夜、道を照らすもの

ルリア

夜、道を照らすもの

曲がり角を曲がったとき、ひときわおおきな月と目が合った、気がした。

ハッと飲んだ息が近くを通る車の音にかき消されていく。


「いけない」


そう思ってとっさに草むらに身を隠したわたしの心臓の鼓動は早い。


「きょうは月がちかい。だから、気をつけなさい」


家を出るときに後ろから聞こえた祖母の声が耳のなかでふたたび聴こえた。


この辺り一帯には、とある伝承がある。


「水面に映る月の道を、辿ってはいけない」


その言葉は、わたしがものごころついたときからずっとずっとまわりの大人たちから口をすっぱくして言われ続けてきたことで、耳にタコができるくらいには聞いてきたことだった。


その伝承がいまでもまた根づいている、ということは、こんな田舎ならではのことなのかもしれないけれど、それでも幼少期から刷り込みのように言われ続けてきた言葉は、そんなかんたんには抜けない。


一種の呪いのようなもの、といえるかもしれない。


だからこれまでわたしは、じぶんの部屋の窓からみることのできる月以外からは距離をおいていた──ただしここでわたしが定義している「距離」というものは、月にとってみれば鼻で笑うような微々たるちがいでしかないのだろうけれど。


わたしは、夜が好きだった。


じぶん自身の意思とは無関係に光に照らされて全身がさらされてしまう苦痛な昼間よりも、この世のすべてからなにもかもが取り除かれて思うがままにこの身を隠せる真っ暗な闇夜のことを、なによりも愛していた。


それでも、わたしの目の前が真っ暗なままなにも見えなければどこにも行けない。


だから、昼に我がもの顔ですべてを照らして暴こうとする太陽より、ひかえめにひっそりとたたずんで、ただわたしが必要としている範囲だけをまちがいなく照らしてくれる月のこともまた、愛していた。


わたしは、月のことをだれかに悪く言われるのが嫌いだった。


だいたい、みんながこぞって褒めるのは満月だけ。


「今月の満月はストロベリームーン」だの「今月はコールドムーン」だの、暦によっては人類の視界で目視できるふだんの満月と比べて異なるほどおおきくみえる、それだけの理由で、その満月のことを「スーパームーン」なんて呼んだりする。


満月だけが月じゃない。


そりゃあ、わたしたちにとって月は、あたりまえにあるもの、だけれど、だからといって「月がきれいですね」と言葉にする機会は満月のときに限らず、ましてやいつかの文豪のようにだれかにこっそりと愛を伝えたいときだけじゃない。


いっしょにいるだれかと話すための話題にこまって、とっさに口に出すような安っぽいものでもない。


実際に夜空に月がみえていないときに「月がきれいですね」って言ったっていいはずなのに。


いつかみた、にっこりと笑う人間の口元をかたどるような三日月だって、


あれほどの距離から地上のただ一点をねらって弓を構えているようにみえるあの上弦の月だって、


逆に、このわたしの生活ををまもるために──というのは言いすぎだと思うのだけれど──わたしたちの視認できない世界に対して弓を引くようにみえるあの下弦の月だって、


靄につつまれながらも「そこにいる」ということはわかるのに、いまどんな照らされ方をしているかさえわからない月だって、


わたしが知らないだけで、もしかしたらこの世界で正しく──この場合の"正しい"というのは、そのひとことでじふん以外のだれかに伝えることができる固有名詞、という意味をもつもので──定義されているかたちの月だって、


だれにも見向きもされなかった、名前を持たない月だって、


「新月」のように、月自身がほんとうの意味で身を隠せる真っ黒な状態でいられる月だって、


それらはいつだって変わらずにそこにあって、まちがいなく美しいはずなのに。


いつだったか、もうわたしは明確に思い出せないのだけれど、月の裏側の話をしているひとがいた。


月は、こちらにずっと同じ面を向けている、と。


でもその、こちらから目視することのできない裏側は──目視、という言葉はおのおのの視力や感性によるものではあるけれど──月が受けた様々な星の衝突によってクレーターでぼこぼこになっている、と。


それをきいてわたしは、「同じだな」って思った。


仕方なく、このどうしようもない日々をあのぎらぎらとした太陽の光に照らされて全身をあらわにしているのと同じように、あの月だって、不本意ながら太陽に照らされてしまっているから、できるだけきれいなところだけをこちらに向けようとしているんだなって。


そんなわたし以上にさまざまな視線を受けて、いまもなおそこに在らざるを得ない月からしてみたら、わたしがバッと身を隠したところで、きっと月は「いいなあ、身を隠せるほどの暗闇がそこにあって」くらいにしか思っていない。


わたしは、いろいろな月をみてきた。


でもその当の月は、わたし以上に長生きで、みたくもないものをたくさん見てきて、照られたくないときも照らされてきて──もしかしたら月にとっては、人間たちからの視線が常に地上から注がれているから、それから逃れられる"曇り空"というわたしたちと己の間にある水蒸気のかたまりが救いでもあったかもしれない──それでもなお、そこにいることを強いられている。


そんなことを考えていたわたしは、身を隠した草むらからおそるおそる顔を出した。


「きょうは月がちかい。だから気をつけなさい」


家を出ようとしたわたしの後ろ姿に向かって、明確にその言葉をわたしにぶつけようとした祖母の声は、まちがいなく、わたしの背中に刺さった、


それでも、それ以上にわたしのそばには、ずっと月がいてくれた、


ずっと、わたしは迷子だった、


月は、その迷子だったわたしの足元を、ずっと照らしてくれていた、


きみの居場所はこの世界のどこかに、かならず存在しているから、と、


太陽のようなぎらぎらとした光ではなく、ただわたしにだけに寄り添うためだけの光を、この身に与えてくれた、


そう思って、ちらりと顔を出しただけのわたしのこともまた、やさしく照らしてくれている、


その光に絆されてふらふらと踏み出すわたしのその足の行方は、だれも知らない、


「水面に映る月の道を、辿ってはいけない」


遠き日に、幼き日に、呪いのように言われ続け、さもそれが正義であるかのように聞かされ続けてきた言葉は、たしかにわたし自身を縛りつけていた、


その言葉だけが、わたしの未来を映している鏡のようだった、


その言葉を守ることだけが、わたし自身のためになる、と暗に言われ続けてきた、


だから、なのだろうか、


わたしが一歩踏み出したその足のさきに、ぽちゃり、とちいさな水音がした、


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