鶴の間遠く 〜幸せ真比登〜
加須 千花
「さっ、ほっ、やった───!」
雲の上ゆ
鳴き
昨夜、愛しい女とさ寝したばかりなのに、雲の上を鳴き行く鶴のように、遠い以前の事のように思われる。
またすぐに逢いたい───。
※子……この場合、愛しい娘、恋人。
※
万葉集 作者不詳
* * *
真比登は、初めて
きっと、この先も、そうだろう、と諦めていた。
それが、天女のような美しい
真比登の天女は、真比登を受け入れて、
「ふふ。」
と小さく笑ってくれたのだ。
あの幸せ……。
細くしなやかな腕に
(オレは佐久良売さまに愛されている。)
と、心から思えたあの日。
「もうこれで、あなたは、あたくしのもの。あたくしは、あなたのものです。
真比登。
あたくしを
と、選びとってくれた佐久良売さま。
真比登は、感動でいっぱいになりながら、泣いてしまった。
「オ、オレ……。こんな……。」
(
一晩、その身を与えてくれただけでも、恵みが過ぎるのに。
一生に一人の男、と定めてもらって、良いのだろうか……?)
そう思ったのに。
「四の五の言わなくてけっこう。
あたくしは、もう、真比登以外と
あなた以外、
と、ピシャリと言われた。
そして、佐久良売さまは、真比登の妻となった。
幸せすぎて、あの頃は、雲の上を歩いているようだった。
佐久良売さまは、毎夜、佐久良売さまの部屋を訪れるように、と、真比登に願った。
真比登も望むところであり。
二十七歳にして初めて知った、
毎夜、通っているというのに、朝、別れれば、もう、佐久良売さまの顔がちらつき、かぐわしい香りを追憶し。
逢わない昼間は、佐久良売さまが恋しかった。
まるで、千夜を隔てているように───。
大げさだろうか?
でも、当時は、本当にそんな気持ちだったんだ。
夜をそわそわと待ち、夕餉を終えたら、いそいそと佐久良売さまの部屋にゆく。
佐久良売さまは、美しい微笑みでいつも迎えてくれた。
佐久良売さまは、愛が深いぶん、嫉妬心もけっこうあるのだが……。
世にも美しい天女からの嫉妬だ。
愛されている幸せのうちに入るだろう。うん。そういう事にしておこう。
さらに大きな喜びがあるとは、思わなかった。
佐久良売さまに、
「ほほほ……。当分、さ寝はお預けよ!」
と無邪気な顔で宣言された時には、
(オッ、オレの何が悪かったんですか───?!)
「あばばば……。」
と、まるで
「
そう言って花がこぼれるように微笑んだ佐久良売さま。
「さっ(佐久良売さま)、ほっ(本当ですか)、やったぁ───!」
真比登は叫んで、愛しい妻をガバと抱きしめた。口づけの雨を降らせた。
「やった、やった。ありがとうございます、佐久良売さま。」
「もうっ、ふふふ、気が早くてよ。まだこれから、産まれるまでに時間がかかるんだから。」
「そうですよね……。」
真比登は身体をはがし、そっと妻の腹部に手をあてた。
腹は平らかだ。
この奥に、いるのだという。
真比登と佐久良売さまの……。
「オレたちの子が……。」
「そうよ。真比登は、家族全員、
「新しい……。」
なんだか、泣けてしまった。
真比登は、ぼろぼろと泣いた。
家族が死に絶え、その後、一人になった。
辛かった。
苦しかった。
死にたいほど寂しかった。
今は遠い過去の傷口が、佐久良売さまの慈愛で、こうやって、ふいに癒されるのだ。
佐久良売さまは、なんと愛の深いお方なんだろう。
まこと、真比登の天女なのだ。
その後、さ寝はお預けになったが、佐久良売さまは、毎晩、真比登が部屋に通ってくることを願った。
「隣に寝てくれると、安心するの。あなたに守られているのを、眠りながらでも感じてるのよ。」
そんな事を言われては、ますます妻が愛おしく、たくさん口づけをして、日々、膨らんでゆくお腹をなでた。
「あー、イライラする。あー、イライラする。」
と怖い顔でつぶやく佐久良売さまに戦慄もしたが、とにかく、毎晩、一緒に眠りについた。
そして難産の末。
娘である
初めて
この世の何よりも尊い。
そう、自然と思えた。
そして、真比登の日々は、たくさんの
毎日が、幸せだ。
その中心にはいつも、あたりを照らすほど美しい佐久良売さまがいた。
夜になれば、夫婦の時間だ。
「まーひと。」
佐久良売さまは、真比登のむきだしの肩をすべるように
「もう、子持ちだけど、あたくしの容貌は衰えてない……わよね?」
「もちろんです。変わらず、いえ、ますますお綺麗です。」
本当だ。真比登の腕のなかで微笑む佐久良売さまは、
「ずっと、あたくし一人が相手で、飽きた、なんて言わないわよね?」
「言いません。昔も、今も、オレは佐久良売さまが恋いしくて仕方ありません。佐久良売さまは、オレの息の
「うふふっ!」
「恋うています。オレの
(あなたが思うより、オレはずっと、あなたを恋うています。佐久良売さま。
たしかに、初めてさ寝をした時のように、昼間、千夜を隔てたように恋しさで苦しくなる事は、今はない。
でもそれは、今は一緒に暮らしていて、あなたがそばにいる毎日だからだ。安心と安らぎを、あなたから得ているからだ。
愛が薄まったりしたわけじゃない。
何も心配しないで。
恋しい佐久良売さま。
オレの天女。)
真比登はそう思い、口に出すのではなく、身体で伝えた。
ちゃんと、伝わったと思うよ。
───完───
鶴の間遠く 〜幸せ真比登〜 加須 千花 @moonpost18
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