なんとなく

辻岡三郎

文章を書くということ

 今、パソコンを前にして文字を書き込んでいる。


 それだけの行為に、俺は喜びを感じている。


 文字を書きだすという行為は自分を見つめなおすことと同義、だと思っている。

 今自分が思っていることを文字として打ち込む。自分の中にしかない考えを、かっこよく言うとアウトプットしている。


 小説を書くと自分についての発見がある。

 ああ俺はこういうことを考えていたんだ。俺は、あれが好きだったんだ。俺は、これが言いたかったんだ。

 ただ、最近気づいたことがある。この発見は小説を書くときだけじゃない。小説を読むときだって発見をしている。

 小説を読むことは、作者と対話をすることだと思い込んでいた。でも、最近ある小説を読んだときに抱いた印象を直接作者にぶつけると、作者はそんなことはまったく考えていないとあっけらかんと言っていて愕然とした。

 俺はつまり、読むことで作者と対話をしているつもりが、自分の都合のいいように解釈していることに気がついたのだ。


 小説は鏡である。

 この文章は、俺自身である。

 でも、俺自身ではない。

 自分の中の考えを書きだして、文章にした時点で、それは俺のようでいて俺ではないのだ。鏡に映っている俺なのだ。

 そしてさらにそれを読むことでもっと「俺」からは乖離していく。すでに、この文章は読んでいる人間によって咀嚼され、解釈され、読んだ人間のものになっている。


 俺は、小説を読んで作者のことを理解しているつもりになっていた。

 けど、本当に理解を深めていたのは作者ではなく「俺」だった。


 わかりにくいだろうか?

 無理に理解する必要はない。ただの一人の男の雑記である。

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