね……」

「……いろいろ苦労していそうだな」

「察して」

 あの独特な人物とずっと一緒に暮らすのは気苦労が多そうだ。だが、楽しそうだとも思ってしまう。そんな高澄の心を読んだのか、月白がこちらを軽く睨んでみせた。人の気も知らないで、というところだろう。

「京へ来て日が浅いのに結構な評判になっているのだから、私の依頼がなくてもあなたたちは遅かれ早かれ内裏に関わることになっていただろうな」

「……それが望みよ」

 囁くように小さい月白の言葉は、高澄の耳には届かなかった。


 そんな一幕もありつつ、二人は陰陽寮に着いた。高澄は顔見知りの陰陽師――役職としての陰陽師ではなく、確か彼は陰陽生か何かだったはずだが、技術を持つ者としてこう呼んでいる――を捕まえて見学を申し出た。

 しかし彼は難色を示した。

「中務省の高澄様ならいいですが、部外者を立ち入らせるのはちょっと……。機密もありますし、国家のことを占って帝に方針をご助言申し上げたりもしますし、外部の方に知られてはまずいことがたくさんあります」

「確かに、それもそうだな」

 高澄は納得して頷いた。もっともだ。上の立場の者に掛け合っても答えは同じだろう。

 月白を促して戻ろうとしたのだが、陰陽師はちらちらと月白を見ながら申し出た。

「内部をご案内することはできませんが、儀礼のご案内であればできますよ。今日はちょうどこれから軒廊御卜(こんろうのみうら)が行われますが、見学なさいますか?」

「できれば、お願いしたいのだけど……」

 月白が高澄を見上げる。高澄は少し首を傾けて答えた。

「私は構わないが、大丈夫か? 紫宸殿の東の軒廊で行われる卜占だから、また内裏に戻ることになるが」

「さっき休ませてもらったし、大丈夫よ」

 後宮で休んだとは言っても、月白はそこで陰陽師としての仕事をしていたし、どのくらい休まったかは疑問だ。だが、本人がいいと言うならいいのだろう。

「では、案内を頼む」

「では僕も一緒に」

「俺も」

 高澄が頷くと、近くで話を聞いていた陰陽師たちが何人も同行を申し出た。

「……仕事は大丈夫なのか?」

「これも仕事のうちです!」

 高澄が言うと、一人が答えた。他の者も頷く。

(まあ、そういうことにしておくか。気持ちは分からんでもないし)

 陰陽寮は男ばかりだ。その中に月白のような美少女が来たものだから、みな色めき立っている。

 当の月白はといえば、そんな男どもにはまるで関心のない様子で、陰陽寮をじっと観察している。高澄の目から見ると特に面白みのない普通の建物だと思うのだが、彼女にとっては違うのだろうか。表情からは何も読み取れない。

 先ほど左大臣が供をぞろぞろと引き連れていたような形で、高澄と月白も陰陽師たちを連れて内裏への道を再び辿っていく。

「……なるほど、普段の業務はそのようなものなのですね」

「ええ。牛馬がどこそこの建物に入り込んでしまったとか、烏が誰それの冠を蹴飛ばしたとか、些細に見えることでも卜占で読み解かなければいけませんから。あちこちに呼ばれますよ」

 高澄にとっては意外なことに、月白は陰陽師たちにつんけんした態度を取らず、丁寧な口調で会話を交わしている。高澄に対してはもっと雑というか何というか、粗略に扱ってくる気がしているのだが。解せない。

「では、月白さんも陰陽師なのですね。占事略決はお読みになりましたか?」

「そんなはずないだろう。女が漢字を読めるはずがないし、漢字が読めれば理解できるというものでもない」

「読みましたよ」

 月白は怒るでもなく淡々と答えた。

「さすが清明公の著作という印象を受けました。目的ごとの占い方が実践的に記されていて、陰陽寮の方は重宝なさるのでは?」

「そう、そうなんです。六壬神課は必修の占術ながら奥が深くて……」

(……解せない)

 普段の月白であれば倍以上の勢いで言い返しそうなものだが、まったくそんなそぶりを見せない。内心はどうなのか分からないが、女性を馬鹿にするような言い方なのに反論はおろか反応さえしていない。そうなると高澄も助け舟の出しようがない。

 余計な軋轢を避けるという意図があるなら、そもそも月白自身が陰陽師であることは伏せておくのが賢明だ。今は律令制が緩んでいるし、光覧帝の大改革もあったから事情は変わっているが、もともと陰陽道は国家機密、官吏でも部外者は触れられないし、まして民間人が携わることなどありえないことだった。かつて特権的な立ち位置にあり、今もその権威を引き継ぐ陰陽寮の者に、自分は民間の陰陽師ですなどと名乗るのは結構な危険行為なのだ。

 月白はもちろん、それを分かっているはずだ。だからこそ高澄も口を挟む気はないが、内心ひやひやしながら会話を聞いている。

 しかし高澄の心配をよそに、会話は弾んでいるようだ。

「……そうですね、激務の時もけっこうありますし、人の入れ替わりも技官としては多い方かもしれません。……物怪の障りで亡くなる方もいますしね。そういえば先輩、在籍していた凄腕の陰陽師が失踪した事件もあったと聞きますが……」

「ああ、十年前の話だな。実はあれ、失踪ではなくて謀略で追い出されたとか……」

 先輩と呼ばれた年かさの陰陽師は、そこで口をつぐんで月白を見た。部外者がいることを思い出したらしい。視線を向けられた月白は何気ない様子で言った。

「わりとどこにでも、よくある話ですね。十年前のことなら今さら咎める人もいないでしょうし、私が聞いたところで何もできませんが」

「まあ、そうだな……」

 月白はこの話に興味があるようだと高澄は思った。月白とは長くない付き合いだが、なんとなく分かる。先を聞きたそうだ。話しても大丈夫だから先を話してほしい、言葉からそんな意図が見える。

 視線で促す月白にまんざらでもなさそうな表情で、その陰陽師は話を続けた。

「……当時の陰陽助、陰陽寮の次官だった方のことだな。優秀な方で長官の陰陽頭の補佐をよく務められたのだが、その優秀さが仇になった。出来すぎるせいで長官をその者に代えてほしいという声が上がり、無視できない大きさになってしまった。地位を脅かされた陰陽頭はさる権力者に泣きつき、賄賂を贈るなり協力を約束するなりしたのだろう、陰陽助は逃げるような形で陰陽寮を出ることになってしまった。非がないから免官することもできず、失踪という形にしたのだな。なんでも家族に危害を加えると脅されたのだとか……」

「そんなことが……」

 高澄は呻いた。気の毒なことだ。十年前というと高澄がまだ元服も済ませていない子供の頃のことだ。当時の事情はまったく分からないが、こういうことは今からでも可能な限り減らしていきたい。十年も前の話では、その人が今どうなっているか分からないが、不当な手段で立場を奪われたのなら調べて何とかしたいと思ってしまう。

「さる権力者、というのは……?」

 月白の疑問に、陰陽師は少し言葉を溜めた。

「……私も噂でしか知らないのだが。……十年前、というと……分かるな?」

 それで高澄は察した。ちょうど十年前、左大臣の地位に上って権力を盤石とした者がいる。

 藤原道興。彼が黒幕だと仄めかしているのだ。

(……。噂でしかないから現時点ではどうにもできないが……本当だとすると厄介だな……)

 調べたいが、一介の侍従でしかない高澄にとってはそれすらも難しい相手だ。とりあえず心に留めておくことにして、何気なく月白の方を見る。

「……そうなの。さっきの方が……」

 他人事ではないような真剣な眼差しで、月白は何か思案しているようだ。彼女はあまり他人にお節介を焼いたり義憤に駆られたりするようなたちではないと思っていたので、少々意外だ。

(もしかして、陰陽師なら正攻法ではない確かめ方もあるのだろうか?)

 道理を外れるという意味ではなく、通常の方法ではないという意味での、正攻法ではないやり方。もしも月白がそれを知っているなら、協力して事に当たれるかもしれない。

 不正の話はそれで終わりだと思っていたのだが、まだ続きがあった。


「でも正直、こういうことって割とありますよね。理不尽ですけど……」

「理不尽をいちいち嘆いていたらやっていけないぞ。人も自然も陰陽道のあれこれも、理不尽だらけだ」

「違いない」

 年若い陰陽師の言葉を、年上の陰陽師たちが笑い飛ばす。月白と高澄だけが笑っていない。

 高澄は会話の雰囲気を壊さないよう、気楽さを装って慎重に口を挟んだ。

「世の中に理不尽が多いのは同意だな。だが、私はこれでも中務省の所属だし、目の届く範囲のことは正したいと思っているぞ。私のお仕えする宮は式部卿であらせられるし、人事に公正を期してくださるお方だ。人の理不尽があるなら、知らせてくれると嬉しい」

 陰陽師たちは顔を見合わせた。やってしまったか、と高澄は言葉を引っ込めたくなったが、そういうわけにもいかない。何食わぬ顔で歩いていると、やがておずおずと一人の陰陽師が口を開いた。

「……いえ、高澄様のことを信頼していないわけではないのです。高澄様がそう仰るなら、式部卿宮も公正な方でいらっしゃるのでしょう。でも、その……式部卿宮はあまりお体が丈夫ではいらっしゃらないというお話ですし、除目が終わったら交代という噂も……」

「馬鹿! 言いすぎだ!」

「……っ!」

 隣の陰陽師が慌てて窘め、言葉が途切れた。高澄は瞬間的に沸騰し、思わずこぶしを握った。

 と、そんな高澄の裾をついと引く手があった。

 思わずそちらを見ると、月白が諫めるように高澄の裾を引き、こちらを見上げている。透徹した眼差しに、高澄は頭の芯が急激に冷えていくのを感じた。

 そういえば月白も、先ほどは不愉快な言葉をかけられて怒っても当然のところを、怒らずにやり過ごしていた。見習わなければならない、と高澄も冷静になる。

「……お体が弱くていらっしゃるのは事実だが、私は全力でお支えするつもりでいるし、除目の後も宮は式部卿の任を果たしてくださると信じている。その上で聞きたいのだが、式部省に何かあるのか? 人事に関して何か言いたいこととか?」

 高澄は落ち着いた口調で尋ねた。高澄が冷静さを取り戻したおかげか、硬くなりかけた場の雰囲気も少し和らいだ。そうなると言いたいことも出てくるというものだ。先ほどの一人が再び口を開いた。

「これは噂ではなく、私の友人が実際に被害に遭ってしまったのですが。今代の式部大輔は左大臣との繋がりが深く、彼の庇護のもとで権力を濫用しているのです。左大臣の都合のよい者をその地位に据えるために、私の友人はありもしない失敗を言い立てられて左遷されてしまいました。勤務記録をきちんと調べれば言いがかりだと分かるはずなのに……」

「……それは調べてみよう」

 高澄は請け合った。その友人の名前と所属を聞き、心に留めておく。

「しかし、そうなのか。式部大輔が……」

「式部卿が宮に変わられたのは数か月前のことでしたね。それ以降は大輔も大人しくしているようなのですが……裏では分かりません」

 高澄の仕える第二皇子尊継が任じられている式部卿が式部省の長官で、式部大輔はそのすぐ下の地位に当たる。

 式部卿宮が体調不良で除目に参加できない場合は代役を式部大輔に頼むことになるのだが、それは避けたいと元々から思っていた。式部卿宮と陣営が異なる彼に存在感を示されてしまうと、のちのち式部卿宮が動きにくくなる。権勢を誇る左大臣との繋がりが深い式部大輔に主導権を握られてしまうと癒着が起こるのではと案じていたのだが、すでに起きた後だったというのだ。

(日数がないが、確かめないといけないな。その前に宮にお会いしておかないといけないし……)

 高澄が心の中で算段をつける間も、陰陽師の話は続いている。

「式部大輔については、他にもあまりいい話を聞きません。吝嗇だとか、権勢欲が強いとか……」

「ああ、俺も聞いたことがある」

「ふーむ……」

 吝嗇さも権勢欲の強さも褒められたことではないが、それだけなら個性の範囲だ。非難する筋合いは無いが、それが権力の濫用に繋がっているのなら大問題だ。噂はあくまで噂だが、情報として集めておこうと高澄は聞き役に徹した。月白も大人しく耳を傾けている。

(話を聞いている限り、ろくな人物ではなさそうだな。殿下には式部卿として上に立って頑張っていただかないと。そのために私も頑張って動かないとな)

 高澄は決意を新たにし、心の中で意気を上げた。

 そうした話をしながら、一行はやがて紫宸殿の東の軒廊についた。ぞろぞろとやってきた陰陽師たちに、軒廊御卜の準備をしていた陰陽師たちが何事かと目を丸くしている。陰陽寮にいるはずの者が揃ってやって来たのだから驚くのは当然だろう。

 儀式を見学したいという人の案内をしてきた、仕事を放り出して何をやっているのか、まあまあそう言わず……などと怒ったり怒られたり取り成したりしながら、儀式の準備は進んでいく。

 今回の御卜は近国で起きた山崩れに関するもので、その原因と天意を占うものだという。国家的な問題についての重要な卜占なので、陰陽師だけではなく神祇官(かみづかさ)も呼ばれており、軒廊の西側で同じように準備を進めている。

 やがて儀式が始まったが、御卜そのものは特に目新しいこともなく淡々と進行していった。神祇官は玉串を捧げて祝詞を奏上しているし、陰陽師は式盤を用いて占っている。高澄自身はとくに注意して見ているわけではないが、朝廷ではこうした儀礼が日常茶飯事だ。どれと何がどう違うのか、どんな意味を持っているのか、気にしたことがなくてさっぱり分からないが、見慣れてはいる。

 高澄にとっては珍しくもない光景だが、月白にとってはもちろんそうではない。同じ陰陽師として着眼点も違うのだろう、食い入るように熱心に見ている。

 そんな月白の横顔を見ながら、高澄は後宮での祓いのことを思い出していた。目の前で大掛かりに行われている卜占よりも、月白が即興で行った物怪祓いの方がずっと見ごたえがあったのに、と考えてしまう。

(でも、菖蒲の君には何も見えていないようだった。当事者の藤式部も私のような衝撃を感じたわけではなかったようだし、あれはいったい何だったのだろう……?)

 機会を捉えて月白に尋ねてみよう、と思いつつ、高澄は単調な儀式のせいで襲ってきた眠気をこらえ、あくびを奥歯で噛み潰した。

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