十四歳の空

@wlm6223

十四歳の空

 一九八五年七月下旬、道介は都営新宿線の神保町駅に降り立った。A5出口を出ると梅雨の大粒の雨で土砂降りだった。この日は土曜日ということもあり、道介の通う中学校は午前中の授業のみだった。通学路の乗り換え駅である神保町で一人で遊ぶのが、ここ数ヶ月の道介の楽しみになっていた。

 道介は教科書とノートがぎっしり詰まった鞄から折りたたみ傘をとり、白山通りと靖國通りの交差点で信号待ちをしながら、今日の昼食をどの店で摂ろうかと考えていた。てんぷらいもや、天丼いもや、ラーメンさぶちゃん、キッチン南海。靖國通りを横断する信号が青となる。うん、この方面ならキッチン南海だ。道介は横断歩道を渡り、すずらん通りへ出てキッチン南海を見つけた。店の前には雨除けがかかっており、雨を避けるように、先客が六人ほど店前で並んでいる。道介もその行列に加わった。鞄から雑誌「トランジスタ技術」六月号を取り出し、いくつかの記事を読み始めた。将来、道介はオーディオのエンジニアになることを志していた。中学生にはまだ理解できない記事が大半であったが、いつか勉強するなら早いほうが良いと考えていた。記事の半分は回路図と数式で出来ており、参照する回路図がページをまたいでいて非常に読みづらい。「お次の一名様、どうぞ」と店内から道介を呼ぶ声がした。「こちら、どうぞ」と、道介はカウンター席へ案内された。店内は四人掛けテーブル席四つ、ぎゅう詰めのカウンター席十二席ほどの小さなつくりである。お世辞にもきれいとは言えない店内はに、むさくるしいサラリーマンと男子学生しかいない。まあ、俺も同類だけどね、と道介は一人ごちた。ものの数分で注文したチキンしょうが焼き定食が運ばれてきた。道介は相当なボリュームの、その定食をぺろりと平らげた。会計六百円を済ませ店を出ると、まだ雨は降り続いていた。中学生にとって六百円は結構な支出である。これでLPレコードは買えなくなったな、と思った。

 道介は白山通りへ出て飯田橋方面へ向かった。富士レコード二号店へ入った。ここは中古EPレコード主体なので、残りの小遣いで買えるものがあるかもしれない。道介は手慣れた手つきでEPレコード一枚一枚を探した。いわゆる「餌箱をつつく」のである。時はテクノ全盛期で、道介が好きなギターロックはなかなか見つからなかった。

 道介は白山通りへ戻り、靖國通り沿いの古本屋をひやかしてみることにした。

 演劇専門店矢口書店で芝居の台本を見た。こんなト書きだけでどう演技を付けるのかと不思議に思った。

 隣の音楽専門店古賀書店で音楽の専門書を数冊ぱらぱらとめくってみた。ドレミファソラシドしかない世界なのに様々な技法があるのが分かった。有名な伊福部明著「管弦楽法」をここで初めて見た。こんなに分厚い本とは思ってもみなかった。

 岩波ブックセンターには数人のスーツ姿の客がいるだけだった。こざっぱりた店内に新品の岩波文庫が整然と並んでいる。道介は芥川龍之介の「侏儒の言葉」を手にした。裏面の価格をみて購入を諦め、書架に戻した。

 靖國通りを戻って自然科学専門店明倫館書店を見る。技術書を多数在庫しているので道介には絶好の品揃えなのだが、古本とはいえいかんせん専門書は価格が高い。名著で名高いK&RかSICPがないかと探してみたが見つからなかった。あったとしても道介が買えるような値段はついていないであろう。

 三省堂方面へ歩いて行くと門構えの厳めしい古本屋が続く。八木書店など中学生の道介には敷居が高すぎる。平積みされた文学全集が堆く重なり「永井荷風全集 九、〇〇〇円」など、黄色い札が垂れ下がっている。道介は将来、理科系でと決めていたが、文学にも多少なりとも興味を持っていた。いつかこの全集のうち一つでも読めれば、という思いはあったが、それがいつになるのか見当すらつかなかった。

 三省堂の五階で技術書を片っ端から眺めてみると、欲しい本が数冊みつかった。どれも三千円ちかくするので当然買えない。書名だけメモして図書館に購入要請しようかと思ったが、実際に図書館の購入までに約半年かかるので諦めることにした。

 三省堂を出ると雨は止んでいた。三省堂となりの三茶書房のワゴンセールの文庫本を眺めてみると、「侏儒の言葉」が百円であった。カバーも無く、紙面は茶色く色褪せて痛みも酷かったが、道介にはもうこれで充分だった。早速購入した。

 靖國通りのアスファルトに大きな水溜まりができ、初夏の青空が映っていた。さっきまでの雨雲は一片もなく消えていた。夕日がまっすぐに靖國通りを照らしていた。古本の黴くささと水のにおいが鼻をくすぐった。道介はちょっと浮き足だちながら家路に就いた。

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