問題編
普段は閑散としている保健室も、火曜日の今朝は違う。「教室に戻れ」と入口を塞ぐ教師と、怖いもの見たさで保健室を覗く生徒たちで満ちていた。始業のチャイムも、生徒たちの騒ぐ声でかき消される。
保健室を囲う集団の最前列にいたのは、犯人の僕だった。
保健室の中には、康太がベッドの上で仰向けに寝ていた。首についた水平のひも痕が目立っている。目を凝らすと、耳の裏にもひも痕があった。首を隠すワイシャツではなく、白いポロシャツを着ているからだろう。
彼の真上には、天使の輪のように、首吊りロープがぶら下がっている。そのロープを支えているのは、金属製の天井フックだ。女子生徒が「自殺だ」という悲鳴を上げると、「見るなっ」と教師が怒鳴った。
「そうとも。首吊り死体など、健全な青少年には刺激が強すぎる」
保健室から、風鈴のように涼しげな声が聞こえた。それと同時に、黒いショートボブの女性が姿を現す。黒色のベストとスラックスで全身を固めた彼女は、養護教諭にも、はたまた中学校の教師にも思えなかった。
「ただ、これは自殺ではない」
彼女は黒色の丸眼鏡を掛け直し、野次馬の僕たちを睨んだ。
「なぜ自殺ではないのか。その理由が説明できないなら、君たちは野次馬でしかない。教室に戻って勉強するといい。さあ、邪魔だ邪魔だ」
邪魔、という強い口調で訴えた彼女には、生徒からの非難が浴びせられる。だが、同時に熱が冷めたのだろう。生徒が一人、また一人と遠ざかる。教師もため息交じりに現場を去れば、僕と彼女だけが取り残された。
あの「健全な青少年」たちのように、僕も教室に向かうべきだったのかもしれない。それなら、僕は野次馬の一人でいられた。教室で「本物の死体を見た」と言えば、中学生らしい無鉄砲と無神経で、平凡に所属することができた。
しかし、僕は保健室の前で、丸眼鏡の女性と向き合っている。自分よりも身長が低い女性を前にして、心臓が叫ぶように高鳴った経験は、今回を除けば一度もない。
「君は、説明できるんだね」
殺人に動機が存在するように、僕が「犯行の一部を明かす」という大胆な行動に出たのには、しっかりと理由がある。
それは、この女性に「この生徒は利用価値がある」と思わせること。あえて犯行の一部を暴露することで、信用を獲得すれば、少なくとも彼女は僕を「邪魔」とは思わなくなる。懐に入れば、捜査に介入することできるだろう。生徒への聞き込み調査を頼まれたら、歪曲した情報を伝えることも手だ。損して得取れ、とはこのことに違いない。
そもそも、康太が自殺ではないと発覚するのは想定内だった。もしもこれが自殺だったのならば、どうして深夜の保健室を選び、苦しみながら命を絶ったのかが不可解だ。中学生の僕でも分かるのだから、大人の彼女なら尚更だろう。
「では、言ってごらん。なぜ自殺ではないのか」
僕はゆっくり「遺体の首です」と答えた。康太との関係性を知られないために、遺体という無機質な言葉を使った。
「自分で首を吊った場合、ひも痕は耳の裏のものだけがつきます。しかし、首には水平のひも痕もついている。後ろから力が加わっているのです。自ら首を吊った場合、後ろから力が加わることはない。つまり、これは自殺に見せかけた絞殺ということです」
最後の方が早口になってしまったが、女性は気にも留めていないようで、康太を一瞥してから「その通りだ」と頷いた。
「私のことは、モカとでも呼んでくれ。呼び捨てでいいさ」
モカと名乗る彼女は、僕を保健室に招き入れた。中学生を殺害現場に入れた彼女の考えには同意しかねるが、かつて生徒だった子供を「遺体」と呼ぶ僕自身の猟奇性を考えれば、多少なりとも納得する。もっとも、僕は犯人だが。
「もうじき警察が来る。それまでに、不審な点を確認しておかないと」
独白じみたモカの言葉が、ささくれのように引っかかった。もうじき警察が来るならば、モカは警察ではないということだ。それなら、彼女は何者なのだろうか。
「ああ、私が誰か気になるだろう。そうだなあ、探偵とでも思ってくれ」
疑問を表情に出してしまっていたのだろう。モカは僕の顔を覗き込みながら、自分の髪を撫でた。ふわりと風になびいた髪からは、向日葵に似た香りが漂う。しかし、僕を見据える彼女の目は、鋭利な刃物のように感じられた。
「さて、どうして君に『ひも痕』の知識があったのか。教えてくれ」
どうやら、モカは僕の洞察力に違和感を覚えているようだ。仮に僕が彼女だったとしても、同様の質問をするだろう。
「それがアニメや漫画の知識だったとしても、応用できるかは別問題。それこそ、初めて本物のひも痕を見たならね」
要するに、モカは「君がひも痕を見るのは初めてではない」と推理しているのだ。「犯人はひも痕を二度見ている」と、さりげなく示唆している気もする。せっかく犯行の一部を明かしたというのに、疑われてしまっては仕方がない。
ただ、僕にひも痕の知識があったのには別の理由がある。嘘偽りのない、事実に基づいた理由だ。
「妹の首吊りです。僕が、初めてひも痕を見たのは」
僕には園子という名の妹がいて、歳は一歳差。誠実で素直な、笑顔が愛くるしい妹だ。しかし、園子は自殺を試みたことがあった。首吊りという絶大な苦痛を味わう方法で。
午前一時の真夜中。尿意に叩き起こされた僕は、自室を出てすぐに、園子の部屋から「苦しい」という呻き声を聞いた。ノックもせずに園子の部屋に入ったのは、後にも先にもそのときだけだ。
目に飛び込んできたのは、宙にぶら下がった園子の姿だった。部屋は暗闇だったが、廊下からの光が差し込んでいた。園子の手首から流れる赤い液体が、妙に生々しくて、朧げな目が急に冴えたのを覚えている。
僕が駆け寄る前に、園子をくくっていた縄が切れた。彼女は地面に強く衝突して、苦悶の表情を浮かべる。「お兄ちゃん」という呻き声。手首から流れ出る液体が、立ち尽くす僕の影を赤く染める。
「死にたくないのに、生きられない」と、園子は嗚咽した。
一度は「苦しい」と死を拒絶しながらも、意を決して首をくくった園子の苦悩と恐怖を、僕は微塵も理解していなかった。昔はパンのように柔らかかった園子の腕は、痛々しい切り傷で満たされていた。
僕は、大事な妹を守れなかった。お兄ちゃんになれなかった。あのときの後悔、そして僕を染め上げた赤い影が、大坂康太を殺す要因となったのだ。
「妹の首吊り、か。すまないね。どうやら、私は良からぬことを勘繰っていたようだ」
モカの言葉で、意識を現実に戻した。ここは園子の部屋ではなく、学校の保健室だ。
「妹さんは、ちゃんと生きているのかい」モカが目を伏せながら問う。
「はい。今は精神科に通院しています。あ、でも、昨日から入院していて……」
「そうかい、心配だな。私にできることがあれば、なんでも相談してくれ」
不安げなモカの表情を見て、彼女に隠し事をするのが心苦しくなってきた。罪悪感とも恋心とも違う感情。たとえるなら、学校から傷だらけで帰ってきても、「なんでもない」と家族に笑いかけるときに似た感情だった。
間もなくして、警察が到着した。紺色の制服を着た男性が三人。彼らは、康太の遺体をどこかへ運び出しながら、何度も僕を一瞥した。モカが「彼から学校のことを聞いていた」と説明しなければ、容疑者、あるいは康太の友人だと思われただろう。もっとも、友人であることを否定はしない。ただ単純に、誰にも知られてはいけないだけだ。
ふと廊下が騒がしくなる。「公園に寄ろうぜ」という無邪気な生徒の声と、「休校なんだから、すぐに帰れ」という教師の叱責が聞こえた。僕も大人しく帰るべきだろうか。
「君も帰るといい」モカが諭すように言う。「妹さんによろしく」
自分の見えない場所で捜査が進むのは恐ろしい。しかし、これ以上保健室にはいられないだろう。健全な青少年らしく、休校の指示に従うべきだ。
「そうだ、君の学年と名前を聞いていなかったね」
モカが口角を上げる。その困ったような笑顔が園子に似ていて、胸が苦しくなった。
「三年の小川芳樹です」
モカの笑顔から視線を逸らしたくて、康太が寝ていたベッドのシーツに目を遣った。そのシーツは白く、目立つ位置に血が付着している。これを見逃す者はいないだろう。探偵を名乗るモカなら尚更だ。誰にも気付かれないように、ゆっくりと唾を呑んだ。
「またね、芳樹」
「はい」と返事はしたものの、目線を合わせることはできなかった。探偵の彼女に怪しまれたかもしれないが、あの笑顔を見なくて済むならば、それでよかった。
人を殺めた僕には、しばらくの孤独が必要だったのかもしれない。
学校から帰ってきた僕は、バランスの悪い積み木のように、ソファに崩れ落ちた。母さんも父さんも、まだ帰ってきていないようだ。天井に向けて「疲れた」とぼやく。
小一時間寝そべってから、僕は台所に向かった。食器を洗うためだ。母さんは使った食器を浸け置きしてくれないから、洗うのにも手間がかかる。注意しても直らないから、困ったものだ。
それが終わったら、掃除機をかけて、洗濯物を干す。それから家族全員の夕食を準備する。両親は共働きだから、家事は僕の仕事なのだ。
とはいえ、毎日こなしている仕事だ。休校で帰宅が早まったのもあって、昼過ぎには家事を終わらせることができた。ようやく自由時間が訪れる。そこで、市のバスケスクールに行って、練習に励むことにした。
午後三時。ジャージに着替えた僕は、市営体育館に移動した。職員さんからボールを借りて、早速シュートの個人練習を始める。だが、どうにも集中できない。吐き気を催す気持ち悪さが、常につきまとってくる感覚だ。一度休憩を挟むものの、症状が改善されることはなかった。
四時を迎えて、中学生同士の練習試合が始まった。青いビブスを着た僕は、スモールフォワードとして試合に参加した。スモールフォワードは、コートを幅広く移動して、得点を稼ぐ重要なポジションだ。チームメイトも「小川なら任せられる」と言ってくれる。僕自身も、このポジションに適しているという自尊心があった。
にもかかわらず、だ。パスを取り損ねたり、味方の位置が分からなくなって、ぼうっと立ち尽くしてしまった。「もっと頭を使え」と味方に怒鳴られる。再起を図るのも束の間、突如として、両手に痺れるような痛みが走った。「うっ」と呻き声を上げたものだから、「ファールか」と味方が駆け寄ってくる。
「うわっ。みんな見ろよ、小川の人差し指。すげえ痛々しい」
味方の一人が、怪訝な面持ちをする。心配されているのだろうが、どうにも軽蔑されている気がしてならなかった。これまでチームに貢献できていない僕だから。
「爪も長いし、これじゃ突き指するだろ。今日は休んどけ」
バスケ然り、球技をする上で爪を切ることは常識だ。味方からすれば、僕は爪を切らない不真面目な奴でしかない。そう思われても仕方のないことをしたのだ、僕は。
体育館の隅に座っていると、「やあ、芳樹」と声をかけられた。このバスケスクールで、名前で呼ばれることは滅多にない。不思議に思って振り返ると、モカが立っていた。どうやら、最近スクールに通い始めたらしい。
「爪は切らないとダメじゃないか。バスケは手の力が重要なスポーツだ」彼女は頬を緩める。「もしや、芳樹は初心者だな。私が教えようか」
初心者という言葉の響きが、思いのほか腹立たしい。たまらず言い返す。
「バスケは小一からやっています。忙しい日もあるけど、ちゃんと練習していますよ」
「へえ、そうかい。よく頑張るじゃないか、その手で」
その手と言われると、殺人に手を染めたことを暗示されている気がして、背筋が寒くなる。今日は良くないことばかり考えてしまうものだ。
すると、モカは体を屈めて、僕の右手に自身の手を添えてきた。「どうかしましたか」と、なるべく平静を装う。異性に触れられることには慣れていない。ただ、それ以上に、人差し指の傷について追及されることが恐ろしかった。
「ひどい手荒れだ。おそらく、食器用洗剤……」
しかし、杞憂だったらしい。とはいえ、僕の手がスポーツに不向きなのは変わりない。
彼女は哀れむように眉をひそめる。そして、スラックスのポケットから黄色のチューブ容器を取り出した。ハンドクリームと書かれている。
「職業柄、私も手荒れがひどいものでね。これを使うといい」
微笑むモカの表情は、もはや園子に似ていなかった。思わず僕の口角も上がってしまう。味わったことのない感情だ。目を瞑れば、そのまま眠れる気がした。
だから僕が「モカが塗ってください」と口走ったとき、失言だとは思わなかった。友情でも恋でもない、ゆりかごに似た感覚を、もう少しだけ味わっていたかったのだ。
「じゃあ、君の話を聞かせてくれ。等価交換だ」
チューブから、乳白色のクリームが飛び出る。それを指で受け止めたモカは、想い人の名前でもなぞるように、僕の手に優しく薬を塗った。官能的な気色すら溶かす、純粋な献身が心地良かった。母さんが作るご飯と同じくらい温かい。もっとも、中学生になってから、数えるほどしか食べていないけど。食卓に家族四人が揃うのも稀だというのに。
学校の授業が分からないことや、バスケの試合で毎回スタメンだということ。僕が様々なことを話す度に、モカは必ず相槌を打ってくれた。「授業はつまらないものだよ」と苦笑いして、「毎回スタメンって凄いじゃないか」と声を弾ませてくれた。
自分のことを話したのは、随分と久しぶりだった気がする。
休校が解除されたのは、事件から二日後。つまり金曜日のことだ。
休校中にモカと会ったのは、火曜日の一度だけだった。それ以降、僕がバスケスクールに行ける時間はなかった。課題に追われていたのだ。
学校側からすれば、休校は授業時間の損失と同意義なのだろう。八時に起きた僕が、六時間分の課題をやり終えた頃には、とっくに日が傾いていた。三人分の米を研ぎながら、誰かと話したいと思っていた。その誰かは、一週間前なら園子しかいなかったはずだ。
当の園子は、月曜日から入院中だ。病院から連絡もないので、良くも悪くも変化はないのだと思う。それはそれで心配なのは、僕が園子のお兄ちゃんだからだろう。
情報がないのは、園子のことだけではない。事件の捜査状況についてもだ。
この三日間、一度もニュースを見なかった。どれほど事件が騒ぎになっているのかは分からない。どれほど捜査が進んだかも分からない。もしかしたら、僕とは別の容疑者が浮上したのかもしれない。しかし、これこそが僕の作戦なのだ。
ニュースを見る子供は僅かだ。少なくとも、友達は全員見ていないという。一方で、目の前で起こった事件には魚のように食いつく。なぜなら子供は不謹慎だから。
モカの前では好奇心旺盛な生徒を装いつつも、事件そのものの情報には疎い。中学生の僕が考えた「中学生」は、大人を欺くことも容易いだろう。
普段通り演じればいい。聞き分けのいい子供を。
学校に着いて、真っ先に保健室へと向かった。入口には「立入禁止」の黄色いテープ。保健室の中には、見慣れたモカの姿があった。彼女はスマホを凝視している。
それを眺めていると、彼女が「おや」とゆっくり振り向いた。
「おはよう、芳樹。そっちに行くよ」
黄色いテープをくぐりながら、「結構ニュースになってるね」とモカが言う。内心ほくそ笑みながら、僕は「中学生はニュースなんて見ないですよ」と返した。もしも鏡を見ていたら、僕の気取った顔が映っていたと思う。
「そうかなあ。私が現役だった頃は、時事問題を解くために見ていたけど」
そうだった、と心の中で膝を打った。社会のテストでは、毎回時事問題が出題される。勉強熱心な同級生は、日頃から新聞やニュースを見ていると言っていた。
「入試に時事問題は出ないから、いいでしょ」動揺を隠すように、僕は鼻を掻く。「それより、スマホで何を見ていたんですか」
「遺体のひも痕だよ。あまり子供には見せたくないけども」
「今更ですよ」と苦笑しながら、僕はスマホを覗き込んだ。そこには、首の大半を占める水平のひも痕。申し訳程度に赤い、耳の裏についたひも痕。この写真は、僕が康太を縄で絞めたのだと改めて認識させる。
「ひも痕を見る限り、凶器は縄。被害者の首をくくっていた縄が、そのまま凶器になっていたのだろう。それと、体育館の倉庫から、大縄跳び用の麻縄が一つ紛失していたらしい。凶器の縄を見せたところ、これこそが盗難された縄だったってさ」
その麻縄を盗んだ犯人は僕だ。忘れるはずがない。その縄で人の首を絞めたのだから。
学校にあった麻縄を利用したのは、縄を購入するのは危険だと考えたからだ。家事があるから遠くの町に行く時間はない。しかし、近場のホームセンターでは顔を覚えられている。よく洗剤を買いに行っているからだ。仮にそうでなくとも、監視カメラがあるだろう。だから盗みを働くしかなかった。
「二つのひも痕は、どちらも同じような痕が付いていたよ。後者の方が薄いみたいだね」
「なるほど」僕は、あえて興味なさげに頷く。
「水平のひも痕は痛々しいほどに鮮明だった。加害者には明確な殺意があったと推察できる。一方、凶器の縄は綺麗だった。どこもほつれていなかったよ」
更に、水平のひも痕と垂直となるように、ひっかき傷が五本ほど見られる。モカはこの傷を「吉川線」だと説明してくれた。被害者が首を絞められたときに、それを自ら振りほどこうとして、首に傷がついてしまうのだという。
「被害者は、二年の大坂康太くん。死亡時刻は夜の八時頃。芳樹の後輩だったりするかな」
「知りません」と嘘をつきながら、首を横に振った。心の中で「首を振ったのは大げさだった」と反省する。ただ、モカは気にも留めていないようだった。
「そういえば、ベッドのシーツに血痕が付いていてさ」
スマホを操作しながら、「写真どこだっけな」と呟くモカ。現在進行形で彼女を騙していることが心苦しい。もしモカが探偵じゃなかったら、と休校中に何度考えたことか。
「あった」モカが僕に画面を向ける。「真ん中あたりに、赤いシミがある。これが血だ」
シーツの中央に付着した血痕。園子が首を吊った日に見た、赤い影を彷彿とさせる。
「養護教諭の人に聞いたけど、『事件前日にはなかった』らしい。被害者にはひも痕以外の外傷はなかった。さあ、この血は誰のものか。普通に考えれば……分かるね、芳樹」
当然だ。これは加害者から流れた血だと主張したいのだろう。それでも、僕の口から告げるのは憚られる。「加害者」という言葉の呪いは、僕を罪の縄で縛るには充分すぎるのだ。どことなく、彼女が僕の手を一瞥したような気がした。
「ところで、ちゃんと理科を勉強しているかい」モカは声のトーンを上げる。「人間はX染色体とY染色体を持っている。おっと、これは中学校では習わないな」
突然始まった理科の授業。僕は首を傾けるしかない。それを見てか、彼女は「予習だと思ってくれよ」と僕を小突く。
「簡単に言えば、血痕を残した人物の性別と血液型が分かるんだよ。その検査も、休校期間中に終わらせた」
結果は分かっているというのに、僕の心臓は暴れていた。モカの前で動揺を見せてはいけない。咳き込むふりをして、自分の胸を叩く。駄々をこねる心臓に「お兄ちゃんだろ」と怒鳴った。
モカは「君には教えておこう」と、検査の結果を教えてくれた。母さんの味噌汁のように温かい声だった。
「A型、女性の血痕だったよ」
既知の事実を、あたかも初耳のように振る舞うことは容易かった。心配だったのは、予想通りに事が運ぶかどうかだけだった。いつしか心臓も大人しくなっている。代わりに、体温がぐっと下がる感覚を覚えた。
僕はA型、しかし男性だ。血痕は女性のものだから、僕が疑われる可能性は少なくなったはずだ。
「A型の女子を集めれば、いずれ血痕を残した生徒を探し出せるだろう。ところが、だ」
モカが人差し指を立てる。その後に続く言葉は、きっと僕には不利益なものだろう。完璧だと思っていた僕のシナリオは、やはり大人には看破されてしまうのだろうか。そもそも、血痕を残した生徒を「加害者」だと決めつけない点で、彼女は思慮深い大人だと分かる。
ここから先は、僕の知らないシナリオだ。再び暴れる心臓。なだめる余裕すらない。
「凶器と思われる縄には、被害者の指紋しかなかった。しかし、被害者にはひも痕以外の外傷がない。遺体から睡眠薬も検出されなかったそうだ」
「加害者は指紋を拭き取った、と」
最初に、僕は聡明な中学生を演じることにした。
「いいや」モカは首を横に振る。「今回使われた縄は、綱引きで使われるような素材の縄、麻縄だ。凹凸が激しい麻縄から完全に指紋を拭き取るなど、到底現実的ではない」
「つまり、最初から指紋はついていなかった」
僕は語気を強めて、さも真相に辿り着いたかのように喋った。
「その通り。しかし、出揃った情報には不自然な点がある。分かるかい、芳樹」
一旦、僕は聡明な中学生を放棄した。なぜなら、僕の犯行は完璧だと思っていたから。探偵相手に反省会ができるほど、本当の僕は賢くなかったのだ。
押し黙る僕を見てから、モカは解答を切り出した。
「まず、被害者に怪しまれる。指紋を隠すには軍手や手袋をすればいい。しかし、軍手を装着して縄を持った加害者が現れたら、被害者は良からぬことを勘繰るはずだ」
的確だ。モカの言う通りだ。それにもかかわらず、指をさされて嗤われている気分だった。些細なことでも、真実に辿り着かれるのが怖かったのだ。
反論しようと、頭を全力で回転させる。相手は探偵だというのに。
「最初から隠れていた可能性があります。そうですね、被害者に『保健室のベッドに座って待っていて』とラブレターを送ります。そして、自分はベッドの下にいる。被害者がベッドに座ったのを音で確認したら、奇襲すればいいんです」
早口でまくし立てた。即興の反論にしては上出来だろう。ただ、モカの表情は固い。
「縄という凶器自体も不自然だ。仮に女性が加害者なら、男性の被害者を前にして、力の面で頼りない『絞殺』を用いるだろうか。相手の首に縄をかけて、きつく縛る必要がある。それも被害者に抵抗される前にね。私なら、一撃が致命的な刃物を使う」
もはや、僕は役者ではなかった。僕自身をモカにぶつけようとしていた。それはわがままなのだと、園子が生まれてから分かっていたというのに。
「加害者は、被害者を自殺に見せかける必要がありました。確実に獲物を仕留めて、自分も罪から逃れられるように。そのために縄を選んだ。被害者に逃げられても、きっと言い訳を用意していたのでしょう。もっとも、加害者にひも痕の知識はなかったようですが」
僕は子供だったようだ。「そうですね」と肯定すればいいものを、感情的になって、論破しようとしていた。もしかしたら、誰でもない、モカという人間に嘲笑されることが怖かったのかもしれない。
当のモカは眉をひそめて「犯人像が見えないな」と呟く。
「殺人という大勝負。刃物という絶対的な殺意を封じ込めて、縄に運命を委ねる中学生がいるだろうか。自分の感情を操るのは、この時期の子供には厳しいと思うよ」
「そもそも、加害者が女子生徒ではない可能性もあります」僕は必死だった。
「君の推理を踏まえると、教師や外部犯がラブレターを送ったことになるけど」
その一言で、僕は意気消沈した。試合終了を告げるように、朝のチャイムが鳴る。
僕は愚かだった。反論してはいけないと、頭では分かっていた。しかし感情を操れなかった。必死に構築した論理が、音を立てて瓦解することに耐えられなかった。
これでモカに疑われるだろう。自分と違う意見を言われて、嫌いになったかもしれない。このまま捕まる可能性もある。捕まりたくない。それ以上に、彼女に嫌われたくない。
僕が捕まったら、園子は一人ぼっちだ。園子のために捕まってはいけない。しかし、捕まるかもしれない。包丁の音も、洗濯機の音も、掃除機の音もない、静かな家を想像する。
後悔するなら、最初から康太を殺さなければよかった。しかし、殺さなければならなかったのだ。園子を守ったことで、園子を一人ぼっちにさせてしまうかもしれないのに。
首を縦に振るだけでよかったのだ。家族の笑顔のために。モカに嫌われないために。
「気にしないで」突然、頭に手が置かれた。「意見が食い違うことなんて、日常茶飯事だ」
その手は、紅葉のように小さかった。それなのに、僕の髪をぐしゃぐしゃにした。
「家事に加えて、妹さんの入院。芳樹、お兄ちゃんって大変だろう」
僕は顔を上げられなかった。あの困ったような笑い顔を見ると、わがままになってしまう。今度こそ、感情を操らなければいけない。加害者だから。お兄ちゃんだから。
「お兄ちゃんだからってさ、意見や欲望を我慢することなんかないんだ」
ぽと、ぽたり。頬が濡れて、地面に水滴が落ちた。それが何かを認識したくなかった。
「ちゃんと自分の意見が言えて、良い子だよ。芳樹」
しゃくりあげて、上手く言葉にできなかった。「違うんです、モカ」って。
これは僕の意見じゃない。感情に身を任せた屁理屈だ。真実を隠すための仮面だ。しかも、完璧に論破されて、粉々に砕け散ったところだった。
疑ってもおかしくないのに、モカは僕を受け入れてくれた。「大変だろう」と労ってくれた。「良い子だよ」と褒めてくれた。子供じみた褒め言葉が、目薬みたいに染みて、僕の瞳から溢れてしまっていた。「嬉しい」と素直に認めたくなかった。
それにもかかわらず、僕は、大好きな人に嘘をついている。
そんな自分が情けなくて、吐きそうなくらいに大嫌いだった。
四時間目が終わったとき、モカが教室に来た。黒いベストは脱いだようで、袖をまくったワイシャツ姿だ。どうやら、給食のカレーが食べたくなったらしい。自由気ままな人だ。入れ替わりで担任が退室したあたり、事前に交渉していたのだろう。
探偵だと名乗った瞬間、彼女はたちまち人気者となった。火曜日に「邪魔だ」と言われたことは、とうに忘れているようだ。女子たちは「一緒に食べよう」と誘っている。声を大にして主張できない僕は、視線を送ることしかできない。
モカは担任の使う机を選んだ。彼女の前に山盛りのご飯が運ばれる。お調子者が「探偵盛りです」とおどけた。「減量中なんだけどな」と仕方なく笑うモカ。彼女の名前を知っているのは僕だけだ。独占欲に似た嫉妬が、風船のように膨らむ。
「さて、みんなの力を借りようじゃないか」
食事の合掌を終えた直後、モカは努めて活発な声を出した。
「大坂康太くんのことが知りたいんだ。どうか、私に情報を提供してくれないだろうか」
すると、女子たちがささやき合った。「あいつだよ」という小声がこだまする。馬鹿にしたような笑い声すら聞こえてきた。甲高い冷笑を耳にすると、どうも不愉快になる。陰では僕も対象なのだろうと悲観的になりながらも、しかし杞憂だと思いたい自分がいる。
「探偵さん。大坂康太は最低ですよ。下着泥棒で、盗撮もしていたって聞きました」
やがて、一人の女子が言った。教室の中でも声が大きい存在だ。同調するように、他の女子たちも首を縦に振る。
「すぐにバレたけど、保護観察だけ。証拠がなかったからかなあ。なんでか分からないけど、転校もしなかったし」
「えっ、知らないの。大坂家ってここらの地主なんだよ」
地主といえども、大勢で相手にすれば怖くない、という理論だろうか。大坂家に対する不満の声は、次第に大きくなっていく。
「それより、お母さんがモンスターなのが終わってるよね。被害を受けた子の家に、一軒一軒回ってキレたんだって」
「近所の家に怒鳴り込んでるの見たよ。『あんたのせいで人生台無しだ』って」
「癇癪起こして、康太の首を絞めたこともあったんだって」
「お父さんとは、妊娠中に離婚したみたい」
突然、廊下から女性の怒鳴り声が聞こえた。教室は静まり返るが、すぐに騒がしくなる。
「噂をすれば、だよ。ほら、今の声が大坂のお母さん」
女子たちは顔を見合わせて、くすくすと忍び笑いする。その忍び笑いは、教室の隅で沈黙する一人の女子も対象にしているように思えた。その女子は大人しい性格だが、それ以外の理由も相まって口を開かないのだろう、とも考えられる。もっとも、僕の推測に過ぎないのだが。
「後輩が言っていたけど、賠償金をせびってるらしいよ。しかも学校に」
「犯人に要求すればいいのに。絶対、お金欲しいだけだよね」
毒を含んだ言葉が、公の場で飛び交う。情報提供という名目で陰口を叩いている。羨ましいと思った。僕には他人に目を向ける余裕すらないのだから。
「どうせ、大坂の窃盗癖は直らなかったんだよ」
「大坂が殺されたのも、性懲りもなく下着を盗んで、恨まれたからだよね」
食事が喉を通らない。余ったカレーは、隣にいたお調子者に分けることにした。喜びを露わにする彼を余所目に、僕は席を立つ。一刻も早く教室から出たかった。相手が性犯罪者とはいえ、他人への悪意が正当化される空気は、僕には耐えがたかった。
「殺されて当然だよ、あんなやつ」
僕が廊下に出ると、入れ違いで担任が入室した。それから「殺されていい人間はいない」と怒号が響く。最も説教を受けるべき存在の僕は、皮肉なことに、蚊帳の外にいた。
間もなくして、モカも廊下に出てくる。僕たちは顔を見合わせて、どちらからともなく、誰もいない廊下を歩き出した。
「教育と洗脳は紙一重だ」
独り言のように、モカが話し始める。「人を教える立場にある人間は、『正しい教育を施す』という洗脳を受けてきたのだろうな」
「どういうことです」
「叱り方が気に食わなかった。性に過敏なこの時期に、下着を盗まれて殺意を抱かない女子は少ないだろう。その感情を否定してまで、命の尊さを伝える必要はなかった」
生徒たちの悪意は指導するべきだが、と彼女は付け加えた。それを生徒の僕に伝える彼女のことが、いまいち分からない。特別視しているわけではないと思う。もしかしたら、モカは僕を犯人だと仮定しつつ、あえて僕を困惑させるような発言をして、様子を窺っているのかもしれない。今朝の失言も相まって、あることないこと思い巡らす。
ふと彼女に目を遣ると、胸のあたりがカレーで汚れていた。白いワイシャツを着ているからか、小さなシミにしては際立っている。どうして黒いベストを着なかったのだろうか。
それでも、彼女を尊敬していることには変わりない。少し場違いな一面はあるものの、僕たち子供のことを真剣に考えてくれる。現に、モカは僕の歩調に合わせてくれている。
子供のように表情が豊かで、大人のように冷静なモカ。
彼女にしか頼めないわがままが、ふつふつと、沸騰するように沸き上がる。
「あの」
階段付近で、ふと立ち止まった。それからモカに向き直る。今から真剣な話をする、という合図のつもりだった。
「明日、園子の面会に行くんです」
彼女のことだから、既に何を言わんとしているか察したに違いない。できれば、この時点で「いいよ」と快諾してほしかった。しかし、それこそ悪質なわがままだ。モカが黙っているのが一番の裏付けだろう。誠意とは、自分の口で伝えることだ。
「だから、一緒に来てくれますか」
生まれてこの方、デートどころか、友達を遊びに誘うことすらできなかった僕だ。緊張して声が震えた。声を震わせてでも、モカに来てほしかった。今朝、感情に操られて恥をさらした僕すら受け入れてくれた、モカという大人の存在を教えたいと思ったのだ。
「そう改まるなよ。私と君の仲だ」
黒雲を晴らす太陽のように、彼女は顔をほころばせた。
面会室は保健室に似ていた。夏だというのに、鳥肌が立つ。雨のせいかもしれない。
一週間ぶりに対面した園子は、以前とさほど変わらないように見えた。痛々しい手首の傷跡さえ除けば、園子はごく普通の中学二年生だ。
元々人懐っこい性格の園子だが、ここ数ヶ月は無口だった。それは入院中の今も改善しないようで、初対面のモカはおろか、兄の僕すら園子と言葉を交わすことはなかった。一方通行の言葉は、やまびこのような自己満足でしかなかったのかもしれない。
それでも、園子は時折頬をゆがませた。小さな笑い声も上げた。何度も冗談を言ってくれたモカのおかげだ。彼女を誘ってよかった。僕は冗談を言えない側の人間だから。
あっという間の三十分間。僕たちが病院を去るとき、園子は窓から手を振ってくれた。「お兄ちゃん」と口が動いたように見えたのは、僕自身が寂しかったからだろう。
行きは小雨だったものの、帰りはどしゃ降りだった。家から病院は近いから、と傘を持参しなかった自分を恨む。すがるようにモカを見ると、彼女は黒色の傘を差して、子供一人分のスペースを空けてくれた。
二人、雨降り、夏霞。
「神様が泣いている」とモカが呟いた。だから「神様なんかいないですよ」と返した。モカは僕を肘で小突いて、寂しそうに口元を緩ませる。可愛くない子供だと思われているのだろう。
ふと、一年前の園子を思い出した。忘れ物がないか何度も入念に確かめるにもかかわらず、傘だけは毎回家に置き忘れるのだ。本人曰く「お兄ちゃんは持ってきているから」だという。そのおかげで、僕は何度も肩を濡らしながら帰ったものだ。当時は、傘を持って行くのが億劫なのだろうとしか思っていなかった。
後に園子の友人から聞いた。園子が傘を持ってこない理由は、康太から逃れるためだったらしい。
康太は入学当初から有名だった。同級生に悪行を働くものの、母親が凶暴で手が付けられないという理由で。その噂を、僕はちゃんと知っていた。知らなかったのは、ターゲットに園子が含まれていたということだけだ。
消極的な僕とは対照的に、園子は活発で優しい子だった。だから、入学当初から煙たがられていた康太にも、自分から声をかけたのだという。「よろしくね」と。
園子の友人は言った。優しくされた康太は、園子を好きになってしまったんです。
康太は自分から「園子が好きだ」と話していたらしい。断っても付きまとわれて、周囲からも冷やかされることにうんざりした園子は、僕を彼氏に見立てて、雨の日は僕と相合傘をするようにしたという。「断ってもだめなら、行動するしかない」と考えた結果だとか。
康太はまんまと騙されたらしい。すると、今度は園子を盗撮し始めたという。女子更衣室。制服からジャージに着替える最中の、園子の下着姿。園子の友人は、おそらくロッカーにカメラを仕掛けていたのだろうと語った。
「死にたくないのに、生きられない」
それは、園子が首を吊った夜のことだった。園子は横たわり、手首から血を流していた。「今は何も喋るな」と制止する僕を無視して、園子は嗚咽混じりに告白した。
「康太。大坂康太に、脅されたの。『あいつと別れないと、動画をばら撒く』って。盗撮されてたんだよ、私。パンツに付いた血まで、全部撮られたの」
園子から流れ出した血が、僕の影を赤く染め上げた。
「あの人はお兄ちゃんだ、って正直に話したら、今度は『弄んだのか』って、お金を要求されるようになった。もう、払うしかなかった」
最初はお年玉で間に合っていたものの、いつしか足りなくなり、遂に僕のお年玉にまで手を付けてしまったのだという。仕方がない。僕たちにお小遣いはなかったから。
「だって、動画がばら撒かれたら、みんなに生理だって馬鹿にされる。お母さんたちは、仕事で忙しいから、転校もできない」
一度、どうにかならないかと相談したところ、あの母親と家まで取り立てに来たらしい。そのとき、両親は仕事で、僕はバスケスクールにいた。僕たちに心配をさせてはいけないと考えた園子は、お金を払ってしまったという。
「お兄ちゃんに迷惑をかけるなら、死んじゃおうって思ったの」
短絡的だったのかもしれない。僕のために首をくくる園子も、園子のために命を奪わんとする僕も。大人なんか頼りにならないと、子供なりに大人ぶっていたのだ。
それから、園子は精神科に入院した。両親は初日こそ見舞いに来たものの、それっきりだった。会社に迷惑をかけるわけにはいかないのだという。僕には社会のことなど一切理解できない。理解できるのは、園子には僕しかいないということだけだった。
大坂家は地主だ。いくら康太が暴れようと、転校はしないだろう。
園子を守るためには、僕が康太を消すしかなかった。そう思った。
月光が差し込む保健室で、康太を殺した。復讐の対象で、偽りの友人だった彼を。
「聞いているのかい、芳樹」
モカの声で我に返った。僕に何かを問うていたらしい。「動機を思い出していた」とは口が滑っても言えないから、降りしきる雨の音に責任を押し付けた。
彼女は、僕の家の道のりを尋ねていたようだった。もうすぐだから、僕がその都度誘導することにした。ただ道を教えているだけだというのに、モカは相槌を打ちながら、耳を傾けていた。彼女の癖かもしれないが、その仕草は、僕にとって一番必要だったような気がした。
すぐに家に着く。両親は外出中だったが、それを伝える前に、モカはインターホンを押してしまった。僕が無言で玄関に入ったときに、ようやく両親が不在だと察したらしい。「お邪魔するね」と、僕に続く。
彼女の右肩がびっしょりと濡れていた。すぐさまタオルを持ってこようとしたものの、客人を玄関に放置するのも気が引ける。ひとまず、モカをリビングまで案内した。適当な場所に座らせて、ペットボトルの麦茶を差し出す。それから、僕はタオルを取りにリビングから出た。
「そういえば」モカに呼び止められる。「大したことじゃないけども」
「何か、気になることでもありますか」
僕たちの間に、妙な緊張が走る。僕の殺人が露見したわけでは、きっとないだろう。この家には、凶器も遺体もない。いや、僕が気付いていないだけかもしれない。降りしきる雨の音だけが、恐怖から遠ざけてくれる。
少しして、モカがおもむろに口を開いた。
「洗濯物って、取り込んであるのかい」
しまった。まだ外だ。病院に行く前までは小雨だったから、帰ったら晴れるだろうと思い込んでいたのだ。慌てて二階に駆け上がり、バルコニーに向かう。
案の定、手遅れだった。僕らしくない失態だ。
「芳樹、洗濯カゴだ」僕を押しのけて、モカがバルコニーに飛び出す。「早く持ってくるんだ、さもないと私の看病をする羽目になるぞ」
階段を駆け下りながら、無性に愉快な自分がいることに気付いた。誰かと家事をするのは久しぶりだ。懐かしい気分だった。お母さんに構ってほしくて、わざと間違った方法で料理をしたものだ。結局、嫌味を言われておしまいだったけども。
モカなら笑ってくれるだろうか、と考えた。多分、笑ってくれると思った。モカは家族じゃないから。
思ったよりも早めに洗濯物を取り込めた。モカの手際が良かったからだ。「すぐにシャワーを浴びてください」とは言ったものの、彼女はびしょ濡れのまま、洗濯物の数を確認している。
Tシャツ二枚、ワイシャツ一枚、ズボン三枚、ブリーフ三枚、ブラジャー二枚、パンティ三枚。
モカは首を傾げながらも、洗濯カゴを持って、無言で洗面所へ入ってしまった。
しばらくして、Tシャツが一枚足りないことに気付く。本来なら三枚あるはずなのだ。もう一度バルコニーを見たが、物干し竿には何もかかっていなかった。他にも飛ばされた服があるのかもしれない。
ただ、落ち込むのは時間の無駄だ。どうにもできないのだから。僕はリビングへと戻り、ガラスのコップに麦茶を注いだ。それをぐいと飲む。夏と麦茶は、太陽と向日葵くらい似合っていると思った。
シャワーから上がったモカにも、Tシャツが飛ばされていたことを伝えた。本来なら客人に伝えることではないのだが、彼女に隠し事をすると、どうにも神経が参ってしまうのだ。
「ああ、そういうことか」Tシャツの件を知ったモカは、なぜか納得したように頷いた。
僕たちは、ソファに座って談笑した。とはいえ、モカは僕のことを聞きたがり、僕も自分のことしか話さないから、まるで家庭訪問のようだった。
「両親は共働きか」モカが虚空を見つめる。「家族全員分の家事を、たった一人で」
「つらくはないですよ。それに、親は忙しいし」
「子供よりも忙しい大人がどこにいるんだ。君だって、今年は受験があるのだろう」
不都合なことを誤魔化すように、「まあ」と曖昧な返事をする。親を守りたいというよりかは、モカに心配をかけたくなかったのだ。
「子供の世話は大人がすべきなのに、大人の世話を子供がしている。家庭の事情に首を突っ込みたくはないが、芳樹の手荒れを見ていると、どうもキャパオーバーな気がして」
給食のときといい、彼女は教育に対して独自の考え方を持っているらしい。それを指摘すると、昔は小学校の教師だったと打ち明けてくれた。モカというのも、生徒からのあだ名だったらしい。
ここで疑問が生じる。どうしてモカは教師をやめてしまったのだろうか。公務員は探偵よりも安定した職業のはずだ。彼女が安定を捨てて夢を追うような野心家とも思えない。
僕の想像力には限界があるので、それとなく彼女に訊いてみる。探偵は「責任だよ」と深くため息をついた。
「子供の未来を、一人で背負う責任。子育てみたいに、一人だけに意識を向けるなら耐えられたのかもしれない。ただ、一度に四十人もの子供を見るのは限界があった」
だからやめたんだよ、と取り繕うように笑う。大勢の子供を相手にする教師よりも、たった一人に集中できる探偵は、もしかしたら彼女の天職だったのかもしれない。
「私はね」二度目のため息。「大量の積み木を監視したかったんじゃないんだ」
雨が降る。しばらく降り続けるだろう。しかし、いずれは止む。雲が晴れて、太陽か月が現れる。まるで何事もなかったかのように。
「一つだけでいいから、バランスの悪い積み木を支えたかっただけなんだよ」
不注意か、動揺か。ガラスのコップが僕の手からこぼれ落ちて、音を立てて割れた。昔から使っていたものの、傷なんてなかったはずだ。しかし、それは確かに割れて、二度と元通りにはならない。
「でも、さ」
モカは、割れたコップなんか見ちゃいなかった。きっと、視界には僕しかいなかった。
「既に崩れた積み木を支えるなんて、教師にも探偵にも、できやしなかったんだ」
そのまま、モカは立ち上がる。何も告げずに、リビングから出る。間もなくして、雨の音が強まった。玄関の扉が開いたのだろう。一度騒がしくなった雨が静まるのには、しばらく時間がかかった。
モカを見送ることもなければ、割れたガラスを片付けることもしなかった。ソファに体重を預ける。全身の力が抜けたかのような倦怠感だった。残されたのは、僕一人には広すぎるリビング。
たとえ完璧な計画を立てたと思っても、針穴のように小さな隙間から、それを完膚なきまでに看破する人間がいる。僕には分かっていた。計画はいつか破綻するということも。僕の罪を見抜くのがモカだということも。
それでも、僕は彼女が好きだったらしい。市営体育館でクリームを塗ってもらったときから、彼女に隠し事ができなくなっていた。しかし、恋心ではない。プラトニックでもない。言葉で表すなら献身が近い。それこそ、患者が看護師に向けるような感情。
彼女と話す度に、一歩ずつ地獄に足を踏み入れていることは自覚していた。自覚していても、止められやしなかった。彼女が与えてくれる献身に飢えていたのだ、僕は。
今からでも、どこか遠くへ逃げ出してしまおうか。家事も勉強も放り投げて、名前も知らない町へ旅立ってしまおうか。
いや、逃避など許されない。人を殺めた僕が、何もかも忘れることなど叶わない。だからこそ、望んでしまった。叶わないから望んでしまった。義務を放棄することに。お兄ちゃんではない存在に。
モカ。
あなたに、人生で最初のクエスチョンマークを捧げようと思う。
親がそばにいてほしかったと願うのは、子供のわがままなのだろうか?
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