中川先生のこと

@wlm6223

中川先生のこと

 長いことサラリーマン生活を続けてきたせいか、私にも持病というものが身についた。

 喘息。私は長年煙草を嗜んできたので、そのツケが今時になって現れたのだろう。

 まあ、いいか。男四十八。もうどこか体にガタがきてもおかしくない年齢だ。甘んじて受け入れよう。

 そういう訳で月に一度、近所の町医者へ通うことになった。そこは呼吸器科の専門医で、妻によると近所の評判も悪くない。

 その町医者は中川先生といい、男性で歳も私とだいたい同じぐらいである。即ち、何かと相性が合うのである。

 検診はそれほど大層なものではなく、上半身の服を持ち上げて胸の辺りや背中の上部に聴診器をあて、「はーい、大きく深呼吸して」と、中川先生の言われた通りにするだけの簡単なものである。

「うん。問題ないね」

「でもまた来月も検診が必要なんでしょ?」

「ははは。そうですね」

 喘息という病気は骨折のように「骨がくっつきました。ハイ完治」という訳にもいかないので、いつまで続くか分からない通院が必要になってしまうのだ。中川先生とは多分長い付き合いになるのだろう。私は中川先生と上手く折り合いをつけて信頼している風を示した。

 患者に信頼されると、医者の方もそれが分かるらしく、何かとアドバイスをくれるようになった。私の場合は「もうちょっと痩せるように」と言われた。確かに私の体重は標準より十キロほど多い。これを解消しないと次の治療へ進めない、と中川先生は言っていた。中川先生の言う事だから、と私はその日からダイエットすることにした。

「お、お腹へっこんできましたね」

 そう中川先生に言われたのはダイエットを始めて二ヶ月後だった。

「この調子でいきますよー」

「いやあ、頑張ってください。食事療法? それとも運動を始めたとか?」

「食事です。なるべく炭水化物を摂らないようにしました」

「そうですか。できれば運動もしてください。運動といっても、三十分から一時間、歩くだけでいいですから」

「それで体重へるんですか」

「いや、呼吸器をよく使う練習ですよ」

 体は使わないところから衰えていく、ということか? 私は会社からの帰宅路、最寄り駅から一つ手前の駅から自宅まで歩くことにした。

 その二週間後、私は朝目覚めると体調の異変を感じた。まだ目が醒めきっていないせいもあるだろうが、全身が重くだるい。体温は平熱である。どうも風邪ではないらしい。会社の上長へメールし、医者に立ち寄ってから出社すると連絡した。

 いつもの中川先生の所へ行くと、見知らぬ女性の医師が診察にあたった。

「あれ? 中川先生は?」

「先生は急病でしばらく診察には出れなくなりました」

「中川先生、どうしたの?」

「ICUからは出られたそうですが、容体は思わしくないようです」

 その後、医師は言葉を濁した。それ以降の中川先生のことは訊かないことにした。医者の不養生か。それも心配だが、女性医師は私の診察に当たった。

 症状を簡潔に伝えると、私の指先にクリップ式の何かの医療器具を挟んだ。

「血中酸素濃度七十九パーセント! そのままじっとしていてください! 喘息による酸欠です! 緊急入院します!」

 入院? その言葉に私は驚き焦った。

 救急車でどこかの総合病院へ搬送され、誓約書にサインさせられ、無理矢理ベッドへ押しつけられて点滴をぶら下げられてしまった。この間の一連の流れはあっという間の事だった。

 その夜、私はまんじりともせず眠りに就けなかった。午前三時頃、看護師達の目をぬすんで病院の外へ出た。

 病院は川の側に建っており、私は土手の上を散歩した。病院は健康を預かる所でもあり、死を預かる所でもある。この川はまるで三途の川だな、と不意に思った。

 ぼんやりとした目で辺りを見渡すと、もう秋を知らせる虫の音に包まれた。夏の残りとも言える湿った夜風がゆっくりと吹き付けてきた。

 ふと向こう岸を見ると、誰かがいる。

 中川先生だった。

 先生は腕を振って「帰れ」というジェスチャーをしていた。なぜ中川先生がこんな所で? 私は不審に思ったが中川先生の言わんとすることを受け止め、また病院へと引き返した。

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