鶴の間遠く  〜幸せ真比登〜

加須 千花

「さっ、ほっ、やった───!」

 昨夜きぞこそば  子ろとさ寝しか


 雲の上ゆ


 鳴きたづの  間遠まとおおもほゆ



 伎曽許曽波きぞこそば 兒呂等左宿之香ころとさねしか

 久毛能宇倍由くものうへゆ 

 奈伎由久多豆乃なきゆくたづの 麻登保久於毛保由まとほくおもほゆ




 昨夜、愛しい女とさ寝したばかりなのに、雲の上を鳴き行く鶴のように、遠い以前の事のように思われる。

 またすぐに逢いたい───。





 ※子……この場合、愛しい娘、恋人。

 ※間遠まとおく……空間について言う表現を、時間に転用したもの。




     万葉集  作者不詳





    *   *   *




 真比登は、初めておみなを知った日の幸せを、ずっと、忘れない。


 おみなを知らないまま、二十七歳まで生きてきた。

 きっと、この先も、そうだろう、と諦めていた。

 それが、天女のような美しいおみなとさ寝できるなんて、思ってもみなかった。


 真比登の天女は、真比登を受け入れて、


「ふふ。」


 と小さく笑ってくれたのだ。

 あの幸せ……。

 

 細くしなやかな腕にいだかれ、また、真比登も佐久良売さくらめさまをかき抱き、快楽くわいらくとともに、


(オレは佐久良売さまに愛されている。)


 と、心から思えたあの日。


 疱瘡もがさ持ちと、人々から忌避きひされてきたオレを、


「もうこれで、あなたは、あたくしのもの。あたくしは、あなたのものです。

 真比登。

 あたくしをいも(運命の恋人)と呼んではくれないの?」


 と、選びとってくれた佐久良売さま。

 真比登は、感動でいっぱいになりながら、泣いてしまった。


「オ、オレ……。こんな……。」


疱瘡もがさ持ちなのに。学もなくて、親もなくて、征討軍の軍監ぐんげんとして、ほどほどに財貨持ちではあるけど、とても佐久良売さまと釣り合うおのこだとは思えない。

 一晩、その身を与えてくれただけでも、恵みが過ぎるのに。

 一生に一人の男、と定めてもらって、良いのだろうか……?)


 そう思ったのに。


「四の五の言わなくてけっこう。

 あたくしは、もう、真比登以外と率寝ゐねなんてしたくないの。

 あなた以外、つまとはしない。」


 と、ピシャリと言われた。


 そして、佐久良売さまは、真比登の妻となった。


 幸せすぎて、あの頃は、雲の上を歩いているようだった。

 佐久良売さまは、毎夜、佐久良売さまの部屋を訪れるように、と、真比登に願った。

 真比登も望むところであり。

 二十七歳にして初めて知った、おみなの滑らかな白い肌に、真比登は溺れ、飽きることを知らなかった。

 毎夜、通っているというのに、朝、別れれば、もう、佐久良売さまの顔がちらつき、かぐわしい香りを追憶し。

 逢わない昼間は、佐久良売さまが恋しかった。

 まるで、千夜を隔てているように───。

 大げさだろうか?

 でも、当時は、本当にそんな気持ちだったんだ。

 夜をそわそわと待ち、夕餉を終えたら、いそいそと佐久良売さまの部屋にゆく。

 佐久良売さまは、美しい微笑みでいつも迎えてくれた。


 佐久良売さまは、愛が深いぶん、嫉妬心もけっこうあるのだが……。

 世にも美しい天女からの嫉妬だ。

 愛されている幸せのうちに入るだろう。うん。そういう事にしておこう。


 さらに大きな喜びがあるとは、思わなかった。


 佐久良売さまに、


「ほほほ……。当分、さ寝はお預けよ!」


 と無邪気な顔で宣言された時には、


(オッ、オレの何が悪かったんですか───?!)


「あばばば……。」


 と、まるで若大根売わかおおねめのような反応をして、立ったまま気絶しかけた。


緑兒みどりこ(赤ちゃん)ができたの。このお腹に、いるのよ。あなたとあたくしの子が。」


 そう言って花がこぼれるように微笑んだ佐久良売さま。


「さっ(佐久良売さま)、ほっ(本当ですか)、やったぁ───!」


 真比登は叫んで、愛しい妻をガバと抱きしめた。口づけの雨を降らせた。


「やった、やった。ありがとうございます、佐久良売さま。」

「もうっ、ふふふ、気が早くてよ。まだこれから、産まれるまでに時間がかかるんだから。」

「そうですよね……。」


 真比登は身体をはがし、そっと妻の腹部に手をあてた。

 腹は平らかだ。

 この奥に、いるのだという。

 真比登と佐久良売さまの……。


「オレたちの子が……。」

「そうよ。真比登は、家族全員、えやみで失ったでしょう? この子が、新しい家族になってくれるわ。」

「新しい……。」


 なんだか、泣けてしまった。

 真比登は、ぼろぼろと泣いた。


 家族が死に絶え、その後、一人になった。


 辛かった。

 苦しかった。 

 死にたいほど寂しかった。


 今は遠い過去の傷口が、佐久良売さまの慈愛で、こうやって、ふいに癒されるのだ。

 佐久良売さまは、なんと愛の深いお方なんだろう。

 まこと、真比登の天女なのだ。


 その後、さ寝はお預けになったが、佐久良売さまは、毎晩、真比登が部屋に通ってくることを願った。


「隣に寝てくれると、安心するの。あなたに守られているのを、眠りながらでも感じてるのよ。」


 そんな事を言われては、ますます妻が愛おしく、たくさん口づけをして、日々、膨らんでゆくお腹をなでた。

 悪阻つわりでたくさん吐いては、


「あー、イライラする。あー、イライラする。」


 と怖い顔でつぶやく佐久良売さまに戦慄もしたが、とにかく、毎晩、一緒に眠りについた。


 そして難産の末。

 娘である真佐流売まさるめが産まれた。

 初めて真佐流売まさるめをこの腕に抱いた時の感動も忘れがたい。


 真佐流売まさるめを抱いた妻は、清らかで心が洗われるような光に満ちていた。


 この世の何よりも尊い。

 そう、自然と思えた。


 そして、真比登の日々は、たくさんのわらはに囲まれたにぎやかなものとなった。

 毎日が、幸せだ。

 その中心にはいつも、あたりを照らすほど美しい佐久良売さまがいた。

 

 夜になれば、夫婦の時間だ。


「まーひと。」


 佐久良売さまは、真比登のむきだしの肩をすべるようにで、首に両腕をからめた。


「もう、子持ちだけど、あたくしの容貌は衰えてない……わよね?」

「もちろんです。変わらず、いえ、ますますお綺麗です。」


 本当だ。真比登の腕のなかで微笑む佐久良売さまは、つややかで、美しい。


「ずっと、あたくし一人が相手で、飽きた、なんて言わないわよね?」

「言いません。昔も、今も、オレは佐久良売さまが恋いしくて仕方ありません。佐久良売さまは、オレの息の(命)です。」

「うふふっ!」

「恋うています。オレのいも。」


(あなたが思うより、オレはずっと、あなたを恋うています。佐久良売さま。

 たしかに、初めてさ寝をした時のように、昼間、千夜を隔てたように恋しさで苦しくなる事は、今はない。

 でもそれは、今は一緒に暮らしていて、あなたがそばにいる毎日だからだ。安心と安らぎを、あなたから得ているからだ。

 愛が薄まったりしたわけじゃない。

 夫婦めおととなり、幾夜あまたよを過ごし、愛はむしろ、深まった。

 何も心配しないで。

 恋しい佐久良売さま。

 オレの天女。)




 真比登はそう思い、口に出すのではなく、身体で伝えた。

 夫婦めおとだから。

 ちゃんと、伝わったと思うよ。











     ───完───



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