後編

 眼が覚めたのは翌日の薄明の頃である。チオリは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに見直せば、約束の刻限までには十分間に合う。今日は是非とも、あの先生に、私の作品の真髄を見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。チオリは、悠々とプロットを読み直した。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。見直しは出来た。さて、チオリは、ぶるんと右腕を大きく振って、早速、メールの送信ボタンを押そうとした。


 私は、今宵、殺される。大衆に迎合したものを書く筆を折る為に書くのだ。身代りの友を救う為に書くのだ。先生の私への期待を打ち破る為に書くのだ。書かなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、消耗品となった人間よ。若いチオリは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら書いた。社会に出て、目も耳も口も塞がれた子どもたちに出会い、歯車にすり潰された優しい人々の残骸を見て、倫理に背くことでしか喪失に向き合えない人を見送り、今もこれからも一人では背負いきれない日々に立ち向かう人たちとすれ違い、己の無力さを痛感していた。


 チオリは額ひたいの汗をこぶしで払い、ここまでやったから大丈夫、もはやこの世への未練は無い。二人は、きっと佳い書き手になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。すぐに送信すれば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくりしよう、と持ちまえの呑気のんきさを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。


 少しカクヨム内を見渡して、本当に送信しようかと思った頃、降って湧わいたLINEのノート、チオリの指は、はたと、とまった。見よ、二人の手直し後のプロットを。昨日の指導でSっこのプロットは、一つ一つの設定がより合わされ、日常に隠れた葛藤と、人の悲哀が感じられるようになっていた。Yは私たちがおそらく一生目にすることのない異文化の美しさと厳しさを、文体練習により培った、以前とは比べ物にならないなめらかな筆致で描きだそうとしていた。チオリは茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、二人に感想を送り反応をみたが、二人は徹夜でやって今は寝ているのか反応はない。


 チオリのみじめさはいよいよふくれ上り、海のようになっていた。チオリは不安の浜辺ににうずくまり、泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、このつまらない焦りの気持ちを! 二人がこのわずかな時間で奮闘していたとは知らなかった。それに比べて、この私の小手先の手直し。時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、自分に恥ずかしくないプロットに行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです」


 二人のプロットは、チオリの嘆きをせせら笑う如く、ますますその良さをチオリに見せつけてくる。二人の言葉は波をつくり、物語を捲き、感情を煽り立てていた。時は、刻一刻と消えて行く。今はチオリも覚悟した。新作を書くより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 嫉妬と焦りにも負けぬこれまでの信念と研鑽の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。


 チオリは、ざんぶと自分の内側の世界に飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う己の感情と記憶を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずるこれまでの自分を形づくり定義づけてきたものを、なんのこれしきと掻かきわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。激情に押し流されつつも、見事、自分の根幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。チオリは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまたプロット書きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながらキャラの動きと動機を追い、つかんで、ほっとした時、突然、目の前に時代考証の壁が現れた。


「学制が始まってはキャラが変わってしまう」

「ならば工芸品の設定を変えるか」

「いっそ大正時代はどうだ」

「丸々話を変えることになる」

「メインは女子高生の青春だ。時代もののところに力を入れなくても」

「そもそも時代小説の先生に付け焼き刃の時代ものを出すのか」


 様々な妄言が、一斉に棍棒を振り挙げる。チオリはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く飛び退いた。

「惑わされぬ! 私は無意識にも書きたいもの書くべきものを書いている。一つ一つ、意味があるのだ。私は簡単に自分の着想を疑ったりはしない!」と猛然一撃、たちまち、妄言を殴り倒し、その隙に、さっさと指を走らせて一気にプロットを書き上げ、二人のグループLINEに送信した。


 流石に疲労し、折から午後の寒さがまともに部屋を冷蔵庫にかえ、チオリは幾度となく寒さで眠気をもよおし、二人には送ったもののこの「結」ではならぬ、と気合いを入れ直しては、よろよろ二言三言打って、ついに、ことりとスマホを置いた。


 よい「結」が思い浮かばぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、自分の本心の渦を泳ぎ切り、評価への恐れを撃ち倒し、ここまで突破して来たチオリよ。真の勇者、チオリよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく先生の思う壺つぼだぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎なえて、もはや芋虫いもむしほどにも前進かなわぬ。


 チオリはベッドの上にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐ふてくされた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。アイデアノートを作り、思いついたことは全て作品にし、執筆の仕方の本を読み、文体練習をした。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。人を励まし一瞬でも救われる話を書きたくて、腱鞘炎になるまで書いて来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸をたち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。創作への信念と潔癖の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。


 けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な奴だ。私は、きっと笑われる。私の形ばかりの作品も笑われる。私は友を欺むいた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定まった運命なのかも知れない。


 Sっこよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。共に思い通りにゆかぬ人生を嘆き、打ち破ろうと誓った。人から見たら笑われるようなささやかな変化も一緒に喜び、励まし合った。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、Sっこ。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。Sっこ、私はこのなんのよるべない創作の世界を走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!


 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。そして己の真に書きたいことに辿り着いた。地獄から劣等であると叫びながら伸びてくる手からも、するりと抜けて一気に書き上げたのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。先生は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私の大言壮語を無かったことにして助けてくれると約束した。私は先生の嘲りを憎んだ。けれども、今になってみると、私は予言のままになっている。私は、おくれて行くだろう。先生は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。


 そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。Sっこよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。三次元にはちゃんと私の生活が在る。Yは、まさか私と縁を切る事はしないだろう。信条だの、本心だの、テーマだの、考えてみれば、くだらない。自分を殺してただ日々を生きる。それが人間世界の定法で賢さではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。


 ふと耳に、ぶぶっと、LINEのバイブ音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んでスマホを見た。「時代的に無骨なものしか無かったからこそ優雅さを求めたというのもいいと思います」Yが読んでくれたらしい。「優雅さが時代的に無理ならこっちの工芸品はどうですかね?」Sっこが資料となるサイトのURLを送ってくれた。


 よろよろ起き上って、サイトを見ると、書きたかった優美な工芸品のイメージと重なる、美しい品々の画像が載っていた。だが、こちらの品物に変えるとまた話の辻褄は合わなくなる。やはりダメなのか。Yの言葉で、キャラの創作に対するスタンスが決まり、より人間味が出た。もう、キャラたちは息づいたというのに、私は彼らが生きる世界を作れない。なんと無力なのか。


 そのとき、岩の裂目からこんこんと、何か小さく囁やきながら清水が湧き出てくるかのごとくアイデアが浮かんだ。その泉に吸い込まれるようにチオリは身をかがめた。水を両手ですくって、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、悪夢から覚めたような気がした。書ける。行こう。


 肉体の疲労恢復かいふくと共に、わずかながら希望が生れた。運命を背負ったキャラたちへの義務遂行の希望である。彼らの人生は、読者の人生でもあり、私の人生でもある。斜陽は赤い光を、凍りついた樹々に投じ、冷え切った路面に長い影を伸ばした。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!チオリ。


 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。チオリ、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、本当に正直な人間として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から自分を曲げるのが大嫌いな人間であった。私のまま死なせて下さい。


 酔った言い回しを押しのけ、エゴが投影されたエピソードを跳はねとばし、恥を踏みつけ、チオリは黒い風のように走った。揺れ動く心をとらえ、人間の弱さを慈しみ、罪を分かち合い、これぞという言葉を探して、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。


 Yから、不吉なセリフを小耳にはさんだ。「今ごろSっこはこれが最後になるなら、もっと自分をさらけだした作品を出せば良かったと後悔しているに違いない」


 ああ、その友人、その友人のために私は、いまこんなに書いているのだ。その友人を死なせてはならない。急げ、チオリ。おくれてはならぬ。信条と研鑽の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。チオリは、最近、ほとんどひきこもりであった。創作のストレスから噛んでいる爪から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、キャラたちの笑顔が見える。惨めさと悔しさと、愛と思いやりと、葛藤と克己の中を生き抜いた人々の人生がそこにある。


「ああ、チオリ」先程のYの声が、風と共に聞えた。

「出来上がったばかりのプロットは、穴だらけで見れたものではない」

「いや、まだ諦めぬ」

「オチが弱い、設定不足、矛盾、夢オチ、ありきたり、などなど、一言で済んでしまう指摘は山ほどあります。ああ、あなたは遅かった。おくやみ申しあげます。ほんの少し、もうちょっとでも、開眼が早かったなら!」

「いや、まだ陽は沈まぬ」チオリは胸の張り裂ける思いで、画面を一心に見つめていた。書くより他は無い。

「やめて下さい。いまの自分に書けそうにないものでプロットを作るのは、やめて下さい。いまは無理をせず、ご自分のベストを尽くすが大事です。Sっこは、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。先生が、さんざんからかっても、チオリは書きます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました」

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ええい! お前はYではない! 消えよ!」

「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと書くがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。書くがいい。」


 幻聴は消えた。言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、チオリは幻想世界のシラクスの市を走った。チオリはあたかもメロスであった。チオリの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、チオリの目の前にまさにふさわしい「結」が描かれていた。間に合った。


「待て。その人を殺してはならぬ。チオリは送信した。約束のとおり、いま、送信した」と先生にむかってメール本文を打ったつもりであったが、指が震えて、文字が打てない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたSっこは、徐々に釣り上げられてゆく。チオリはそれを目撃して左手で右手の震えを抑え、人差し指一本で慎重に本文を打った。

「私だ、先生! 殺されるのは、私だ。チオリだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆくSっこの両足に、齧かじりついた。Sっこの縄は、ほどかれたのである。

「Sっこ……」チオリは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若もし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」

 Sっこは、すべてを察した様子でうなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くチオリの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑ほほえみ、

「チオリ、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの二日、たった一度だけ、”なんで私が”とちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」

 チオリは腕に唸うなりをつけてSっこの頬を殴った。

「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。


 先生は、二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

「おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、己に勝ったのだ。執筆とは、決して空虚な妄想を書くものではない。第一に自分が書きたいものでなくてはならぬ。書きたいことは自分にしかわからない。書きようなどは、いくらでもあるのだよ」

 二人は先生を見つめて頷いた。

 Yが、ちいかわのノートをチオリに捧げた。チオリは、まごついた。三人目の佳き友は、気をきかせて教えてやった。

「アイデアノートを作るのです。全ての怒りを作品にぶつけるのです。まだやれていないことがたくさんある。そういうことでしょう」

 勇者は、ひどく赤面した。



(完)

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チオリの作活 千織 @katokaikou

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