求愛シーケンシャル

狂言巡

掌中の珠【ヤンデレ編】

 揺蕩うように、カヲルは海の中にいた。周りは上からの光に照らされ煌めいているが、底は深く真っ暗な闇だ。これは夢の中なんだろうなとぼんやり思った。本当の海ならこんな簡単に呼吸なんてできるはずもない。水中にいる夢は好きな方なのに、何だか悲しい。どうしてこんなに悲しいんだろうか。ああ、水泡が自分を置いて上へと昇っていく。

 深海を泳ぐ魚のように、一面の薄暗い青の中でただ一人、銀髪を後ろで纏めた男だけが動いている。美しい背筋。彼が打った矢はまっすぐに、全てを貫いていく。思わず叫びそうになった。


「どうだすごいだろう! 私の恋人は!」


 涙が水中に混ざって溶けて消えていく。無性に叫びたくなり、同時に開けた口に空気が出て、水が押し寄せるのか息苦しくなる。高揚、敬愛、誇大。どれもが当て嵌まるようで、いいやそうではないと冷静に思う自分も確かに居た。焦がれている事だけは確かな事実であるが、一方的に見つめるのは死んでも御免だ。どうか、その美しい瞳に自分を映してもらえたら――。






「はつねさん」


 自分の独り言で目を覚ましたカヲルは、重苦しい寝起き独特の倦怠感を消し去ろうと頭を僅かに動かす。何だか懐かしい夢を見ていた気がする。眠気を押し退けつつ目を開けると、視界の半分がくすんだ水色の地平線で、もう半分は見慣れた青白い壁を映し出した。つまりはシーツと寝室の壁だ。半遮光の青いカーテン越しに、朝日がしんなりと寝室へ侵入を果たしている。

 まるで、これはまだ夢の続きなのかと錯覚する程に寝室は青で染まっており、海の底のようだった。いつまでも揺蕩うわけにも行かず、眩しい朝日に促されて完全に目を覚ましてから起き上がろうとする。


「うん?」


 重苦しいと揶揄したが、どうやらそれは物理的なソレのようだ。視線を動かすまでもなく、後ろから抱きついてくる温もりに拘束されている事に気付く。長い腕がしっかりと腰に巻き付き、カヲルの襟足に顔の半分が埋められていてかかる銀髪と吐息が何ともくすぐったい。放してもらおうと腕を二度ほど軽く叩くが、しっかりと巻き付いた腕は外れない。

 やれやれともう慣れてしまった対応に溜め息を吐きつつ、重たい腕を何とか持ち上げてベッドから降りると、途端に鉄と鉄が触れあう音が生まれた。これも慣れた、皿を洗う音と同じ、日常の音だ。

 椅子にかけられている恋人の普段着の上着を羽織った。下着を探す事もなく、なるべく音を立てないようにしながらそっとドアまで近付いて行く。追いかけるように、床に擦れる鉄の蛇がジャラジャラと喉を鳴らす。皮膚をタオルで保護した足枷が、非日常を物語るようにカヲルの右足首に嵌められていた。

 強度を量ろうと試しに何度か引っ張った事があるが、チャチな安物の玩具ではないため、枷はびくともしなかった。有り余る長さの鎖は、ベッドの隣に打ちつけた格子に結ばれている。

 この世でたった一つの鍵は恋人が所有しているので、両方とも自身の意思では外す事が適わなかった。音を連れて寝室のドアノブに手を掛けたところで、急に鎖を引かれて足を掬われる。


「カヲル」


 寝起きで声の大きさが調整出来てないらしく、部屋に響き渡るような声量で呼ばれた。やたら迫力のあるそれに驚いて転びそうになっていた身を固める。


「どこへ行く」


 幾分か抑えられた、それでも不機嫌そうな声色で問いかけられる。垂れ下がった前髪をかき上げながら鎖を引いて問いかけてくるので、転ばないようにベッドへ戻ったカヲルは肩を竦めてから軽い調子で朝の挨拶を返事の代わりに使う。


「おはようございます。何処も何も、お花を摘みに。それから朝食と、初音さんのために愛妻弁当を作りたくて」


 間延びした声で、語尾にハートマークを飛ばすように明るく努めた。固い雰囲気の恋人を茶化して懐柔しようと図る。二日連続でベッド生活など御免被りたい。

 常と変わらないカヲルに落ち着きを取り戻したのか、指の先が白くなる程に握り締めていた鎖を手放した。気恥ずかしそうに咳払いを一つ。


「……私も起きる」

「はい。じゃあ一緒に行きましょう。足を引っ掛けないように気を付けて下さいね」


 本物の蛇みたいに長い胴体を渦巻かせる鎖を引き摺り、カヲルと初音は手を繋いで寝室を出た。鎖のせいで完全に閉まる事のないドアを開けたまま、リビングを横切る。今まで居た寝室からはリビングに繋がり、そこからはキッチン、和室、書斎に行けて、目的のトイレと浴室は玄関まで伸びる廊下にあるのでキッチン横のドアよりも向こうだ。ちょうど書庫化しつつある部屋と部屋の向かいに位置する。

一人暮らしなら尚更、二人で住んでもなお広い一等地のマンションなのだから隅から隅まで動き回ってもいいだろうに、カヲルは行動範囲を恋人から付けられた足枷の鎖によって明確に制限されていた。反抗的な態度を一度としてとった覚えはないのに、初音はカヲル自身がそのドアを一人でくぐる事が気に喰わないらしい。

 何故なら、廊下を進めばすぐに玄関へと辿りつくからだそうだ。とは云っても、足を繋がれているカヲルはどう最短ルートを通ろうとも浴室よりも向こうには行けない。枷の長さを入念に調節した彼自身が、その事を誰よりも解っているはずなのに、何が嫌なのだろうか。


「手洗いは寝室の傍が良いとは思わないか」

「そうですね、うん。夜中に催した時、初音さんをいちいち起こすのも申しわけないし、そっちの方が楽です」

「その程度の労力、気にするな。とにかく、早く引っ越したい」


 もはや口癖のように引っ越し願望を繰り返す恋人と、用を済ませて顔を洗ってから引き返す。ちらちらと鎖を気にしている可愛らしい姿をきっちりと捉えるのだが、黙る事で抗う意思は欠片もないのだと訴える。この生活を思う存分に楽しむつもりなのだから、もっと安心してもいいのに。

 ドアから戻ってきた事で心なしかホッとした恋人が壁に掛けてあるホワイトボードのペンを手にするので、カヲルはシンクへと向かった。そして視覚ではなく聴覚から本日の予定が教えられる。


「午前に会議あるが、恙無く終えるだろう。午後は二時から裁判が入っているが、五時前には終わる。帰宅は八時半頃だ」


 職業上、想定外の何かが起こる事はザラだというのに、彼は毎日こうして一日のタイムスケジュールを読み上げる。律儀だ。


「カヲル、今日もいい子で留守番しているんだぞ」

「はい」


 朝食を作りながら、それなりと真面目な声で返事をする。きちんと返事をしないと、面倒な事に頭脳明晰の男は幼い子供のように愚図るのだ、最悪の場合は寝室に閉じ込められてしまう。


「はい、了解しました。あ、お風呂掃除をしたいから出ますけどいいですよね」

「……帰宅後に私がやるから、君はこちら側の掃除を頼む」


 そう云うと思った。けれど言葉にはせずに「いつもありがとうございます」と感謝を述べてあげるのだ。基本的人権をよそに、一方が行動制限をする歪つな生活は双方同意があって行われている。コレは遊びで、云うならばゲームなのだ。

 予感や前触れなどはなく、始まりは唐突だった。けれど、ごっこ遊びとはそんなものだろう。女の子が『あたしママやるからあなた子どもね』と云えばすぐさまお母さんごっこが始まるだろうし、男の子が『オレはヒーローをやるからオマエは怪獣な』と叫べばすぐにヒーローごっこが始まりを迎えるように。






 恋人がある日、カヲルを呼び出して突然云ったのだ。雨が止んだばかりでどこか空気が澄んでいた夜に、新居であった此処で。


『大学が長期休暇の間、君を監禁したい』


 コーヒーはやはりロブスタに限るなどというような、有り触れた会話と大差ない口調で云うものだから、最初は何を云われたのかカヲルも察せなかった。鳩が豆鉄砲を食らった顔を実際に見た事がないのだが、自分の顔はきょとんとした鳩と同等だっただろう。


『何ですか、新しい遊び?』

『そうだな。嫌か?』


 慎重派であるイコール行動派ではない事には繋がらない。むしろ段階を踏んで行動してくる分、厄介だ。己で線引きをし、ここまではセーフと区切りをつける相手に対しては、こちらからは強くは出られない。つまり、いざという時の主導権が完全に相手任せなのである。

 有無を云わせない恋人の強引さに少しだけエエーと内心軽く引きながら、二つ返事で了解した。強引な初音さんも格好良いしとってもレア! 乙女のような考えを持ってしまってもいいじゃないか。天秤に乗せるまでもなく、トキメキと常識ではトキメキが完勝するのだから。

 こうと決めたら人事を尽くす年上の恋人は、カヲルの身辺整理の一環として携帯を勝手に解約すると、あまつさえ借りていたアパートも同様に解約したというのだから侮れない。もしかして、同棲してくれという遠回しなアプローチだろうかとそわそわしてしまったのは仕方ないだろう。

 様々なものの解約と引き換えに与えられたのは、恋人が親族から譲渡されたという真新しいマンションの最上階の一部屋と、困らない程度に足される食糧だ。同棲となんら変わりはないが監禁ごっこなので合鍵は貰えずしょんぼりした事もあったけれど、ごっこ遊びが終わったらちゃっかりとゲットするつもりなので、気にしない事にした。

 ベランダから見渡す世界しかマンションの近所を知らないが、数少ない自慢の視力でしっかりボーリング場やカラオケ店舗を確認している。終わったら久しぶりに友達と遊ぶのもいいかもしれない。


「何か必要な物はあるか?」


 ホワイトボードに予定を書き終えた恋人が、対面式キッチンの前に来て白紙のメモを片手に小首を傾げる。躰を丸めている事で視線がいつもよりも近くて、口元が柔らかくゆるんだ。


「んふふー。茸たっぷりビーフストロガノフを作りたいんです。マッシュルームとシメジお願いします。あ、大根はまだ残りがあるから大丈夫です」

「了解した」


 几帳面に薄く線を引いた上に舞茸と茸を書き入れている恋人に、視線でそれだけかと促されて追加を考える。


「あと豆乳ラテも飲みたい気分かも」

「前に飲んでいたパックのものだな?」

「はい、三角のやつです」


 会話を回し、朝食と同時進行で弁当も作る。

 今日の朝食メニューは作り置きのパイシートで作ったミニクロワッサン、ポテトとウィンナーのカリカリソテー、胡瓜の輪切りサラダ。ブロッコリーはすぐに茹でられるし、サラダだって十分も掛からないで作り終える。朝食の残りを入れる事が多い。

 作り置きしてある野菜の副菜と、朝食の時に焼いたパセリ入り卵焼きや、冷凍してある肉のおかずを詰め込めば完成だ。いつか、海苔や鮭フレークで愛のメッセージを書いてあげたいと企んでいるが、恋人の同僚から頂いた土産の佃煮が終わるまでおあずけだろう。

 料理をしている間に、恋人は通帳を確認していた。目標金額まで後少しだとか云っていたが、何か欲しい物でもあるのか。家の設備と本以外で散財しているところを見た事がないので想像がつかない。好き勝手に欲しい物の予想をしつつ、弁当の蓋を開けたままリビングに移り、朝食を二人で食べる。


「美味しく出来てますか?」

「ああ、お前の料理は本当に素晴らしい」


 なんていつもの遣り取りを甘く交わしながら食べ進める。食べ終えて食器を下げていると、スーツに着替え終えた恋人が下着とズボンを片手に寝室から戻ってきた。促されるままに傍へ寄ると恋人が神妙に跪く。


「……ん、」


 剥き出している生足に顔を寄せて、小さくリップ音を立てた恋人に手を取られる。抗わずにいると、手に手錠を掛けられてテーブルの足に括り付けられた。右足の枷を外した彼に自由になったばかりの足を絡め取られて、まるでまだオムツがとれない幼子みたいに下着とズボンを穿かせてもらう。

 穿き終えたのに裸の親指を柔らかく撫でられ、何事もなかったかのように足枷が戻されて手錠を外された。上半身がフリーなので上着は好きに着替えられるが、下半身は恋人が居なければどうにも出来ないのだ。風呂だって一人では入る事が適わないのだから。心なしか細くなった気がする足首にキスを一つ落とされて、着替えは終わる。


「寄り道しないで早く帰ってきて下さいね、ダーリン」

「……解っている。君のために走って帰って来よう」

「ははっ! ベランダからしっかり見ているわダーリン」

「ちゃんといい子で待っていたら、昨日テレビで観たフープピアスを買ってきてやる」

「弁護士がピアスとか……」

「私がつけるんじゃないから問題ない」


 蓋をした弁当をダークブルーのランチバックに入れて手渡して、今度はキスを口にせがむ。遠慮のない、昨夜のベッドの中を連想させる予想外のディープキスが返ってきた事で動揺して耳まで熱くなると、くつりと笑われた。ああ、もう! 男前に笑わないで!

 照れ隠しにプンスカ怒りながら件のドアの手前まで見送りに出る。本当は玄関まで見送りたかったが、新婚さんごっこは監禁ごっこの次にすればいいやと自分に云い聞かせて、今日も定位置から恋人を送り出した。


「さーて皿でも洗いましょうか」


 鼻歌交じりに食器を洗いながら、そう云えばと手についた泡を洗い流しながらふと思う。

 親子ごっこであれヒーローごっこであれ何であれ。始まった切っ掛けは想像出来るものの、その終わり方が不思議と具体的に思い出せなかった。ごっこ遊びの規則体系ルールブックなどないというのに、きちんと終わりを迎えていた子供の頃がやたらとすごいと思える。ええと、満足したら終わりなのだろうか。

 見るからに満足でいる恋人が、この遊びの終わりを持ち出した事は一度もない。そもそも前提として『ごっこ遊びですか?』と訊ねると肯定が戻ったが、もしかして後方のに返事が掛かっていたら……この現状は、一体。


「私も来年三回生だし、ちょっと聞いてみるってのもありだよねえ……でも初音さん、自分が決めて始めた事を人に促されて止めるとかしないか」


 ――ほんと変わってるなあ。おもしれぇ男だ。

 くすくすと笑う足元に鉄の蛇が巻き付いて、カヲルの笑い声とは反対のジャラリと冷たい音を立てる。


 捕えられた事に気付かない蝶は、いつでも羽ばたけるのだと疑わないまま、籠の中で今日も暢気にひらひら舞っていた。

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